バイデン次期政権とインド太平洋
—青写真を読む—(前編)
森 聡
バイデン次期大統領が豪州、韓国、インド、日本の首脳と電話会談を持った際に、「安全で繁栄する(secure and prosperous)インド太平洋」という言葉を用いたことを受け、「自由で開かれたインド太平洋」から何が変わるのかについて憶測が飛び交っている。政権が変わると政策の看板や標語が変わるのは常であるが、「自由で開かれた」が無くなったということで、価値の側面が希薄化する可能性があるのではないかとする見方がある1。この手の標語がどこまで戦略や政策の本質を反映するのかは議論の余地があろう。政権が発足してからどのような取り組みが展開されるのか、大統領がどこまでコミットするのかといったことの方が重要であり、政権発足後の動向を冷静に見定める必要がある。
バイデンの側近には、おそらくインド太平洋戦略の青写真があるだろう。政権入りが取り沙汰されている面々をみると、すべてが白紙ということは考えにくい。インド太平洋地域に向けられた個別具体的な政策の中身はおそらくトランプ政権と重なるところが少なくない(無論、大統領の姿勢やレトリックは変わるとみられる)2。しかし、青写真があるにしても、それが今後修正されていく可能性も十分ある。例えば、バイデン政権が本当に同盟国や地域諸国との協議を大事にするのであれば、そうした協議を行い、地域諸国の考え方を汲み上げながら地域戦略を打ち出すということになるはずである。また、民主党内の左派と中道派のバランスがどうなるか、左派が人権や民主主義の強調ないし推進をどこまで求めて、政権側はそれにどこまで配慮するのか、上院を共和党が支配するかしないかによってもバイデン政権の対外政策は影響を受ける。したがって、青写真があったとしても、それは様々な政策過程と政治過程の中で修正されていく可能性が高い。「安全で繁栄するインド太平洋」という標語は修正されるかもしれないし、されないかもしれないが、その中身は様々な要因の影響を受けて更新され続けていくだろう。つまり、バイデン政権のインド太平洋戦略を現時点で展望しようとしても、実質的には憶測と印象論の域を出ない。
以上のような多数の留保を付したうえで、ここでは現時点での青写真がどのようなものでありうるのかについて、バイデン政権入りが決まった、あるいは政権入りが取り沙汰されている専門家らの議論を参考に、あえて憶測と印象論を上塗りしてみたい。無論、ここで取り上げる専門家たちの青写真が全てではない。しかし、バイデンが国内対策に専念していく中で、対外政策の実質的な運営を側近に委ねていく可能性もあり、彼らの考えが全く反映されないということも考えにくいので、注目する価値はあるだろう。そこで以下では、ジェイク・サリヴァン、カート・キャンベル、イーライ・ラトナー、ケリー・マグサメン、ミラ・ラップ・フーパーといった専門家らの議論に注目したい。彼らの議論から読み取れることとして、①インド太平洋戦略で目指す<目的>について従来から大きく変わることはなさそうではあるものの、②インド太平洋でも分野ごとに競争するための連合形成に力を入れ、差別化された競争というアプローチをとり、③対中競争戦略が、インド太平洋という地域レベルに加えて、国際機関・制度におけるルール・規範・標準規格といったグローバルなレベルでも展開されることに伴い、地域戦略としてのインド太平洋戦略が相対化され、結果としていくつか注意すべき課題が出てくることを指摘したい。①は戦略の「目的」にまつわる問題、②と③は戦略の「方法」にまつわる問題である。(※バイデン政権の対中政策全般についての見通しは、次をご参照願いたい。森聡「経済教室—米、対中で多国間連携を重視」、『日本経済新聞』2020年12月21日。)
どのようなインド太平洋を目指すのか
まずバイデンを取り巻く側近や民主党系の政策専門家らが、インド太平洋戦略の目的を何に求めているのかということであるが、その中身は、「自由で開かれたインド太平洋」で目指された秩序とほとんど変わらない。連邦議会は、2019年度国防授権法(2018年8月制定)第1254条に基づいて、新アメリカ安全保障センター(CNAS)に、2018年2月の国家防衛戦略を成功裏に実施するのに必要なインド太平洋地域における地政学的条件に関する検討を委託し、これを受けてCNASは2020年1月に『中国の挑戦に立ち向かう―インド太平洋におけるアメリカの競争力の再生』と題した報告書を公表した(報告書の議会提出は2019年12月)。CNASの専門家ら19名がこの委託研究に加わっているが、筆頭のとりまとめ役はバイデン副大統領の国家安全保障担当次席補佐官だったイーライ・ラトナーである(現在CNAS副理事長兼研究部長)。
