石川 航 (東京外国語大学大学院博士前期課程)
2023.03.30
  • 石川 航
  • ミャンマー

2021年クーデター以降の日本におけるミャンマー民主化運動
在日ミャンマー人は変化したのか

※本記事における見解は筆者個人のものであり、Asia Peacebuilding Initiatives:APBIの公式見解ではありません。

1. はじめに

新議会の招集日であった2021年2月1日に、ミャンマーでは軍事クーデターが発生した。国軍最高位のミンアウンフライン総司令官がアウンサンスーチー国家顧問をはじめとする民主派の閣僚や国会議員らを拘束し、権力を掌握した。それ以降ミャンマーでは、民衆の抵抗運動と軍による弾圧が広がっている。混乱が続く情勢の中、海外に在住するミャンマー人コミュニティからも祖国の民主化を支援しようとする動きが見られ、日本では在日ミャンマー人を主体とした運動が継続的に実施されている。

ここでは、在日ミャンマー人とともにミャンマーの民主化支援活動に参加してきた執筆者が、2021年クーデター以降の日本におけるミャンマー民主化運動がどのように実践されていったのかを紹介した上で、2年近くに及ぶ運動が在日ミャンマー人の中に何を生み出したのかを考察する。

2.日本におけるミャンマー人コミュニティの概要

『在留外国人統計』によれば、2022年6月時点で47,965人のミャンマー人が日本に居住している。1990年前後から、祖国での弾圧から逃れようと来日する民主活動家のミャンマー人が増え始め、在日ミャンマー人の数は2000年までに5000人ほどの規模となった。こうした政治難民たちは日本語や日本の文化に精通していたわけではないため、多くが東京都内に同胞コミュニティを形成して暮らしていた[1]

その後、長きにわたる軍事政権が終わり、2011年に民政移管が起こると、日本・ミャンマー間で多方面での交流が活発化し[2]、多くのミャンマー人が来日した。民政移管前の2010年末時点で8577人であった在日ミャンマー人の数は、2022年までに5倍以上となっている。

民政移管後に来日したミャンマー人たちは20代~30代の若者が多く、来日目的も留学や就業など様々である。在日ミャンマー人の来日目的の中で最も多いとされるのは技能実習であるが、その就労先が日本各地に拡大したこともあり、在日ミャンマー人は日本全国各地に滞在するようになっていった。

 
 

3.在日ミャンマー人の民主化運動の歴史

2021年2月以降、全国各地で在日ミャンマー人による民主化運動が活発化しているが、日本におけるミャンマー民主化運動はけっしてクーデターを機に始まった新しい動きではない。その経緯をたどるべく、梶村[2018]などを参考に、在日ミャンマー人コミュニティの民主化運動の変遷を簡単に整理してみたい。

1988年の民主化運動以降、ミャンマー国内では長きにわたって運動の参加者や家族が軍情報部に監視され、ミャンマーにおける民主化運動は停滞した。一方、弾圧から逃れようと多くの活動家らが脱出したため、世界各国でミャンマー人が急増した。国外に亡命したミャンマー人たちは亡命先で、抗議デモの実施に加え、国外に拠点を置くメディアでのビルマ語放送を通じた情報発信を続け、国際社会や祖国へ一定の影響力を与えてきたとみられる。

日本にも、1980年代末から90年代にかけて、政治的な理由により母国で迫害される可能性の高いミャンマー人が多数入国した。これらの在日ミャンマー人が東京都内に「在日ビルマ人協会」「ビルマ青年ボランティア協会」などの民主化運動や扶助を目的とする諸組織を設立し、在日ミャンマー人コミュニティの礎が形成された。1995年にビルマ・タイ国境を拠点とするミャンマー民主化運動の中心的存在である「国民民主連盟解放地域(NLD・LA)」の日本支部が設立されたことで、日本のミャンマー民主化運動は底上げされ、抗議デモのほか、ロビー活動を通じた日本社会や国際社会への働きかけが強化されていった。

2000年には「ビルマ民主化同盟」、2001年には「ビルマ日本事務所」という民主化組織の連合体が設立されるようになり、今まで各々で活動してきた在日ミャンマー人たちが連絡を取り合うようになった。この頃、民主化運動の担い手となる在日ミャンマー人の大半は、ビルマ(バマー)民族であった。

