根本 敬(上智大学総合グローバル学部教授)
2015.09.09
  • ミャンマー

ロヒンギャー問題を考える

1 現状

ロヒンギャー(Rohingya)はビルマ(ミャンマー)のラカイン州(Rakhaing State)北西部に住む、イスラム系少数民族である。ラカイン州はビルマ西岸部に位置し、その北西部はナーフ河(Naaf River)をはさんで、隣国バングラデシュと国境を接している。1970年代末と90年代初めの2回にわたって、そのバングラデシュへ難民となって大量に流出したことでロヒンギャーは国際的に知られるようになった。難民の多くはその後、故郷に戻ったが、バングラデシュ最南部のテクナフ(Teknaf)からコックスバザール(Cox’s Bazar)あたりには、現在も難民キャンプが複数残っている。いまや難民キャンプ内で生まれ育ち、成人になった者も少なくない。

1990年代初頭の2回目の大量難民流出後、バングラデシュとビルマ両国政府による国境警備が強化されたため、ロヒンギャーが陸伝いでバングラデシュへ脱出することは難しくなった。そのため彼らは陸上ルートをあきらめ、船でマレーシアやインドネシアを目指す水上ルートを選ぶようになった。

2015年5月、数千人にのぼるロヒンギャー難民が乗った複数の木造船が、どの国からも受け入れを拒否されたまま海上を漂流する事件が発生し、世界中を驚かせた。この背後には悪質な難民「ビジネス」が存在していた。タイの不法組織がロヒンギャーに目をつけ、彼らから金を集め、密かに木造船に乗せてタイ南部に向かわせ、上陸後は陸上ルートでマレーシアやインドネシアへ誘導して利益をあげていたのである。ところが、タイ政府による取り締まりが強化され、組織が動けなくなると、上陸させた難民が邪魔になり、彼らを殺したり置き去りにする事態が生じた。必然的に海上の人身売買ルートも滞り、難民が船で漂流する事態へと至った。

難民たちの上陸希望先であるタイ、マレーシア、インドネシアの3ケ国は受け入れをかたくなに拒否し、問題は深刻化した。しかし、同年5月29日に17か国とオブザーバー2か国が参加する国際会議が開催されると、マレーシアとインドネシアは一年の時限つきで難民を保護することを一転して受け入れた。もっとも、これで一件落着したわけでは全くない。重要な課題はすべて先送りされた状況にある。

第一に、関係するどの国も、この問題について責任を負おうとする意欲を有していない。難民に「やって来られた」側の苦しい事情は想像できるが、それを考慮しても、人身売買組織による難民の大量殺害が起きたタイやマレーシアは、その責任の重さに比して、漂流する難民への対応が冷淡に過ぎた。第二に、最大の責任を問われるべきビルマ政府の無責任さが突出している。ビルマは前述の国際会議に当初は参加の意思すら示さず、「これは人身売買問題であり、我が国に関係はない」という態度をとった。さすが無関与では済まされないことを認識し、会議そのものには参加したが、ロヒンギャーという名称を参加国に使わせず、あくまでも「海上を漂流している難民はバングラデシュ人である」という主張を貫き、自らの責任を最後まで認めなかった。

こうしたビルマ政府のロヒンギャー排除の態度は、同国の世論に支えられており、それは1970年代から一貫している。独立後の一時期こそ、政府がロヒンギャーの存在を認めたこともあるが(後述)、その後50年以上はバングラデシュからの「不法移民」という認識を貫き、土着の民族として認めず、国籍も付与せず、「ベンガル人」(ビルマ語発音でBengali)という呼称を用い続けている。一方のバングラデシュ政府も、ロヒンギャーを自国民とは認めず、ビルマに属する民族集団だと主張する。こうしてロヒンギャーは両国から排除されているのである。

ビルマ側のロヒンギャー排斥感情には、ビルマの土着民と比較して、彼らの肌の色が黒く、顔の彫りが深いこと、ビルマ語を上手にしゃべれないこと、そして何よりもムスリム(イスラム教徒)であることが含まれている。それもとりわけ保守的なイスラムを信仰する集団としてみなされ、これらが「ベンガル人」や「不法移民」であることの「証拠」とされている。

