井上 治(拓殖大学教授)
2015.08.05
  • 平和構築全般

アチェ和平合意から10年 〜内部抗争が続く中、置き去りにされる合意の完全実施

武力紛争にはもう戻らない

アチェ和平合意10周年が近づいた2014年12月15日、アチェ州政府は住民保護及び政治・民族統一局(Kesbangpol Linmas)の建物内に和平記念講堂をオープンした。この記念講堂にはアチェ紛争から和平合意に至るまでの各種文書や資料が収蔵され、2015年8月15日のアチェ和平合意10周年記念日までにはアチェの和平プロセスを学ぶための博物館となることが目指されている。

同年末には、アチェの複数のNGOで組織された新アチェ協議会(Konsorsium Aceh Baru)もアチェの和平プロセスに関する各種資料を提供し平和教育に寄与するためインターネット上に和平博物館というウェブサイト(www.museumperdamaian.org)を立ち上げた。このウェブサイトの発表会にはアチェばかりでなくフィリピン南部のミンダナオ島やタイ南部のパタニ地方などインドネシア国外の紛争地からも参加者があった。

このことからも明らかなように、アチェの和平プロセスは、なおいくつかの問題を抱えているとはいえ、総じてみれば順調に進んでいるといえるだろう。少なくとも武力紛争が再燃する兆しはこれまでのところ見られない。

フィリピン南部からアチェの和平状況の視察に訪れたバンサモロの代表団も、武装闘争を民主的な政治闘争に切り替えることに成功したアチェ独立運動(GAM)の経験に学ぶことを望んだ。2014年12月8日にGAMを母体とするアチェ党(Partai Aceh)本部を訪れたバンサモロ代表団長のバト・モハマッド・ザイヌデン(Bato Mohammad Zainudden)は、その訪問目的を次のように述べた。

「我々の来訪目的は、我々と同様に中央政府から自らの地方規則を定める特別自治権を与えられたアチェで、地方政党としてのアチェ党が取り入れている諸戦略や政治システムを学び取るためである」(Atjehpost.co/m,08 December 2014)。

Flag of Aceh Darussalam (wikipedia)

アチェの地方政党〜独占から分散へ

2005年8月15日の和平合意でインドネシアの中央政府はアチェのみの地方政党の結党を認めた。そしてこのことは2006年に制定されたアチェ統治法の中で法文化され、2007年3月16日には「アチェの地方政党に関する政府規則2007年第20号」も発令されて細則が整った。

これを受けGAMは2007年6月4日、GAM軍事司令官であったムザキル・マナフ(Muzakkir Manaf)を党首にアチェ独立運動党(Partai Gerakan Aceh Merdeka=Partai GAM)の結党を宣言した。しかしながら政府は、GAMがGAM党としてGAMの旗を党旗に地方政治に参与することには強い難色を示した。そして2007年12月10日には「地方の紋章に関する政府規則2007年第77号」を発令し、分離独立運動に用いられている旗やロゴの使用を禁止した。党名としてGAMの略称を用いることにこだわったGAMは2008年2月23日、党名をアチェ自立運動党(Partai Gerakan Aceh Mandiri=Partai GAM)に変更して再申請したものの、政府は再度党名を検討するよう迫った。

党名をめぐって緊張した政府とGAMの仲介を行ったのは国際平和構築連合のインターピースが組織したインドネシア平和インスティテュート(Indonesian Peace Institute Interpeace)である。2008年4月6日から7日にかけて行われた会談で妥協したGAMは同年4月22日に党名をアチェ党に変更した。

アチェ党の規約によると同党の掲げる目標は次の4点である。

①民族、宗教そして国家の誇りと名誉を堅持するためにアチェ住民の理想を実現する。

②2005年8月15日にフィンランドのヘルシンキで署名されたGAMとインドネシア共和国との間の和平合意の理想を実現する。

③すべてのアチェ住民に対し公正、繁栄そして物質的にも精神的にも平等な福祉を実現する。

④真実、公正、法そして人権を尊重し、民主的な生活を発展させ住民の主権を実現する。

また、党の使命は次のように謳われている。

「インドネシア民族とりわけアチェ住民の生活を繁栄させるために透明性を高め、革命政党を理想とすることから開発政党を理想とするようアチェ住民の思考様式を変貌あるいは向上させる」(http://www.partaiacehm2.blogspot.jp/2012/02/profil-partai-aceh html)。