2003年になると入国管理局(現出入国在留管理庁)・東京都・警察庁による「首都東京における不法滞在外国人対策の強化に関する共同宣言」が発表される。超過滞在で摘発の対象となった在日ミャンマー人が強制的あるいは自主的に帰国したことで、ミャンマー人コミュニティに縮小傾向が見られた。

この頃から、今まであまり政治活動に参加せず、各々の民族でコミュニティを形成する傾向にあった少数民族たちが政治活動に参加するようになり、複数の少数民族グループが相互連帯の動きを見せる。「在日ビルマ連邦少数民族協議会(AUN)」という少数民族の連合体も組織された。

2007年8月にミャンマー本国で市民も合流した僧侶デモとそれに対する弾圧が発生すると、現地の動きに呼応して在日ミャンマー人コミュニティ内でも軍事政権に対する不満がますます高まっていく。この年には、少数民族組織を含む30もの既存団体を束ねる「在日ビルマ人共同行動実行委員会(JAC)」が結成された。この時期になると、ビルマ民族と共にデモ集会に参加する少数民族の姿も多く見られた。

2008年には、大型サイクロン「ナルギス」がミャンマー南部を直撃したことから、被災地支援のためのチャリティーイベントが数多く開催され、ミャンマー人コミュニティの活動が活発化していった。その後、2011年のミャンマー本国における民政移管によって民主化運動の頻度は減っていき、在日ミャンマー人コミュニティの運動は職場の紹介といった同胞扶助を目的とした活動が多くなる。しかし、2021年2月1日に軍事クーデターが発生したことで、彼らは再び祖国の政治に関心を取り戻し、反クーデター運動を軸とした民主化運動が日本各地で広がることになった。

4.2021年クーデター以降の日本におけるミャンマー民主化運動の実践例

クーデター発生後すぐに「NLD日本組織委員会」や「在日ビルマ少数民族協議会」、「在日ビルマ市民民労働組合」など長きにわたって民主化運動を率いてきた組織に加え、民政移管後に日本へ入国した若者たちを中心とする新たな有志グループも多く設立された。以後、1990年代から30年以上にわたって民主化運動を牽引してきた世代(以下、88世代)の活動家と、同年代の在日ミャンマー人のまとめ役として実行部隊となる若者リーダーたちは、民主化運動を語る上で欠かせない2本柱となっている。以下ではつづいてミャンマー人民主化運動の代表的な活動例[3]を紹介する。
 
【要請行動】
まず、ミャンマー人コミュニティが実施する要請行動として代表的なものが「デモ行動」である。彼らはデモ活動を通じて、非人道的な行為を繰り返す軍に対して抗議を行うほか、日本政府や国際社会に祖国の民主化支援を要請する。デモが終了すると、関係機関に対して要請書を交付することも多い。

多くの在日ミャンマー人は、2021年4月に設立されたミャンマーの民主派による対抗政府「国民統一政府(National Unity Government、以下 NUG)」を支持し、日本政府 がNUGを重視せず、ミャンマー国軍との繋がりを優先させようとすることに対して強い怒りと失望感を抱いた。そのため、デモ行動では日本政府に対して、「すべての拘束者解放に向けた働きかけ」や「NUGを政府として承認すること」「国軍を利する可能性が指摘されているODAの一時的な全面停止」などを要求するほか、「ミャンマー軍の弾圧に加担しないでください」といった強い表現が投げかけられることもある[4]

こうしたデモは、国軍の監視下で公務がなされている在京ミャンマー大使館の前や、外務省前・首相官邸前、国連大学前広場などに加えて、新宿・渋谷といった都市部でもおこなわれる。人通りが多く注目を集めやすい場所では歩行デモの形式が取られ、多数の国と地域に住むミャンマー人が同時多発的に開催する「Global Myanmar Spring Revolution」[5]など、若者が中心となって企画するユニークな取り組みも存在する。こうした目立つ行動を実行する際は積極的にマスメディアを招致し、記事として取り上げられることもある(以下 URL 参照)。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/204878
 
