松野明久(大阪大学大学院国際公共政策研究科)
2018.02.22
  • 平和構築全般

西サハラ:「行き詰まり」の構図と打開への展望

交渉の「行き詰まり」

 1975年にスペインからの独立過程にあった西サハラを隣国モロッコが侵攻し、以来占領し続けている問題で、国連はモロッコ政府と西サハラの独立運動組織ポリサリオ戦線(以下ポリサリオ)と協議を続けてきた。1991年には、国連安保理が、両者の停戦合意を受け、当時のアフリカ統一機構(OAU)と協力して西サハラで住民投票を実施することを決定し、国連西サハラ住民投票派遣団(MINURSO)を組織した。これで紛争は解決するかに思われた。

 しかし、住民投票は現在まで実施されていない。MINURSOは西サハラに事務所を構えて停戦監視を行っているが、有権者の資格をめぐって折り合わず、交渉は「行き詰まり(impasse)」に陥って久しい。最新の安保理決議2351号(2017年4月)は、「国連憲章の原則と目的にそった解決を図る中で、西サハラ人民に自決の機会をもたらすことになる、公正で永続的、かつ双方に受け入れられる政治的解決」を求めるとしている。しかし、現状ではこれらの条件を満たすことはほぼ不可能に近い。モロッコは西サハラを自国の領土だと主張しており、したがって「西サハラ人民の自決を実現する」解決策、すなわち住民投票を受け入れない。一方、国連にとって民族自決はゆずれぬ原則であり、すでに西サハラで住民投票を行うことを決定している。今更それは撤回できない。さて、どうするか。

問題の構図

 まず、40年以上続くこの問題の構図を見てみよう。モロッコは17世紀以来続くアラウィー朝の王を国家元首とする立憲君主制の国であり、国王の権限は大きく君主制批判は許されない。モロッコはフランスとスペインの保護領として分割された歴史をもち、大モロッコ主義の思想とも相まって、植民地境界線を重んじる第二次大戦後の非植民地化の原則を必ずしも受け入れていない。アルジェリア南西部をめぐってアルジェリアと戦闘を交わしたこともあり、今なおスペイン領であるジブラルタル海峡に面したセウタやその東にあるメリーナの返還を求めている。

 西サハラへの領土的主張の背景にはモロッコのこうした「失地回復への夢」がある[1]。しかし国際司法裁判所の勧告的意見は、モロッコのスルタンと西サハラの諸部族の間に一定の法的関係はあったものの、領土的主権を主張できるような関係ではなかったとして、モロッコの主張を退けた。1975年10月16日のことである。それから2週間後、モロッコは「緑の行進」と称して35万人の住民を動員し西サハラに攻め入った。

 このあからさまな侵攻に対して安保理はただちにモロッコ軍の即時撤退を求めた。しかし、米国とフランスを後ろ盾とするモロッコは西サハラを自国の領土だとして譲らない。米国の世界戦略にとってジブラルタル海峡に面するモロッコの安定は重要で、冷戦時代は同盟国となり、イスラエルに融和的なその外交スタンス、対テロ戦争におけるパートナーシップも重要だ。フランスにとってのモロッコは西アフリカにおいてフランスの利益を代弁してくれる重要な国であり、経済的な結びつきも深い。安保理においてモロッコ批判の決議が上がらないのはこの二国の動きによるもので、近年MINURSOに人権監視のマンデートを加えようという声も上がっているが一向に組み入れられない。

 モロッコの強気を示すエピソードに、2016年3月、当時のバン・キムン国連事務総長がアルジェリアのティンドゥフ(Tindouf)にある西サハラの人びとの難民キャンプを訪れた際、西サハラの状況をつい「占領」と言ってしまったために、怒ったモロッコがMINURSOの文民職員87人を追放したという事件がある。このモロッコの報復を誰も制止できず、2年近く経った今、やっとMINURSOは機能を回復しつつあるといった状況である。
 一方、独立派のポリサリオはティンドゥフの難民キャンプを拠点とし、西サハラの東側3分の1を「解放区」として確保している。モロッコは1981年から西サハラを縦断する「砂の壁(sand berm)」を建設し、ポリサリオ側に地雷を敷設した。そのため「砂の壁」の西側はモロッコの、東側はポリサリオの領域として固定化した。1991年以降停戦しているため戦闘はないが、2016年末には双方が「停戦合意違反」と訴える緊張した事態が発生した。西サハラ最南端のモーリタニアとの国境近くのゲルゲラト(Guerguerat)には双方が入域を控えている軍事緩衝地帯がある。そこはモーリタニアとの唯一の通過点にもなっている。そこにモロッコ軍が入域したことでポリサリオも軍を派遣し、緊張が高まった。モロッコは道路の掃除をするだけだと説明したが、ポリサリオはモロッコが道路を建設することで現状変更を狙っていると非難[2]。国連事務総長の呼びかけでモロッコ軍が撤退し、危機は回避されたが、停戦という状況のもろさを露呈した事件だった。
 ポリサリオは国連、EU、フランスなどに代表をおいて外交活動を行っている。1976年にポリサリオが独立宣言を発したサハラ・アラブ民主共和国(SADR)は49ヶ国と外交関係を維持し、18ヶ国に大使館を置いている[3]。西サハラはアフリカ連合(AU)にメンバーとして加盟している。それに抗議してモロッコはAUを脱退したものの、2017年1月に復帰した。モロッコはポリサリオをアルジェリアの「傀儡」としかみておらず、今でもAUの中でのモロッコの評判は必ずしもよくないが、モロッコ側もAUの切り崩しにかかっている。

