ジャクポーアってなんだ!?
―トランプ大統領の多国間国際合意に対する不信感―

中山 俊宏
ある会議に出ていて、若干ウトウトしていたところ、突然歯切れ良く「ジャクポーア」という聴き慣れない言葉が聞こえてきて、一体なんだ、と思ったことがある。蓋を開けてみると、JCPOAを「表音風」に読んだもので、なんのことはない「包括的共同作業計画(Joint Comprehensive Plan of Action)」、いわゆる「イラン核合意」のことを指していたに過ぎない。国際会議に出席して、まず最初に苦労するのが、アルファベット・スープの中で溺れないことだ。自分の専門領域ドンピシャの会議ならいいが、少しでもズレるとかなり苦労する。それ自体では一切意味をなさないアルファベットの羅列から意味を汲み取るのは至難の技だ。それを自由に操作できないと「専門家」とは見なされない。専門家と非専門家を区別するまず最初の境界線がここにある。ちなみにこの「ジャクポーア」という呼び方はきわめて特殊で、事情通によればほとんど使われることはないという。
トランプ大統領が、専門家に対して強い不信感を抱いていることは周知の事実だ1。一般のアメリカ国民が解さない専門用語を駆使して、自らの権益を守るために、誰も寄せつけずにアメリカの国益を切り売りしている…そうした専門家に対する不信感は、「ディープステート(deep state)」という一語に集約できるだろう。「ディープステート」は、一般のアメリカ国民の味方であるトランプ大統領を見えない卑劣な手法で傷つけようとしている。こうした陰謀論にも近いディープステート批判は、保守系のメディアを見ていると、驚くほど当然のこととして浸透している。
「ディープステート」という言葉は使わずとも、ワシントンのエリート、とりわけアメリカを世界に引き摺り出し、よくわからない合意にアメリカが絡めとられるのを容認する外交・安全保障エスタブリッシュメントに対する不信感は思いのほか強い。アルファベット・スープの中を自由に泳ぎ回るこうした専門家を前にすると、そうした思いもわからないではない。彼らにアメリカを切り売りする悪意があるとは一切思わないが、彼らが一般のアメリカ国民に対して、なぜそうしなければならないのか、ということを十分に説明してきたとはとてもいえない。ある調査によると、多くのアメリカ国民は、そもそもアメリカの対外行動の大きな目的というようなことについて、まったくイメージを共有していないということだ2。
こうした不信感の具体的な標的としてトランプ大統領が2016年の選挙の時から一貫して攻撃している「史上最悪国際合意三点セット」が、TPP(環太平洋パートナーシップ)、JCPOA、そしてパリ協定だ。ご丁寧にも、この三点セットのうち二点が「アルファベット・スープ」で、もうひとつもスノビズムの代名詞ともいえる都市の名を冠した合意だ。トランプ大統領は、政権発足早々、TPPからの離脱を表明し、次いで2017年6月にはパリ協定からの離脱を表明した。正式の離脱は2020年11月4日となり、なんと2020年大統領選挙の翌日ということになる。そして、一連のイラン危機の重要な分岐点にもなったイラン核合意からは2018年の5月に離脱している。2020年1月の危機も、もとを辿ればアメリカの離脱が一つのきっかけとなった。
TPP、JCPOA、パリ協定といずれも多国間の合意であることが共通の特徴だ。共和党保守派の間では、国連をはじめとする多国間の取り組みに対する不信感がとにかく強いが(そしてそれはすべて非合理的だというわけではないが)、トランプ大統領のマルチ外交や多国間国際合意に対する不信感はむしろ「敵意」と表現してもいいほどだ。それはトランプ政権の原理、「アメリカ・ファースト」とそもそも相容れない。さらにこれは論証は不可能だが、「多国間国際合意」という形式そのものが、不動産業を営んできたトランプ大統領のビジネススタイルとは合致しない、という点が指摘される。「差し」で交渉するのとは異なり、多国間交渉ではアメリカの強さがフルに発揮できず、寄ってたかってアメリカを貶めようとする下位の国にいいように扱われてしまう。どうもそうしたイメージがトランプ大統領の頭の中にはあるようだ。トランプ大統領が、これらの合意をしばしば「rigged deal」と形容するのもそのためだ。TPPについていえば、民主党の側、とりわけ民主党左派の間でも強い不信感がある。2020年大統領選挙民主党予備選に出馬しているエリザベス・ウォーレン上院議員やバーニー・サンダース上院議員もTPPのことを「rigged deal」と形容する。しかし、パリ協定やイラン核合意については、民主党の間では強い支持があり、トランプ大統領のような多国間合意そのものに対する原理的な不信感はない。
トランプ大統領がこの三点セットに反対するもうひとつの理由は、おそらくそれがオバマ外交の成果だからだ。前の政権の成果を否定しようとするのはなにもトランプ政権に固有の傾向ではない。しかし、トランプ政権においては、この傾向が肥大化していることが特徴的だ。特にイランとの核合意はオバマ大統領の「対話外交」の集大成であり、トランプ大統領としては、真先に否定したかったことだろう。ポイントは、これが「対話外交」そのものの否定ではなく、オバマ外交の否定であることだ。オバマ大統領は北朝鮮と直接話すことはしなかったが、それゆえにトランプ大統領は金正恩委員長と話すことに躊躇しなかった。