この報告書の最初のセクションは、「インド太平洋におけるアメリカの戦略の基本原則」と題されており、「自由で開かれたインド太平洋」という言葉に加え、言葉遣いと文脈がやや異なっているが、「安全と繁栄」という言葉も登場する。このセクションでは、インド太平洋において米中は戦略的競争に突入しており、今後数十年にわたって国際関係を規定するルール、規範、そして制度をめぐって2つのヴィジョンが競い合っていく、との基本認識が示されたうえで、せめぎ合う2つの秩序構想を以下のように説明している。
国家主権の尊重、国家の独立、紛争の平和的解決、自由で公正な貿易、国際法の遵守、高い透明性とグッドガバナンスによって特徴づけられる「自由で開かれた」インド太平洋をアメリカ政府は希求している。この地域秩序の実現の成功には、強い同盟と安全保障パートナーシップ、国際法に沿って地域全体で活動できる軍隊、成長市場にアクセスし、技術の標準規格、投資ルール、貿易協定から裨益するアメリカ企業、効果的な地域制度および国際機関へのアメリカの参与、そして開放的な情報空間と活力ある市民社会といった文脈における民主主義と個人の自由の普及が含まれる。
対照的に中国は、これまで以上に閉鎖的で非リベラルなインド太平洋の未来に向かおうとしており、そうした未来のいくつかの中心的な側面は、アメリカの死活的な利益を損なう。中国主導の秩序の主な特徴には、人民解放軍による南シナ海と東シナ海の支配、軍事・経済・外交問題に関して中国が地域諸国を恫喝して自らの立場を強要するような状況、中国政府が自らに有利な貿易と投資のルールを設定し、先進技術・データ・標準規格で優勢に立つような経済秩序、中国政府による台湾の事実上の支配と地域機構のアジェンダ設定といったものが含まれる。こうした秩序では、中国のハイテク監視国家モデルの拡散に後押しされる形で、弱い市民社会、独立メディアの不在、権威主義の漸増といった特徴が表れることになる。これらは総じてアメリカの安全と繁栄を減じ(less secure and less prosperous)、世界におけるアメリカのパワーと影響力を減じる。
インド太平洋におけるアメリカと中国の競争は、究極的にはこれらのいずれの未来が実現に近づくかということに懸かっているが、いずれの未来もそれが完全に全うされることはおそらくないであろう...3
目下ラトナーはアジア政策でバイデンを補佐しているといわれるが、秩序という観点からインド太平洋における米中競争を捉えており、上記の文章はトランプ政権が発出する文書とほとんど見分けがつかないと言ってもいい。トランプ本人は秩序に無関心だったが、国防省や国務省は一貫してルールに基づく国際秩序を推進することを目的に掲げてきており4、バイデン政権の地域情勢認識は、安全保障官庁(や連邦議会)のそれとむしろ整合性が高いといえる。
なお、こうした地域秩序観の根底には、中国をいかなる国と見るかという基本的な問題がある。ワシントンの対中認識がここ数年で硬化し、それが超党派の現象となっているのは周知のとおりである。バイデンのアジアチームに入っているといわれるカート・キャンベル(オバマ政権第1期で東アジア大洋州担当国務次官補)とミラ・ラップ・フーパーは、2020年7月の『フォーリンアフェアーズ』オンライン版に「中国は時機が熟すのを待たなくなった」と題する共著論考を寄稿し、コロナ発生後の対中認識を披露している。キャンベルとフーパーによれば、香港や南シナ海での振る舞い、オーストラリアやインドに対する行為、西側のリベラルデモクラシー諸国に対する声高な批判といった最近の中国の動向を見るに、いまや中国は国際的な評判を気にかけないようになり、言動に自制がないことが鮮明になってきていると指摘している5。キャンベルとフーパーは、トランプが力の真空を生み出して、二国間で中国に圧力をかけるようなアプローチをとっているから、中国はここぞとばかりに持ち前の機会主義と即興性でこうした行動に出ているとの見方を示している。大統領選前の論考なので、トランプによる同盟軽視などの問題性を指摘するものではあるが、最終的にアメリカは、①アジアと欧州の同盟を強化し、②国際機関への関与に注力し、③アメリカ自身の力を再生すべきと論考の末尾で訴え、以下でも取り上げる民主党の対中戦略のいくつかの主な要素を挙げている。
