日下部 尚徳 (東京外国語大学特任講師)
2016.12.07
  • バングラデシュ

チッタゴン丘陵における紛争の経緯

○チッタゴン丘陵における紛争の経緯

バングラデシュ南東部に位置するチッタゴン丘陵(Chittagong Hill Tracts:CHT)は、国土の約10%を占めるバングラデシュ唯一の丘陵地帯である。CHTでは、仏教やヒンドゥー教、土着宗教を信仰する約60万人のモンゴロイド系民族が、焼畑農業を営みながら暮らしてきた。彼らは、ベンガル語で「焼き畑をする人」という意味の「ジュマ」を自らの総称として使用している。ジュマは11~13の民族から構成されており、それぞれの民族は異なった言語を有する。

一方で、バングラデシュの国土の大半を占める平野部のデルタ地帯では、ベンガル語を母語とするベンガル人が多数派であり、人口の約99%を占める。政府は平野部のベンガル人をCHTに入植させる政策をとっており、入植者ベンガル人とジュマの間での土地をめぐる争いが、時に大規模な暴力事件へと発展し、紛争の火種となってきた。

ベンガル人のCHTへの移住は、バングラデシュがまだ東パキスタンと呼ばれていた1950年代に活発化し、主に土地なし貧困層が政府主導のもとCHTに入植した。また、政府はCHTにおいて積極的な開発政策を実施し、1957年にはチッタゴン平野部の工業地帯への電力供給を目的とした大規模ダムを建設した。これによってCHTの耕作地の4割が失われ、ジュマの人びと約10万人が居住地を立ち退くことになったことから、ジュマと中央政府の関係は後戻り出来ないレベルにまで悪化した。

1971年、第3次印パ戦争を経て、東パキスタンはバングラデシュとして独立した。独立後、ジュマのリーダーたちは、CHTにおける自治権をムジブル・ラフマン初代バングラデシュ大統領に訴えたが、要求は受け入れられなかった。そのためジュマは政治団体であるチッタゴン丘陵人民連帯連合協会(Parbatya Chattagram Jana Samhati Samiti: PCJSS)を結成し、国会に議員を送り出すことによる政治的解決を試みた。また、1973年には武装組織であるシャンティ・バヒニ(Shanti Bahini)を結成した。

一方のバングラデシュ政府は、平野部のベンガル人をCHTに入植させる政策を推し進め、1979年から1983年までに40万人近くのベンガル人がCHTに入植した。その結果、CHTにおけるジュマの人びととベンガル人入植者の人口比は、ほほl対lにまで変化し、ジュマと入植ベンガル人との間で土地をめぐる争いが激化した。政府は、入植ベンガル人保護の名目でCHTに軍を派兵したが、汚職の横行や暴力事件が多発したことから、軍とジュマの間でも緊張が高まった。

ジュマの武装組織であるシャンティ・バヒニは、1979年にCHTに駐屯するバングラデシュ軍に対して夜襲をかけ、CHTは実質上の紛争状態に陥った。それに対抗するかたちで、バングラデシュ政府はCHTに推定1万~3万人ともいわれる圧倒的な数の軍を配備し、一般人やメディア関係者のCHTへの立ち入りを制限した。こうして密室と化したCHTにおいては、入植ベンガル人や軍による虐殺や暴力事件によって1980年から1993年の間に数千人の死者が発生し、6万人近いジュマの人びとが難民としてインドのトリプラ州国境沿いに避難したとされる。

1997年12月、インドの仲介による長い交渉の末、 PCJSSとバングラデシュ政府の間で和平協定が結ばれた。インドが和平協定締結を推し進めた背景には、インドに流入した6万人近い難民と地元住民との軋轢がインド政府を悩ます政治課題となっていたことが影響したと考えられる。

和平協定は、PCJSSが傘下の軍事組織であるシャンティ・バヒニの武装解除に応じるかわりに、政府がインド領内に避難したジュマ難民の安全な帰還、国内避難民の保護、土地の返還、入植ベンガル人の退去、軍の撤退、ジュマ武装メンバーの雇用、ジュマの文化と歴史を優先した政治体制などを保障する、というものであった。

難民の帰還は1998年1月1日から始まり、帰還難民優遇策として、過去の債務帳消しや、政府部門での優先雇用などが提示された。シャンティ・バヒニの武装解除も同年2月10日から始まり、約1ヵ月の間に2000人弱が帰順した。政府は彼らに特赦を与え、生活再建資金として一時金5万タカを支給した。さらに5月にはCHTを構成するカグラチョリ、ランガマティ、バンドルボンの3県を統轄する丘陵地域評議会を新設する法律が国会で成立した。

しかし、和平プロセスが順調に進んだのはここまでであった。結果として土地の返還や軍の撤退、入植ベンガル人の退去といった要求はほとんど認められないまま、シャンティ・バヒニは武装解除に応じることとなった。武装解除により軍事的・政治的に弱体化を余儀なくされたジュマの人びとは、軍や入植者の抑圧的行為に抵抗するすべを失った。

現在でも、ジュマと入植者との間の土地をめぐる小競りあいが、ベンガル人入植者集団による襲撃事件へと発展する事態がたびたび発生している。多くの場合、ジュマへの襲撃事件には軍関係者が同行しており、軍人がジュマの人びとに暴力行為を働く事例も報告されている。

そんな中、2016年5月に、ハシナ首相がCHTに展開する軍の一部撤退と、土地問題を含めた和平協定の完全実施に前向きな発言をした。具体的な方策やスケジュールは示されていないが、このメッセージをジュマの側がどう受け止め、どのようにして政治的な交渉の場へとつなげていくのか、今後の動向を注視する必要がある。

 和平協定締結以前は、戦闘能力と暴力が政治交渉の中心にあった。1997年に和平協定が結ばれてからは、政治交渉の関心は和平協定の実施に移っていった。

 和平協定は4章72項から構成されている。以下がその主な内容である。

NAONORI KUSAKABE日下部 尚徳

(東京外国語大学特任講師)

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