サイフディン・バンタシャム
2014.01.17
  • 平和構築全般

アチェ紛争の解決プロセスを振り返る

紛争の原因

 一般にアチェ人は、自らの歴史、及び彼らがインドネシア独立時に果たした歴史的役割に強い誇りを持っているとされる。まず、アチェはインドネシア群島の中でオランダの植民地支配に屈したことのない地域である。また、インドネシア独立闘争に対するアチェ人の貢献(共和国政府に航空機を寄付したというエピソード)は、インドネシアの歴史を語るときには常に言われてきたことだ。日本が連合国に降伏した1945年、アチェ人はインドネシア共和国のもとに一つになることを表明した。スカルノ大統領は、アチェを「資本となる地方(daerah modal)」と呼び、教育、慣習、宗教の面で特別な待遇を与えることを約束した。

 ところが独立から2年後、アチェの地位は変わることになった。1947年、アチェ第2級行政区(Keresidenan) 1はタナ・カロとランカット 2とともに一つの軍事地域として軍人州知事によって統治されることになったのである。1948年には、アチェ第2級行政区は北スマトラ州の一部に組み込まれることになり、1949年には北スマトラ州から分離して独自の州となった。しかし、その1年後、アチェと政府の対立は激しさを増し、政府が1950年1月1日に設置したばかりのアチェ特別地方州(Provinsi Dista Aceh)を解消して北スマトラ州へと統合することを決めると、両者の対立は誰の目にも明らかなものとなった。

スカルノが約束した特別な待遇が具体化することはなかった。そのことはアチェ人を深く失望させ、1953年9月20日、ダウド・ブルエ(Tgk. M. Daud Beureueh)はダルル・イスラム 3への合流を宣言するに至った。この宣言は、アチェを、数年前にカルトスウィルヨ(Kartosuwiryo)が西ジャワで樹立を宣言した「インドネシア・イスラム国家(NII)」の一地方としている。

ダウド・ブルエに率いられた反乱を収拾するのに、政府は長い時間とたゆまぬ努力を傾けた。政府は交渉のための使節団(ハルディ副首相を団長としていたためハルディ使節団と呼ばれた)を派遣した。その成果のひとつが、1959年5月26日付決定(No. 1/Missi/1959)によるアチェ特別州の設立で、これによって宗教、慣習、教育分野で特別な扱いが認められることになった。また、イスカンダル・ムダ第1軍管区司令官のヤシン大佐を長とする使節チームも政府から派遣され、山にこもっていたダウド・ブルエと面会した。1962年、ダウド・ブルエが山から下りて共和国の懐に戻ることで、反乱に終止符が打たれたのであった。

 ダウド・ブルエの下山によって、アチェとジャカルタ(中央政府)の紛争の第一幕は終わった。しかし1976年12月4日、ピディでハサン・ティロ(Hasan Tiro)が自由アチェ運動(GAM)を宣言したことで、紛争の第二幕が始まった。ダウド・ブルエの反乱とは違い、ハサン・ティロに率いられたこの運動は、国際法上の根拠や歴史的な要因をより鮮明にしたものであった。ハサン・ティロによると、インドネシアはアチェを支配したが、アチェはいまだかつてインドネシアに服従したこともなければインドネシアの独立を認めてもいないというものだった。しかし、ハサン・ティロのこの主張は国内的にも国際的にも支持をえられなかった。インドネシア国民の共通認識は、アチェはインドネシア共和国の正式な一員であるというものだ。それは国際社会でも共有された認識であり、実際、アチェがインドネシアとは別だとの見解を持つ国はない。

ティム・ケル(Tim Kell [1995])は、アチェ紛争の原因はスハルト政権(新秩序時代)下での社会・経済・政治的変化にあるとしている。ケルによれば、中央集権的な統治体制によって、政府はアチェの豊かな資源を完全に牛耳っていった。それはある見方からすれば大いなる成功だっただろうし、別な見方からすれば失敗だった。そうした体制の下、中央と地方の緊張を表面化させないよう、地方の利害に反しても、州知事と県長らは政府の便益のために尽くすようしむけられた。その結果、アチェ人は特別州としての地位を実現するすべをなくしてしまった。ケルは、アチェの経済的収奪からえられた利益を享受したのは政府だけだった、と述べている。

