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論考

No. 87
2021/4/12

アメリカ大統領回顧録とは オバマ回顧録論①

渡辺 将人
北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院准教授

オバマ回顧録『約束の地:大統領回顧録Ⅰ』上・下巻(集英社)が2月16日に日本で出版された。本書は昨年11月17日にアメリカでCrown社より出版された原書A Promised Land(副題なし)の全訳である。かつて作家志望だった「文人オバマ」の回顧録にはかねて注目が集まっていたが、退任後4年近くの年月を経て漸く「前半」が世に出た。そこで数回に分けてオバマ回顧録の特質を浮き彫りにしてみたい。回顧録の具体的な内容の検討に入る前に、初回はアメリカの「大統領回顧録」の読み方を再確認する。

アメリカ大統領回顧録とは

大統領回顧録を「政権」振り返りの記録と定義するならば、大統領ではなかった時期についての自著は、大統領回顧録とは別種の「元大統領による自著」と分類される。また大統領時代の本人の日記や覚え書きを歴史家や第三者が発掘して編纂したものは貴重な史料ではあるが、本人の単著としての大統領回顧録とは別のものとして捉えられることが多い。本人の手により同時代に発表された回顧録は第15代のジェームズ・ブキャナンまで遡る必要がある。それ以後は第26代セオドア・ローズベルト、第30代カルヴィン・クーリッジなどが大統領回顧録を著しているが、慣習として定着したのは意外と最近である。第31代ハーバート・フーバー以降は在職中に他界したケースを除いて、ほぼ全員が退任後に回顧録を出版している(後述するようにブッシュ(父)は変則型であった)。

アメリカ大統領回顧録の受け止められ方はアメリカ国内外では違う。言うまでもなくアメリカでは読者は「有権者」でもあるからだ。分極化時代の大統領回顧録は「党派本」の性質を背負わされる。オバマは政治家、しかも民主党の元大統領だ。アメリカ人は党派的な理由から絶賛と酷評をネットで繰り広げる。それは書籍鑑賞を超越した政治的行為であり、トランプ政権直後の今、同書への賛否は政治的態度と深く紐づいている。共和党は回顧録で改めてオバマが神格化されて政策が正当化されては困るし、民主党はオバマ回顧録に失敗してもらっては困る。オバマ政権への賛否が再燃すると、副大統領だったバイデンも一蓮托生で巻き込まれる。古傷が痛むかもしれない。アメリカ国内の感想は回顧録の内容自体に即したものとは限らない。未読、未購入のまま賛否の判断を下す傾向もある。オバマファンには購入しても飾っておくだけの人も少なくない。試しに筆者がオバマ評伝取材でインタビューして以来親しくしている2名のオバマの学友に訊くと、一人はオーディオブックまで聴き込んでいたが(英語版はオバマ本人の朗読も発売)、もう一人は「分厚いから読んでいない」とあけすけに「積読」を告白した。一人で数冊買った黒人の知人もいる。彼も未読破だ。アメリカでの熱狂と酷評はあくまでアメリカにおける分極化時代の「政治現象」として引いて見ておく必要がある。この本の原書の売れ行きは、2008年のオバマブームともミシェル夫人の自著の人気とも性質が違う。

さて、ではアメリカ大統領回顧録とはどのようなものか。研究者や記者による聞き書きのオーラルヒストリーとして出版されることが多い日本の総理大臣の回顧録と違って、現代のアメリカ大統領の回顧録は元大統領による単著という体裁で出版される。しかし、このことは編纂も個人で行われていることを意味しない。政策的な事実関係に関しては当時の政策スタッフの記憶に頼る必要があるし、争点の好き嫌いで記述のバランスを崩さないような配慮も必要だ。ゆえにスピーチライターを含むチームが支える。

聞き書き式の回顧録では、咄嗟の質問への反応にも意味があるし、第三者の目線から記憶を掘り起こす価値があるが、アメリカ大統領の回顧録はテーマ設定からして徹頭徹尾、元大統領目線である。触れたくないことには触れない。無論、触れなかったことが反発も招くのでそれもリスクのうちだ。いずれにせよ、政権自体の歴史的ブランディングを大統領周辺で一致団結して行う作業である。歴史家やジャーナリストなど外部目線による賛否双方からの評価ではなく、あくまで自画自賛も反省も含む自己評価である。大統領回顧録だけで特定の政権期の歴史解釈を行うことが難しいのは、特定政党の政治家が側近と作成した叙述には主観や穴もあるからだ。元大統領は歴史家ではない。任期終了の瞬間、過去の党派性や承認欲求を失うわけではない。