その他の行動として「ロビー活動」がある。有志の在日ミャンマー人と日本人支援者が、超党派「ミャンマーの民主化を支援する議員連盟」の協力を得て院内集会でミャンマーの現状を伝えたりするほか、88世代の活動家が長いロビー活動経験の中で親しくなった政治家に個人的にアプローチを取ることもある。
2022年8月1日には都内に「NUG駐日代表事務所」が開設されたため、本国NUGとの直接的なやり取りを含め、今後、より政治的な側面からの運動の活発化が期待される。

【人道支援】
在日ミャンマー人コミュニティが推し進める「民主化運動」には、人道支援を目的とした資金調達や送金活動も組み込まれることが多い。国民一人ひとりの命を大切にすることが祖国の民主化ひいては平和にも繋がるという考えであろう。

人道支援のための資金調達の方法として代表的なものは街頭での募金活動である。2021年5月以降、募金活動を行う有志グループが多数結成され、それぞれが連携を取りながら毎週末に主要駅前広場などで活動を行っている。各々の有志グループの構成員は居住地・民族・職種・在留資格・世代・出身階層など何らかの共通点を持っていることが多い。年齢上の特徴としては、20~40 代前後の比較的若いミャンマー人の参加が目立つ。また、留学生や技能実習生
[6]は比較的少なく、就労ビザや定住ビザを持って、社会人として日本の企業などで働いている人が多い。こうした傾向は、帰国前提の留学生や技能実習生たちの場合、ミャンマーに帰った後に国軍から報復を受ける可能性を恐れるため、運動に参加しにくい側面が関係している可能性がある。

募金活動で集めた寄付金は現地の人道支援に充てられる。活動初期は、軍政に抗議してボイコット(市民不服従運動)をしている公務員の生活支援がメインであったが、ある段階から国軍による空爆や放火から逃れて国内避難民となった人びとに対する食糧・医療支援に充てられるようになった。国内避難民支援は現地のパートナー団体を通じて行われる。タイなど海外の銀行口座に送金することで、パートナー団体がその金で必要な物品を購入し、国境を超えて避難民のいる場所へ物資を供給するというルートが開拓されている。

その他、ボランティアのスタッフによるミャンマー料理のチャリティーレストラン「スプリングレボリューション」
[7]の開設や、模擬店や伝統文化のステージパフォーマンスが楽しめる「水かけ祭り」「ミャンマー春まつり」といった大規模イベントの開催など、様々な企画を実現し、その収益を現地支援に充てている。このような取り組みは、現地への人道支援だけでなく、日本国内でミャンマー問題への関心が高まることも目的としているため、日本人向けの広報や日本人協力者との連携も図られる。

5.2021年クーデター以降の日本におけるミャンマー民主化運動の課題

2021年クーデターから2年ちかく経過する中で、日本におけるミャンマー民主化運動の今後の課題も見えてきた。

まずは、ミャンマー情勢が長期の悪化し、それが硬直化していることの影響である。在日ミャンマー人の間でも疲れや心身の不調が見られ、デモや募金活動に参加する人数が減ってきている。日本での報道が大幅に減ったこともあってか、日本人のミャンマーに対する関心の低下も否めず、1回の街頭募金で集まる額が減少傾向にある。一方、現地では国内避難民(IDP)の数が増え続け
[8]、支援のニーズは高まる一方であるというジレンマを抱えている。

次に、在日ミャンマー人の間での不調和も存在する。他の政治運動と同様、派閥や個人同士の関係悪化が発生することもあるほか、異なる世代や民族の間で友好関係を築くことが難しいケースがある。本国で民主化運動を経験し日本で30年以上にわたって活動を続けてきた経験と自負を持つ88世代の人々と、民政移管後に自身の夢やキャリアの実現を求めて来日した若者世代では、同じ運動を行うにしても異なる価値観が顕在化する部分がある。若者世代が中心となって進めていく運動に対して年長者から否定的な声が上げられたり、若者世代が年長者からの忠告や指摘に不快感を示したりするなどの状況が垣間見られ、在日ミャンマー人全体としての連帯が困難な側面も生まれている。

