Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第372号(2016.02.05発行)

横浜から海洋生物コレクションを世界に発信したアラン・オーストン

[KEYWORDS] 海洋生物学/生物標本/博物学
国際化トレーニングコンサルタント◆Mike Galbraith

かつて横浜に在住したアラン・オーストンによって魚類、海綿動物、外肛動物を含む博物学収集品および標本が数多く作られ、世界にその存在が広く知られていた。
オーストンは日本の海洋生物学の発展に大きな影響を与えており、彼の没後百年を機に日本の海洋生物学関係の研究機関が中心になって、これらの貸与を受けてオーストン展を行うことが望まれる。

オーストン・コレクション展の開催を

かつて横浜に在住したアラン・オーストンによって魚類、海綿動物、外肛動物を含む博物学収集品および標本が数多く作られ、世界にその存在が広く知られていた。しかし今は世界の多くの著名な自然史博物館の中で、何十年にもわたって人目につくことなく、横たわっている。
オーストンの没後百年が経った。今こそ日本の海洋生物学関係の研究機関が中心になって、自然史の研究機関とも提携し、海外にあるオーストン・コレクションおよびオーストンの製作した標本類の貸与を受けて、国内で展示を行うことが望まれる。当時オーストンと親密な関係にあった東京大学理学部動物学箕作佳吉(みつくりかきち)教授、同飯島 魁(いさお)教授、さらには魚類の名採集人であった青木熊吉らの収集品および標本類も合わせて展示することが望ましい。

アラン・オーストンとは

■Alan Owston(1853-1915)

なぜオーストンなのか、また、なぜ日本の海洋生物学者らが中心となってこれを行うべきなのか。それは、オーストンが日本の海洋生物学の発展に大きな影響を与えた人物だからである。
オーストンは、1853年8月7日、ロンドン近郊のサリー州パーブライトで生まれた。学校教育を終えた後、上海を経由して1872年に横浜に渡り、1915年11月30日に没するまでの生涯をこの地で過ごした。横浜では1878年に貿易商として事業を興すことに成功し、やがて深い関心を寄せていたヨットと博物学の研究に多くの時間を注ぎ込むことになった。彼は、博物学の専門教育は受けてはいなかったが、日本および近郊の国々の鳥類、魚類、後には海綿動物その他の多様な海洋生物の標本を収集家同士のネットワークを用いて入手、あるいは交換し、また各方面に寄贈した。

オーストンの功績

オーストンの功績が素晴らしいことは、オーストンに敬意を表して名づけられたラテン語の学名が多いことからもわかる。その多くは、Owstonia weberi(魚名)のごとく 彼の姓をラテン語化したOwstoniを冠して命名が行われたものや、Acanthascus alani Ijima(海綿名)のごとく名を取り込んだ例、イニシャルを用いた例などもある。一例だけだがStorm-petrel Stonowaでは姓(Owston)とイニシャル(A. O.)を並べ替えている。
ここにきわめて深い意味を持つ命名の例がある。その名もMitsukurina owstoni(ミツクリザメ類)。生きた化石と呼ばれるきわめて奇怪な深海鮫で、英名をゴブリンシャークという。相模湾伊豆沖で捕獲され、オーストンがこれを買い取って箕作教授に寄贈。箕作教授はこれを当時魚類学において世界的権威であったデビッド・スター・ジョルダンに示し、ジョルダンはオーストンおよび箕作教授に敬意を表して二人の名をラテン語化して命名したのである。
箕作教授は、東京大学のドイツ人博物学教授ルードヴィッヒ・デーデルライン(1855-1936)が海洋動物の豊かさにおいて相模湾は世界有数のところであると指摘したことを受けて、相模湾内に東大三崎臨海実験所※1を開設する努力を開始したのだった。これは1884年のことである。

収集活動と東大三崎臨海実験所

■「ゴールデン・ハインド」号

オーストンは、生物標本の多くを地元の店や市場で買い取り、時には日本人コレクターから入手した。オーストンにとって生物収集は趣味でもあり、また他へ売ることを目的としたものでもあった。顧客は主としてロスチャイルド卿などの富裕コレクターや当時日本の標本を購入することに特別の関心をもっていた米英の博物館、大学などであった。
ヨットと海洋生物学にも深い関心をもつオーストンは、やがて、ヨール型帆装36 1/2フィート級小型深海クルーズヨット「ゴールデン・ハインド」号※2に浚渫機を搭載し、相模湾および東京湾沿岸の深海に生息する底生生物を求めて浚渫を開始した。これによって新種生物が数多く発見され、箕作教授の関心を引くに至った。オーストンは日本政府に対し浚渫機の寄贈も行い、政府からも関心をもたれる存在となった。東大三崎臨海実験所は1915年まで深海の浚渫を行うための船をもつ予算がなかったため、オーストンは箕作教授以下、実験所で海洋生物学の研究にたずさわる面々に、折に触れて浚渫用ヨットに同乗する機会を与え、採取生物の寄贈を行った。
ジョルダンは、1900年と1911年の購入品に関して「オーストン氏および青木氏を通して入手した標本類は、他の品々と比べてはるかに重要なものばかりである」と記している。

欧米におけるオーストン・コレクション

1902年にオーストンは、ケンブリッジ大学動物学博物館シドニー・ハーマー館長あてに、相模湾および東京湾で採取された外肛動物を中心とする生物標本63瓶を送付し、英貨5ポンドを得た。これらは後に、同じくオーストンから購入した他の生物標本とあわせてロンドン自然史博物館(NHM)に移譲または売却され、同博物館の114体の標本から成るオーストン外肛動物コレクションの中核を占める存在となっている。現在、World Register of Marine Species (世界海洋生物目録:WoRMS)には名の一部に「Owstoni」という語をもつ生物31種、「Owstonia」という語をもつ生物12種が記録されている。
また、スミソニアン博物館の無脊椎動物コレクションにはオーストンの収集になる標本99体があり、「採集船:ゴールデン・ハインド号」と付記されている例が多い。同博物館には、このほかに鳥類31種、魚類14種、爬虫類2種がオーストンの収集になるものとして記されている。

優れた標本のコレクション、世界的に高まりゆく評価、そして素晴らしいヨット。しかし晩年のオーストンは財政的に次第に行き詰まっていった。ジョルダンはその追想記に、1911年に日本を訪れたときの印象として「オーストンは財政的に行き詰まり、いかにも憔悴しきった様子だった」と記している。オーストンは1915年11月30日に世を去るが、ジョルダンは死期の近いオーストンがアジアの魚類1,364点からなる貴重なコレクションをピッツバーグのカーネギー自然史博物館に売却するのを手助けした。これらは1950年代にシカゴのフィールド博物館に譲渡・売却され、現在、同館のデータベースには、オーストンの収集した魚類標本1,461点が収録されている。(了)

※2 横浜ヨットクラブ創立者であるオーストンは、1898年に「ゴールデン・ハインド」号により、当時のおそらく最高位のレースにおいて「プライド・オブ・ヨコハマ」として知られる37フィート級カッター「メリー」号と競い、勝利を収めた。
● 本稿は英語で寄稿いただいた原文を翻訳・まとめたものです。原文は/opri/projects/information/newsletter/backnumber/2016/372_1.html でご覧いただけます。

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