2009年に行われたアチェ州議会選挙でアチェ党は得票率46.91%という圧倒的な強さを示し、69議席中33議席を獲得した。続く2014年の選挙では得票率を35.34%に減らしはしたものの、81議席中29議席を占め、アチェ州議会第1党の座は揺るがなかった。

もっとも、アチェの地方政党として2009年と2014年の選挙に挑んだのはアチェ党だけではない。

和平合意後にアチェの地方政党として2009年の選挙に名乗りを上げた政党は12党に及んだ。このうち実際に選挙に参加したのはアチェ党のほか次の5政党である。

①アチェ安全福祉党(Partai Aceh Seujahtera=PAAS)

党の基本理念はイスラム法。全国政党である開発統一党(PPP)のガザリ・アバス・アダン(Ghazali Abbas Adan)らが中心となって結党。

②アチェ主権党(Partai Daulat Aceh=PDA)

党の基本理念はイスラム法。全国政党である改革星党(PBR)の国会議員トゥンク・ハルメン・ヌリクマン(Teungku Harmen Nuriqman)を指導者としてイスラム法学者(ulama)らを中心に結党。

③アチェ人民独自の声党(Partai Suara Independen Rakyat Aceh=SIRA)

長引くアチェ紛争を住民投票によって解決することを目的に1999年2月に結成されたアチェ住民投票情報センター (Sentral Informasi Referendum Aceh=SIRA)が和平合意後の2007年に政党化。党首はアチェ住民投票情報センターの元議長で2007年にアチェ州副知事に就任したムハマド・ナザル(Muhammad Nazar)。

④アチェ人民党(Partai Rakyat Aceh=PRA)

学生活動家や女性活動家、都市貧困者団体などの結集したアチェ人民民主闘争戦線(FPDRA)が2007年に政党化。

⑤アチェ統一党(Partai Bersatu Atjeh=PBA)

全国政党である国民信託党(PAN)の国会議員アフマド・ファルハン・ハミド(Ahmad Farhan Hamid)が結党した世俗主義政党。

これらアチェ党を含む6つの地方政党のうち、2009年の選挙でアチェ州議会の議席を獲得したのはアチェ党の33議席のほかはアチェ主権党の1議席だけであった。(表1参照)。つまりアチェの地方政党=アチェ党すなわちGAMといったイメージがこの頃はまだアチェ住民の中に強かったものと思われる。

表1)アチェ地方議会(DPRA)の政党別議席数(2009-2014年)

チュニジアの移行体制:妥協の政治学

政党名 議席数 備考
アチェ党
(Partai Aceh)
33 地方政党
民主党
(Partai Demokrat)
11 全国政党
ゴルカル党
(Partai Golongan Karya)
8 全国政党
国民信託党
(Partai Amanat Nasional)
5 全国政党
開発統一党(Partai Persatuan Pembangunan) 4 全国政党
福祉正義党
(Partai Keadilan Sejahtera)
4 全国政党
愛国者党
(Partai Patriot)
1 全国政党
民族覚醒党(Partai Kebangkitan Bangsa) 1 全国政党
アチェ主権党
(Partai Daulat Aceh)
1 地方政党
星月党
(Partai Bulan Bintang)
1 全国政党
合計 69

しかしながらその5年後の2014年の選挙ではいささか状況が変わってきた。

2014年の選挙にはアチェの地方政党としてアチェ党のほか次の2党が参加した。

①アチェ平和党(Partai Damai Aceh=PDA)