また、多民族国家ミャンマーでは、民族間の相互関係が複雑である。一般的に、国民の大多数を占めるビルマ民族による中央集権的な政府によって、少数民族は不平等な扱いを受けてきたとされる。こうした歴史から、少数民族たちはビルマ民族に対して良い印象を持っておらず、ビルマ民族のほうも少数民族に差別意識や脅威認識を持つ傾向がある。昨今の日本での民主化運動では、少数民族のグループと多数派のビルマ民族のグループが協力関係を持ったり、様々な民族が一つの同じグループに所属したりと連帯の風潮が強まっていると言えるが、ビルマ民族の一部からは今でも、少数民族に対する理解や配慮に欠ける言動が見られることがある。少数民族側もこれまで差別されてきた経験からビルマ民族への不信感が残っており、1990年代からあった「ビルマ民族が民族融和をアピールするために自分たちを民主化運動に利用しているのではないか」といった、ビルマ民族主導の民主化運動に参加することへ懐疑的な声が現在でも聞かれる。このように両者の溝は埋まったとはいえない現状がある。

 

6.2021年クーデター以降の運動が生み出したもの

2021年2 月のクーデターを機に展開された運動では、2011年のミャンマー民政移管後に来日した比較的若い世代が草の根レベルでのその中心を担ってきた。彼らの多くは、少数民族問題などに対して多様性を尊重するリベラルな価値観を有している。こうした若い世代のリーダーを、経験と知識が豊富な88世代の民主活動家らがサポートしながら民主化運動を進めていくことで、前章で指摘したような世代間や民族間の壁を乗り越えようとする機運が高まっているのも事実である。

本国の対抗政府である NUG が少数民族を数多く含めた閣僚構成に基づき、多民族協 調を基盤とする「新しい連邦制」を目指しているように、在日ミャンマー人の民主化運 動でも少数民族を尊重し自治権を認めようとする傾向が強くみられる。2022年11月には多民族多文化を堪能できる大型チャリティーイベント「多民族フェスティバル」が都内で開催されるなど、画期的な取り組みがなされている。

また、インターネット空間の拡大によって、Facebook
[9]などを通じて集まった日本全国に住む在日ミャンマー人が、日本人支援者や現地のミャンマー人を交えて、情報共有を目的としたオンラインコミュニティを形成している。さらには、民政移管後、ITスキルや日本語能力に長けた人々も多く来日しているため、クラウドファンディングの実施や支援金調達のためのゲームアプリの開発など、デジタルスキルや日本人とのコネクションを活かしたバリエーション溢れる活動の展開が可能となっている。一連の運動を通じて女性の若者リーダーが多く誕生したことも、こうした流れと相互関連があるのかもしれない。ジェンダーという観点から見ても、在日ミャンマー人による民主化運動には特徴的な要素が数多く見られ、その視点からの理解も深めていく必要があるだろう。

一方、こうした外部から見えやすい変化だけでなく、クーデター後の一連の民主化運 動は、在日ミャンマー人の内面にも大きな影響を与えているといえる。しばしば、周囲の在日ミャンマー人から、「クーデター以降、日本にいるミャンマー人同士の繋がりが増えた。/仲間が増えた」という声を耳にする。1990年代から民主化運動に参加している在日ミャンマー人たちの場合は、一般的に2021年以前から在日ミャンマー人コミュニティに溶け込んでいる人々が多いとされる。また、日本で生活や就業に困難を抱えているミャンマー人の若者たちも、88世代の人々などからの支援や職業紹介を頼りに暮らしているために、元々在日ミャンマー人コミュニティとの繋がりを持っているケースが多い。一方で、民政移管後に留学や就業で来日し、日本社会の中で居場所を確保している在日ミャンマー人たちの中には、同胞コミュニティに「頼る」必要性がなく、日本でミャンマー人の知り合いが少ないという場合も多かった。「ミャンマーが好きでなかった」「自分からはミャンマー人であることは名乗らず、ミャンマー人コミュニティからも意図的に遠ざかっていた」という声すら聞いたことがある。

