学生ローン版「徳政令」をめぐる政治的争い
山岸 敬和
8月24日、ジョー・バイデン大統領は学生ローンを一部免除するとした大統領令を出した。大学の学費が高騰する中で、卒業時に多額の学生ローンを抱えてその返済に追われることが、大きな社会問題となっていた。ワシントン・ポスト紙はバイデンの決定を「過去数十年の高等教育政策の中で最も重要な変化の一つ1」であると評した。
しかしバイデン大統領にとっては、中間選挙の前の大きな賭けに出たことになるだろう。2020年の大統領選挙ではエリザベス・ウォーレンやバーニー・サンダースがこの争点について大胆な政策を求めた一方で、バイデンは慎重な姿勢をとった。学生ローン版「徳政令2」が、有権者、中でも特に労働者階級にどの程度好意的に受け入れられるのかにバイデンは自信が持てなかったのである。それでも今回、バイデンは当初の予想を超えた規模の政策を発表した。
本コラムでは、まずアメリカにおける大学の学費問題、大統領令が出された背景を簡単にまとめたい。その後、その政策が今後もたらす政治的影響について述べたい。
アメリカにおける大学学費問題
アメリカにおける大学・短大への進学率は約7割で、6割弱の日本よりも高い3。アメリカでは、大学での学位を取得するとその「見返り」が見込めることが大きい。高卒の労働者が22〜27歳で得られる平均年収は3万ドル。大卒だとこれが5万2千ドルに跳ね上がる4。
しかし近年、大学の学費が高騰し、ミドルクラスの家庭にとっては子供を大学に送ることが難しい状況になってきている。州立大学の平均年間授業料は27,560ドル(州民に対しては10,740ドル)、私立大学は38,070ドルとさらに高額になる。それに加え寮費等に年間1万ドル以上が必要となる5。その結果、毎年3〜4割の学生がローンを借りて大学を卒業する。大学時代に借りる連邦政府による学生ローンは平均37,667ドルにのぼる。また、連邦学生ローンの総額は、2006年に5,200億ドルであったのが、2021年には1兆7,300億ドルと、15年で3倍以上に膨れ上がっている6。
「ウォール街を占拠せよ」発の政策アイディア
学生ローン返済免除は、もともと2011年以降広まった「ウォール街を占拠せよ」運動から出てきた政策アイディアであった。ただそれは急進的なものとして見なされ、しばらくの間は議会内で支持が広まることはなかった7。
しかし、2018年の議会選挙で当選したアレクサンドリア・オカシオ=コルテスが、そして2020年の大統領選挙戦ではサンダースやウォーレンが提唱したことで注目を集め、俄に民主党内における重要な政策アジェンダとして浮上した。
バイデンは予備選挙当初は慎重な姿勢を見せながら、民主党予備選挙で勝利した後に1万ドルの免除をすることを約束するに至った。バイデン政権が発足すると、ウォーレンに近しいバーラット・ラマムルティ等が政権の経済・教育政策に関わり、学生ローン返済免除に向けて、政府内部から働きかけた8。オカシオ=コルテスも、バイデン政権の学生ローンへの消極的態度について、「とても重要な有権者集団の士気を砕いてしまっている」と批判し、11月の中間選挙に向けて危機感を煽ってきた9。
そして最終的には、黒人議員からの圧力が大きかったという。ブラック・コーカスの議長であるジョイス・ベイディーや、選挙時に重要な貢献を果たした下院多数院内総務のジム・クライバーンは大胆な政策を求めていた10。黒人は白人に比べ学生ローンに苦しんでいる割合が高い11。
学生ローン免除政策の政治的影響
この政策の対象者は連邦政府による学生ローンを借りている最大4,300万人。年収125,000ドル以下の者には1万ドルの返済免除を行うという内容だ。対象者の約半数は学生ローンの残高が1万ドル以下のため、この政策によってローンから解放されることになる。また低所得者向けのペル・グラントを適用されている者約600万人は額を倍に引き上げ、2万ドルにした12。
人口の約13%が対象になるが、その家族も含めれば政策を打ち出したバイデン政権を好意的にみる者はかなり多くなる。また既述したように、学生ローンの問題は、オカシオ=コルテスのいうように民主党左派の士気を高める役割を果たすだろう。
しかしバイデン政権にとっては、必ずしも追い風ばかりとは言えない。反対派は法廷闘争の準備をしている。大規模な予算措置を伴う方策を大統領令として出すことについては違憲であるという主張だ。しかしバイデン政権は、今回の措置は、同時多発テロを受けて成立したヒーローズ法によって正当化されるとしている。この法律は、国家非常事態下において学生ローンの負担を軽減する大幅な権限を大統領に付与したもので、今回も同様なケースで適用できるとしている13。
また、上院共和党のミッチ・マコネル院内総務は、ツイッター上で、今回の政策を「民主党の学生ローン社会主義」とし、「すでにローンを完済した者や学生ローンを回避するために別のキャリア選択をした者たちへのビンタ」であるとした。そして一昔前の共和党だったら口にしないような言葉で締め括った。この政策は「高収入の人々へのひどく不公平な富の再分配」であるとした14。
経済政策の観点からも反対の声が上がる。ヘリテージ財団のレイチェル・グレズラーは、免除政策はインフレを悪化させると指摘する。議会で最近成立したインフレ抑制法による赤字削減分を相殺する以上の効果を持つ。また最近の労働者不足をさらに深刻にさせる影響もあるという。今回の政策で特に若年労働者は仕事をするインセンティブが低下してしまうとする15。
今のところは賛否両論が出て、両派がっぷり四つの感じになっている。しかし対立構造は、民主党vs共和党ではない。民主党の中にもジョー・マンチンのような慎重派がいる。だからこそ民主党が上下両院で多数を占めているにも関わらず、バイデン政権は立法の手段ではなく、大統領令で実施しようとしたのである。
中間選挙、2024年大統領選挙での重要争点に
この学生ローンをめぐる問題は中間選挙で重要争点の一つになる。連邦政府は10月には申請のプロセスを開始する予定であるとしている。しかし、法廷闘争の可能性もある中で支給が11月の中間選挙までに始まることはない。民主党にとっては、この政策を「人質」にとったようなものである。選挙の結果、共和党議会になると政策がひっくり返されると主張することで、受益者や左派等を選挙に動員することができるだろう。