2012年6月にラカイン人仏教徒によるロヒンギャー襲撃事件が発生すると、彼らの「保護」を名目に、ビルマ政府はラカイン州北部シットウェーにゲットーのような隔離空間をつくり、そこに多くのロヒンギャーを閉じ込めた。ほかのロヒンギャーに対しても、ラカイン州西北部から外への移動を厳しく禁じている。この状況は2015年7月現在も続いており、ロヒンギャーは未来への展望が切り開けないのみならず、栄養不足や不衛生な環境に苦しみ、子供たちは教育を受けられない厳しい現状に置かれている。

ラカイン州のロヒンギャ難民(写真:英国外務省) flickr stream

2 ロヒンギャーの歴史

ところで、ロヒンギャーとはどのような民族で、いかなる歴史を有しているのであろうか。謎の多い民族ではあるが、可能な範囲でその歴史について考えてみることにしたい。

「名乗り」としてのロヒンギャーは、文書史料の上では1950年までしか遡れない。18世紀末の1799年に、英国東インド会社に所属したスコットランド人医師のフランシス・ブキャナン=ハミルトン(Dr. Francis Buchanan-Hamilton)が、ベンガル地方を経由して当時のビルマ王国(コンバウン朝 Konbaung Dynasty)を訪問した際、「ルーインガ(Rooinga)」なる人々がラカインにいたことを書き残している。だが、この「ルーインガ」が現在のロヒンギャーと同一の集団かどうかは定かでない。彼は多才な医師だったが、専門はあくまでも医学であり、言語学者や民族学者ではなかった。彼以外の西洋人が書いた文献に「ルーインガ」は登場しないので、判断は難しいと言わざるを得ない。

一方、海外に散るロヒンギャーの知識人たちは、自分達の歴史を8世紀にまで遡って解説する。しかし、7世紀にアラビア半島で成立したイスラム教が、わずか100年ほどで遠いミャンマー西海岸にまで伝播したとは考えにくい。インドにイスラムが伝播したのですら、9世紀のことである。

その後、この地で15世紀前半から18世紀後半まで栄えたアラカン王国Arakan Kingdom(ムラウー朝 Mra-U Dynasty、1430-1785)では、仏教徒と共にムスリムも居住していたことが知られている。この王国は仏教王朝だったが、初代から11代目までの王は、ベンガル湾でムスリム商人と交易する際にイスラム名を名乗るほど、イスラムやムスリムに寛容だった。王宮内に役職を持ったムスリムがいたことも史料で跡づけられる。王国内のムスリムは、捕虜で連れてこられた者たちの子孫や、傭兵たちとその家族などから成った。この時代、仏教徒とムスリムのあいだに宗教的対立は見られない。ちなみに王国の都はムロハウン(Mrohaung)といい、前述のロヒンギャー知識人たちは、ロヒンギャーの語源「ロハン」(Rohang)はこの都の名前に由来すると主張する。

アラカン王国が1785年にビルマ王国の侵略によって滅亡すると、この地では40年ほどビルマ民族による統治がなされ、それを嫌ったムスリムがベンガル側に逃げた(ラカイン人仏教徒も一部が逃げている)。しかし、その後、状況は一変する。1824年に第一次英緬戦争(First Anglo-Burmese War)が起き、1826年にビルマ王国側の敗戦によってラカインが英国の植民地と化すと、ベンガル側から大量のムスリムが移住を開始し、数世代を経て定住するに至ったからである。

この急激な移民の流入は、ラカイン人仏教徒とムスリムとの共存関係を崩した。20世紀に入ると両者の対立は深まっていく。1886年に全土が英領となったビルマでは、首都ラングーン(ヤンゴン)にも多くのインド系移民が流入した。彼らはヒンドゥー教徒やムスリムを問わず、下層労働者として移住したが、その多くは3-4年ほどでインドに戻る短期移民だった。これに対し、ラカイン北西部に移民したムスリムは定住移民となって土着化し、そのことゆえに仏教徒との軋轢が強まっていったといえる。

(地図:PANONIAN、Wikimedia Commons)

第二次世界大戦期には、仏教徒とムスリムの対立はいっそう悪化する。この地に侵攻した日本軍が仏教徒ラカイン人の一部を武装させ、英軍によって武装化されたムスリム勢力と戦わせたからである。両者は日英の戦闘とは別の次元で、「宗教戦争」を展開するに至り、その結果、ラカインにおける仏教徒とムスリムの対立は、取り返しのつかない地点にまで達してしまう。