 リザル・スクマ(Rizal Sukma [2001])は、1998年末のGAMの攻勢は、ダウド・ブルエの反乱以来積み重なった問題が原因だと述べている。それらの問題をうまく解決できなかったことで住民の間に政府に対する反発と不信感が広がったことが根本原因だというのである。リザルはこれらの問題を①経済的収奪、②中央集権と画一主義、③軍事作戦、④(人権侵害を行う国軍兵士の)免責の4つに分類している。

紛争解決への取組

 1989年、GAMが北アチェ県ブロ・ブラン・アラ(Buloh Blang Ara)で援助活動をしていた国軍部隊を襲撃すると、インドネシア政府はGAM掃討作戦を強化した。その後、政府は繰り返し軍事作戦を行い、1998年8月7日、北アチェ県のロクスマウェで国防相ウィラント将軍(General Wiranto)が声明を発表し、それは終了した。ところが、多くの予想に反して、ロスクマウェを皮切りにアチェの数カ所で激しい暴力を伴う衝突が発生した。GAMは以前よりも兵力・武力を増強して、再び登場したのだ。それ以前、GAMはピディ、北アチェ、東アチェにしか出没しなかった。しかし、1999年以降、大アチェ、西アチェ、南アチェ、中アチェにも現れるようになった。

マービン・E・オルセン(Marvin E. Olsen[1991])の紛争管理論を借りるなら、紛争の範囲と規模が限られている、紛争がイデオロギー的なものよりも実際的な問題である、あるいは暴力を伴わずまたはそれらの紛争に(作られた)ルールを適用できるといった条件がある場合、紛争は容易に解決できるものである。紛争は(1)すべての紛争当事者が裁判を含む中立的なフォーラムなどに参加できるようにし、(2)紛争当事者同士の開かれたコミュニケーションを築き、(3)交渉のテーブルについて合意達成への手順を作成し、(4)すべての紛争当事者にとって納得できる解決策を模索し、(5)不利益を被る側への補償を用意することで解決できる。

 さて、アチェ紛争の場合はどうだっただろう?ダウド・ブルエが主導したダルル・イスラム運動の反乱は容易に解決できたかもしれないが、GAMとインドネシア政府との武力紛争の解決はそう簡単にはいかなかった。GAMは海外に亡命政府を持ち、中央政府に失望したアチェの人々のGAMに対する支持は比較的大きく、またGAM自体、強力な武力を有し、掃討するのが困難なゲリラ戦を展開したからである。

 1999年、アブドゥルラフマン・ワヒド大統領は、ジュネーブに本拠を置くNGOアンリ・デュナン・センター(HDC)に対し、インドネシア政府とGAMの仲介を依頼し、紛争の平和的解決を提案した。両者は2000年6月2日ジュネーブで、「アチェのための人道的行動に関する共同覚書(Joint Understanding on Humanitarian Action for Aceh)」に署名した。HDCはUSAIDの支援によりバンダアチェに事務所を置き、政府とGAMはHDCの調整のもとで協力を進めるためそれぞれの代表(調停者)を指名した。また、紛争被害者支援といった人道援助プログラムを実施する部署も立ち上げた。しかし、後に明らかになるように、この合意は当初の目的を達成できなかった。暴力行為は激しくなるばかりで下火になることはなく、犠牲者の数も増えていった。また、人道援助も十分に行き渡らなかった。

 2001年4月、ワヒド大統領はアチェ問題解決のための包括的措置に関する2001年大統領令第4号を発布した。また、同年、インドネシア政府はアチェに対する特別自治に関する2001年法律第18号を制定した。しかし、GAMはその法律を拒否した。大統領令はその後も2001年第7号、2002年第1号が続けて発布された。しかし、こうした様々な合意、複数の大統領令をもってしても暴力はおさまらなかった。