共和党にとっては、学生ローンは民主党を攻撃する一つの武器になる可能性が高い。最近、ニューヨーク第19選挙区の特別選挙で、共和党候補が敗北した。中間選挙での共和党の優位が伝えられていた中で、共和党にとってはショックな出来事であった。その背景に、ロー対ウェイド判決が最高裁で覆されたことや、連邦議会襲撃事件等で、無党派が共和党への懐疑心を深めていることが考えられる16。個人(女性)の選択の自由やデモクラシーを守るという民主党のメッセージが有権者に届いたとも言える。その中で、今後共和党は学生ローンの問題を、連邦政府の横暴、デモクラシーの危機と結びつけながら反対運動をしていくだろう。
この共和党の選択はある程度の効果をもたらすのではないかと考える。「徳政令」というのは、アメリカではその建国の歴史から「excessive democracy(民主主義の行き過ぎ)」 を連想させる。当時、州議会で債務者が数を頼りに借金帳消し政策を行い、経済的混乱を招いたという歴史はアメリカ人に刷り込まれている。さらに今回バイデンは、それを立法によってではなく、議会の暴走を食い止める役割を果たすべき大統領の権限を使ってやろうとした。
また、サンダースは「College for All(すべての人々に大学教育を)」というスローガンを使っているが、「ヘルスケアは人権である」と訴えたオバマケアの時とは状況が異なる。大学教育は「人権」なのだろうか?バイデン大統領は、この政策を実施に漕ぎつけるために、アメリカの政治文化の中に大学教育というものを丁寧に位置付けていく必要があるだろう。
最後に、2024年大統領選挙に向けてもこの争点は重要になるだろう。中間選挙が終わると、「レームダック議会」で民主党は今回の大統領令を立法化する動きを見せる可能性がある。そして同時に、争点は学生ローンの問題(過去に大学に行った人の問題)から、大学の学費を抑制する問題(現役の大学生または将来の大学生の問題)に移っていく。民主党左派は、コミュニティ・カレッジを無料化するための具体的な働きかけを強めていくだろう。
他方、共和党の候補者になると考えられる人々も学生ローンの問題に敏感に反応している。ドナルド・トランプは「election enhancing money grab(選挙の火事場泥棒)」であるとし、その費用は「一番苦しんでいる労働者階級の懐から捻出される」として批判。ロン・デサンティスは、トランプと同様な批判をしながらも、責任は大学に求めるべきだとしてツイッターで以下のように述べた。「ジェンダースタディーズで博士号を取った者のローンを、トラックドライバーが返済するのは不公平である。・・・役に立たない学位を出す大学が責任を取るべきである17」。
多くの日本人にとっては、大学政策が選挙の重要争点になるというのは不思議な光景に映るだろう。しかし、アメリカでは既述のように、大学政策はデモクラシーの在り方にも深く結びつけられて議論される。アメリカ政治の今後の行方を見通すためには、この問題でどのような議論がなされていくのかも、注視していく必要がある。
(了)
- Jeff Stein and Danielle Douglas-Gabriel, “How President Biden decided to go big on student loan forgiveness,” The Washington Post, August 26, 2022, <https://www.washingtonpost.com/education/2022/08/26/student-debt-biden-democrats-warren/>, accessed on September 4, 2022.(本文に戻る)
- 日本の教科書で学ぶ「徳政令」は、中世において朝廷や幕府が債権者に対して債権放棄を命じた法令である。本コラムの「徳政令」は、連邦の学生ローンであり、日本のものとは質的に異なる。連邦プログラムには、連邦政府が直接運営しないものもあるが、貸手に債権放棄を命じるものではなく、債務を連邦政府が肩代わりするものである。(本文に戻る)
- Hannah Muniz, “How Many College Students Are in the U.S.?” Best Colleges, February 23, 2022, <https://www.bestcolleges.com/news/analysis/2021/03/22/how-many-college-students-in-the-us/>, accessed on September 4, 2022; 男女共同参画局「第1節 教育をめぐる状況」『男女共同参画白書 令和3年版』<https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r03/zentai/html/honpen/b1_s05_01.html> (2022年9月5日参照) 。(本文に戻る)
- Adam Hardy, “The Wage Gap Between College and High School Grads Just Hit a Record High,” Money, February 14, 2022, <https://money.com/wage-gap-college-high-school-grads/>, accessed on September 4, 2022.(本文に戻る)
- Liz Knueven and Ryan Wangman, “The average college tuition has dipped slightly, though that's just the start of total college costs,” Insider, May 11, 2022, <https://www.businessinsider.com/personal-finance/average-college-tuition>, accessed on September 4, 2022.(本文に戻る)
- Melanie Hanson, “Student Loan Debt Statistics,” Education Data Initiative, July 29, 2022, <https://educationdata.org/student-loan-debt-statistics>, accessed on September 8, 2020.