この多国間国際合意の否定は、実は国内政治的にも、さらにいえば選挙戦のロジックとも合致している。TPPはどうか。TPPからの離脱は、自由貿易の恩恵を受けることができずに製造業が疲弊している「トランプ・ワールド(ラスト・ベルト)」ではすこぶる評判がいい。TPPについてトランプ大統領はぶれていない。アメリカ全体としてみると、自由貿易への不信感はさほど強くはなく、むしろその必要性が認識されている。しかし、トランプ政権がこの点を見直すことは考えにくい3。
パリ協定離脱は、そもそも「気候変動」それ自体がトランプ政権において大きく問題視されていないので、離脱は当然といえば当然だが、アメリカが気候変動に関する国際的な取り決めに「屈する」ことによって、過剰な規制にがんじがらめになることを避けたいビジネスやリバタリアン派からの支持を期待できる。
イラン核合意からの離脱については、ともするとトランプ大統領の孤立主義的な傾向に懸念を抱きがちなタカ派からは大絶賛され、大統領の強固な支持母体であるエヴァンジェリカルのイスラエルへの思いに訴えることができる。前者については、トランプ大統領との軋轢を残すかたちで退任したジョン・ボルトン前大統領補佐官(安全保障担当)も絶賛し、数多くのタカ派がこれを支持している。後者については、在イスラエル・アメリカ大使館のテルアビブからエルサレムへの移転が、エヴァンジェリカルの期待に応えたという側面が強いことはよく指摘されるとこだが、イラン核合意からの離脱も、この文脈から理解できる4。
こうしてみると、トランプ大統領の「史上最悪国際合意三点セット」への敵意は、その政治目的に照らし合わせてみるならば、それなりに合理性があることがわかる。トランプ政権は、なりふりかまわずまったく体系性を欠いているように見えるが、このある種の合理性こそが、トランプ政権の強みでもあり、怖さでもある。
(了)
- Carol D. Leonnig and Philip Rucker , “‘You’re a bunch of dopes and babies’: Inside Trump’s stunning tirade against generals”, The Washington Post, Jan 17, 2020, <https://www.washingtonpost.com/politics/youre-a-bunch-of-dopes-and-babies-inside-trumps-stunning-tirade-against-generals/2020/01/16/d6dbb8a6-387e-11ea-bb7b-265f4554af6d_story.html> accessed on Jan 22, 2020.
- John Halpin, Brian Katulis, Peter Juul, Karl Agne, Jim Gerstein, and Nisha Jain, “America Adrift: How the U.S. Foreign Policy Debate Misses What Voters Really Want”, Center for American Progress, May 5, 2019, <https://www.americanprogress.org/issues/security/reports/2019/05/05/469218/america-adrift/> accessed on Jan 22, 2020.
- Dina Smeltz and Craig Kafura, “Record Number of Americans Endorse Benefits of Trade”, Chicago Council on Global Affairs, Aug 27, 2018, < https://www.thechicagocouncil.org/publication/lcc/record-number-americans-endorse-benefits-trade> accessed on Jan 22, 2020.
- David D. Kirkpatrick, Elizabeth Dias and David M. Halbfinger, “Israel and Evangelicals: New U.S. Embassy Signals a Growing Alliance”, The New York Times, < https://www.nytimes.com/2018/05/19/world/middleeast/netanyahu-evangelicals-embassy.html?smid=nytcore-ios-share>, accessed on Jan 22, 2020.