しかし、こうした人々も、2021年クーデター以降、「自分の家族や知人が心配でミャンマーのことを常に考えるようになった」「民主化運動に参加して、ミャンマー人の仲間と会うことで、心が落ち着く」と語るようになっている。クーデターの発生を契機とした民主化運動への参加は、在日ミャンマー人が祖国への想いをより強く持つようになったり、同胞との繋がりやコミュニティを拡大させるきっかけになったりしたのではないかと考えられる。言い換えれば、「ミャンマー人」もしくは「在日ミャンマー人」としてのアイデンティティが希薄であった人々の中に、2021年2月以降の民主化運動によって自らのミャンマー人アイデンティティを思い出し、強めていった人も多いのではないだろうか。「2021年2月以前は、ミャンマー人であることがコンプレックスであり、あまり名乗りたくなかった」と語ってくれた人は、クーデターの発生以降、日本人にミャンマーのことを知ってもらうために、自分がミャンマー人であることを積極的に公表するようになったという。

一方で、安全面の懸念や政治理念など様々な事情によって民主化運動に参加しない判断をした在日ミャンマー人や軍政と繋がりを持つ人々は、2021年2月以降、在日ミャンマー人コミュニティから意図的に距離を置き、非難を浴びぬよう身元を明かさず暮らしている。そのことも忘れてはならない。

クーデター後の日本におけるミャンマー民主化運動のもうひとつの特徴は、在日ミャ ンマー人の民族意識の変化に影響を与えている可能性が見られることである。日本に住む多くのビルマ民族の人々は今回のクーデターによって軍の残虐性を再認識し、長らく軍に抵抗を続けてきた少数民族に対して同情や共感を持つようになった。デモのシュプレヒコールでも「民族団結」が強調されるなど、ビルマ民族と少数民族の連帯は、もはや今のミャンマー民主化運動の中では前提となっている。これまでの民主化運動では、少数民族地域の情報が一般的な在日ミャンマー人の間で共有されることは少なかったが、現在はSNSの普及によって、民族地域での軍による凄惨な攻撃の状況をリアルタイムで把握できる。こうした側面もビルマ民族による他民族理解を促進したのではないかと考えられる。

また、日本において2003年ごろから地盤が作られてきたビルマ民族と少数民族との連帯の動きが、若い世代のビルマ民族と少数民族双方のリーダーたちによって一気に加速した側面もあるだろう。日本に住むビルマ民族の中には 2021 年クーデ ター前に少数民族と接する機会がほとんどなかったという人もいるが、その人は民主化 運動を通じて交流が深まることによって少数民族の考え方や文化が理解できるようにな ったという。その結果、現在、ビルマ民族によって構成されるグループの多くは、集めた寄付金を少数民族地域の国内避難民に積極的に送金している。

こうした運動による連帯を通じて、次第に少数民族側もビルマ民族に対する信頼感を強めていっている可能性がうかがわれる。一般的に少数民族は自民族への強いアイデン ティティに基づき、「ミャンマー人(ミャンマー国民)」としての上位アイデンティティ をあまり持っていない人も多いといわれている。このことは、日本に在住する少数民族にも当てはまることが多く、日本人と会話する際に、分かりやすく「ミャンマー人」という言葉を便宜的に使うことはあっても、基本的に「○○民族」であることを強調し、同じ民族同士で同胞コミュニティを形成してきたのが常であった。

しかし、2021年2月以降、多くの少数民族がミャンマーという国全体の動向に関心を持つようになった。2021年以前の民主化運動では、少数民族は集めた寄付金を自分たちのルーツである民族地域(故郷など)に送金することが多かったが、今回の民主化運動では、少数民族グル ープが集めた資金の送金先は、自分たちの民族地域以外にも広がっている。デモではビルマ民族と共に「ミャンマーの民主化を支援してください」と声を上げるなど、これまでよりもミャンマー全体の民主化を積極的に支援しているといえる。

この背景には民主化運動の形態の変化が大きいと考えられる。長く民主化運動に関わってきた少数民族の人の話によると、以前の民主化運動では、彼らが活動に参加してもビルマ人から「少数民族」と大きく括られて見られてしまいがちで、「○○民族」としての伝統やアイデンティティを尊重されることは少なかったという。現在は、以前よりも民族の多様性を尊重する形で民主化運動が実施されているので、自民族の尊厳が守られているという安心感があり、民主化運動に参加しやすくなったようである。運動自体のこのような変化を通じて、少数民族の自己認識の中に、自民族アイデンティティに加えて、ミャンマー人(ミャンマー国民)としての上位アイデンティティが重層的に形成されつつあることが指摘できる。

