井上治
2014.01.15
  • 平和構築全般

アチェ和平合意までの道程

アチェの概要

 アチェ州はインドネシアの西端すなわちスマトラ島の北西部に位置する。面積は57,956㎢で、日本でいえば九州と四国を合わせた程度、国でいえばクロアチアとほぼ同じ広さである。人口は4,693,3934人(2012年現在)である。

 アチェにはアチェ人のほか、ガヨ人、アラス人、シンキル人、シムルエ人など全部で13の現地・先住のエスニック・グループがある。また、インドネシア各地から流入したジャワ人等外来のエスニック・グループもいる。

 2000年の人口調査によると、最大のエスニック・グループは現地のアチェ人(50.32%)、次いでジャワ島から移住してきたジャワ人(15.87%)、先住のガヨ人(11.46%)、アラス人(3.89%)、シンキル人(2.55%)、シムルエ人(2,47%)、北スマトラから移住してきたバタック人(2.26%)、西スマトラから移住してきたミナンカバウ人(1.09%)、その他が10.09%となっている。

 アチェ人はインドネシアの多くのエスニック・グループと同様にマレー人種に含まれるが、アラブ人や中国人やインド人さらにヨーロッパ人などとの長年にわたる混血の結果、独自のエスニック・グループとして形成された。

 アチェはインドネシアで最もイスラム教に敬虔な地域で、アチェの住民の98.8%はイスラム教徒である。今日のインドネシア領域で最初にイスラム教が伝わったのも、最初にイスラム王国が誕生したのもアチェである。インド北西部のグジャラートやアラブからの商人によって9世紀頃にイスラム教が伝えられたアチェでは、13世紀後半になると北アチェのパサイ川一帯を拠点に中継貿易で栄えたサムドゥラ・パサイ王国の国王がイスラム教に改宗し、今日のインドネシア領域における最初のイスラム国王となった。このサムドゥラ・パサイ王国を1525年に併合し、約400年にわたって存続したのがアチェ王国である。

 現在のアチェの州都バンダ・アチェを拠点として1496年頃に建国されたアチェ王国は徐々にスマトラ島東西両岸や対岸のマレー半島にまで版図を拡大し、17世紀初めには一大イスラム王国へと発展した。そのアチェ王国へのオランダの侵略戦争が始まったのは1873年であるが、アチェの抵抗は激しく、この戦争は30年以上に及んだ。1903年にはアチェ王国のスルタンつまり国王がオランダに降伏するが、これによってオランダがアチェを完全制圧したわけではなかった。オランダとの戦いをイスラム教徒の聖戦と位置付けたウラマと呼ばれるイスラム法学者たちの指導よる抵抗戦争(アチェ戦争)は、1942年、すなわち日本軍の侵攻でオランダがアチェから撤退するまで続いた。

 このアチェ戦争の犠牲者は、1873年〜1914年の間だけでもアチェ側の死者は7万人以上、オランダ側が約37,500人、負傷者数は双方合わせて50万人以上にのぼった。

インドネシア独立宣言とダウド・ブレエの反乱

 日本敗戦の2日後の1945年8月17日にインドネシアは独立を宣言する。しかし、それは事実上、日本侵略以前からの宗主国であったオランダからの独立戦争への突入をも意味した。インドネシア側は、再侵略を試みるオランダの二度にわたる大規模な軍事行動、すなわち1947年の第1次警察行動と1948年の第2次警察行動の前に苦戦し、やがて領土のほぼ全域をオランダに占領されることになる。そうした中、最後までオランダの再侵略を許さなかった地域はアチェだけであった。

 オランダの第2次警察行動でアチェに避難していたインドネシア共和国臨時政府の要人に対し、ダウド・ブレエ(Daud Beureuch)らアチェの指導者たちはひとつの要求を行った。それは、自治権を持ったアチェ州を直ちに発足させることであった。そもそも、1948年にアチェを訪れたスカルノ大統領は、アチェ=ランカット=タナ・カロ地区の軍事知事で全アチェ・ウラマー同盟(PUSA)議長でもあるダウド・ブレエの求めに応じ、アチェをイスラム法に基づく自治区とすることを約束していた。アチェの指導者たちはその約束の履行を迫ったのである。

