石井正子(立教大学教授)
2016.12.16
  • フィリピン南部

2016年フィリピン総選挙と南部の和平プロセスのゆくえ

1.次政権にもちこされたMILFとの最終和平合意

 2016年2月3日、第16回フィリピン議会は、バンサモロ基本法案の成立を見ずして閉会した。2012年10月15日、フィリピン政府とモロイスラム解放戦線(Moro Islamic Liberation Front:MILF)は、最終和平合意へのロードマップを記した枠組合意(Framework Agreement on the Bangsamoro)に署名した。2016年5月9日の総選挙に合わせて新設される「バンサモロ政府」の選挙を行い、ムスリム・ミンダナオ自治地域(Autonomous Region in Muslim Mindanao)に代わる自治政府を設立する予定であった。しかし、道のりは、想定以上に難関にみまわれた。ようやく、予定より大幅に遅れて両者は2014年3月27日に包括的和平合意(Comprehensive Agreement on Bangsamoro)に署名。9月10日に上院・下院の委員会にバンサモロ移行委員会(Bangsamoro Transition Commission)が起案したバンサモロ基本法案(Bangsamoro Basic Law)が提出された。しかし、2015年1月25日に、国家警察特殊部隊とMILF、バンサモロイスラム自由戦士(Bangsamoro Islamic Freedom Fighters)が衝突し、68名が犠牲になるママサパノ事件が発生 1 。法案成立に対する世論は逆風になった。上院・下院はそれぞれがバンサモロ基本法の代替法案(Basic Law for the Bangsamoro Autonomous Region)を策定した。しかし大幅な修正に、MILFは両代替法案を受け入れられないと表明。選挙戦が本格化するにつれて、法案成立に関心を示さない議員が議会を欠席し、定員不足により審議が一向に進まず、そのまま議会は閉会した。和平プロセスのゆくえは次政権にもちこされることとなった。

2.主な大統領候補者の和平プロセスに対する立場

 2016年5月9日に実施された大統領選に勝利したのは、ダバオ市長のロドリゴ・ドゥテルテ(Rodrigo Duterte)であった。初のミンダナオ島出身の大統領誕生である。大統領選では、南部の和平プロセスが平和治安(peace and order)維持の課題として争点化し 2 、とりわけフィリピン南部では強い関心が集まった 3。アキノIII政権の和平プロセスの継続をうたったのはマヌエル・ロハスIIであったが、現実的な解決能力があると期待されたのはドゥテルテであった。世論調査によると、2016年3月時点ではグレース・ポーが支持率でリードしていたのに対し、4月から5月にかけて一気にドゥテルテが追い越す結果となった 4。ただし、ムスリムの3割が誰に投票するかを投票日直前に決めたという世論調査の結果もあり、実際に人びとがどの程度和平プロセスを重要な争点として大統領を選んだかは、はっきりと示すことはできない 5 。

 では、それぞれの候補者は、どのように和平プロセスを選挙の公約として掲げたのだろうか。敗れた主要3候補者からみてみよう 6 。

マヌエル・ロハスII(Manuel Roxas II)

 アキノIII大統領と同じ自由党から出馬し、内務自治大臣であったロハスは、同政権がMILFと進めてきた和平プロセスを継続する意向を表明した。一方、内務自治大臣在任中、ママサパノ事件が起こったが、作戦開始時に報告を受けなかったことから政治家として信頼されていないのではとの疑念がもちあがった。2008年8月に署名寸前までこぎつけた政府とMILFとのあいだの先祖伝来の領域に関する合意書(Memorandum of Agreement on Ancestral Domain)に反対し、アキノIII政権で主要閣僚をつとめるまで、和平プロセスには積極的ではない人物として知られていた。

グレース・ポー(Grace Poe)
 上院議員として、ママサパノ事件の上院公聴会の議長をつとめ、アキノIII大統領に責任があることを確認したが、責任追及が甘かったとの批判も招いた。ポーは、バンサモロ基本法、バンサモロ基本法代替法案のいずれにも賛成しておらず、2016年2月21日に選挙委員会がカガヤン・デ・オロ市(ミンダナオ島)で主催した大統領討論会でバンサモロ基本法の支持について聞かれたところ、「すべての関係者を含んだ透明かつ包括的で、持続可能な話し合いが必要」と述べることにとどまった 7

ジェジョマル・ビナイ(Jejomar Binay)
 アキノIII政権で副大統領をつとめたビナイは、バンサモロ基本法の全文を読んではいないとその無責任ぶりをさらしつつ、憲法違反の箇所があると反対を表明した 8 。一方で、ムスリムの団体がビナイを支持しているパフォーマンスを行ったり 9、南部での選挙キャンペーン中にはミンダナオやセブにマラカニャン(大統領府)を設立するといい 10、現状のバンサモロ基本法を推し進めるか否かの言及は避けながら、大統領に就任したら、バンサモロ基本法を成立させることを約束した 11 。大統領選終盤には、汚職問題で評判を落とした。

