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オーシャンニューズレター

第17号(2001.04.20発行)

第17号(2001.04.20 発行)

鯨が寄りついた日

特定非営利活動法人サステイナブルコミュニテイ総合研究所理事長◆角本孝夫

鯨は秘められた感覚を呼び覚ます。それは生きていると云うことそれ自体が半ば以上海にとけ込んでいた時代の記憶かも知れない。近代がかき消したかに見える原生的な感覚は、〈寄り鯨〉が投げかける波紋のなかにふたたび顕れる。

いつの頃だったろう。うらの浜に鯨があがったのは。私は昭和27年(1952)生まれだが、何度か鯨があがった浜の光景を記憶している。それは決まって明け方だったような気がする。浜では人が群がり、多くの人々はもう既に笊かごとマキリを手に、誰かが切り分けてくれるのを待っていた。それは滅多にないごちそうだった。私も親爺たちが分けてくれた鯨の肉を大切に抱えて家に帰ったことを覚えている。そのあと、あの鯨がどうなったのかまったく記憶にない。おそらく人間たちが立ち去ったあとには、群がるカモメやカニ、潮虫などがきれいに平らげ、最後は打ち寄せる波で砂に埋まっていったか、海の底で洗われ、静かに解れていったことだろう。もちろんその日以降何日かは、ここ本州最北端の港町・大畑の食卓には、鯨料理がならんだことは云うまでもない。

この原稿を書くにあたって、多くの人たちから「鯨が寄りついた日」を訊いてみたが、誰もハッキリとした時季を思い出せなかった。「浜には何度もあがったからな~!」「それはどのクジラ!?」「クジラか~」などと、その答えは何とも曖昧で素っ気ないものであった。もちろん下北半島の年表などにもあたってみたが、明治以降、20世紀の下北半島史には、寄り鯨の記述はただの一行もなかった。正史からこぼれ落ちた鯨のことが気になった。また昨年4月の静岡県大須賀町の遠州灘海岸にあがった鯨の顛末もず~っと気になっていた。鯨のことを書きたいと思った。いや、もっと言えば、鯨に象徴される時代と海に対する人々の意識の変化を書きたいと思った。

昭和30年ごろの大畑町の浜
イカを干す漁師
昭和30年ごろの大畑町の浜。イカを干す漁師。しかし、この場所はもう既に漁港の下に埋まってしまっている(写真:角本孝夫)

江戸時代の文献に残されている「鯨が寄りついた日」

江戸時代の歴史資料のなかになぜ鯨の記述が多いかは、大畑町史の次の記述を見ればよくわかる。

「鯨が流れ着いたときには代官所に届け出ている。これは鯨から油がとれ、さらに皮からヒレまで捨てるところがないほど貴重であったからである。『日本永代蔵』には鯨漁で長者になった「天狗は家名風車(いえなかざぐるま)」の話がある。「鯨一頭とれば七郷(ななさと)振ふ」の諺があるように、大間、異国間、下風呂(ともに下北の村々)の三ヶ村が鯨が獲れた翌年に御輿を購入したとあるから、あながち嘘とは思われない」と記述したあとで、『地方凡例録(じかたはんれいろく)』に載っている、鯨を捕獲した場合の鯨税4区分を紹介している。

「(突鯨)生きている鯨を突留することをいう。落札金高の1/20を鯨の捕獲した場所の領主へ納めなければならない。(寄鯨)苴を受けて傷つき又は死んで漂流して浜へ寄ってくる鯨のことを言う。入札金額の2/3を領主に納める。(流鯨)沖を漂流する鯨を見つけて浜へ引き寄せて取り揚げた鯨で1/10を上納する。(切鯨)漂流する鯨を見つけ上陸が不可能な場合に、海上で鯨を切りきざむことを言う。1/20を上納する」(大畑町史/p.482笹沢魯羊編)とあるが、下北半島を支配する南部藩では、「寄り鯨があると代官所え訴え出て役人の見分を経てから、入札払いにして代金の1/3を藩に納め、2/3はその村へ下し置かれた。尤も沖合で鯨を突き捕った際は1/2を納め、同じく沖合で鯨を拾い上げた場合は1/10を納めて、その余りは船の乗子一統え賜る定めであった」(大畑町誌/p.119笹沢魯羊編)という。

ここでは明らかに、鯨は海からの贈り物、しかも「七郷振ふ」とびっきりの贈り物であった。しかも、この論考を書くにあたって、江戸時代以降の下北半島の「鯨年表」を作成してみて気づいたことだが、鯨が寄りつく時季は圧倒的に1月から4月に集中している。

それは、予測通り春鰊の時季と重なり、その前後には鰊の群来が記録されている。その鰊も、1896(明治29)年4月2、3日の両日を最後に、下北の浜から消えていった。

明治以降、寄り鯨が歴史書から消えたのはなぜか

しかしそれにしても、明治以降の半島の歴史のなかには、ただの一行も寄り鯨の記述がないのはどうしたことだろう。それはたんに藩の統制が失われたと言うだけではない、何か別の意味を含んでいそうである。鯨油の価値も、食料としての切実さも、まして集落のアイデンティティを賦活する触媒としての意味も失われていったとき、われわれの視界から《暮らしの海》が緩やかに後退し、代わって《風景としての海》、抽象的な《環境としての海》が立ち現れてきたのではなかったか?!

それは同時に、非効率と偶然に左右される海、その馴致されざる荒ぶるエネルギーに翻弄されながらも、たえず自然と向きあい、時にはさまざまな予兆やチョッとした変異に自然の精妙な仕掛けを読み解き、何とも云いようのないザラリとした触感や生々しい交感のありようを、コミュニティの知恵として継承していった時代の終わりを意味していたのではあるまいか!? 恐怖と豊穣さが縒り合わさる海の暮らしから、効率と必然と安静の世界へ。いわば制度化された市民の時代への転換が準備されていくのは、それから間もなくのことであった。そのとき私たちは不覚にも、海に象徴される自然から、ゆっくりと剥離していったことに気づきもしなかった!?

明治以降の国民国家の誕生と、寄り鯨の、歴史の表舞台からの後退は偶然ではない。コミュニティによる庇護もなく、むき身の個人として世界に曝されるに至った私たちには、両義的な力を秘める海に正対する力は、もう既に残されてはいないかのようだ! そして今かろうじて、《年取り(大晦日)》の夜に食べる「鯨汁」によって、互酬と分配の作法に彩られた集落の記憶をなぞっているにすぎないと云えなくもない。

鯨が寄りついた日、それは私たちの心の奥底に熾き火のようにして灯りつづけていた野生と、海の記憶が目覚める日であった。渚を血で染め、狂ったように呼び交わすおびただしい数のカモメたち。鯨の上に乗り、手際よく解体していく漁夫たちの見事な身のこなしを見守る人、人、人の群れ。明け染めた朱色が、しだいに淡い銀色のひかりの珠となって散乱する逆光のなかで、陽気ではあるがどこか厳粛に演じられた解体の儀式。しかしその儀式に参加したどの人たちにも顔がなかった意味が、ここに来てようやく分かったような気がする。また同時に、そう遠くない日々に何度か寄り鯨があったにもかかわらず、そこに居合わせたはずの人々の記憶が曖昧な意味も......!

まだ私たちには、海へと通じる秘密の回路が閉ざされてはいないのかも知れない。(了)

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