 そして1949年12月17日、ようやくアチェ州が設置された。しかしながらこのアチェ州はわずか8ヶ月足らずで廃止され、アチェは北スマトラ州へ編入されることとなった。そしてこのことが、後のアチェ分離独立運動を引き起こす大きな原因のひとつとなった。

 スマトラ島を北スマトラ州、中スマトラ州、南スマトラ州の3州に分割し、アチェ州は北スマトラ州に編入するという政府決定に対するアチェ社会の反発はすさまじかった。アチェ州議会は1950年8月12日、アチェ州が廃止された場合には今後一切の公職を辞するとの宣言を満場一致で採択した。アチェの公務員もまた、すべての職務を放棄する姿勢を示した。さらに同年12月23日に開催された全アチェ・ウラマー同盟の総会では、アチェの自治権獲得に向けた闘争とその要求が中央政府により満たされなかった場合の、独立をも視野に入れた今後の対応策が激しく議論された。しかしながら中央政府はアチェの北スマトラ州への編入を強行した。こうしてイスラム法に基づく自治どころか単独の州としての地位も失ったアチェは、以後、分離独立運動へと傾斜していくのである。

 1953年9月21日、ダウド・ブレエはインドネシアをイスラム国家化することを目的に国内のイスラム反政府勢力が樹立を目指していた「インドネシア・イスラム国」(NII)にアチェが加わることを発表した。そして1955年9月21日には、「インドネシア・イスラム国アチェ構成国」(NBA/NII)の樹立を宣言し、さらに1961年8月15日には、「アチェ・イスラム共和国」(RIA)の独立宣言を行った。

 このダウド・ブレエの反乱を鎮めるために中央政府は1956年、アチェを再び単独の州に戻した。そして翌57年にはアチェを第1級自治体とし、州知事も任命した。しかしながらアチェの反乱に収束の気配はなく、中央政府は1959年、インドネシア共和国首相決定により、アチェを宗教・慣習・教育の分野で幅広い自治権を持つ「特別地域」とする懐柔策がとられたのだった。

 1962年5月6日、インドネシア国軍の説得に応じ、ダウド・ブレエは数千人の支持者と共に投降した。彼に反乱の罪が問われることはなかったが、アチェにおけるダウド・ブレエの影響力の大きさを恐れた中央政府は1973年以降、彼をジャカルタへ移送し、厚遇しつつもアチェ社会から隔離したのであった。インドネシア独立戦争の指導者からアチェ分離独立運動の指導者へと転じたダウド・ブレエは、1982年にようやくアチェに戻ることが許されたが、それからほどなく寝たきりとなり、1987年、87歳でその生涯を終えた。

Women soldiers of the Free Aceh Movement with GAM commander, 1999. (Wikipedia)

ハッサン・ティロとアチェ独立運動(GAM)

 ダウド・ブレエの投降によりアチェの分離独立運動は一時的に沈静化した。しかしながら1970年代に入ってインドネシアの中央集権化が強まると、再び火を噴き出しはじめた。その最大の理由は、アチェに約束されたはずの宗教・慣習・教育の分野で幅広い自治権を持つ「特別地域」としての地位がないがしろにされたからである。

 そうした不満は1976年12月4日、GAM(Gerakan Aceh Merdeka=アチェ独立運動)の略称で知られるハサン・ティロ(Hasan di Tiro)を元首とするスマトラ・アチェ国の独立宣言として表面化した。

