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海洋政策研究 第12号EDITORIAL BOARDEditorYoshio Kon Chairman, Ocean Policy Research FoundationEditorial Advisory BoardChua Thia-Eng Chair Emeritus,Partnerships in Environmental Management for the Seas of East AsiaHiromitsu Kitagawa Former Professor, Hokkaido UniversityTadao Kuribayashi Emeritus Professor, Keio UniversityOsamu Matsuda Emeritus Professor, Hiroshima UniversityKunio Miyashita Emeritus Professor, Kobe UniversityTakeshi Nakazawa Secretary, International Association of Maritime UniversitiesHajime Yamaguchi Professor, the University of TokyoEDITORIAL BOARD海洋政策研究 第12号第12 号 2014 年3 月海 洋 政 策 研 究───────────────────────────────────────論 文北極地域協力をめぐる国際政治-冷戦期と1990年代の連続性と非連続性-大西 富士夫 1海賊行為に対する普遍的管轄権の適用―歴史的観点から堀井 進吾 39沿岸域総合的管理のための先駆的科学技術適用の取り組み-バイオロギングによる魚類の生息域利用調査に関する研究-田上 英明 53目 次海洋政策研究 第12号No.12 March 2014Ocean Policy Studies───────────────────────────────────────ArticlesInternational Politics of Arctic Regional Cooperation-Continuity and Discontinuity between the Cold War Period and the 1990s-Fujio OHNISHI 1Historical Analysis of the Application of Universal Jurisdiction over PiracyShingo HORII 39Application of Advanced Technology to Integrated Coastal Management-Assessment of Fish Habitat Use by Bio-Logging-Hideaki TANOUE 53Contents Ocean Policy Studies海洋政策研究 第12号AbstractsInternational Politics of Arctic Regional Cooperation-Continuity and Discontinuity between the Cold War Period and the 1990s-Fujio OHNISHIBased on the perspective of International Relations, this paper aims at exploring structuralfactors which resulted in the flourish of regional cooperation in the Arctic region during the 1990s. Inorder to explore the structural factors by means of focusing on structural continuity and discontinuityin international politics in the Arctic, the paper considers political dynamics of attempts establishingArctic regional cooperation in the Cold War period, and of the Arctic Environmental ProtectionStrategy (AEPS), the Barents Euro-Arctic Council (BEAC) and the Arctic Council, which were allestablished during the 1990s. In conclusion, this paper reveals that 1) the ‘thaw’ in internationalpolitical tensions as structural continuity, and 2) diversification of security concept and collapse ofbi-polar international system both as discontinuity resulted in the flourish of Arctic regionalcooperation in the 1990s.Key words: Arctic Regional Cooperation; International Relations; Arctic International Politics;Continuity and Discontinuity; Arctic Environmental Protection Strategy; BarentsEuro-Arctic Council; Arctic CounciHistorical Analysis ofthe Application of Universal Jurisdiction over PiracyShingo HORIIThis article focuses on the application of universal jurisdiction over piracy from ahistorical perspective. Under traditional international law, piracy had been recognized as the solelegitimate category against which States can apply universal jurisdiction. Such recognition, however,had remained rather theoretical than real; it is very hard to find an actual case where universaljurisdiction was applied to pirates. In order to elucidate the legal implication of this gap betweentheory and reality, two explanations, the latter being more important, can be presented. The first(positive) explanation emphasizes the need for the effective punishment of piratical acts, while thesecond (negative) one focuses on the very limited character of the definition of piracy underinternational law. In the last part of this article we will look into the modern