この議論が示唆しているのは、アメリカが適切な取り組みを展開して中国にバランシングすれば、中国の問題行動を抑え込むことができるとの考え方である。その適否はさておき、中国の政治体制よりもあくまで行動を問題にして、中国の行動の是正を通じて地域秩序を回復・保全・推進しようとする考え方が浮かび上がってくる。この点においては、中国共産党による統治そのものを二国間で直接批判してきたトランプ政権とは異なる点であるといえよう。地域秩序をパワー、規範、制度、情報といった次元で捉える民主党政権が、外交的関与をどこまで効果的に展開できるのか、そもそも地域秩序なるものを巧く作り上げられるのか注目される。(中編につづく)
- 1 Sebastian Strangio, “Is Biden Preparing to Tweak the Indo-Pacific Strategy?,” The Diplomat, November 20, 2020, <https://thediplomat.com/2020/11/is-biden-preparing-to-tweak-the-indo-pacific-strategy/> accessed on December 14, 2020.
- 2 トランプ政権の自由で開かれたインド太平洋戦略(FOIP)については、次を参照。高原明生、森聡、川島真「米中関係と地政学」、川島真・森聡編著『アフターコロナ時代の米中関係と世界秩序』、東京大学出版会、2020年、29-46頁。
- 3 Ely Ratner et al., Rising to the China Challenge: Renewing American Competitiveness in the Indo-Pacific, Washington D.C.: Center for a New American Security, December 2019, <https://www.cnas.org/publications/reports/rising-to-the-china-challenge> accessed on December 14, 2020.
- 4 国防省も国務省もトランプ政権期にインド太平洋戦略に関する報告書を発出しているが、そこでは大統領がほとんど口にしなかった国際秩序をアメリカが支える方針が謳われている。
U.S Department of Defense, Indo-Pacific Strategy Report: Preparedness, Partnerships and Promoting a Networked Region, June 1, 2019,
<https://media.defense.gov/2019/Jul/01/2002152311/-1/-1/1/DEPARTMENT-OF-DEFENSE-INDO-PACIFIC-STRATEGY-REPORT-2019.PDF> accessed on December 14, 2020 ; U.S. Department of State, A Free and Open Indo-Pacific: Advancing a Shared Vision, November 3, 2019.
<https://www.state.gov/a-free-and-open-indo-pacific-advancing-a-shared-vision/> accessed on December 14, 2020. - 5 Kurt M. Campbell and Mira Rapp-Hooper, “China Is Done Biding Its Time,” Foreign Affairs, July 15, 2020, <https://www.foreignaffairs.com/articles/china/2020-07-15/china-done-biding-its-time> accessed on December 16, 2020.
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