砂の壁(UN Photo/Evan Schneider, 2016年撮影)

「閉鎖された」西サハラ

 それにしても現地はどうなっているのか。メディアや人権団体が閉め出されている現状では第三者による直接的な情報収集は難しい。モロッコの人権団体は西サハラの問題を扱うことはできない。モロッコでは「君主制、イスラム、領土的保全」への批判は刑法で罰せられる。「領土的保全」とは西サハラ問題に他ならない。

 西サハラの中心都市エル・アイウン(El Aaiun)に事務所をもつ人権団体ASVDH(重大人権侵害被害者のためのサハラウィ協会)によると、2014年から2017年までの間に15ヶ国出身の 163人が西サハラから追放されたという(Sahara Press Service、2017年12月30日)。この人権団体は政府の認可を受けているにもかかわらず、当局から「分離主義」の烙印を押され、厳しい監視下に置かれている。メンバーの中には外国人を案内したとして連行され、ひどい拷問を受けた人、親が失踪したままの人もいる。この団体と接触した外国人はたちまち国外退去にあう。

 エル・アイウンは人口約22万人(2014年、モロッコ政府統計局)の都市で、中心街には近代的なビルも建っている。しかし、ASVDHから得た情報によれば、中心街で働く人びとは大方モロッコ人(移住者)で、サハラウィ(西サハラの人びと)は周辺的な仕事しかないという。またサハラウィは住環境も悪い地区に身を寄せ合って暮らしている。政治活動をしているとみなされると本人ばかりか家族まで職にありつけない。それでなくともサハラウィというだけで疑いの目で見られる。要するにサハラウィは自分の国にあって周縁化されている。今年、イタリアの名門サッカークラブACミランがエル・アイウンにサッカー・アカデミーを開設する。若者たちにチャンスを与えるという触れ込みだが、西サハラ在住のジャーナリストの反応は「アカデミーの選手の9割はモロッコ人」と冷ややかである[4]。サハラウィの若者たちの失業問題は深刻で、それが近年のデモの背景にある。

 そうしたデモの中でもっとも大規模だったのが、2010年、エル・アイウン郊外のグデイム・イジク(Gdeim Izik)で行われたものだった。人びとはテントを張り、1ヶ月にわたり共同生活をしながら抗議を続けた。テント村は数万人規模に膨れあがったが、やがて治安当局によって暴力的に解体された。その後、町中にバリケードを築くなど人びとの抵抗は拡大した。鎮圧の過程で治安当局側には11名、デモ参加者側には30名以上の死者が出たと伝えられるが、詳細はわからない。安保理やEUを始め各国がモロッコの対応を批判したものの、モロッコは逆に組織者を逮捕し、19名に厳しい判決を下した。そして彼らを家族が面会できないようなモロッコ内の遠い刑務所に移送した。中でも活動家のエナマ・アスファリ氏は30年の刑となり、遠く離れた刑務所の独房に移送されている[5]。2016年国連拷問禁止委員会はアスファリ氏に対する拷問について非難し、アスファリ氏はフランスのNGO「拷問廃止のためのキリスト教者行動(ACAT)」から2017年の人権賞を与えられた(Sahara News Service、2017年1月27日)。

 近年、これまであまり知られることのなかった「緑の行進」後の西サハラ掃討作戦における人権侵害や戦争犯罪の実態が明らかになってきている。『記憶のオアシス(El Oasis de la Memoria)』(2012年)は、2巻、1000ページ以上に及ぶ膨大な記録であり、261人の被害者及び家族らの聞き取りをもとに村々に対する爆撃、集団虐殺、強制失踪、拷問などを告発した[6]。著者の一人、ベリスタイン氏は長年中南米で真実和解委員会の仕事に携わった医師であり、なかでもグアテマラの歴史的記憶の回復プロジェクト(いわゆるレミー・プロジェクト)に携わったことで知られる[7]。アルゼンチンの人権活動家でノーベル平和賞(1980年)受賞者アドルフォ・ペレス・エスキベル氏の序文が添えられた本書は、真実委員会の手法を用い、被害者の苦しみを幅広く、深く描いている。