application of universaljurisdiction in the anti-piracy operations off the coast of Somalia and the Gulf of Aden, and brieflyanalyze whether (or not) any lesson can be drawn from the (theoretical) application of universaljurisdiction under traditional international law.Key words: piracy; anti-piracy law; universal jurisdiction; UNCLOSApplication of Advanced Technology to Integrated Coastal Management-Assessment of Fish Habitat Use by Bio-Logging-Hideaki TANOUETo realize a sustainable use of costal areas, it is significant to create a mechanism aiming atthe uses of coastal areas harmonized with natural environment, and at their management from anintegrated point of view. Understanding coastal areas as natural system, Integrated CoastalManagement (ICM) recommends that local governments should play a proactive role and join forceswith the parties concerned to formulate integrated coastal planning and to promote various projects,measures, uses, etc. in a comprehensive and well-planned manner.“Natural system” in the ICMcontext requires the understanding of coastal environments based on material kinetics and thedynamics of animal behavior in time and space dimensions. Particularly, it is indispensable to studyhow creatures are using coastal areas, because such understanding is expected to be useful to work outconcrete measures. This paper reports representative evidences of habitat use by three kinds of fish indifferent coastal areas-all of them are a higher ecological predator and familiar to humans. Theseevidences were obtained by use of an advanced research technology named “Bio-logging System(bio-mounted behavioral and environmental recording system).” The three target fishes represent asmany categories-a rare species, a species important for fishery, and a species harmful to humans.Based on the research results on the relationships of these target species with human activity,discussion has been extended to include the scope of application of specific measures necessary topromote ICM.Key words: Integrated coastal management; Habitat use; Bio-logging海洋政策研究 第12号-1-北極地域協力をめぐる国際政治- 冷戦期と1990 年代の連続性と非連続性 -大西 富士夫*本稿の目的は、国際政治学的観点から1990年代に北極地域協力の発達を生み出した国際政治上の構造的要因を解明することである。このことを明らかにするため、本稿は、冷戦期における北極地域協力構想、1990年代に入ってから設立された北極環境戦略(AEPS)、バレンツ・ユーロ北極評議会(BEAC)、北極評議会(Arctic Council)をめぐる政治力学を考察し、冷戦期と1990年代の北極国際政治にみられる構造的な連続性と非連続性を解明した。この結果、1)国際政治上の緊張の低下(緩和ないしは消滅)という「連続性」と、2)安全保障概念の多様化と2極構造の崩壊という「非連続性」が、1990年代に北極地域協力の急速な発達をもたらした国際政治上の構造的要因であると結論できる。キーワード:北極地域協力、国際政治学、北極国際政治、連続性と非連続性、北極環境戦略(AEPS)、バレンツ・ユーロ北極評議会(BEAC)、北極評議会1.序章1.1 問題意識本研究における問題意識は、国家と国家はなぜ協力(協調)するのかという主題を論究することにある。国家間協力の主題は、「国際政治学(International Relations)」における古典的問題であるとともに現在においても中心的問題である1。リアリストによれば、たとえ他国と協力することに利得が見込まれていたとしても、他国がその協力から得た利得を利用して自国を「出し抜くこと」(double-cross)に用いることを恐れるため、国家は他国と協力することを躊躇する2。これに対して、リベラリストは、国家は合理的に行動し、相互依存・国際制度が媒体となって他国に出し抜かれる恐怖を抑えつつ、利益を追求するために協力できると反論してきた。グローバル化した世界において、国家間協力についての主題は一見時代遅れにもみえる。とりわけ、国際経済分野では、グローバル化した市場原理システムにおいて、国際金融資本が台頭し、国家の役割は少なくとも表面的には後退したかにみえる。しかし、欧州連合におけるユーロ危機は、市場原理の脆さを露呈するとともに、改めて国家による規制* 元 海洋政策研究財団 研究員現 日本大学 国際関係学部 助教2013.2.2 submitted; 2014.1.8 accepted(論文)北極地域協力をめぐる国際政治-論文-2-等の役割の重要性を問題提起した。国際政治分野においても、確かにローズノー(Rosenau,J.N)が「政府なき統治」と論じたように、一方では、環境汚染や温暖化問題等のグローバル問題や、国際テロ・国際伝染病・国際犯罪などの脱国家的問題群(trans-nationalissues)において、個人、NGO、企業といった非国家主体が国際社会の管理において重要な役割を担いつつある3。しかし、他方で、エネルギー資源、海洋の管理、国際貿易といった諸局面において、BRICs といった新興諸国と唯一の超大国である米国との競合が次第に目立つようになってきている。こうした状況において、国家間協力は、国際平和と安定において依然として重要な国際政治学上の主題であり続けている。本稿では、かかる主題を考察する基本的アプローチとして地域研究の手法をとることとする。ここでいう地域研究の手法とは、ある主題について空間的状況(場所・地域)に即して考えることを意味する。