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オーシャンニューズレター

第15号(2001.03.20発行)

第15号(2001.03.20 発行)

西施とふぐと日本海

遊酔(横浜和田町)社長◆高 章夫

韓国と日本はきわめて近く、そして遠い。この両国が日本海によって隔てられているのではなく、日本海でつながっていることを、「ふぐ」とそれにかかわる人や器がおしえてくれる。

日韓近海におけるふぐの産卵場
「ワクワクタウン下関」4号(2000年4月15日発行:カセダ)をもとに作成

「ふぐ」をめぐる日韓の歴史的因縁

私は「とらふぐ」を世界の四大珍味に加えても異議申立てをしない一人である。在日韓国人二世として東京に生まれ、山口県萩で青春を過ごし、横浜で仕事を起した私には、ある一時期事業を盛んにした頃、ふぐの老舗にそれこそ1週間に10日を、10年以上も通いつめた時代があった。

淡白な薄切りの刺身を引きしめる徳島のカボスのほのかに甘いポン酢が決め手であった。深谷の太く甘みのあるねぎはちり鍋の脇役を果たし、厚切りのかまの唐揚げに焼き塩をふりかけ、熱燗で時の流れを忘れた。

この時期にあるシンポジウムでソウルに招かれた。望郷の念にかられた老いた母を連れ添い、初めての母国の土を踏んだ。熱いものが込み上げ夢の中を彷徨っている自分を見た。母が娘時代を過した村を訪ねたときに、「村一番の機織り娘だったョ」と誇らしげに語った母ももうこの世にいない。

私事はさて置き、この紙面を借りて、ふぐの食を通してみた日韓の近さと遠さについて語ってみたい。話は自ずと中国までさかのぼる。

古来より男達は、見果てぬ夢を見て儚く切ないロマンに心を砕いている。ふぐの「白子」精子に、春秋時代の呉王夫差が愛し余って国を傾けた幻の美女西施(せいし)の白く眩しい乳房を忍び、「西施乳」と呼び、「白子酒」として呑むが、たくましい想像力いかんによっては艶のある酒になり乱酒にもなる。ついでだが、俳人芭蕉もこの美人に心を寄せ「象潟や雨に西施がねぶの花」と淡いねぶの花に西施を重ねて詠じた傑作がある。このように男を惹き付けて止まない。

ふぐは棘鰭魚類、90属、約330種類が世界の熱帯と温帯の水域に住む。体長は最大2メートル、体重最大1,000キログラムに及ぶものもあるという。食用できるふぐは昭和58年の厚生省環境衛生局長通知により、21種類が定められた。そのうち最も美味な肉をもつのがとらふぐである。そのとらふぐのこの10年間の水揚げが1987年の870トンから1998年の103.6トンに、何と8分の1に激減している。

ふぐは、卵巣や肝臓などにテトロドドキシンという猛毒を有しており、しかもふぐの種類によって毒のある部位が違う。そのために食い倒れの関西では「あたれば死ぬ」ということから、「鉄砲(てっぽう)」と呼ぶが、豊臣秀吉が天下統一後、野望の矛先を韓国に向けた頃に出した「河豚食用禁止の令」が日本最初の取り締り法であった。これを見てもいかに多くの者が「鉄砲」に当たり犠牲になったかが頷ける。

春帆楼
伊藤博文による「春帆楼」の書。
日清講和条約の舞台ともなった「春帆楼」は、昭和20年の戦災で全焼しており、現在はその後新改築された建物で営業されている。

時は過ぎて明治21年、これもまた韓国にとって忘れがたい日本の初代首相、伊藤博文は、下関の「春帆楼(しゅんぱんろう)」で「こねい甘えものを禁ずる手はないのう、調理に万全をつくすならのう」と萩弁で山口県令に即解禁を命じ、「春帆楼」をふぐ料理解禁第一号としたのは歴史の偶然であろうか。

その後、彼は明治38年4月自ら「春帆楼」を歴史の舞台に選び、清国側李鴻章と一方的な日清講和条約交渉に臨む。

明治42年、維新の功労者、英雄博文は韓国青年の「てっぽう」ならぬ銃弾に当たり、忽然と歴史の舞台から消えて行った。今日も残る「春帆楼」の額文字は博文の手によるものであるが、書体は豪胆に時代を走った面影はなく、か細く春風に舞ってゆれている。