2009年のアチェ州議会選挙で1議席の獲得に終わったアチェ主権党(PDA)が2012年9月に党名変更。党首はトゥンク・ムヒブサブリ・A・ワハブ(Teungku Muhibbussabri A.Wahab)。

②アチェ国民党(Partai Nasional Aceh=PNA)

和平合意に基づき設置されたアチェ監視団(AMM)でGAM側の上席代表を務め、2006年末のアチェ州知事選挙に出馬して当選したイルワンディ・ユスフ(Irwandi Yusuf)が2011年12月4日に結党。イルワンディ・ユスフは同党諮問会議議長、党首には元GAM大アチェ県地区司令官のイルワンシャ(Irwansah)、幹事長にはGAMの武装勢力を社会復帰させるためのアチェ移行委員会(KPA)大アチェ県元委員長のムハラム・イドリス(Muharram Idris)が就任した。つまりGAMはアチェ党とアチェ国民党に分裂したのである。

2014年のアチェ州議会選挙でアチェ平和党は1議席(得票率3.03%)、アチェ国民党は3議席(得票率4.73%)を獲得した。一方、アチェ党は得票率を2009年選挙の46.91%から35.34%と10ポイント以上減らし獲得議席も29議席にとどまった。(表2参照)。

表2)アチェ地方議会(DPRA)の政党別議席数(2014-2019年)

政党名 議席数 備考
アチェ党
(Partai Aceh)
29 地方政党
ゴルカル党
(Partai Golongan Karya)
9 全国政党
民主党
(Partai Demokrat)
8 全国政党
民主国民党
(Partai Nasional Demokrat)
8 全国政党
国民信託党
(Partai Amanat Nasional)
7 全国政党
開発統一党(Partai Persatuan Pembangunan) 6 全国政党
福祉正義党(Partai Keadilan Sejahtera) 4 全国政党
大インドネシア運動党(Partai Gerakan Indonesia Raya) 3 全国政党
アチェ国民党
(Partai Nasional Aceh)
3 地方政党
民族覚醒党(Partai Kebangkitan Bangsa) 1 全国政党
アチェ平和党
(Partai Damai Aceh)
1 地方政党
星月党
(Partai Bulan Bintang)
1 全国政党
統一正義党(Partai Keadilan dan Persatuan Indonesia) 1 全国政党
合計 81

GAMの分裂が公然となったアチェでは、2014年4月9日の投票日が近づくにつれ、殺人を含む暴力行為が激増した。

アチェ人権NGO連合(Koalisi NGO HAM Aceh)の2014年4月7日の報告によると、アチェでは2013年4月からの1年間で政党関係者やその支持者に対する銃撃を含む暴力行為や脅迫が61件発生した。死者は7人で、そのうち3人はアチェ国民党の関係者、残る4人は一般市民だった。

インドネシアの人権監視団体KontraS(暴力行為の犠牲者と行方不明者のための委員会)は「2014年総選挙前のアチェにおける一連の暴力と銃撃事件に関する報告」をまとめ、アチェで暴力行為が激増した要因として次の5点を指摘した。

第1は、アチェ党とアチェ国民党の抗争である。この2つの政党の党員や支持者間の抗争が組織的なものでなかったとしても、党幹部たちは暴力行為を止めさせる努力をしてこなかった。また事実に基づけば、暴力行為の多くはアチェ党の党員や支持者によるものであったことを否定できない。

第2に、アチェ党の党首でありアチェ州副知事でもあるムザキル・マナフがアチェ国民党(Partai Nasional Aceh=PNA)をもじって「アチェ・キリスト教徒党」(Partai Nasrani Aceh=PNA)と誹謗中傷したばかりかGAMの裏切り者呼ばわりし、アチェ国民党との関係を極度に悪化させたことである。2014年3月18には北アチェ県知事のムハマド・タイブ(H.Muhammad Thaib)も「アチェ党の支持者以外は米の無料配給を受けられない」とアチェ党の応援演説を行い、3月24日にはロスマウェ市議会議長のサイフディン・ユヌス(Saifuddin Yunus)も「アチェ党を支持しない者はアチェから追放する」と公然と語った。