地域研究の手法をとる理由は、国家間協力の動態は歴史的かつ空間的状況によって形成され、事例研究を積み重ねることで、国家間協力の主題が理論的に精緻化されていくとの認識に立つからである。1.2 目的 -北極国際政治における連続性と非連続性-本研究は、上述した問題意識に立脚した上で、近年、国際政治の新しい「舞台」として関心が集まっている「北極地域(Arcticregion)」(後述)における国際政治に着目し、とりわけ以下に述べるように、「協力」の側面を研究の対象とする。北極における国際政治は、欧州やアジア、ラテンアメリカ、アフリカといった地域と比べて、国際政治学分野では新しい研究対象である。国際政治学分野において、研究対象としての北極に関心が向けられるようになったのは、ここ20 年余りのことである4。それまでの北極は、東西冷戦の枠組みにおける軍事上の戦略的有用性の有無の観点から捉えられる地域であり、北米の軍事戦略上の関心から軍事関係者に考慮されるにすぎなかったという意味で、いわば国際政治学においては舞台裏であった5。しかし、冷戦終結後の1990年代に、北極海に関する環境保護を主要規範とする地域協力が次々と発達し、北極は国際政治の「表舞台」に登場してきた。1990年に北欧5 か国、米国、ロシア、ソ連、カナダによって設立された「国際北極科学委員会(International Arctic Science Committee:IASC)」、1990 年に北極圏を含む北方圏にある地方自治体レベルによる「北方圏フォーラム(Northern Forum)」、1991 年6 月に北欧5 か国、ロシア、米国、カナダにより設立された「北極環境戦略(Arctic EnvironmentalProtection Strategy: AEPS)」、1993年1月に北欧5 か国、ロシア、欧州委員会により設立された「バレンツ・ユーロ北極評議会(BarentsEuro-Arctic Council: BEAC)」、1994年に設立された「北極地域議員常設委員会(StandingCommittee of Parliamentarians of the ArcticRegion)」、AEPS を吸収合併する形で1996年6 月に設立された「北極評議会(ArcticCouncil)」、1998 年に「北極大学(Universityof the Arctic: UArctic)」などが設立されている。「協調的オリンピック(協調的国家間競争)」6と形容される程、北極では多様な問題領域で地域協力が実施されてきた。しかしながら、国際政治学において北極に対する研究が世界的に本格化するのは2000 年代後半に入ってからである。国際政治学から関心が集まる背景には、北極の夏季結氷面積が著しく縮小し、資源開発及び北西航路・北東航路の商業利用が現実味を帯び7、沿岸諸国は、北極から得られる経済海洋政策研究 第12号-3-的利益を守るための軍事力ないしは警察力の強化を表明または本格化させつつあるという事情がある8。かかる変化の国際政治上の「始まり」を象徴した出来事が2007 年8月のロシアによる北極点海底部分に対する国旗設置とそれへの沿岸国の過剰な反応であった9。軍事力及び警察力の強化が一層強まれば、北極国際政治の第2 幕は、協調が影をひそめ、地政学的特色をもったパワー・ポリティクスへと変容していく可能性を孕んでいる。また、第2 幕の特徴として、日本を含めた非北極圏諸国による北極圏への政治的及び経済的参入も進んでいる10。便宜的に冷戦終結以降の北極国際政治を時期で区分すれば、1990 年代を北極国際政治の第1 幕とするならば、2000 年代以降から現在までをその第2 幕の「幕開け」と呼ぶことができる。第2 幕の特徴は、北極海沿岸諸国が一方においては、程度の差こそあるものの、北極で活動できる軍事能力の向上の意思をみせつつ、その他方では国際法や地域協力といった第1 幕の法的枠組みを遵守するというツートラックによる対応を見せている状況を指す11。すなわち、第1幕の北極国際政治の基本的特徴及び政治力学が継続・維持されたまま、第1 幕には見られなかった新しい力学が水面下で形成されつつあるとみなすことができる。しかし、同時に看過してならないのは、第1 幕において、かかる地域協力が冷戦終結後に「開花」できたのは、その「根」が冷戦期に既に張り巡らされていたからに他ならない。こうした変化を問題意識で述べたように国際政治学的に認識するためには、舞台裏であった冷戦期、表舞台の第1 幕(1990 年代)、同第2 幕(2000 年代)における国際政治の基本構造の連続性と非連続性を解明する必要がある。ここでいう基本構造とは、各時期における政治力学の現れた方を規定する構造的要因のことである。本稿は、かかる北極国際政治における基本構造の全体像を解明するための試みの1 つとして、第1 幕における北極地域協力形成の政治力学、とりわけ地域協力の設立にリーダーシップを発揮した国家の外交を北極地域協力の事例ごとに考察することで、冷戦期と第1 幕とにおける北極国際政治の連続性と非連続性を明らかにすることとする。1.3 北極地域協力の定義本稿における北極地域協力という場合、本稿の問題意識に照らして、北極という地域における国家間協力を指すこととし、非政府間協力は含まないこととする。また、北極の地理的範囲をどのように定義するかによっても、北極地域協力の範囲が異なってくる。なぜなら、北極という地理的範囲について多くの政府が受け入れている共通見解はなく、国際組織ないしは国家が適宜その活動の目的に従って定めている状況にある。そこで、本稿において北極地域協力を定義する場合、まず北極地域で意味する地理的範囲についても明らかにしておく必要がある。「北極」という言葉の語源であるが、この言葉は、ギリシア語の「大熊座の地(arktikos)」に由来する。古代ギリシアでは大熊座が北にあったからであるとされる。現代において、北極についての公式の単一定義は存在しないものの、3 種類の代表的な定義がある。1 つは、「北極圏(Arctic Circle)」を北極地域と見なす定義である。ここでいう北極圏とは、夏至において太陽が一日沈まず、冬至において太陽が水平線よりも下にある地域を指す。この地域の南限は北緯66 度33 分線である。2 つ目に、高木が生息できない限界を露わした「森林限界線(treeline)」に囲まれた地域を北極とする定義も存在する。3 つ目に、夏季の平均気温がセ氏北極地域協力をめぐる国際政治-論文-4-図1 「北極圏、森林限界線、AMAP による北極地域の諸定義」北極圏森林限界線AMAPによる定義北極地域Arctic Regionアラスカ(米)カナダグリーンランド(デンマーク)シベリア(ロシア)アイスランドノルウェースウェーデンフィンランド出典:UNEP/GRID Arendal (2002). Arctic Environmental Atlas (http://maps.grida. no/arctic/ [Geo-2-418])を元に筆者が加工・編集して作成。いずれも線に囲まれた部分が北極地域を表している。10 度に到達しない地域を指して北極とする定義もある。この他でも、北極評議会の北極監視評価プログラム作業部会(ArcticMonitoring Assessment Program: AMAP)のように、独自の定義を行うものもある(図1 参照)。また、現在、自国を北極ないしは北極の一部であると独自に国内法で定義している国には、米国、カナダ、ロシア、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、アイスランドがある12。さらに、北極地域の地理的定義に関連するものとして、北極海の「海域」の範囲を定義した国際海事機関(IMO)による「極海を航行する船舶が関するガイドライン」もある。海洋政策研究 第12号-5-以上の諸点を踏まえ、本稿において北極地域協力とは、次のように定義するものとする。まず、北極の地理的範囲については「北極圏」を本稿における北極地域とする。第2 に、本稿で言う地域協力には、メンバーシップが地理的に限定されている国際協力を地域協力とする。