 インドネシア政府とGAMの次の交渉は、メガワティ政権になって、2002年12月9日のジュネーブにおける「敵対行為停止協定(COHA: Cessation of Hostilities Agreement)」の調印という形で実を結んだ。GAMの武器収容・管理、インドネシア国軍の撤退と役割再編、ピース・ゾーン(非軍事化地域)の設置が定められた。COHAではかつて合意に達していたことも再び取り上げられた。例えば、アチェ包摂対話(AID, Aceh Inclusive Dialogue)、アチェにおける民主的な選挙の実施、アチェ特別自治法(2001年法律第18号)の改正が、とっかかりとして盛り込まれた。そして、それらが達成されて初めて双方が適正な手段でもって敵対行為を止めると合意したわけである。COHAの目的は、互いがすべての疑心暗鬼を払しょくして信頼関係を築き、すでに合意した和平プロセスの次の段階を目指して平和的な紛争解決のための環境を築く一方で、人道支援を展開し、再生と復興を目指すというものだった。

 COHAはまた、タイとフィリピンの軍人を招いて合同治安委員会(JSC: Joint Security Committee)を設置し、ピース・ゾーンとAIDのモニタリングを行うことも定めていた。特にAIDについては、COHAの第6条で、双方は治安とAIDへのすべての当事者の参加の自由を保障することに合意するとなっていた。さらに、印刷メディアや電子メディアによるコミュニケーションについても定めており、透明性のあるプロセスを誰もが知ることができるとなっていた。しかし、COHAの実施は失敗に終わった。JSCは双方の暴力を抑えることができなかった。ピース・ゾーンをいくつかの場所に設置することには成功したが、安全を確保することはできなかった。

人道的停戦(Humanitarian Pauze)とCOHAとがともに失敗したことで、政府はアチェに非常事態を敷くことを考えるようになった。軍事非常事態は2003年から施行され、この非常事態によってアチェの文民行政はイスカンダル・ムダ軍管区司令官の統制下に置かれた。軍事非常事態は2004年5月15日まで続いた。その間、和平交渉は思うようには進まなかったが、GAMはインドネシア軍の力に対抗できなかったため、武力衝突は減った。2004年5月19日、軍事非常事態は文民非常事態に置き換えられた。これはつまり、アチェ行政がアチェ警察本部長の統制下に置かれることを意味した。当初の予定では文民非常事態は2005年5月に終了するはずだった。しかし、2004年12月26日、アチェを襲った地震と津波で死者は約13万人(別途行方不明者3万人以上)に達し、多くの地域が破壊された。この甚大な被害により、GAMとインドネシア政府双方は和平交渉を再開することに合意した。もっとも、実際には2004年末から秘かに交渉は進めていた。和平交渉は災害後の2005年1月から集中的に行われた。交渉を仲介したのはクライシス・マネジメント・イニシアティブ(CMI)代表マルティ・アハティサーリ(Martti Ahtisaari)(前フィンランド大統領)である。交渉の結果、GAMとインドネシア政府は2005年8月15日、ヘルシンキで和平合意に調印した。

 参考文献/References

Kell, Tim. 1995. The Root of Acehnese Rebellion, 1982-1992. Ithaca: Cornell Modern Indonesian Project.
Olsen, Marvin E. 1994. Societal Dynamics: Exploring Macrosociology, London: Prentice Hall.
Sukma, Rizal. 2001. Aceh in Post-Suharto Indonesia: Protracted Conflict amid Democratization. Paper presented at the International Symposium, “At the Frontline of Conflict Prevention in Asia.” Japan Institute of International Affairs, Tokyo, 6-7 July 2001.  

Notes:
 

1.Keresidenanは通常「県」と訳すが、当時、州は第1級行政区、県は第2級行政区とされていたのでここでは第2級行政区と訳している。 

2. いずれも現在の北スマトラ州を構成する県のひとつ 

3.「イスラムの家」の意。インドネシアでイスラム国家の樹立を目指す運動。 

SAIFUDDIAN BANTASYAMサイフディン・バンタシャム

シアー・クアラ大学法学部講師、シアー・クアラ大学紛争平和研究所所長。アチェの知識人及び市民社会を代表する論客で、アチェの紛争・平和構築について活発な評論を行っている。

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