第3に、アチェ党とアチェ国民党の対立を利用し、抗争を激化させようと策動している第三者が存在することである。犯人が不明の暴力事件はアチェ党やアチェ国民党以外の政治エリートなどによる工作の可能性も高い。

第4に、蔓延する暴力行為に対して警察が毅然とした取り締まりをせず放置していることである。アチェの住民は混乱状況を警察が創り出そうとしているのではないかとさえ疑っている。

第5に、アチェ州知事も暴力行為を黙認する傾向が強く、統治者としての役割を十分に果たしていないことである。同様にアチェ統治法に基づきアチェを統合する慣習上の指導者として任命された「元首」(Wali Nanggroe)もアチェの政治的安定に十分に寄与してはいない。

そもそもGAMの分裂の予兆は和平合意の直後からあった。2006年12月11日に行われたアチェ州知事選挙では、GAMの幹部・長老グループが国立シャー・クアラ大学教員のフマン・ハミッド(Human Hamid)を州知事候補、GAM幹部のハスビ・アブドゥラ(Hasbi Abdullah)を副知事候補に擁立したのに対抗し、GAMおよびそのシンパの青年層はAMMでGAM上席代表を務めていたイルワンディ・ユスフを州知事候補、SIRA常任幹部会議長だったムハマド・ナザルを副知事候補に推した。

この選挙戦を制し州知事に当選したイルワンディ・ユスフは2012年に無所属で再選に挑むが、この時もアチェ党は出馬辞退の説得を含む様々な妨害工作を行った。

長くスウェーデンで医師として働きつつGAM外相を名乗っていたザイニ・アブドゥラ(H.Zaini Abdullah)を州知事候補、GAMの元軍事司令官でアチェ党党首のムザキル・マナフを副知事候補に擁立し2012年に再びイルワンディ・ユスフと対抗したGAMの幹部・長老グループは正副州知事の座を奪うことに成功した。ザイニ・アブドゥラ=ムザキル・マナフ組の得票率は55.75%、アチェ州政府高官のムフヤン・ユナン(Muhyan Yunan)を自らの副知事候補として再選に挑んだイルワンディ・ユスフ=ムフヤン・ユナン組の得票率は29.18%だった。

イルワンディ・ユスフは選挙期間中に彼の支持者らに対する27件の暴力事件が発生したことなどを理由に憲法裁判所に選挙の無効を提訴したが却下された。彼はまた2012年6月25日にアチェ州議会で行われた新正副州知事の就任式に前州知事として出席した際にも州議会議事堂の外で集団に取り囲まれ暴行を受けた。

2012年にアチェの正副州知事に就任したザイニ・アブドゥラとムザキル・マナフの関係も一枚岩では続かなかった。両者の亀裂が公然となったのは2014年7月に行われたインドネシアの正副大統領選挙を巡ってである。

全国政党の闘争民主党(PDIP=Partai Demokrasi Indonesia Perjuangan)などが擁立したジョコ・ウィドド(Joko Widodo)前ジャカルタ州知事とユスフ・カラ(Jusuf Kalla)元副大統領の正副大統領候補と大インドネシア運動党(Partai Gerakan Indonesia Raya)などが擁立したプラボウォ・スビアント(Prabowo Subianto)退役陸軍中将とハッタ・ラジャサ(Hatta Rajasa)前経済調整相の正副大統領候補の一騎打ちとなった2014年のインドネシア正副大統領選挙で、ザイニ・アブドゥラ州知事はジョコ・ウィドド=ユスフ・カラ組を支持し、一方、ムザキル・マナフ副知事はプラボウォ・スビアント=ハッタ・ラジャサ組を支持したのである。

アチェ党の党首でもあるムザキル・マナフ副知事は、貧困の撲滅やアチェ開発の確約を取り付けたとしてアチェ党の支持者たちにプラボウォ・スビアント=ハッタ・ラジャサ組を全面的に支持するよう命じた。それどころか闘争民主党の擁立した対抗陣営を支持することはハラム(haram=イスラム教義上の禁忌行為)であると諌めた。