 この報告書によれば、強制失踪はモロッコ軍の作戦の中でも重要なウェイトを占めていると考えられる。1975年から1999年までに少なくとも800件の失踪が報告されており、その大半は最初の2年間に起きている。被害者は誘拐され、軍や警察の建物、あるいは秘密の拘禁センターに連れて行かれる。10年から15年してもどってくることもあるが、もどってこないこともある。

資源問題

 今、焦点となっているのは資源問題である。問題となる資源はリン鉱石と水産資源である。

 リン鉱石を埋蔵する国は少なく、主要な産出国は米国、中国、ロシア、そして西サハラである。中でも西サハラのリン鉱石は埋蔵量も多く、質も良い。モロッコはそれをモロッコ産として輸出し莫大な利益を得ている。西サハラの山地の採掘場から100キロ離れた港まではベルトコンベアーが走っている。現地の活動家は、一瞬それが見える場所があるが車を止めて写真を撮ったりすると警察に捕まるだろうという。リン鉱石生産に関わるサハラウィもいるが、会社のことはしゃべれないという。

 そもそも非自治地域の天然資源利用は、それが現地住民の利益になるものでない限り、国際法で禁じられている。根拠は国連憲章第11章(非自治地域に関する宣言)第73条と第74条が非自治地域住民の利益が至上のものであるという原則を述べていることと、1962年の天然資源に対する恒久的主権に関する国連総会決議1803 (XVII) が「天然資源に対する人民あるいは国民の恒久的主権は彼らの国民の発展あるいは当該国家の人民の福祉のために行使されなければならない」と述べていることにある。問題はこうした法を強制する意思と力が国際社会には不足しているということである。[8]

 しかし、法の支配を重視するEUではこれが問題となる。EUはモロッコと農水産品自由化協定と漁業協定の2つの協定を結んでいるが、モロッコ側は当然西サハラを含むと考えているため、国際法に違反する恐れがあるとして問題になっているのである。農水産品自由化協定のケースは、ポリサリオがEU理事会を相手にEU司法裁判所に訴えたもので、司法裁判所(上級法廷)は2016年12月21日に、同協定そのものは有効であるがそこに西サハラは含まれてはならないとの決定を下した。もうひとつは、イギリスの西サハラ支援団体が、西サハラの水産品がモロッコ産として輸入されることを許している英政府を相手取って自国の裁判所に訴えたところ、イギリスの裁判所がそもそものEUモロッコ漁業協定締結において欧州委員会が国際法の解釈を間違ったと考え、EU司法裁判所に意見を求めたものである。これについて2018年1月10日、EU司法裁判所の主席法務官(Advocate General)メルシオール・ワスレット氏は、EUモロッコ漁業協定は西サハラを含むがゆえに違法であるとの意見を発表した[9]。要するにモロッコは西サハラを原産地とする農水産品をヨーロッパに輸出することができないということである。

 しかし、欧州委員会は先の判決を無視するかのように2018年1月31日、突然モロッコとの新協定の調印式を行った。それまで欧州員会はステークホルダーとは事前協議をもつと述べていたが、舞台裏では別な交渉が進行していたと考えられる[10]。EUはモロッコとの深い関係を簡単には諦めそうにない。

打開の展望はあるか

 「行き詰まり」を打開する展望はあるだろうか。西サハラ問題は東ティモール問題とよく比較される。非自治地域の自決、1975年の事件発生、隣国による侵略・占領、住民投票など類似点が多いのは確かである。しかし、ポルトガルと違ってスペインは施政国としての責任をまったく果たしておらず、安保理は住民投票を決めたものの実行する意思を欠いている。スハルト体制と違ってモロッコの君主制は盤石であり、米国にとっての戦略的重要性は冷戦後も変わらない。

 こうした状況の中、2017年1月に着任したアントニオ・グテレス国連事務総長は、西サハラ問題担当特使にドイツの元大統領ホルスト・ケーラー氏を任命した。ケーラー氏は早速各方面との協議に入っており、交渉の進展が期待される。