すなわち、北極地域協力という場合、北極圏に領土をもつ国家により構成される国際協力を意味することとする。ただし、北極圏に領土を持つ8 国家の全てからなる地域協力だけでなく、その一部で構成されるものも本稿の考察対象である。第3 に、北極地域協力には、条約等の拘束力をもった取極めによって設立される国家間協力と、拘束力を持たない政治的合意によって設立される国家間協力の両方を含んだものとする。かかる定義に該当する北極地域協力は、ホッキョクグマ保全条約、AEPS(前述)、BEAC(前述)、北極評議会(前述)である。1.4 北極地域協力に関する先行研究本稿で言うところの北極地域協力に含まれる対象を扱った研究は、国際法学と国際政治学に大別される。前者は、一般的に通常条約等の形式により法的拘束力ももった、北極地域へも適用される環境保護レジームについての法的諸概念の検討を行うのに対し、後者は、国家間の政治力学に研究の焦点を合わせている。前者では、南極条約に関する研究から派生する形で夥しい研究が存在するが、AEPS、BEAC、北極評議会といった政治合意に基づく非条約型の地域協力は研究の対象から外される傾向にある。本稿では、問題意識で述べたように国際政治学的観点における国家間協力の要因の解明に主眼を置いていることから、本節で取り上げる先行研究の対象も後者の国際政治学的研究に的を絞ることとする。以下でみるとおり、国際法における研究に較べて、国際政治学における北極研究は、一部の研究者によって取り組まれてきたテーマであり、研究量はさほど多くはない。国際政治学分野において北極地域協力を題材として扱った代表的文献において、初期のものに①1992 年に刊行されたヤング(Young, R. Oran)13によるArctic Politics:Conflict and Cooperation in the CircumpolarNorth がある14。本研究は、北極を国際政治の研究分野として最初に位置付けた研究であり、北極国際政治の特徴(第1 部)、資源・動物保護・北極海航行などの問題領域に対する国際レジーム論的論究(第2 部)、国際社会における北極の重要性(第3 部)からなる。次に、②1993 年のヤングとオシュレンコ(Osherenko, Geir)の共編による、PolarPolitics: Creating International EnvironmentalRegimes がある15。同書には、国際レジーム論の観点から、北太平洋アザラシ、スバールバル、ホッキョクグマ、オゾン層、アークテッィク・ヘイズといった極域に固有の問題領域についての論文が収録されている。また、③1998 年に出版されたヤングのCreating Regimes: Arctic Accords andInternational Governance がある16。同書において、ヤングは、国際レジームの形成の説明理論の主流には、覇権安定論、合理的選択論、規範論があると指摘している。覇権安定論では覇権国の存在、合理的選択論では解決されるべき問題領域の存在、規範論では、認識共同体(epistimic community)の存在に分析の焦点がおかれているが、ヤングによれば、こうしたアプローチはレジームの一部だけを説明するものであり、実証的研究においては限定的な理論的価値しか有さないと指摘している17。その上で、国際的なアレンジメントが創設されるプロセス北極地域協力をめぐる国際政治-論文-6-は複数の段階に分けられ、既存の主流理論は各段階における政治的力学(politicaldynamics)が異なっているという事実を理解できていないと主張している18。そこで、ヤングは、同書では、「アジェンダ形成期(agenda formation)」、「交渉期(negotiation)」、「立上げ期(operationalization)」に区分し、これら3 つのプロセスを成功裡に乗り越えた時に国際レジームが実体をもつことになるという仮説の下、AEPS とBEAC の事例から同仮説を検証している。各時期における考察の中で、ヤングの考察の中心は、6 つの変数に向けられている。第1 が、彼が「推進力(driving forces)と呼ぶアイデア(アジェンダ形成期)、利益(交渉期)、そして物理的条件(立上げ期)である。第2 が、行為者(players)と呼ぶ行為体であり、アジェンダ形成期に顕著となる知識リーダーシップ(intellectual leadership)、交渉期に顕著となる企業家リーダーシップ(entrepreneurialleadership)、立上げ期に顕著な構造的リーダーシップ(structual leadership)である。第3が、「集合行動問題(collective-actionproblems)」であり、アジェンダ形成期においては伝達ミス(miscommunication)、交渉期においての膠着状態(stalemate)ないしは、行き詰まり(gridlock)、立上げ期における取組みへの非対称性(asymmetries in levels ofeffort)を挙げている。第4 の変数は、筆者が「コンテクスト(context)」と呼ぶものであり、具体的には、アジェンダ形成における、政治環境の大きな変化(broad changes inthe political environment)、交渉期における、より特定の外因性の出来事(more specificexogenous events)、立上げ期に顕著となる、国内的制約(internal constraints)である。第5は、「戦術(tactics)」と呼ばれるものであり、アジェンダ形成期では問題対処の枠組みに影響を与えようとする取り組み、交渉期における脅し(threats)と約束(promises)、立上げ期における行政政治上ないしは官僚政治上の戦略が挙げられている。最後は、「制度設計パースペクティブ(designperspectives)」と呼ばれるものであり、アジェンダ形成期には、制度設計における時間、交渉期においては合意文書に含まれる文言の意味に対する思惑、立上げ期においては、該当する国際的組織の立上げへ向けた取り組みにおける損失への国内的懸念がある。同書の特徴は、細かい分析のための独立変数を用意している点で、事実説明のための国際レジーム論であるといえよう。かかる精緻な分析枠組みからのAEPS とBEAC の考察は、同書をおいて他に存在しない。近年では、④2004年のKeskitaloによる、Negotiating the Arctic: The Construction of anInternational Region がある19。同文献は、環境保護規範の形成、持続可能な開発といった重要規範の分析を行っており、北極地域協力の形成に及ぼす規範の役割について示唆に富んだ考察となっている。また、2007年に刊行された⑤Stokke とHønneland の共編による、International Cooperation andArctic Governance: Regime Effectiveness andNorthern Region Building では、先住民、伝染病管理、環境汚染と保護、気候変動、資源開発と環境保護といった問題領域において形成される国際レジームについての論考が収録されており、特に各レジームの「効果(effectiveness)」と「レジーム間相互作用(interplay of regimes)」が分析されている20。1.5 分析手法ここに挙げた先行研究を整理すると、①、②、⑤は、地域協力そのものというより、ある特定の分野に成立するレジームについて考察するものであり、本稿が研究対象と海洋政策研究 第12号-7-する地域協力を扱っていない。③は、AEPSとBEACの政治力学を分析するものであり、本研究の目的に最も近い。しかし、考察対象として本研究には、北極評議会が考察対象に含まれていない。また、方法論において、欠点は、独立変数が細かいため、より踏み込んだ考察が必要であると思われる個所においても簡単な説明に留まっており、それぞれの時期における各変数に費やされる考察が結果的に浅くなっていることである。