これに対しアチェ党諮問会議(Tuha Peuet)の委員でもあるザイニ・アブドゥラ州知事は、プラボウォ・スビアント=ハッタ・ラジャサ組への支持は党の機関決定ではなくムザキル・マナフ党首の個人的な支持にすぎないと批判し、自らはジョコ・ウィドド=ユスフ・カラ組への全面的な支持を表明した。ザイニ・アブドゥラ州知事がジョコ・ウィドド=ユスフ・カラ組を支持した理由は、ユスフ・カラ元副大統領は2005年のアチェ和平合意の実現に最も貢献した人物であり、アチェのこれからの課題の解決にも理解と協力が期待できること、ジョコ・ウィドド前ジャカルタ州知事もかつてアチェの国営企業に務めていた経験からアチェに理解があり、人柄も清廉で庶民派であることなどであった。

プラボウォ・スビアント=ハッタ・ラジャサ組への支持はアチェ党の党議決定ではないと批判されたムザキル・マナフ党首は書面で同党の諮問会議は名誉的な地位にすぎず政策への決定権はないと反論するなど、正副大統領選挙をめぐって両者の対立は泥仕合の様相を呈した。

アチェの正副州知事がそれぞれ異なる陣営についた2014年の正副大統領選挙ではジョコ・ウィドド=ユスフ・カラ組が当選したが、アチェ州での得票率は45.61%にとどまり、プラボウォ・スビアント=ハッタ・ラジャサ組(54.39%)の方が上回った。

このように和平合意から10年の間にGAMの組織内部にはいくつもの亀裂が生じた。これは一面において治安上の不安材料ともなっているが、もともとインドネシアの中央政府や国軍への不信感がアチェの様々な団体や個人をGAMの傘下に走らせたにすぎないことを思えば必然の結果であろう。GAMの元軍事司令官であるムザキル・マナフを党首とするアチェ党は、政党化後も軍隊的な統制が強い。これを非民主的と批判し、袂を分かつ人々が出てきていることは、アチェに和平が浸透していることの証ともいえる。

Aceh (Google Maps)

和平合意の完全実施に向けて

民主化の進展に伴いGAMが内部分裂の様相を呈してきたとはいえ、いずれの勢力も2005年のアチェ和平合意とその翌年に制定されたアチェ統治法を尊重し遵守する姿勢に変わりはない。

問題は和平合意から10年目となるにも関わらず、いまだにいくつかの合意事項が実施に至っていないことである。具体的にはアチェにおける人権裁判所の設置、インドネシア政府とアチェ州政府の共同による未解決の諸要求に関する要求解決共同委員会の設置そして真実和解委員会(KKR)の設置などである。アチェ州議会は2013年12月27日に過去の人権侵害を裁く権限を持つ真実和解委員会に関する条例(qanun)を可決した。ところが内務省は、アチェ統治法が定めているのは真実和解委員会の設置についてだけであり、その権限をアチェ州が独自に定めることはできないとして、この条例を無効とした。つまり国会で真実和解委員会に関する法律が制定されるのを待ち、その法律の範囲内でアチェの条例も制定されなければならないという判断である。

同様にアチェ統治法に定められた天然資源や土地の運用に関するアチェ州政府の権限も、その細則となる政府規則が定まらないことから実施が遅れている。2014年10月に大統領に就任したジョコ・ウィドドはすぐさまアチェ州内においては国土庁(BPN)の全権をアチェ州政府に委ねる大統領規則案を固めたものの、国土庁の機能を一地方自治体に委ねることは国家を分裂させるに等しく憲法にも違反していると反対する声も強い。

アチェ和平合意の完全実施に向けては中央政府も努力はしているものの、憲法その他の国内法と整合性を持たせて国内の慎重論を納得させるのに苦慮しているのが実情といえよう。

 
 
OSAMU INOUE井上 治

拓殖大学教授

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