 一方、2018年1月に入ると、資源問題ではスイスに拠点をおく多国籍企業グレンコア(Glencore)が西サハラ海岸の石油採掘事業から撤退したり、カナダの肥料会社ニュートリエン(Nutrien)が西サハラのリン鉱石を輸入しないことを発表したりするなど、EUの協定問題と平行して動きがある。パレスチナの入植地の産品を輸入しない動きが広がっているのと同様、産地規制という方法は今後ますます問題化していくだろう。それは事態の既成事実化を食い止め、モロッコを交渉に引っ張り出す効果をもつ。

 国際政治は進展がなく、既成事実化が進んでいるように思われるが、こういう場合、現地情勢の動向が事態を動かす鍵を握ることがある。東ティモールでも「インドネシア化」の失敗が明らかになり、若者たちによる地下抵抗運動が広がった。インドネシアはその弾圧に手こずり、それが新しいインプットとなって事態を動かしたところがある。西サハラの現地情勢も似たような動きを示している。西サハラにおける市民的(非暴力)抵抗運動の広がりはおさまりそうにない。西サハラの統治の失敗が世界に知らされるのは時間の問題だろう。

 そういう意味で、ひとつこれまであまり目が向かなかったことで重要だと思われるのは、モロッコの国内政治、とりわけ表現の自由をめぐる状況である。西サハラについてモロッコ国内で批判的な意見を出せないことはすでに触れたが、モロッコにおける表現の自由は一般的に問題である。「国境なき記者」の世界ランキングでは180ヶ国中133位である(Reporters Without Borders 2017)。マスメディアが自由に報道できないため、市民が携帯電話を使ってニュースを広める「市民ジャーナリズム」を普及させようとワークショップを開いたモハメド五世大学のマアティ・モンジブ教授は「治安を乱した」という理由で2015年に起訴され、現在も裁判が続いている。2016年には、ジャーナリストのアリ・アヌズラ氏がドイツの雑誌で「西サハラ占領地」と述べたことで起訴された[11]。結局、彼は「占領地」とは言っていないのに雑誌がそのように表現したことがわかり起訴は取り下げられたが、事件はマスメディアがどのような圧力にさらされているかを示している。アヌズラ氏は別件でも起訴されており、その裁判は今なお続いている。モロッコの国民は西サハラやその他のモロッコ内の問題について正しく知らされていない。今後、モロッコ国内の人権、とりわけ表現の自由がどれだけ保障されるようになるかが、西サハラ問題の動向にとっても重要なこととなるだろう。

[1] Zunes, Stephen, and Jacob Mundy, Western Sahara: war, nationalism, and conflict irresolution, Syracuse University Press, 2010, pp. 34-40.

[2] Reuters, “Morocco says forces to withdraw in Western Sahara’s Guerguerat standoff”, February 27, 2017.

[3] Centro de Estudos do Sahara Occidental, Universidade de Santiago de la Compostela(サンティアゴ・デ・ラ・コンポステーラ大学西サハラ研究センター)のホームページによる。西サハラを承認した国は80ヶ国にのぼるが、その後承認取り消しが続いて今のような状況になっている。

[4] Aubery Bloomfield, “AC Milan’s Moroccan Problem”, Africa Is A Country (Online), 2 February 2018.

[5] Moe, Tone. 2017. Alarming Situation regarding the Gdeim Izik Prisoners, Western Sahara/Morocco: Th usage of prolonged solidary confinement and the prisoners’ use of hunger strike.

[6] Beristain, Carlos Martín, Eloísa González Hidalgo, El Oasis de la Memoria: Memoria história y violaciones de Derechos Humanos en el Sáhara Occidental, Tomo I, Tomo II, Instituto Hegoa, Universidad del Pais Vasco, 2012. ここでは英語要約版を参照している。

[7] 日本語で読めるものとして飯島みどり・狐崎知己・新川志保子訳『グアテマラ 虐殺の記憶 歴史的記憶の回復プロジェクト』(岩波書店、2000年)がある。

[8] 西サハラの資源開発についての国際法的検討は以下を参照。Saul, Ben, “The status of Western Sahara as occupied territory under international humanitarian law and the exploitation of natural resouces”, Global Change, Peace & Security, volume 27, issue 3 (October 2015), pp. 301-322.

[9] CURIA, Opinion of Advocate General Wathelet, 10 January 2018, Case C-266/15: Western Sahara Campaign UK, the Queen v. Commissioners for Her Majesty’s Revenue and Customs, Secretary of State for Environment, Food and Rural Affairs.

[10] Western Sahara Resource Watch, “EU has sealed Western Sahara trade deal in violation of Court Judgment”, 1 February 2018.

[11] US State Department, Country Reports on Human Rights Practices for 2016: Morocco. Section 2. a. Freedom of Speech and Pressの項目を参照。

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