 ハサン・ティロは、アチェ住民を率いてオランダと戦った、前述のアチェ戦争の英雄トゥンク・チ・ディ・ティロ(Teungku Cik di Tiro)の孫にあたる。ダウド・ブレエがアチェで反乱を指揮した1950年代初め、ハッサン・ティロはコロンボ計画の奨学生としてアメリカのコロンビア大学に留学するかたわら、インドネシア政府の国連代表事務所の報道官を務めていた。だが、インドネシア国軍がアチェ住民を大量殺戮していることを知ると、これに抗議して自らインドネシア国籍を放棄し、反乱勢力の海外代表としてインドネシア・イスラム国の国連大使を名乗るようになった。

 イスラム法に基づく自治社会の実現を目指して反乱を起こしたダウド・ブレエとは異なり、ハッサン・ティロはアチェ独立運動を民族解放闘争と位置付けた。インドネシア最大のエスニック・グループであるジャワ人の植民地支配からアチェを解放することを闘争の目的においた。

 ハッサン・ティロのアチェ独立運動は、その時期を2つに区分けすることができる。

 第1期は、ハッサン・ティロがアメリカから極秘に帰国した1976年から次第に追い詰められて国外へと脱出する1979年までである。この時期には、アチェ独立運動の指導者がアチェ戦争の英雄トゥンク・チ・ディ・ティロの孫であることをアチェ社会に広く流布して住民に支持を呼びかける活動や、交通手段や公共施設などの破壊活動が行われた。

 第2期は1980年代後半で、この時の運動の中心となったのはアチェの国立シャー・クアラ大学の教員や卒業生などのアチェ人知識層であった。彼らも各種学校の放火や破壊、アチェ警察署長宅の爆破などのゲリラ活動を展開した。最高指導者であるハッサン・ティロは亡命先のスウェーデンを拠点としてアチェ独立運動を指揮した。

 こうしたアチェ分離独立運動の動きに対し、インドネシアの中央政府はアチェ駐留の国軍部隊を増強するなど、厳しい姿勢で臨んだ。とはいうものの、当初、中央政府はアチェ独立運動が住民の間に広まることの恐れと、国際社会がアチェ問題に関心を高めることへの警戒から、これらの破壊活動を「インドネシア共産党の残党による画策」であるとか単なる「治安攪乱運動」にすぎないと情報操作することに躍起となっていた。政府はまた、そうした破壊活動はアチェのごく一部で起こっているにすぎないことも強調した。

 その中央政府がアチェを軍事作戦地域(DOM)に指定することに踏み切ったのは1989年末のことである。以来、軍事作戦地域指定が解除される1998年8月6日までの約10年の間、中央政府はアチェに大規模な部隊を投入して戦闘ならびに情報作戦を繰り広げた。

 だが、この軍事作戦はアチェ独立運動を鎮静化させるどころか、逆にアチェ住民の分離独立要求を一層高めさせる結果となった。なぜなら分離独立派の武装勢力と一般住民との切り離しを狙った政府治安当局による分離独立派の徹底的な洗い出しや、非人道的な手法による一般住民への脅迫が、中央政府や国軍に対するアチェ住民の憎悪や復讐心に火をつけたからである。

 民間のアチェ人権監視フォーラム(Forum Peduli HAM Aceh)の調べによると、軍事作戦地域に指定されていた10年間にアチェ住民が受けた被害は、処刑された者を含める死者1,321人、行方不明者1,958人、拷問3,430件、強姦128件、放火597件であった。他方、政府の国家人権委員会真相究明委員会の報告では、死者781人、行方不明者163人、虐待を受けた者368人、未亡人になった者3,000人、孤児が1万5,000人から2万人、強姦された者102人、放火された建物102軒とされた。

停戦協定とアチェ特別自治法

 1998年5月、32年間にわたって権力の座に君臨したスハルト大統領が退陣すると、インドネシアには民主化機運が高まった。同年8月にはアチェの軍事作戦地域指定も解除された。

 インドネシアの国民協議会(MPR)が制定した1999〜2004年の「国策大綱」では、「インドネシア単一共和国内における地方自治の発展の上で、早急かつ真剣に取り組まなければならない地方の問題の公正かつ全面的な解決のために、以下の措置を講じる必要がある」として、アチェについては特別に次の2点が挙げられた。 