大統領回顧録の価値は、第1に当事者でしか知り得ない内部の事実関係、第2に元大統領が自分の政権がどう記憶されたいと願っているか、すなわち歴史自己ブランディングをめぐる願望の表象にある。大統領はジャーナリストや政策専門家ではない。偏りを自明のものとした上で、指導者の感情を味わう姿勢で読めば、無味乾燥な出来事の羅列の行間に個性が見えてくる。

回顧録を定義する要素①:出版時期

大統領回顧録の性質を定義する重要な要素が2点ある。第1に回顧録の出版時期、第2に元大統領の回顧録以前の書籍の出版歴である。

まず、1点目である。回顧録の多くは退任後2年から3年のうち、つまり次の政権のうちには刊行される。カーター、レーガンなどは退任翌年に出版した。4年近くかかったのはニクソン、クリントン、オバマ(1巻目)の3名だ。ニクソンはウォーターゲート事件による辞任、クリントンは弾劾裁判にかけられた点で、世論の赦しを得るまでに一定期間を置く必要性を共通して抱えていた。クリントンは後述するように近年の大統領には珍しく回顧録以前に自著がなかったので、生い立ちから書き込む上で執筆時間を要したという理由もある。

ニクソンやクリントンのような理由がないことを考えるとオバマ回顧録の刊行の遅さは例外的だ。しかも今回刊行された『約束の地』は全2巻の1巻目である(原書1冊を日本語版は上下巻に分けているので、2巻目も同じ分量だと日本語版は4冊シリーズになる)。回顧録刊行は始まったばかりで、まだ終了していない。トランプが1期で終わったことで回顧録「完結」が後続2つの政権にまたがってしまった。もたもたしているとトランプ回顧録が先に出てしまい、刊行と政権順が入れ替わってしまう。だがオバマは大統領の「平凡」な回顧録との差異化を意識している気配がある。次回以降見るように、オバマは制約の範囲内で回顧録に独特の個性を反映させている。

しかし、回顧録が概ね次の政権の間に出ることにはそれなりに理由がある。刊行が先延ばしになればなるほど、後続政権との相対評価や世論からの影響を受ける。後任が自分の党の大統領であろうとなかろうと、後任との比較に惑わされずに自政権を淡々と振り返って記録し、世に出すには、なるべく早期がいい。記憶も新鮮なうちに、政権を終えた時の心残りも含め、フレッシュな政権回顧を切り取ることには意味がある。

無論、後続政権との関係は「出しやすさ」を左右する。回顧録はメディアが記事にする。インタビュー取材も入るし、講演依頼も来る。同じ本の内容でも、原稿がメディアに回覧された段階での世論の風向きのほか、後任がどの程度まで活躍しているか(ライバル目線からは「活躍してしまっているか」)、低評価を受けているかで、回顧録の初期的な評価が影響を受ける。再選できず1期で終わった大統領と堂々の2期満了元大統領では自己弁護の焦点も異なる。

身内の政党の妨害になることもある。クリントンとオバマはいずれも後任大統領の再選選挙年に刊行している。だが、クリントンがブッシュ(子)再選が不透明な6月段階で刊行したのに対し、オバマは11月の大統領選挙後に刊行した。良くも悪くも人間味豊かで一度でも握手した人を虜にした「人たらし」のクリントンの回顧録は話題沸騰となり、2004年に出馬していたジョン・ケリーをいっそう堅物に見せた。ブッシュ(子)攻撃の効果はなかったが、ケリーの足を引っ張った。オバマ回顧録の刊行タイミングは、選挙への影響は与えずに、しかし再選をめぐる結果が出た段階での「時代の一区切り感」に上手に便乗した。民主党層は(不正選挙問題は起きたものの)トランプ時代の終焉のベルを聴いたのと同時にオバマ回顧録を手にした。トランプ再選の場合は違う受け止められ方になっていたはずだ。