「食材」「調理法」「器」の違いや重なりと、文化の違いその重なり

その後、今日の日本ではふぐは超高級魚として扱われ、赤絵の皿に模様が透けてみえるほどに薄く引かれ、鶴盛り、菊盛りなどの趣向が凝らされる。このような目と舌の先で味わう日本料理に対し、韓国料理のふぐは、舌全体と喉で味わうのである。鍋(チゲ)は、皮付きのブツ切りを季節野菜をふんだんに入れ、辛し味噌(コチュジャン)を加え仕上げる。

萩で若い頃の母が、私によくつくってくれた自慢鍋の逸品がある。ブツ切りのふぐに、そぎ切りの大根に荒切りの青ネギ、少々のニンニク、生醤油で味を整える。半死状態の二日酔いを生還させる幻の吸物鍋である。刺身に至っては、厚切りで、辛し味噌に酢と少量の砂糖、ごま、さらに生姜汁を加えて食べる。韓国ではふぐ刺しよりは、むしろ生だこ、生いか等を好み、エイ(赤エイ)の刺身に親しんでいる。この赤エイ、軟骨が多いため、薄切りにして噛み砕く感触を楽しむ。また、千切り大根に辛し味噌を加えるとさらに甘い。この類のものを器に盛り付けるには、赤絵の皿は料理の邪魔をする。

同じ魚についても調理方法がこのように違い、さらには同じ刺身という食べ方でも好んで食べる魚が違うというこの違いは、野菜についていえば韓国の三寒四温の気候が「キムチ」の食文化を創り出したのに対して、日本のより温暖な気候が白菜漬けを創り出したように、両国の気候の違いによるところが大きいといえよう。

当然のことながら、両国の違いは気候の違いによるだけではない。過去の歴史の積み重ねが文化の違いとつながりを生みだしている。ふぐの料理を盛る器、焼物について少し語ってみよう。私の青春時代を過した萩は、今日、焼物の町に変貌を遂げている。

萩の毛利輝元は、秀吉の命で韓国侵攻の折、陶磁器に魅せられ、陶工李勺光とその弟李敬を連れ帰り、藩の御用茶碗造りとして召し抱えた。当時韓国侵攻を「茶碗戦争」とも呼んだ。千利休は、最初に韓国の雑器の中に「わび」、「さび」の日本的な美を見出した偉大な茶人であった。しかし秀吉の金の茶碗に抗して、腹を割いて自らを貫く。

明治の英雄伊藤博文が、幼児の頃、天保12年に萩藩士伊藤家の養子となった。その伊藤家の庭先に、現在、萩焼きでできた等身大の博文の像がある。この像は、私の友人でもあった陶芸家、中野霓林(げいりん)の製作によるものだが、この像の製作に霓林は登り窯で3日3晩松の薪を焚き上げた。私も、彼を助けて、寝食を忘れて薪の補充に走った青春の思い出がある。自ら命を絶った霓林の後世に残した随一の芸術作品である。李勺光兄弟が開いた萩焼きの博文が、外套をまとい韓国の方角を愁いに満ちたまなざしで見つめ、西日を受けて蘇っている。

日韓両国は一衣帯水である。とらふぐ、サザエ、アワビ等は、日本海を挟んだ日韓両国のごく限られた近海の生態系の中で繁殖し、日韓両国民の豊かな食生活と伝統文化の共通の源となっている。日本の歴史は朝鮮民族の南北分断に深く関わっている。軍事境界線の北、北朝鮮領海の日本海はまだ冷たいが、春の来ない冬はない。白子を抱いたとらふぐが、雌を連れ添い、春の遅い黄海の産卵場に導いていく頃だろう。

過去の歴史を消し去ることはできない。しかし、そこにいつまでも立ち止まっている限り、新たな前進もまたありえない。過去を過去として認識し、21世紀に向かって、一衣帯水の両国が新たな建設的な未来を築く努力を惜しんではならない。日本海は両国を隔てて、しかも繋ぐ海である。海は偉大な母である。ふぐにとっても、日韓両国民にとっても。(了)

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