 
 

7.おわりに

本論考稿では 2021 年 2 月以降の在日ミャンマー人によるミャンマー民主化運動の事例紹介や考察を行いつつ、民主化運動が在日ミャンマー人の内面に及ぼした変化について推察をおこなった。

一連の運動を通じて、ビルマ民族と少数民族との関係が全てのケースで必ずしも良好になったとは言えない。共に活動を行っているからこそ対立や分裂が明確になってしまうこともある。また、少数民族と一括りにしても、それぞれのビルマ民族との歴史的関係性や民主化運動に対する向き合い方は様々である。特に日本にも群馬県館林市を中心に260人ほど在住しているロヒンギャの人々との向き合い方は、在日ミャンマー人の民主化運動において今後の大きな課題であると言える。

2021年3月には、在日ビルマロヒンギャ協会代表と在日ミャンマー市民協会理事が共同で会見し協力する姿勢を見せるなど、これまでにないほどの前進を見せているが、現在も在日ミャンマー人からロヒンギャの人々に対する事実とは異なる見解を耳にすることがある。内的規範としては融和や団結を理解していても、なかなか今までに培った価値観や偏見を取り除くことは困難であると言えるだろう。

しかし、それでも在日ミャンマー人たちは様々な困難を乗り越えて、ミャンマーの未来を切り開こうと奮闘している。この民主化運動を彼らは「春の革命」と呼ぶ。2021年2月1日以前に戻そうとしているのではなく、新たなミャンマー連邦を自らの手で作り上げようとしている。そこに大事な目的意識がある。その姿を見た多くの日本人支援者は、「ミャンマーの人達から勇気をもらった/学ばせてもらっている」と口にする。長いミャンマー民主化運動の歴史の中でも画期的ともいえるこの2年間の取り組みと実績、そして祖国のために全力を尽くす人々の想いは、ミャンマーの未来を明るく照らす光となりうるだろう。

日本人として、また日本政府として、彼らの要求をどのような姿勢で受け止めるべきであろうか。多くの在日ミャンマー人たちは、日本という国を信頼してやって来た。「春の革命」を成功させるためにも、日本とミャンマーが国家と国民双方のレベルにおいて友好関係を再構築し、それを維持・発展させられるか否かは、我々の選択にかかっている。

 

[1] 当初は中井駅(西武新宿線)付近がコミュニティの中枢であったが、1990年代後半あたりから高田馬場駅周辺で暮らすミャンマー人が多くなっていった。ミャンマーレストランや食材店が多く存在する高田馬場は「リトルヤンゴン」と呼ばれることもある。
[2] 2011年に立ち上がったテインセイン政権は海外就労政策を打ち出し、2016年に与党となったアウンサンスーチー氏率いる「国民民主連盟(National League for Democracy、以下NLD)」もこの政策を引き継ぐ形となった。
[3] 執筆者は主に東京都内の運動を参与観察しているため、都内の事例を中心とする。
[4] 写真①参照
[5] 写真②参照
[6] 技能実習生と留学生が在日ミャンマー人の半数を占めると言われている。
[7] 写真参考
[8] UNHCRの報告によれば 2022年12月段階で114 万人。
[9] ミャンマー人のソーシャルネットワーキングにおいて、Facebook利用者は圧倒的な多さであり、在日ミャンマー人社会にもその傾向が当てはまる。一方、ミャンマー本国でクーデター発生直後のFacebook利用制限が発生し、その他のSNSに流入した動きや、日本人に向けた有効的な発信という側面から、Twitterなども日本での運動に活用されている。

<参考文献>
梶村美紀. 2018.『「ビルマ系日本人」誕生とそのエスニシティ』風響社.
人見泰弘. 2022. 「2021 年軍事クーデター直後の滞日ビルマ人の 政治的トランスナショナリズムの諸相―社会イノベーションの視点を手掛かりに」『社会イノベーション研究』17(2): 11-20.

WATARU ISHIKAWA 石川 航 (東京外国語大学大学院博士前期課程)

東京外国語大学大学院博士前期課程

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