いずれにせよ、出版時期を先延ばしにすると、後続の政権の動きが気になり、加筆修正したい部分がエンドレスに湧き出てくる。また、政権記録ではない別の書物になってしまう問題もある。後続の政権との比較で自己評価をするという同時代進行系の政治評論だ。オバマ回顧録はトランプとバイデンとの相対評価で読まれる本に否応なしになっていく。トランプ時代ではなくバイデン時代に読まれる本になったことは、オバマにとっては「現時点では」幸運であった。ただ、バイデン政権の中でもとくに同じ人種マイノリティでバイレイシャルという点でオバマと共通性があるカマラ・ハリス副大統領の活躍が鮮烈な華やかさを伴った場合は、「相対評価」の観点では2巻目をじらすオバマ戦略が吉と出るかはまだ読めない。

大統領回顧録は、かつては存在しなかったものだし正式な職務ではない。定められた締め切りもない。回顧録を出さないのも自由ではある。しかし、回顧録が慣習化していなかった時期のアメリカや世界情勢と現在は違う。衰えを見せているとはいえアメリカは世界に多大な責任を負っている。その国の大統領が主要な自らの政治判断について、機密に抵触しない範囲で明らかにしておくことは、おまけの「宿題」などではなく、自身の財団や講演活動などよりも退任後に最優先でやってほしい仕事だ。その意味で、極端に刊行時期を引っ張ることに関しては、賛否があるだろう。

回顧録が後続の政治的な影響を受けてしまう弊害以外にもう1つ重要な問題がある。縁起でもないことではあるが、元大統領がいつまで無病息災で長寿かは誰にもわからないということだ。第二次世界大戦期以降の大統領では、在職中に病に倒れたフランクリン・ローズベルト、暗殺されたケネディの回顧録がない。心身ともに意気軒昂なうちにある程度の完成度で切り上げて世に出しておくことは、大統領の最後の務めであり、歴史の記録という重大な公務でもある。オバマ回顧録の1巻目(日本語版の下巻)は政権1期目の半ば、ビン・ラディン殺害で終わっている。慎重なオバマのことだ。草稿は最後まで書きあげた上で、刊行時期の吟味と細部を磨く編集作業をしているだけだと願いたい。

回顧録を定義する要素②:回顧録以前の自著歴

第2に、回顧録を読む場合に重要な前提条件となるのは、その大統領が過去にどのような著作物を出しているかだ。

元大統領の自著には政権記録以外、大統領期以外の自分の人生について回顧する本もある。これは広義の「大統領回顧録」と見ることもできるが、大統領退任後の本であることが条件だ。大統領になる前に出版された本は、その後大統領になる人の本であって、大統領の政権記録ではない。しかし、この大統領になる前に出された本が回顧録に影響を与える。大統領選挙に参戦する政治家は、連邦レベルの檜舞台に打って出る直前に「自己紹介本」すなわち「キャンペーン本」を出版する。その本の中で生い立ち、政治を志した所信表明、そしてざっくりとしたマニフェストが明かされる。この「キャンペーン本」の有無と内容が、実は回顧録に多大な影響を与える。回顧録研究は「キャンペーン本」とセットで行われなければならない。「キャンペーン本」で述べていることを元大統領はあえて「回顧録」では繰り返さない傾向がある。「キャンペーン本」を出していない元大統領は回顧録にそれを遅ればせで持ち込むので、回顧録の「政権記録」としての性質が歪みがちだ。

つまり回顧録は「キャンペーン本」が既に読まれていることから逆算して原稿が構成される。「キャンペーン本」はすべてが海外翻訳されているわけではないのに、広く海外で翻訳される回顧録の構成が「キャンペーン本」に左右されている。これは回顧録が結局のところはアメリカ国内政治の発想で作られていることを意味している。アメリカでは政治家の本の読者は「有権者」と同義である。読者は、政権の政策への賛否一つとっても、多くの場合「キャンペーン本」を通して元大統領の家庭環境などの生い立ち、政治への動機、軍歴や地域活動経験、信仰をめぐる態度などを知り、人物評価に関するエトス全般から採点を行う。だが、「キャンペーン本」が未訳の国では、読者は回顧録を突然読まされる。すると特定の大統領への印象や評価まで、アメリカ国内とは無視できないズレが生じることがある。

近年の大統領回顧録

カーターは回顧録Keeping Faith(邦訳『カーター回顧録:平和への闘い』)で生い立ちを書いていないが、それはWhy Not the Best?: The First Fifty Yearsという「キャンペーン本」を1976年の大統領選挙直前(1975年12月)に出版しているからだ。回顧録では選挙戦の振り返りすらなく、突然、組閣、そして議会との関係など実務的な大統領の仕事の記録に入る。その内容も大半が外交であるのがいかにも冷戦期を象徴する。