戦後、1948年にビルマは独立する。しかし、当時の東パキスタン(現バングラデシュ)と国境を接するラカイン州北西部は、1950年代初頭まで中央政府の力が充分に及ばない地域として残された。東パキスタンで食糧不足に苦しんだベンガル人ムスリムが新たにラカインに流入し、仏教徒との対立が激化していった。そのなかにはパキスタン人に率いられたムジャヒディンを名乗る武装反乱勢力も存在した(1960年代初頭にビルマ軍によって鎮圧)。この間、この地域に住むムスリムの総称として「名乗り」を挙げたのがロヒンギャーである。

現在、ロヒンギャー名を付した文書として最も古く遡れるものは、1950年に彼らがウー・ヌ首相(Prime Minister U Nu)に宛てた手紙である。同首相がラカイン北西部のマウンドー(ロヒンギャーが集住する町)を訪問した際、「北アラカン(ラカイン)在住ロヒンギャー長老団」(the Rohingya Elders of North Arakan)の名前で、2頁から成る文書を手渡している。これ以前にもロヒンギャー名が使われた可能性は否定できないが、いまのところ確実な史料はみつかっていない。ビルマの宗主国だった英国側の公文書(行政文書)には、チッタゴン人(Chittagonians)という表記が圧倒的に多く、ロヒンギャーないしはそれに近い発音(スペル)の名称は登場しない。

ロヒンギャーを「名乗り」はじめた時期のあいまいさと共に、アラカン王国期からの居住者と英領期のベンガルからの流入移民、そして独立前後の新規移民の三重の層から成るこの地域のムスリムが、実際どのように混ざりあい、いかなる理由からロヒンギャー・アイデンティティを抱くように至ったのかも、実は明らかにされていない。しかし、この「謎」が解けないと、ビルマ国内の多数派世論が信じる「ベンガルからの不法移民」というレッテル貼りはおさまらないであろう。彼らは上述のムスリム移民の三重の層のうち、戦後すぐの3回目の「ムスリム移民の層」にだけ注目するからである。あたかも、それ以前にムスリム移民はいなかったかのような記憶を有しているのである。

興味深いことに、独立後のビルマ政府は一時期、ロヒンギャーを受け入れようとしていた。この事実は忘れられがちである。独立後のビルマ議会(下院)には、ラカイン北部のアキャブ北選挙区から当選した2名のムスリム議員がいた。名前はスルタン・アフメド(Sultan Ahmed)とアブドゥル・ガファル(Abdul Ghaffar)といい、独立後の与党である反ファシスト人民自由連盟(Anti-Fascist People’s Freedom League, AFPFL)の議員として活動した。この両名が自らをロヒンギャーとして名乗ったかどうかは明らかでない。しかし、与党議員だったこともあり、ビルマ政府は彼らの主張に配慮して、ラカイン北西部のムスリムを保護すべく、ロヒンギャーが多く住むブーティーダウン市やマウンドー市が含まれるマユ(Mayu)地方を中央政府の直轄支配地にして、仏教徒ラカイン人が干渉できないようにすることを考えた。また、1950年代後半には、ロヒンギャー語(正確にはベンガル語チッタゴン方言の一部)による短波放送も時間限定で許可した。

こうしたロヒンギャーへの配慮は、1962年にビルマ国軍がクーデターでウー・ヌ首相から権力を奪うと姿を消す。「ビルマ式社会主義」(Burmese Way to Socialism)の名前で強引な中央集権化を推し進めた新政権は、ロヒンギャーに対する排除の論理を強めた。これを支えたのが国内の仏教徒だった。英領期に台頭したこの国のナショナリズムは、ビルマ民族の中間層に担われ、そこでは「ビルマ語」と「上座仏教」が強調され、独立後も多くのビルマ国民はその影響を受けた。そのため、ビルマ語や上座仏教と縁のない人々は、多数派のビルマ人仏教徒から軽視され、時に排除の対象とされる雰囲気が国内に定着した。とりわけ、移民のムスリムから成るロヒンギャーに対する排斥感情は強まり、このことがロヒンギャー問題の解決をいっそう困難にしていった。

数週間海を漂流していたロヒンギャの少女がアチェの漁師に救助された。 (写真:アンリ・イスマイルのフォトエッセー「The Rohingya in Aceh」より) @ Kyoto Review of Southeast Asia

