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オーシャンニューズレター

第256号(2011.04.05発行)

第256号(2011.04.05 発行)

魚のとむらいー海洋生物の命を想うこと

[KEYWORDS] 魚霊碑/生命観/文化の源としての海
東海大学海洋学部准教授◆田口理恵

日本各地で、海の生き物のために墓、塚や石塔が建てられてきた。供養碑はむしろ近代以降、より盛んに建てられるようになり、日本水産業の発展過程に沿うように、建立の契機も供養主体、供養する対象のとらえ方も多様化しながら供養碑が建てられてきた。
海の生き物のための供養碑の存在は、日本人独自の海との関係性を考える手がかりになる。

海からの恵み

この2月、"バウ・ニャレ"という祭を見るために、インドネシア・東部ロンボクの海岸にいた。ニャレはイソメの一種で、年に一度、海面に浮上して生殖遊泳する。ニャレが現れる頃になると、真夜中から日の出までの時間に、多くの人が海岸にくり出し、サロックと呼ばれる網でニャレをすくいとる。集めたニャレは大鍋でゆでて、バナナの葉の包み焼きにしたり、日干しにしたものを揚げて食べる。ニャレは、国の平和を守るために自らを犠牲にして海に身を投げたマンダリカ王女※1の生まれ変わりとされるが、このバラバラになった王女の身体を、人々は年に一度だけ味わえるご馳走として心待ちにしている。
ニャレ祭に限らず、海がもたらす恵みを人間がどのように意味づけ、受けとめるのかは、地域や民族、時代によっても異なる。海洋生物と人間との関わりの多様さを知れば知るほど、人間の想像力をかきたてる文化の源としての海というものを考えさせられる。
日本人もまた、古くから海中の世界やそこにすむ生き物たちの様子を想い描いてきた。例えばそれは山幸彦が訪れた海神の国や浦島太郎の竜宮城の世界であり、中世になれば、『日本霊異記』にあるように、海の生き物が、人間が転生したものや、命を救ってくれた人に恩返しする存在として登場するようになる。なかには高僧が食べようと運ばせたボラが、人々にとっては法華経に見えたといった話もある。
仏教の影響もあり、日本では、海の生き物も含めたすべての動植物を、人間同様に霊魂が宿るとみなし、死んだ生き物を弔い、供養することが古くから行なわれてきた。「大漁」や「鯨法会」の詩で有名な金子みすゞの故郷・山口県の仙崎周辺には、クジラの墓のほかに、位牌や過去帳まであることが知られているし、仙崎に限らず日本各地には、クジラや他のさまざまな海の生き物のために建てられた墓、塚や石塔がある。こうした海の生き物のための供養碑の存在は、日本人独自の海との関係性を考える手がかりになるだろう。

魚のとむらい

生き物供養は、日本独自の生命観・自然観を示すものとして注目されてきた研究テーマでもある。ただしこれまでの研究を見ると、動植物から非生物の供養までを幅広く扱っているため、魚介類の供養は断片的に紹介されるだけだった。そこで、お魚供養研究会と称して、水棲生物に対する供養や祀りに関する調査研究をはじめた※2。文献研究、アンケート調査、現地調査を組み合わせながら水棲生物の供養碑情報を集めて基礎データの作成を進めてきた。特にアンケート調査では、全国の海水面漁協、内水面漁協および水産試験場など2141関係団体にアンケート用紙を送り、2010年9月末までに893件の回答を得た。現段階までの成果は、別稿※3に詳しくまとめているが、これまで断片的に紹介されるだけだった水棲生物を祀った碑が、今回の調査研究によって国内各地に1100基以上も存在することが明らかになった。
これら供養碑のなかで建立時期のわかる供養碑は688基あり、それらを検討すると、供養碑は江戸時代に入って増えることと、そして、平成の時代に至るまで各地で供養碑が建てられ続けてきたことがわかる。実際、明治以降に建てられた供養碑の数は523基もあり、供養碑の建立は、むしろ近代になってより盛んになったということができる。


■秋田県潟上市天王町内の干拓地の一角にあり、工事のために集められたボラの供養碑(鰡塚)。古いものは安政6年(1859)のもので、明治28年(1895)、明治44年(1911)、大正7年(1918)、昭和21年(1946)、昭和26年(1951)建立の6基がある。

表にまとめたように、江戸期の供養碑はクジラを対象としたものが圧倒的に多い。この時代に、困窮を救ってくれた寄り鯨への感謝や、捕鯨との関わりで各地に鯨の供養碑が建てられるようになる。大漁に感謝しつつ慰霊のために建てられた魚類の供養碑が登場するのはクジラより遅く、1800年代になってからである。明治以降は、大漁による売り上げ増や販売先拡大などの事業成功を理由に供養碑が建てられる例も出てくる。また、昭和期に入ると、真珠、アユ、ニジマスや食用蛙など、養殖関係者が建立した供養碑も登場する。昭和以降は、漁業や養殖業といった生産分野のみならず、魚商や卸売市場などの流通分野や、料理組合や加工食品会社などの加工分野までと、水産業界の様々な事業者が供養碑を建てるようになり、近代以降の供養碑の増加は、供養主体の多様化とともに進んできた。
戦後になると、「魚霊碑」「魚魂碑」のように、祀る対象を包括的に捉えた供養碑も登場する。戦後建立の包括的な供養碑は121基もあり、漁獲対象や、水産試験場が扱う実験魚全体、開発工事や災害の影響で失われた生命など、より多くの生き物をまとめて扱うために包括的な名称が選ばれるようになったものと思われる。時代が下るにつれて、供養碑建立の契機も供養する対象のとらえ方も多様化してきた。日本水産業の発展過程に沿うように、各地で供養碑が建てられてきたが、これら多くの碑の前では、今も、広くに知られることなく供養祭が関係者のみで粛々と執り行われている。関係者の声を聞くと、それぞれの碑に、それを建てた人々の生業を支えてくれる自然や生命への想いや、建立時の時代状況が刻み込まれていることがわかる。

海の恵みを食べること

国内各地にある魚介類の供養碑は、海や川に関わる人々が、何万、何億もの生き物の生命を想い、弔ってきたことを教えてくれる。日本には、とって食べる対象の生命に感謝し尊ぶ心情が根深くあるのだ。しかし、私たちの多くは、水族館や食卓、店頭に並ぶ魚介類から、海や川、そこに棲む生物を想像するに過ぎない。食育などと「食べること」が見直されるようになった今だからこそ、私たちは「食べることができる」という恵まれた現状の背後にある、海・川や魚介類と関わってきた人々の苦労や心情とその歴史の重みにまで思いを馳せる必要があるだろう。(了)

※1 インドネシア、ロンボク島に伝わるマンダリカ王女(ニャレ姫)の伝説。マンダリカ王女は、隣国の王子たちから求婚されるが選ぶことができず、海に身を投げたとされる。
※2 この研究は、平成21年度科研費(挑戦的萌芽研究)「魚霊供養からみる海洋資源の利用と変化-魚霊供養碑データベースの構築」、日本学術振興会の異分野融合による方法的革新を目指した人文・社会科学研究推進事業「日本の環境思想と地球環境問題-人文知からの未来への提言」、人間文化研究機構・連携研究「アジアにおける自然と文化の重層的関係の歴史的解明」によるものである。
※3 田口理恵・関いずみ・加藤登、2011「魚類への供養に関する研究」、『東海大学海洋研究所研究報告』:第32号,p53-97。

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