3.ドゥテルテの構想

 ドゥテルテは選挙戦開始後、どの候補者にも先んじて2月27日にMILFのキャンプダラパナンを訪れ、同日コタバト市で演説をした。ドゥテルテは、具体的には1)憲法委員会を設置し、2)政治体制を連邦制に移行させるなかでバンサモロ基本法成立を推進すると表明し、バンサモロの例を連邦制の見本としたいと述べた 12。MILF側は、ドゥテルテのバンサモロ基本法支持を歓迎しつつ、連邦制移行には時間がかかるため、まずは包括的和平合意の実施を優先すべきであると応えた。バンサモロ基本法実現の手続きについて、両者の立場は平行線を保ったまま、選挙日を迎えることとなった。MILFは特定の候補者への支持を呼びかけなかった。

 一方、南部のムスリムが抱える政治的課題や和平プロセスについて、ドゥテルテが他の候補者よりも抜きんでて理解している点はあきらかであった。コタバトでの演説でドゥテルテは「モロに対する歴史的不正義を正す(to correct the historical injustice committed against the Moro people)」と述べた。このフレーズは、MILFが政府に対して政治的解決を要求するために繰り返し訴えてきたスローガンである。大衆に対しては、祖母がモロであり、義理の娘や孫もモロであるといい、親しみやすさを演出することも忘れなかった。
MILFと政府の和平合意からは一定の距離をおいているモロ民族解放戦線(Moro National Liberation Front: MNLF)の初代議長ヌル・ミスアリ(Nur Misuari)を支持する派に対しては、ミスアリを友人と呼び、同じく連邦制移行というかたちでMNLFとの1996年最終和平合意を実現すると言及した。これに対して、ミスアリはドゥテルテに投票するようにとMNLF支持者に呼びかけた 13 。

 結果、フィリピン南部でドゥテルテは圧勝した。ドゥテルテの副大統領候補者はママサパノ事件後にバンサモロ基本法への支持を撤回し、MILFを非難したため、反バンサモロ基本法上院議員であるとMILFから名指しで非難されてきたアラン・ピーター・カエタノ(Alan Peter Cayetano)であったが、ドゥテルテ支持への影響はほとんどなかった。カエタノは落選した。

4.ドゥテルテ政権発足後

 6月30日、ドゥテルテが第16代フィリピン大統領に就任した。就任演説でドゥテルテは、ムスリムと共産党系勢力に対して戦闘停止と和平を呼びかけた。さらに、憲法に抵触する部分を除いたバンサモロ基本法を通過させようと訴えた。 MILFとMNLFとの和平プロセスの大統領顧問(OPAPP)には、ヘスス・ドゥレザ(Jesus Dureza)が任命された。アロヨ政権期にMILFとの政府側の和平交渉団長、および和平プロセス大統領顧問を務めた人物である。

 7月22日、フィリピン政府は新しい和平プロセスのロードマップをウェブサイトで公表した 14 。前日に、ドゥレザがキャンプダラパナンを訪れ、MILFのムラド議長と会談を行った翌日のことである。BTCをより多様なステークホルダーをメンバーとする委員会として再び設置し、2017年7月までに議会に新法案を提出する、というものだ。その間、連邦制移行への準備も進められる。MILFは歓迎を表明しているが、様子見といったところだろう。8月には人員が刷新された政府側和平交渉団とMILF側との会合がマレーシアで行われる予定である。今後のゆくえが注目される。


Notes:

1. [1] 2015年1月25日、ジェマア・イスラミヤのメンバーでアメリカがテロリストに指名したズルキフリ・ビン・ヒル(Julkifli Bin Hir, 別名マルワン)ら2名を掃討するために、国家警察特殊部隊(Special Action Force)がママサパノ(Mamasapano)町の潜伏先を攻撃した。しかし、掃討作戦の情報がMILFに事前通告されていなかったため、同町周囲に拠点をおくバンサモロイスラム自由戦士とMILFが国家警察特殊部隊を攻撃し、交戦に発展した。国家警察特殊部隊44名、MILF17名、一般市民7名が犠牲となった。この作戦には、汚職疑惑のため当時停職中であった国家警察長官のアラン・プリシマ(Alan Purisima)が関与しており、マヌエル・ロハス内務自治大臣への報告や国軍との調整なしに実施されたことが発覚し、大問題となった。上院では、グレース・ポーが議長を務める公聴会が開かれ、アキノIII大統領に責任があることが認められた。しかし、実質的には、国家警察特殊部隊隊長のゲトゥリオ・ナペニャス(Getulio Napeñas)に責任が転嫁された。↑

2. [2] “Election 2016: Agenda of the Next President,” The Philippine Daily Inquirer. http://www.inquirer.net/elections2016/issues(2016年8月8日参照)

3.[3] “Philippine Elections: National and Local,” Rappler. http://ph.rappler.com/local (2016年8月8日参照)

4.[4] “Rappler Pole Monitor,” Rappler. http://ph.rappler.com/elections/2016/polls(2016年8月8日参照)