④は、北極における主要規範の形成のされ方に焦点を合わせており、AEPS、BEAC、AC に関する考察も含まれているものの、規範ごとの分析のため、地域協力内の力学は断片的に扱われてしまっている。そこで、本研究は、③や④の研究における知見を参照しつつ、政治力学を、ある地域協力を設立する上でリーダーシップを発揮する国家の外交と、それに対する他の地域協力参加国の対応(賛成、反対、両者の妥協)とによって織りなされる関係性として定義する。考察対象は、冷戦期における北極地域協力構想、1990 年代におけるAEPS、BEAC、北極評議会の各地域協力の形成期の過程を考察する。具体的には、設立過程と設立要因に区分し、設立過程では、地域協力の設立にイニシアティブを発揮する国家の外交と、他国の交渉過程を明らかにし、また、設立要因では、設立過程に向けてリーダーシップを発揮した国家の政策判断を中心に考察することとする。2. 冷戦期における北極地域協力構想北極において地域協力が冷戦終結後の1990 年代に「開花」できたのは、その「根」が既に張り巡らされていたからに他ならない。実際に冷戦期には少なくない北極協力構想が提案されていた。最初の構想は、第2 次世界大戦末期の米国ルーズベルト(Roosevelt, Franklin D.)政権の副大統領であったワラス(Wallace, Henry A.)による北極海条約構想である。ワラス構想は、国務省及び連邦議会に対して、北極海における輸送、連絡網、北極海探索を促進する協力に関する国際条約の締結に向けて米国がイニシアティブを発揮するべきであるというものであった21。ワラスは、ソ連のモロトフ(Molotov, Vyacheslav M.)外相にも北極条約構想を提案したが、ソ連の支持を得られなかった22。また、1960 年代末、米国は南極大陸の成功から着想を得て、科学調査、北方経済開発、環境保護、保健医療を促進するため、「ノースランド・コンパクト(Northlands Compact)」という多国間協力構想をもっていたが、カナダ、ソ連の支持を得られず、実現できなかった23。1970 年代には、北極海の法的地位を協議する多国間会議構想があったが、これも実現しなかった。これらの失敗があったものの、1971年の「国家安全保障決定覚書(NationalSecurity Decision Memorandum: NSDM)」24では、北極国際協力を奨励していく方針が示され、統合的北極政策部会(IntegratedArctic Policy Group)が設置された25。1973年のNSDM では、科学調査、資源開発、環境保護を中心とする領域において2 国間並びに多国間による北極協力を強く後押ししていく方針が示されている26。カナダにおいても米国同様に北極海協力構想があった。先駆けとなったのが、ピアソン(Pearson, Lester)が首相就任より前の1946 年に唱えた構想である。ピアソンは、北極海における資源を利用していくためには、科学データの共有や探索調査など、北極地域の国家が協力して北極海問題に取組むことが北極諸国及びカナダの利益になると考えていた27。また、地質学者のロイド(Lloyd, Trevor)も、1960 年代において科北極地域協力をめぐる国際政治-論文-8-学調査の連携が政治的関係の改善に繋がるとして、北極海協力の重要性を訴えた。法学者コーエン(Cohen, Maxwell)は、1971年に「環北極海条約(Arctic Basin Treaty)」という多国間条約形式による北極評議会構想を提示した。当時、カナダでは、北西航路の法的地位をめぐる米国との軋轢を受けて28、領海漁業法改正、北極海汚染防止を設定し、北極海においても米国の圧力から脱却することが必要とされた時期であった29。コーエンはその後、カナダ国際問題研究所(Canadian Institute on InternationalAffairs:CIIA、現カナダ国際評議会CIC)の国家資源部(National Capital Branch:NCB)のメンバーとなり、北極海協議体構想の議論が続けられたが、1970 年代をとおしてカナダ政府の政策として取り上げられることはなかった。米国、カナダを中心に数多くの北極地域協力構想が提案されたにもかかわらず、実現されなかった最大の要因は、当時の国際環境である。北極海は、大陸弾道ミサイルの飛翔ルートとさると同時に潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)を搭載した原子力潜水艦が配備されるなど、戦略的要衝として米ソ両陣営が採用していた核戦略である「相互確証破壊( Mutual AssuaredDestruction:MAD)」戦略に組み込まれていた。こうした国際政治環境の下で、北極の地域協力の構想は陽の目を見なかったのである。しかし、冷戦期において北極地域協力が全く存在しなかったわけではない。デタント期に差し掛かると、米ソ両超大国は、非政治的な問題において緊張の緩和を進めた。北極では非政治的分野としてホッキョクグマの種の保全及び管理が米ソによって着目され、1973 年11 月に米国、ソ連、ノルウェー、カナダ、デンマークによって「ホッキョクグマ保全条約( MultilateralConservation of Polar Bears Agreement)」が調印された(1976 年発効、1978 年までに全加盟国批准)。同条約の下で加盟国の領土及び公海におけるホッキョクグマの狩猟、殺傷、捕獲は、研究目的及び先住民による伝統的利用等を除いて全面的に禁止された(第1 条及び第3 条)。また、ホッキョクグマの生息域のエコシステム保全のための適切な措置を講じることも義務付けられた(第2 条)。特に、問題となっていたレジャー目的での捕獲を禁止する条項も含まれている(第3 条)。締約国は条約の実施において必要な国内法的措置を適宜講じる事とされ(第6 条)、同時に保全及び頭数の管理に必要な研究事業の実施において、締約国間で調整・相談・情報交換することが盛り込まれた(第7 条)。ホッキョクグマ保全条約の成立には2 つの要因を指摘できる30。まず、60 年代後半、ホッキョクグマが生息するこれら北極海沿岸諸国では、既にホッキョクグマの保全に向けた国内法制化の動きが開始され、ホッキョクグマの保全の必要性に対する認識が高まっていたことである。特に、飛行機やモーターサイクルを利用したレジャーとしてのホッキョクグマ猟からのホッキョクグマの保護が必要と認識されていた。もう1つの要因として、越境して生息するホッキョクグマや国家の領域以外に生息するホッキョクグマが多く、国内法制では対応しきれていないという事情があった。ホッキョクグマが生息するのは、ロシア、米国のアラスカ(Alaska)州、カナダ北部、ノルウェーのスバールバル諸島(Svalbard)、デンマークのグリーンランド(Gleenland)であり、ホッキョクグマ保全条約がこれら北極海沿岸諸国の間で調印されるに至ったのは、至極当然のことであった。しかし、海洋政策研究 第12号-9-希少価値の高いホッキョクグマを売買しようとする日本等の非北極諸国もホッキョクグマ保全条約に含まれるべきとの考え方のもあり、条約交渉過程においては北極海沿岸諸国の見解が分かれた。特に、ソ連が非北極圏諸国の関与について強硬に反対し、結果的に北極海沿岸諸国(5 か国)による多国間協力が形成されることとなった。これ以降、北極における問題は、北極5 か国間で扱われるべきであるとの考え方が定着していった31。しかし、冷戦構造の対立構造の下では、北極5 か国体制がホッキョクグマ保全以外の領域へと発展することはなかった。80 年代後半に入り、北極における地域協力の可能性を開いたのは、ソ連共産党書記長のゴルバチョフ(Gorbachev, Mikhail S.)であった。ゴルバチョフ共産党書記長は、対外的には西側諸国との関係正常化を狙った新思考外交(1987-90 年)を展開し、また国内においては、ペレストロイカとグラスノスチによる国内改革で知られている。ゴルバチョフは、新思考外交の一環として、中距離核戦力全廃条約の調印の1か月前の1987 年10 月1 日、欧州方面におけるソ連北方艦隊の軍事的拠点であるムルマンスク(Murmansk)州において、北極・北大西洋諸国に向けて有名な演説を行った。