3 解決への糸口

ビルマ国内のロヒンギャー排斥の世論は、英領植民地期に強まったインド人移民への排斥感情を基としている。その上に乗っかるように、ムスリムがビルマで人口を増やそうとしているのではないかとみなす仏教徒側の恐怖心が重なり、さらに肌の色や顔つきの異なりなどを理由とする人種差別的な感情も覆いかぶさった。こうした恐れや感情を、魔術師のようにビルマ国内から短時日に消去することは、まずもって不可能である。複雑に絡まってしまった糸を一つずつほぐしていくような、時間のかかる地道な作業が必要とされる。

皮肉な話ではあるが、2011年3月に軍事政権から「民政」に体制が変化した後、この国では言論の自由が認められるようになり、宗教的な言説も「自由化」され、一部の過激な仏教僧侶がイスラムを攻撃する説法(事実上のヘイトスピーチ)を行うようになった。この種の説法は軍事政権期には治安を乱すものとされ、僧侶であっても投獄された。しかし、いまはそのようなことはない。宗教の政治利用は憲法で禁じられているが、ヘイトスピーチ同然の説法への取り締まりは殆どおこなわれていない。したがって、仏教徒の中にはそうした悪質な説法の影響を受け、時にムスリムを襲うような行為に走る事態が国内で生じている。国内メディアも多数派世論を意識し、僧侶らの反イスラム説法の問題を批判的にとりあげることを躊躇している。

現実を見れば見るほど、ロヒンギャー問題の本質的解決への糸口はみつからなくなる。純粋な人権問題として認識する国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)やいくつかの国際NGOが彼らに対する物質的な支援をおこなってはいるが、そのような援助行為すら、ビルマ国内の多数派仏教徒から反感を買っているのが現実である。

一方で、この国では政治活動とは異なる次元で、市民社会形成に向けた地道な活動がはじまっているのも事実である。それは暗闇にあって遠い先にかすかに輝くロウソクの明かりのようなものにすぎない。それでも民族間や宗教間の対話や、相互の対立の融和に向けた動きが、少しずつではあるが、市民の間で広がりをみせつつある。それはこの国を覆う閉鎖的な(排斥的な)ナショナリズムから国民を解放しようとする運動でもある。

たとえば、元学生運動指導者で政治囚として長期にわたる獄中生活を耐え抜いたミンコーナイン(Min Ko Naing)が展開する運動がある。彼は1988年に生じた全土的民主化運動の際、学生運動のカリスマ的指導者として活躍し、アウンサンスーチー (Aung San Suu Kyi)に次ぐ国民的人気を誇った人物だった。それだけに軍事政権による封じ込めは徹底的で、通算20年も政治囚として投獄された。それでも不屈の抵抗を貫いた。しかし、2012年に刑務所から最終的に解放されると、彼は政党政治にいっさい関わることなく、市民活動家としてビルマにおける市民社会形成のために多くの人々や団体とゆるやかに連携し、憲法改正を求める国民運動の展開や、宗教間・民族間の対話の試み、幅広い文化的活動に力を入れ現在に至っている。

少数民族カチンの女性であるラーパイ・センロー(Lahpai Seng Raw)が率いる活動も注目に値する。彼女はビルマ最大のNGO「ミッター開発財団Metta Development Foundation」の創始者であり、軍事政権の時代から国境地帯の少数民族を対象に、所得創出のための職業訓練や、幼稚園の設置と運営に尽力したほか、国内避難民(IDP)や難民の支援に関わってきた。2013年にはアジアのノーベル賞にあたるマグサイサイ賞を受賞している。彼女も政党政治から距離を置きながら、ビルマにおける市民社会形成に地道に力を注いでいる活動家の一人である。

アウンサンスーチーが敢えて政党政治の世界に入って行ったなかで、ミンコーナインやラーパイ・センローのような人物がその外側で市民社会形成を目指し、市民の目線に基づく地道な努力を日々続けている姿は、現代ビルマの「政治の風景」の注目すべきひとこまだといえる。たとえどんなに時間のかかる作業であるとしても、私たちはそこにロヒンギャー問題の解決の糸口がいずれ見えてくることを期待したい。ビルマ国民が閉鎖的なナショナリズムから解放されない限り、この問題は解決に向かわないのである。

KEI NEMOTO根本 敬

上智大学総合グローバル学部教授

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