(a) アチェ特別地域を法律で定められた特別地方自治体とすることで、アチェ住民の社会文化生活の多様性と平等を尊重し、インドネシア単一共和国内での国民統合を維持する。

(b) 軍事作戦地域指定中のものであれ、その後のものであれ、人権侵害に対して公正な裁きと追及を行い、正義と尊厳に基づいてアチェ問題を解決する。

こうしてアチェでも言論や思想、信条の自由の保障される空気が漂った。

 その結果、これまでインドネシア政府とゲリラ化したアチェ独立運動(GAM)の対立の渦中にあって沈黙するしかすべのなかったアチェの市民の間からも、ようやく自らの手でアチェの平和を回復しようとする動きが現れはじめた。

 その一つが1999年2月に結成されたSIRA(アチェ住民投票情報センター)である。これは、長引くアチェ紛争を住民投票によって解決しようとの目的で、アチェの学生グループや青年組織など104の団体が集まって設立したもので、同年11月には州都バンダ・アチェのイスラム大寺院前で「住民投票のために闘う住民集会」を開催し、100万人規模ともいわれる大衆動員に成功した。

 1999年10月に大統領に就任したアブドゥルラフマン・ワヒド(Abdurrahman Wahid)は、こうしたアチェ住民の要求を真摯に受け止めた。そして、スイスに本部を置く国際NGO団体アンリ・ドゥナン・センター(Henri Dunant Centre; HRC)にも、アチェ紛争の平和的解決への支援を要請した。

 アンリ・ドゥナン・センターは2000年1月、スイスにおいてインドネシア政府とGAMとの会談を実現させた。続く2000年5月の会談では、アンリ・デュナン・センターの提案によるアチェ紛争の被害者への人道的援助のための一時停戦にも、双方は合意した(いわゆる人道的休止 Humanitarian Pause)。こうして2000年6月2日〜9月2日まで第1次人道的一時停戦が、さらにそれが延長され2000年9月15日〜2001年1月15日まで第2次人道的一時停戦が実現した。しかしながら現実には、この人道的停戦期間中も、国軍とGAMとの武力衝突などによる政情不安は続いた。

Martti Ahtisaari, facilitator in Aceh-Indonesia peace agreement (Wikipedia)

 2001年4月21日、ワヒッド大統領はアチェ問題への包括的な取り組みを指示する大統領指令2001年第4号を発令した。そのポイントの一つは、アチェの治安回復のための指揮権を警察に全面的に与えたことである。つまり大統領はアチェ問題への国軍の介入を極力抑えようとした。しかしながら実態は大統領の指示通りとはならず、その後も国軍によるGAM掃討作戦は続いた。

 アチェ紛争を平和的に解決するために、ワヒッド政権下ではアチェの自治権を大幅に拡大するための「アチェ特別自治法」の策定も進められた。アチェ特別自治法案は2001年7月19日に国会で可決された。その4日後にワヒッド大統領は解任されるが、この法律は同年8月9日、後任のメガワティ大統領によって正式に公布された。

敵対行為の停止協定、軍事非常事態宣言そして和平合意

 アチェ特別自治法の制定でアチェ紛争が一気に解決に向かうことはなかった。とはいえアンリ・ドゥナン・センターの仲立ちによって、2002年12月9日にはジュネーブでインドネシア政府とGAMとの間で「敵対行為の停止協定」(COHA)が結ばれた。

 その骨子は、協定締結の日から2ヶ月間すなわち2003年2月8日までを双方の相互信頼関係の構築期間、3ヶ月目〜7ヶ月目までの5ヶ月間をアチェの非軍事化期間、そして8ヶ月目以降を具体的な和平実現を図る期間と定めたものであった。そして、この協定の遂行を監視するために、タイのタノンサック少将(Maj. Gen. Thanongsak Tuwinan)を委員長としてインドネシア政府代表とGAM代表そしてタイとフィリピンからの外国監視団からなる合同治安委員会(JSC: Joint Security Committee)も設置された。