これは、ムルマンスク演説として知られている。ムルマンスク演説の中で、ゴルバチョフは、懸案となっている安全保障問題についての協議を呼びかけ、「我々の共通の欧州の家(our common European house)」の実現のための2 国間・多国間協力を行う準備があると宣言し、とりわけその候補地域として北極地域における軍事的対立の劇的緩和に前向きであると呼びかけた32。この演説には6項目からなる具体的な提案が含まれていた。すなわち、北極非核地帯構想、海軍を中心とする軍事活動の制限、資源開発における平和的協力、北極科学調査(共同北極研究評議会をムルマンスクで主催する準備有)、環境保護協力(モニタリングと放射線安全確保)、北極海航路の外国船への開放、といった6 項目において、ゴルバチョフはソ連が国際協力を行う準備があるとしたのであった33。ムルマンスク演説における諸提案の中で最初に進展がみられたのが科学調査の領域であった。ゴルバチョフ書記長とレーガン(Reagan, Ronald W.)大統領はワシントン(Washington D.C.)で会談し、北極における科学調査の重要性が認識され、1990 年の非政府間協力である「国際北極科学委員会(IASC)」(第1 章前述)の設立に繋がった。IASC の構想自体は、1958 年に発足した「南極研究科学委員会(SCAR)」とともに、1957年の国際極年の研究の一環として、「国際科学会議(ICSU)」の1つの特別委員会として設立することが計画されていた。しかし、北極地域は上述してきたように既に東西ブロックに分断されていたため、南極の科学委員会としてSCARだけが設置されることとなった。新冷戦から新デタントへと移行した1980 年代後半、ソ連は西側の科学者に門戸を徐々に開くようになった。これを受け、米国の研究者たちが研究分野における北極協力を唱え、1986 年7 月に北極版のSCAR を作ろうという議論を開始した34。米国の研究者たちの北極科学協力構想は、北極研究に携わる全ての国に参加資格を認めるものだった。こうしたIASC 発足の動きを後押ししたのが、ゴルバチョフのムルマンスク演説であった。同演説では「準北極諸国(sub-Arctic states)」を含めた北極科学協力を検討するための会議の開催が提案されていた35。これにより、ソ連側研究者も北極科学協力構想に積極的に関わるように北極地域協力をめぐる国際政治-論文-10-なり、1988 年3 月にスウェーデンのストックホルムで開催された会合においてIASC設立の提案が行われ、1990 年8 月に科学者による非政府間協力としてIASC が設立されるに至ったのであった。北極地域協力はホッキョクグマ保全条約の先例に基づいて沿岸5 か国から構成されるというのが当時の認識であったが、IASCの意義は、北極圏8 か国を北極圏の地域的ステークホルダー国とする認識が形成されたことである。IASC の組織的中心は総会であり、総会の参加資格はすべての国に開かれている。しかし、総会とは別に地域委員会が設置され、同委員会では地域的な課題や北極8 か国(北極海沿岸5 か国に加えて、フィンランド、スウェーデン、アイスランド)に共通する利害に影響を及ぼす事項について検討を行うこととされた。これは、IASC の活動が、北極8 か国の利害に抵触しないことを目的として設置されたものである。IASC は非政府間協力であったが、1990 年代の北極諸国の政治的メンバーシップの認定において、従来のホッキョクグマ保全条約の5 か国枠組みではなく、新たに8 か国イコール北極諸国という認識の醸成の第一歩となったという点で意義があるのである36。3. 北極環境保護戦略(Arctic Enviromental ProtectionStrategy:AEPS)373.1 設立過程ゴルバチョフのムルマンスク演説後、政府間における北極地域協力の形成に向けた動きも開始された。いち早く行動に移したのがフィンランドである。フィンランド政府は、外務大臣と環境大臣との連名において1989 年1 月12 日に他の北極8 か国の首脳宛に書簡を送り、北極環境の保護について審議する会合への参加を求めた。フィンランド政府が呼びかけた国際会合は、1989年9 月20 から26 日にかけて同国北部の中心都市ロバニエミ(Rovaniemi)で開催された。9 月20 日にロバニエミで開催された会合には、北極圏8 か国と国連環境保護計画(UNEP)から派遣団が出席した。フィンランド環境大臣が開催の辞を述べ、同国の環境・北極・南極の特任大使(ConsultativeAmbassador)であったラヤコスキ(Rajakoski,Esko)が議長を務めた。副議長として、カナダのビーズレイ(Beesley, J. Alan)と、スウェーデンのエドマール(Edmar,Desiree)が選出された。ビーズレイは、『北極の環境の状態とさらなる行動の必要性』と題する作業部会の議事進行を行った。エドマールは、『北極環境の保護のための既存の国際的法制度と将来に向けた協力の組織』と題する作業部会の議事進行を務めた。本会合における最大の成果は、各国が北極における共通の汚染物質を特定したことであった38。その共通の環境問題とは、残留性有機汚染物質(persistent organic contaminants)、原油(oil)、重金属(heavy metals)、騒音(noise)、放射能(radioactivity)、酸性化(acidification)の6 つの特定の汚染項目である。オゾン層破壊及び地球温暖化は、既に既存の枠組みで対応されていたため、含まれなかった39。ロバニエミ会合では、北極の環境保護のための国際的合意を形成すべく、今後も関係国間で協議を継続していくくことでコンセンサスが得られた40。その後、北極8 か国による環境保護協力のための準備は、非公式及び公式の会合において進められた。まず、1989 年12 月にフィンランドの国連派遣団がニューヨーク(New York)にて非公式の会合を開催し、北極の環境保護に関する法的課題について話し合いがもたれた。1990 年4 月にカナダ海洋政策研究 第12号-11-のイエローナイフ(Yellowknife)で開催された公式の準備会合では、ロバニエミ会合で特定された6 つの汚染項目のモニタリングと評価を行うことが重要であるとし、AEPS の最初の草案が作られた41。1991 年1月にスウェーデンのキルーナ(Kiruna)、1991 年5 月にヘルシンキ(Helsinki)と続いた。また、協議を重ねることで、フィンランドが開始した北極8 か国の代表からなる会合は、北極の環境保護協力の実現に向けて、政治的な懸念等を話し合う場として定着していった。1991 年6 月14 日に再びロバニエミにおいて開催された会合では、「北極環境の保護に関する宣言(Declaration on the Protection of the ArcticEnvironment)」及び「北極環境保護戦略(AEPS)」の採択が行われた42。AEPS の採択に至るプロセスは、ロバニエミ・プロセスと呼ばれる43。「北極環境の保護に関する宣言」及び「北極環境保護戦略」は、法的拘束力のない政治文書である。形式的には、「北極環境の保護に関する宣言」を設立文書とし、AEPS文書を行動プログラムとすることも成り立たないことはない。しかし、AEPS 文書は、行動プログラムだけに終始するものではなく、環境協力に関わる行為者、規範、科学的認識、問題領域、ルールといったレジームの構成要素を規定しており、実質的な設立文書となっている44。AEPS の特徴は、レジームが取り扱う汚染源を明確に定めていることにある。これらの6 つの特定の汚染物質の現状の把握をするため、「北極圏監視評価プログラム作業部会(Arctic Monitoring and AssessmentProgram: AMAP)」が設置されている。