また学生ローンの利率は、連邦政府の補助を受けたプログラムか否かで変わってくるが、現在約4.99%から7.54%で、多くの日本人が借りているJASSOの貸与奨学金と比べるとかなり高い(2022年8月の時点で利率固定方式は0.468%。2007年の1.5%から長期的な低下傾向にある)。アメリカでは貸し手が基本的に民間の銀行であるからということが大きい。独立行政法人日本学生支援機構「平成19年4月以降に奨学生に採用された方の利率」<https://www.jasso.go.jp/shogakukin/about/taiyo/taiyo_2shu/riritsu/2007ikou.html> (2022年9月5日参照) 。(本文に戻る) - Stein and Douglas-Gabriel, “How President Biden decided to go big on student loan forgiveness.”(本文に戻る)
- Ibid.(本文に戻る)
- Oma Seddiq, “Alexandria Ocasio-Cortez says that student-loan cancellation should be Biden's priority and that his hesitation has ‘demoralized a very critical voting block’,” Insider, February 15, 2022, <https://www.businessinsider.com/aoc-bidens-hesitation-on-student-loan-cancelation-has-demoralized-a-very-critical-voting-block-2022-2>, accessed on September 5, 2022.(本文に戻る)
- Stein and Douglas-Gabriel, “How President Biden decided to go big on student loan forgiveness.”(本文に戻る)
- Hanson, “Student Loan Debt by Race.”(本文に戻る)
- 「米大統領、1人1万ドルの学生ローン返済免除表明 4300万人に恩恵」ロイター、 2022年8月25日、<https://jp.reuters.com/article/usa-biden-student-loan-idJPKBN2PU20F> (2022年9月5日参照)。大統領令には、コロナ禍で実施された学生ローンの支払い猶予政策を年末まで継続することも含まれた。(本文に戻る)
- Annie Nova, “White House fires back at Republicans planning to challenge student loan forgiveness,” CNBC, September 2, 2022, <https://www.cnbc.com/2022/09/02/white-house-slams-gopers-plans-to-challenge-student-loan-forgiveness.html>, accessed on September 5, 2022.(本文に戻る)
- Mitch McConnell, “Democrats' student loan socialism is a slap in the face to working Americans who sacrificed to pay their debt or made different career choices to avoid debt. A wildly unfair redistribution of wealth toward higher-earning people,” Twitter, August 25, 2022, <https://twitter.com/LeaderMcConnell/status/1562473856182677504>, accessed on September 5, 2022.(本文に戻る)
- Rachel Greszler, “Why Biden’s Student Loan ‘Forgiveness’ Will Make Inflation, Labor Shortage Worse,” The Heritage Foundation, August 29, 2022,<https://www.heritage.org/jobs-and-labor/commentary/why-bidens-student-loan-forgiveness-will-make-inflation-labor-shortage>, accessed on September 5, 2022.(本文に戻る)
- Eric Beech and Moira Warburton, “Democratic win in New York signals power of abortion issue in midterm vote,” Reuters, August 25, 2022, <https://www.reuters.com/world/us/abortion-key-issue-special-new-york-us-house-race-tuesday-2022-08-23/>, accessed on September 5, 2022.(本文に戻る)
- Ron DeSantis, “It’s unfair to force a truck driver to pay a loan for someone who got a PhD in gender studies. Taxpayers shouldn’t be footing the bill for student loan relief and Biden’s order isn’t constitutional. If anything, universities handing out worthless degrees should be on the hook,” Twitter, August 26, 2022, <https://twitter.com/GovRonDeSantis/status/1562827167322497024?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1562827167322497024%7Ctwgr%5E47839cf53a221dc2d5a63278e7bfb2b13d0883e6%7Ctwcon%5Es1_&ref_url=https%3A%2F%2Fweartv.com%2Fnews%2Flocal%2Fdesantis-rips-bidens-student-loan-cancellation-says-colleges-should-pay>, accessed on September 5, 2022.(本文に戻る)