ブッシュ(子)の回顧録Decision Points(邦訳『決断のとき 上・下』)は禁酒経験から始まる。ただ、個人的な物語としては目新しいものではない。学生時代の記述はあっさりしていて表面的だ。父親との関係に関する記述が多く、ワシントン暮らしをしても政治に関心が持てないと吐露する。政治の家に生まれなければ大統領を目指さなかったことがわかる興味深い記述が多いものの、ボリュームも少なくあっさりした回顧録だ。これはやはり「キャンペーン本」が存在するからだ。彼は2000大統領選直前の1999年にA Charge to Keep(邦訳『ジョージ・ブッシュ 私はアメリカを変える』)を著している。

クリントンは「キャンペーン本」を出していないため、回顧録My Life(邦訳『マイライフ:クリントンの回想:アメリカンドリーム』)における4分の1を生い立ちと学生時代など若い頃に費やしている(日本版の上巻の前半に相当)。オバマと同様に「物語」を持つ大統領としては自然だが、回顧録に放り込んだところがクリントン風で、政権記録といよりも人生録になっている。「キャンペーン本」との合体型の回顧録という点ではオリジナルだった。

レーガンはカリフォルニア州知事選に出る前の1965年に「キャンペーン本」で生い立ちを既に語り、大統領退任直後1990年に大統領回顧録An American Life(邦訳『わがアメリカンドリーム : レーガン回想録』)も出している。

意外なのはブッシュ(父)で、1987年に「キャンペーン本」に相当するLooking Forwardを出しているが、退任後に大統領回顧録という形では出版をしていない。1998年にスコウクロフト元国家安全保障担当補佐官との共著でA World Transformedを刊行したが、これは外交限定の回想だ。ブッシュ(父)自身の手による文章は1999年にAll the Bestという書籍にもまとめられているが、手紙や覚え書きを編集したもので他の大統領と同じような体裁の「大統領回顧録」ではない。

オバマはさらに特殊だ。「キャンペーン本」であるThe Audacity of Hope(邦訳『合衆国再生』)以前、Dreams from My Father: A Story of Race and Inheritance(邦訳『マイドリーム:バラク・オバマ自伝』)を出しているからだ。前者は2006年の連邦上院議員時代に出されたが、後者は1995年刊行で当時はシカゴ大学講師(教授待遇)として憲法学を講じていた時代で、草稿はコミュニティ・オーガナイザー時代から構想されていた。刊行翌年に州議会議員への道が開けたので、結果論としては「キャンペーン本」の効果も持ったが、当時は政治家ではなかったのでマニフェスト本ではない。政治とは無関係な「作家オバマ」による作品である。

日本では大統領候補として著名になってから邦訳されたので「オバマ自伝」との副題も付いているが(原題は「父から授かった夢の数々:人種と遺産をめぐるある物語」)、実はこの本は厳密には「自伝」ではない。これはジャーナリストのデイビッド・レムニックも述べているようにオバマ本人も隠していない。ただ一般的にはアメリカでも自伝と思われることがかつては多かった。筆者も2009年にオバマ評伝の取材で会ったオバマの文学仲間から聞いて知った。

大学時代からオーガナイザー時代にかけて本気で作家を目指していたオバマがのめり込んでいたのは小説や詩の創作で、ルームメイトも短篇を競作する作家仲間だった。彼らが筆者とのインタビューで明かしているようにDreams from My Fatherは厳密には「リテラリー・バイオグラフィー」という文学ジャンルで、実在の人物や出来事をモチーフにそれらを混ぜ合わせて作者の人生を物語として再構築する小説だ。オバマも何人かの実在の友人を一つのキャラクターに結晶させている。登場人物の名前も創作が少なくなく、時系列も正確ではない。テーマもあえて人種論に絞っているので、父方の「アフリカ」の視点の本で、母方の話は意図的に抑制されている(シカゴ大学の教職を得る際に大学との話では「黒人の投票権についての本を書く」という話だったが、いつしか自伝風小説になった)。アメリカの書店では、オバマが議員になった後も「政治家の自伝」ではなく「アフリカ系文化」のコーナーにひっそりと置かれていた。このことが今回のオバマ回顧録にも影響を与えている。次回以降、オバマ回顧録をトランプとバイデンへの言及にも目配りしながら、文章と内容の両面で検討していく。

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