また、油濁事故への北極への影響について調査する「緊急事態回避準備及び反応作業部会( Emergency Prevention, PreparednessResponse: EPPR)」、船舶起因汚染等の海洋汚染の状況を把握するための「北極圏海洋環境保護作業部会(Protection of the ArcticMarine Environment: PAME)」、そして、北極の動植物相の保全状況を調査する「北極圏植物相・動物相保存作業部会(Conservation of Arctic Flora and Fauna:CAFF)」が設立されている。オブザーバーには、北極の先住民の参加を促進するため、イヌイット環北極圏会議(ICC)、北欧サーミ議会、ソ連北方先住民族協会(RAIPON)が選ばれた。また、北極環境問題への関わりと貢献についての評価に基づいて、先住民団体以外のオブザーバーを認めるとの規定もある。AEPS の運営は、加盟国である北極8 か国による閣僚会合を定期的に開催することを基本とする。意思決定の手続きについては規定されなかった。3.2 AEPS の成立要因北極における環境保護を主目的とする北極地域協力であるAEPS 構想は、フィンランドの環境・北極・南極の特任大使(Consultative Ambassador)であるラヤコスキによって考案されたものであった。ラヤコスキは、フィンランド政府がAEPS 設立へのイニシアティブをとるに至った主要因には、北極環境の悪化に対する新しい認識があったと指摘している45。また、ヤングによれば、AEPS は、東西対立の緩和とソ連の北極圏の開放によってもたらされた北極における国際協力の可能性を追求しようとした初期の試みの産物であり、AEPS の推進者達は、成果を残すために協力分野を環境保護に戦略的に限定したと述べている。その上で、ヤングは、環境保護が協力分野として選択された理由として、環境保護が北極8 か国の利益に適うものであったと指北極地域協力をめぐる国際政治-論文-12-摘している。ヤングによれば、スカンジナビアの観点では、越境汚染物質の流入のモニタリングと影響評価が主な関心事項であり、また、米国においては、油濁汚染事故などの緊急事態を予防し、対応することが主要な関心であった。カナダにとっては、北極の動植物の保全問題が主たる関心事項であった46。フィンランド外交が果たした役割は、ムルマンスク演説における6 提案や、先住民による北極社会の開発など、北極圏における国際協力の課題領域として様々な選択肢がある状況において、冷戦構造における東西間の緊張がまだ色濃く残っていた当時の国際的環境をよく理解し、北極8 か国間で着実に国際協力が行えるように扱う領域を環境保護のみに限定させたことにあった。では、ラヤコスキが指摘する北極環境の悪化に対する新しい認識や、ヤングの言うところのスカンジナビア、米国、カナダにおける環境汚染に対する認識とは、具体的に如何なるものであったのであろうか。AEPS が環境問題として認識した6 つの汚染物質について見ていくこととする。まず、残留性有機汚染物質であるが、これには、ポリ塩化ビフェニル(polychlorinatedbiphenyls: PCBs)、有機塩素系殺虫剤として使用されるジクロロジフェニルトリクロロエタン( dichlorodiphenyltrichloroethane:DDT)、有機リン系殺虫剤に使用されるヘキサクロロシクロヘキサン(hexachlorocyclohexane: HCH)、有機塩素系殺虫剤に使用されるクロルデン(chlordane)及びトキサフェン(toxaphene)等が含まれる。これら残留性有機汚染物質は、難分解性及び高蓄積性のため、自然にとって有害な汚染物質であり、生物濃縮の可能性及び高い慢性的毒性がある。当時、一部の国でその使用及び製造が禁止されていたものの、地球全体では多くの国がこれを使用していた。北極8 か国の共通認識では、北極においてこれらの汚染物質の重大な汚染源がないものの、アジア、欧州、北米にある世界的な工業中心都市から、河川、大気、海流を介して残留性有機汚染物質が長距離移動して北極環境に到達していると考えられていた47。とりわけ、大部分の有機塩素汚染物( chlorinated organiccontaminants)は、高い親油性をもち、北極の食物連鎖に含まれる生物の臓器内の脂肪細胞内組織に濃縮される。実際に高濃度の汚染物質がカナダのケベック州(Québec)のイヌイット女性の母乳サンプルから見つかっている48。北極の先住民は脂質性の高い野生食物の消費が高いため、ホッキョクグマ、クジラ、オットセイ等は、人間へのこれらの汚染物質の流入経路となっていることが、北極に特有の懸念事項と認識されていた。問題は、北極のエコシステムに対する有機塩素汚染物の潜在的影響の全体像について当時十分に知られていないことであった。油濁汚染については、1989 年3 月24 日未明に米国エクソン社の大型石油タンカーであるエクソン・ヴァルディーズ号(ExxonValdez)がアラスカのプリンス・ウィリアムス湾(Prince William)にて座礁し、多くの重油が海洋に流れでるという事故が発生し、その環境被害について当時国際社会の大きな関心を集めた。北極の暗く寒い冬では、低気温かつ日照時間が少なく、流出した原油の分解が低下するなど、北極地域は油濁汚染において極めて脆弱である。結氷海域では、原油は浮氷間ないしは氷の下に留まり、一部は氷上に運ばれるなど、事故後も北極の自然が被害を受ける期間は温帯地域よりも相対的に長い。また、海洋生物への直接的影響は結氷海域縁辺部において海洋政策研究 第12号-13-高く、原油によって汚染された羽や毛皮をもつ動物は俊敏さを失い獲物を襲撃する能力を奪われる。また、原油は皮膚の炎症も引き起こす49。次に重金属による汚染であるが、北極の重金属広域汚染の現代的傾向として、水銀、カドミウム、ヒ素、ニッケルが顕著であることが氷河から抽出されたアイス・コアの解析によってわかってきた。19 世紀半ば以降から増加傾向にあり、20 世紀には著しい増加がみられる。重金属の自然界における堆積は自然現象の結果として生じているものもあるが、主に工業中心地から長距離大気移動により、植物、雪、海における重金属の堆積に帰結していることもある。水力発電所建設のように、以前植物に覆われた地域に水を貯め込むと、地元鉱山及び無機水銀のメチル化により重金属が放出され、高濃度となる。カナダとフィンランドの研究では、有機材料の総量によるものの、魚の体内のメチル水銀濃度が、貯水池の決壊の後著しく増加することが報告されている50。北極の海洋環境において、水中の重金属濃度は、南部の緯度の低い海域よりも低いとされるが、生物相内の濃度は、食物連鎖において増加し、また、アザラシ及びクジラなどの食物連鎖の高次元にある捕食生物の体内において増加している。例えば、カナダの複数の研究によれば、イッカククジラの腎臓内のカドミウム濃度は海洋性哺乳類に関する過去の報告の中では最も高かくなっていた51。また、海洋性哺乳類及びいくつかの鳥類にみられる高い重金属濃度は、それら動物を日常食とする地域で問題となっている。上昇する水銀濃度は、狩猟を生業とする地域のグリーンランド人の体内や、カナダの北部ケベックに居住する先住民の体内においても検出されている52。北極では深刻な放射能汚染も認識されている。北極に影響を与えている放射性汚染物質には2 つの主要な原因がある。1950 年代と1960 年代に実施された大気中での核兵器実験と、1986 年のチェルノブイリ原子力発電所における事故である。ストロンチウム90(半減期29 年)やセシウム137(半減期30 年)のように長期の半減期をもつ放射性核種は、重大な懸念事項である。放射性核種に由来するこれらの放射性降下物は、栄養分の乏しい環境下において効果的に土壌表面の植物、とりわけ地衣類等に浸透し、北極エコシステム内部で生物循環し、結果として、放射性セシウム(radio-cesium)が濃縮されたカリブーやトナカイの肉を主食として消費している先住民の体内蓄積に至ると考えられている53。さらに、原子力燃料及び放射性廃棄物の移動、蓄積、処分等の生物学的影響を引き起こす放出もある。酸性化も重大な脅威として認識されている。主要な酸性化物質は、車両、工業活動、石炭及び石油による火力発電所から放出される硫黄化合物及び窒素化合物、二酸化炭素である。大都市から長距離大気移動により、とりわけ冬季において北極の大気状態が影響を受けると考えられている54。