 しかしながらこの協定は破綻した。その最大の理由は、インドネシア政府、特には治安当局が、合同治安委員会はGAM寄りであるとの疑念を抱き、委員会の解散に追い込んだからである。2003年3月から4月にかけてインドネシア国軍の組織した民兵と言われる集団に合同治安委員会事務所が襲撃・放火されるに至り、外国監視団は撤退してしまった。

 2003年5月17日から18日にかけて、インドネシア政府とGAMは東京で再び交渉を行った。とはいえ、この会合に出席できたGAM側の代表は海外に拠点を置くGAM指導部だけであった。アチェから参加を予定していたGAM代表の5名は出国書類の不備を名目にインドネシア政府治安当局に空港で身柄を拘束され、参加できなかった。この機会にインドネシア政府側は、最後通牒ともいえる3つの条件の受け入れをGAM側に迫った。その3つとは、すなわちインドネシア単一共和国の承認、武装解除、そして特別自治を最終結論とすることであったが、GAMはこれを拒否した。なぜならば2002年の「敵対行為の停止協定」に基づけば、2003年5月の時点はまだアチェの非軍事化期間であり、それ以外の政治課題は7月9日以降に話し合われるはずだったからである。

 東京での交渉が決裂するとメガワティ大統領は同年5月19日、アチェに軍事非常事態を宣言する大統領決定2003年第28号を発令した。こうしてアチェは再び戦禍の中におかれることとなった。6月16日には「外国人ジャーナリスト・NGOおよび外国人に関する大統領決定2003年第43号」も発令され、軍事非常事態宣言中のアチェへの外国人の訪問も禁じられた。

 アチェの軍事非常事態宣言は1年後の2004年5月18日に文民非常事態宣言に引き下げられたが、これはただ単にアチェの最高責任者が名目上、軍管区司令官から州知事に代わったにすぎなかった。州知事には、中央政府の指示に従うことと、あらゆる決定を行う上でアチェの軍管区司令官、州警察長官、州検察長官と事前に協議することが義務付けられていたからである。

 アチェの文民戒厳令は、2004年10月に発足したユドヨノ政権下でも続いた。それどころかユドヨノ大統領は同年11月19日、「アチェの文民非常事態宣言の延長に関する大統領規則2004年第2号」を発令し、これをさらに6か月間延長した。

 ところが同年12月26日に、その文民非常事態宣言を吹き飛ばす大規模な天災が発生した。アチェだけで少なくとも約17万人の犠牲者を出したスマトラ沖大地震・インド洋大津波である。大津波は多くの人命ばかりでなく文民非常事態宣言をも飲み込み、もはやインドネシア政府はアチェへの外国人の立ち入りを制限できるような状況ではなくなった。各国からの支援部隊や民間組織が続々とアチェ入りし、被災者の救援活動を行った。こうしてアチェの文民非常事態宣言は、有名無実化していったのである。

 アチェを襲った大津波は、インドネシア政府とGAMの対立をも一気に水に流すほどの勢いであったといえる。被災者の救済とアチェの復興を最優先とした双方は、翌2005年1月にフィンランドのヘルシンキで再び交渉の席についた。仲介役となったのは、CMI(Crisis Management Initiative)を主宰するマルッティ・アハティサーリ元フィンランド大統領であった。この交渉の過程でGAM側はついに独立要求を取り下げ、インドネシア側もそれ以外のGAMの要求には大幅な歩み寄りを示した。

 こうして2005年8月15日、インドネシア政府とGAMはヘルシンキで「和平のための共同覚書」を調印するに至ったのである。

15 January 2014

OSAMU INOUE井上治

拓殖大学政経学部教授。専門はインドネシア政治。主な著書に『インドネシア領パプアの苦闘〜分離独立運動の背景』(めこん、2013年)他。

関連記事