5.[5] “Do INC Votes Matter?” The Philippine Daily Inquirer. 2016年5月21日 http://opinion.inquirer.net/94838

6.[6] Shahani, Lila Ramos, “Where Do Our Candidates Stand on the BBL?” The Philippine Star, 2016年2月8日。http://www.philstar.com/opinion/2016/02/08/1550762/where-do-our-candidates-stand-bbl; “Election 2016: Agenda of the Next President,” The Philippine Daily Inquirer. http://www.inquirer.net/elections2016/issues(2016年8月8日参照)

7.[7] “The Cagayan de Oro Presidential Debate: Summary and Highlights,” Rappler, 2016 年2月23日。http://www.rappler.com/nation/politics/elections/2016/123307

8.[8] Casauay, Angela, “Binay: Bangsamoro Law should not be Only Option for Peace,” Rappler, 2015年3月2日。http://www.rappler.com/nation/85772

9.[9] Gavilan, Jodesz, “Muslim Coalition: Binay Can Bring ‘True Peace’ to Mindanao,” Rappler. 2016年2月1日 http://www.rappler.com/nation/politics/elections/2016/121000

10.[10] Cayabyab, Marc Jayson, “Binay Vows to Build Malacañang in Mindanao for Decentralization in Government,” The Philippine Daily Inquirer, 2016年2月23日。http://newsinfo.inquirer.net/767622

11.[11] Mateo, “Janvic, Binay Vows Passage of Bangsamoro Law,” The Philippine Star, 2016年4月7日。http://www.philstar.com/headlines/2016/04/07/1570335/binay-vows-passage-bangsamoro-law

12.[12]Cabrera, Ferdinandh B., “Duterte: Pass BBL and Make Bangsamoro an ‘Example’ for the Rest to Follow,” MindaNews. 2016年2月28日。http://www.mindanews.com/peace-process/2016/02/duterte-pass-bbl-and-make-bangsamoro-an-example-for-the-rest-to-follow

[13]Magbanua, Williamor A., “Misuari: Duterte Best Bet for Peace,” The Philippine Daily Inquirer. 2016年3月7日。http://newsinfo.inquirer.net/771271

[14]OPAPP (Office of the Presidential Adviser on the Peace Process), Peace and Development Roadmap for the Bangsamoro Peace Process. OPAPP. 2016年7月22日。http://www.opapp.gov.ph/news/peace-and-development-roadmap-bangsamoro-peace-process(2016年8月8日参照)

MASAKO ISHII石井 正子

(立教大学教授)

関連記事

  • バンサモロ和平住民投票 ‐ 新しく且つ画期的な局面を迎えて

    2018.11.16

    落合 直之 フィリピン南部
    バンサモロ和平住民投票 ‐ 新しく且つ画期的な局面を迎えて

    西サハラ:「行き詰まり」の構図と打開への展望のコピー西サハラ:「行き詰まり」の構図と打開への展望のコピー西サハラ:「行き詰まり」の構図と打開への展望のコピー


  • ドゥテルテ政権:バンサモロ新自治政府設立のための法律成立

    2018.07.28

    石井 正子 フィリピン南部
    ドゥテルテ政権:バンサモロ新自治政府設立のための法律成立

    2018年7月26日、ドゥテルテ大統領がバンサモロ・ムスリム・ミンダナオ自治地域組織法(Organic Law for the Bangsamoro Autonomous Region in Muslim Mindanao, 通称バンサモロ組織法、Bangsamoro Organic Law: BOL)[1]に署名をした。これにより、南部にバンサモロの新自治政府を設立し、MILF(Moro Islamic Liberation Front, モロイスラム解放戦線)との武力紛争を終結する和平プロセスが大きく前進した。


  • マラウィ市街戦:復興と「歴史的不正義」のゆくえ

    2018.03.26

    石井 正子 フィリピン南部
    マラウィ市街戦:復興と「歴史的不正義」のゆくえ

    2017年10月23日、フィリピンのロレンサナ国防長官は、ミンダナオ島・マラウィ市で展開された「マウテ・グループ」との戦闘の終息宣言を発表した。「マウテ・グループ」とは、マウテ家のオマルとアブドゥッラーという兄弟が中心であったためそう呼ばれているが、本人たちは「イスラム国(IS)」と名乗っていた[1]。


  • 新バンサモロ基本法の起草にあたるバンサモロ移行委員会の挑戦

    2018.01.20

    石井 正子 フィリピン南部
    新バンサモロ基本法の起草にあたるバンサモロ移行委員会の挑戦

    2017年2月24日、新たにバンサモロ基本法案(BBL)を起草するために、バンサモロ移行委員会(Bangsamoro Transition Commission: BTC)のメンバーが再編成された。その目的はムスリム・ミンダナオ自治地域に代わる新たな自治政府を設立するためである。BTCは、2017年6月16日にBBLを起草し、7月17日にドゥテルテ大統領に提出した。しかしながら、2017年9月現在においても大きな進展はみられない。