北極における酸性化に関連する問題の最も良く知られた事例は、酸性化物質を含むエアロゾル(aerosols)から生成されるアークティック・ヘイズ(Arctic haze)現象である。アークティック・ヘイズは、既に多くの研究が実施され、その性質、分布、成分比率について多くが知られてきた。酸性化は、特定の北部工業中心地においてだけでなく、酸性化物質の長距離大気移動により北部フェノスカンジナビア、ソ連邦北西部、カナダ東部においても顕著な環境問題へとなっていたのであった55。また、酸性堆積物と過酷な環境による環境負荷との複合的影響北極地域協力をめぐる国際政治-論文-14-は、北極における植物成長への潜在的被害の危険性をもたらしている。重大な負荷、酸性化の度合い、寒冷気候に影響を与える諸条件は、より詳細な地域的モニタリング及び研究を必要としている。一般的にみても、北部のエコシステムは温帯地方のそれよりも大きな負荷にさらされているのである56。これらの環境問題についての「新しい認識」(前出のラヤコスキの言葉)に基づいて、フィンランドがロバニエミ・プロセスとして知られる一連の設立準備にイニシアティブを発揮し、これがAEPS に結実した。AEPS の設立要因を考察するとき、まず、これらの環境問題についての認識が北極8か国の間で共有されたことが直接的要因といえる。しかし、これだけでは、フィンランドがAEPS 設立のために外交イニシアティブを発揮した要因を説明できない。なぜ、フィンランドは、冷戦末期の1989 年から1991年にかけて、環境問題に取り組むための北極地域協力を行おうと判断したのであろうか。こうしたフィンランドの判断は、環境問題への対処の必要性よりもより高次の戦略的判断がなされていたとみることにより説明ができる。当時、フィンランドが外交的イニシアティブを執った背景には、1948 年4 月「フィン・ソ友好協力相互援助条約(Treaty ofFriendship, Cooperation and MutualAssistance:FCMA 条約)」によってフィンランドに課された外交的制約の存在がある。第二次世界大戦期、フィンランドはソ連と2 度の戦争を経験する57。冬戦争(1939 年-1940 年)、継続戦争(1941-1944 年)である。冬戦争は、独ソ不可侵条約秘密議定書を下敷きとしつつ、フィンランドに対してソ連海軍駐屯のためのハンコ(Hanko)港の貸与、オーランド諸島(Åland)の再武装化、カレリア(Karelia)地峡の国境線の変更についてのソ連の求めに対して、フィンランドが拒否したことを発端として争われた戦争である。継続戦争では、ドイツ軍駐留のための密約をドイツと結んでいたフィンランドは独ソ戦の開戦とともに自動的に対ソ開戦に入った。この2 度にわたる戦争の結果、フィンランドはソ連の「勢力圏(sphere of influence)」に組み込まれ58、ソ連は冷戦期を通してフィンランドが勢力圏から離脱することを許さなかった。FCMA条約は、フィンランドをソ連の勢力圏にとどめるための政治的装置であった。同条約の前文では、「大国間の紛争の局外にたつというフィンランドの切望」と、「フィンランドとソ連が国際連合の目的と原則に従って国際平和と安定の維持のために貢献するという不動の願望」が明記された。また、第1 条では「ドイツ軍(当時の西ドイツ)並びにその同盟国がフィンランド領土を通過してフィンランドないしはソ連を攻撃する際にはそれを撃退する義務を負うこと(第1 条)」も規定されている。FCMA条約は、ソ連の意向に反してフィンランドの西側世界への接近を禁止するものであった。同条約の制約のため、フィンランドはマーシャル・プランへの参加を取りやめている。つまり、フィンランドの国際的行動はソ連の意向を伺いながら決めなくてはならなかった。こうした国際環境の下、フィンランドの指導者は、フィンランドの国際的行動に関するソ連の許容範囲を模索する外交を行ってきた。この外交姿勢は、政治指導者の名前に由来する「パーシキヴィ(1946-1956)・ケッコネン(1956-1981)路線(Paasikiven-Kekkonen linja)」として知られる中立外交政策への道を開いた59。フィンランドの指導者は、ソ連指導部の理解を海洋政策研究 第12号-15-取り付けることによって、フィンランドは1955 年に北欧審議会、国連への加盟を果たしている。フィンランドの冷戦期の対外行動は、このパーシキヴィ・ケッコネン路線を基本として進められてきた。こうしたフィンランド外交にとって、ゴルバチョフによるムルマンスク演説は、国際的行動の限界を拡充していく機会をもたらすものであった。当時のフィンランドのマウノ・コイヴィスト(Koivisto, Mauno)政権にとっては、同国の国際的行動の範囲を拡大するためのまたとない機会と映った。したがって、AEPSに向けてフィンランドがイニシアティブを発揮した要因には、環境分野における地域協力の開始を同国の国際的行動の拡充が最も可能となる見込みが高いとの戦略的判断があった。AEPS の設立過程と同時並行して共産圏諸国がソ連からの独立を始め、ソ連邦の解体が次第に明らかになるにつれ、フィンランドはソ連のくびきからの脱却を加速させるために欧州への統合を模索し始めた。1992 年に始まったフィンランドのEU加盟交渉が本格化し、EU 加盟が政治日程になると、フィンランドにとって国際的行動の拡充の場であった北極地域協力の重要性は低下し、フィンランド外交におけるAEPSの政治的有為性は必然的に冷却化していったのであった。このことは、AEPS においてリーダーシップを発揮する国が徐々にフィンランドからカナダへと移行していくこととなり、第5 章で論じるように、カナダが元来主張していた北極評議会構想の実現へ向けた外交を展開していく背景となった。4. バレンツ・ユーロ北極評議会(Barent Euro-Arctic Council:BEAC)604.1 設立過程1989 年に東西イデオロギー闘争が終焉し、東欧諸国において共産主義政権が崩壊した。1990 年にはドイツ問題が解決され、新しい「統一ヨーロッパ(unified Europe)」の建設への流れが不可逆なものとなった61。1990 年11 月の「欧州安全保障協力会議(Conference on Security and Cooperation inEurope: CSCE)」のパリ首脳会議では「パリ憲章」が採択され、旧共産圏諸国の民主化と市場経済への移行が冷戦終結直後の欧州国際政治のアジェンダとして浮上し、ソフト・セキュリティーの重要性が高まった。これら一連の過程を背景として、欧州北部のバレンツ海から南部の黒海へ至る一帯を縦断するように多くの下位地域協力が誕生した。下位地域協力の特徴は、「上位地域」に対して補完的な役割を果たすことにある62。EC/EU を上位地域とする下位地域協力として、1992 年にはバルト海沿岸諸国による「バルト海諸国評議会(Council of BalticSea states: CBSS)」及び黒海沿岸諸国による「黒海経済協力(Black Sea EconomicCooperation: BSEC)」、さらに中央ヨーロッパでは1989 年に「ヴィシェグラード・グループ(Visegrad group)」及び「中欧イニシアティブ(Central European Initiative: CEI)」、1992 年の「中欧自由貿易協定(CentralEuropean Free Trade Agreement: CEFTA)」が次々と設立された。ノルウェーがイニシアティブをとって1993 年に設立されたバレンツ・ユーロ北極評議会(BEAC)もこうした下位地域協力の1 つである。BEAC の設立交渉は、ノルウェー外務省の主導の下、国家間レベルと地方自治体レベルとにおいて同時並行して進められた。最初に開始されたの設立交渉は国家間レベルで行われ、最初の交渉相手国は新生ロシアであった。ノルウェーのストルテンベルグ(Stoltenberg, Thorvald)外北極地域協力をめぐる国際政
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