鈴木 佑記
2024.11.1
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アンダマン海に浮かぶリペ島の土地問題(2)
海民ウラク・ラウォイッの定住

アンダマン海に浮かぶリペ島の土地問題(1):タイ南部の「秘境」

※本記事における見解は筆者個人のものであり、Asia Peacebuilding Initiatives:APBIの公式見解ではありません。

本記事は全3部作です。
第1回目『アンダマン海に浮かぶリペ島の土地問題(1):タイ南部の「秘境」』はこちら

3.ウラク・ラウォイッのリペ島への定住

3.1. 開拓者ト・キリー

前述したように、ウラク・ラウォイッはオラン・ラウトから派生した集団だと考えられている。特にオラン・ラウト・カピール(Orang Laut Kappir)というマレーシア北西の沿海にいた集団がランカウイ島からランタ島に移り住んだのが、現在タイ各地に暮らすウラク・ラウォイッの祖先にあたると考えられている。ランカウイ島がマレー人によって支配され、イスラームへの改宗を拒んだ者たちがタイへ逃がれたのだという[Supin 2007:9]。長い間ランタ島は海民が集まる中心であり、彼らは500年前にはこの地を利用していたとされる[Arporn 2011: 72]。リペ島を含むアダン諸島の島々も、ウラク・ラウォイッが一時的に身を寄せてきた土地であり、砂浜に仮小屋を建てることもあった。

ウラク・ラウォイッがリペ島に村落を形成したのは1900年頃だと考えられている。遅くとも1912年には、彼らがリペ島を含むアダン諸島に定住していたことが明らかになっている。なぜなら同年に、サトゥーン県副知事のサマンタラットブリン[13]が次のように記録に残しているからである。

私がサトゥーン県の県知事(原文ママ)に就いた頃、あちこちに分散していた海民(チャオ・ナーム)を一カ所に集めたことがある。そこで明らかになったのは、アダン島、ムロン島、ゴーイ島の3つの島に集まっているということだ。現在、海民は島で生活しており、その多くはヤシの木を植え、漁業に従事している。
 

彼が言及しているアダン島はアダン諸島のことであり、リペ島もこれに含まれる。ゴーイ島が同定できないが、ムロン島はおそらくブロン島を指している。現在リペ島に暮らす海民の中でも、1世紀以上前の祖先の逸話が共有されている。それはト・キリーというマレー系ムスリム男性の話で、彼こそがリペ島に最初に定住した人物であるという。ト・キリーがリペ島に到達するまでの話は以下の通りである。地名については、適宜、本連載(1の【地図1】と【地図2】を参照していただきたい。

ト・キリーは現インドネシア領スマトラ島のアチェを発ち、現マレーシアのケダ州にあるジュライ山(Gunung Jerai)
[14]に向かった。そこでト・エーム、ト・ブー、ドーイ、ジェービネという名の4人の男性と出会い、一緒に旅に出ようと誘った。彼らは船でアンダマン海を北上し、現タイ領サトゥーン県に浮かぶリディ島とブロン島(いずれもパクバラ港近くに浮かぶ小島)に立ち寄り、最終的にそれらの島々よりもさらに北に位置するランタ島にたどり着いた。男たちはそこで地元女性と結婚し、定住することになる。ト・キリーの相手はウラク・ラウォイッ女性で、彼女との間にはト・テと後に呼ばれるようになる一人の子供をもうけた。しかしト・キリーはさらに旅を続けたくなり、ジェービネを誘ってさらに移動し、自然豊かなリペ島に定住することを決めた。その後、自分の家族と親族を呼び寄せて一緒に暮らすようになった。ところがしばらくするとト・キリーの妻は死んでしまい、二人目となるウラク・ラウォイッの妻を娶ることになる。その女性の名はミーアといい、チャーブという男の子とダーラーという女の子を授かった[15]。ト・キリーはさらに3人目となる妻ト・ティングとも結婚した[Rongrian Ban Ko Adang 2005:13]。

この物語の他にも、ト・キリーはアチェを発った後、ランタ島とシレー島(プーケット本島の一部を構成する、本連載第1回目の記事の注6で取り上げた「モーケン族の村(レーム・トゥッケー)〈Chao Lae Village(Laem Tukkae)〉」がある島)に船で渡り、それらの島々に集住するウラク・ラウォイッを誘ってリペ島、アダン島、ラーウィ島(いずれもアダン諸島を構成する島々)に移り住んだというものや[Narumon et al. 2016:13]、ト・キリーは二人の兄弟と共にアチェを出発した後ジュライ山で華人系マレー人女性と結婚し、そこで出会った4人の友人と自分の家族と一緒にランカウイ島やブロン島などをまわって移り住んでいたが、その途中で妻が死んだのをきっかけにランタ島へ移住し、そこでウラク・ラウォイッ女性と結婚したというものまである[Supin 2007:10]。いずれのバージョンにせよ、ト・キリーがリペ島の開拓者であり、彼の妻となったランタ島の女性がリペ島で最初に暮らすことになったウラク・ラウォイッであるというストーリーは共通している。なお、ト・キリーは3人目の妻の嫉妬をかい、彼女が意図的に放った毒蛇に咬まれて1949年に亡くなったとされる[Supin 2007:11]【写真7】。

 

【写真7】2023年5月撮影、ト・キリーを祀る祠。周囲は複数のリゾート施設に囲まれている。
【写真7】2023年5月撮影、ト・キリーを祀る祠。周囲は複数のリゾート施設に囲まれている。

重要なのは、当時のアダン諸島に住民はいなかったということである。ト・キリーとウラク・ラウォイッの仲間たちがリペ島を含むアダン諸島を安住の地として見出した。彼らは真水が湧き、風の直撃を回避できる場所であれば、アダン諸島のどこにでもキャンプ地を設けた。アダン島やラーウィ島にも村落が設けられた時期もあるが、とりわけリペ島が中心地であり、砂浜にはウラク・ラウォイッの家々が立ち並んでいた[Darunai 2007:45]。

第2次世界大戦がアンダマン海で展開されるまでは、リペ島のウラク・ラウォイッは自らの言語で「バーガット」と呼ぶ行為を実践していた。バーガットというのは、主に乾季の波が穏やかな時期に、短くて2、3日、長くて数カ月におよぶ「旅」を指す。家族全員で船に乗り、アダン諸島の島々だけでなく、遠くの島やマレー半島本土に繰り出す。その活動の中心は魚介類の採捕であり、自家消費するためだけでなく、本土の人間と物々交換をするためにも行っていた。しかしバーガットも40年代初頭からは行われなくなった。その契機となったのは戦争だが、これから説明するように、戦後からタオケー(仲買人)がリペ島に移住するようになったのが、バーガット衰退の背景にある。さらに国立公園指定の動きがウラク・ラウォイッの海上での移動を規制していった。

3.2.流刑者・日英軍・仲買人

ウラク・ラウォイッがリペ島に定住するようになった時期は、タイ―マレーシア間の国境が決まることになった、当時のサヤーム(タイ王朝)とイギリスの間で交わされた1909年英泰条約(Anglo-Siamese Treaty of 1909)の頃だという。国境線を引く交渉の際に、タイ側が自らの領土であることを主張するために、当時の役人がウラク・ラウォイッを島々に定住させたのではないかという推測がなされている(現在リペ島のウラク・ラウォイッはそのように信じ込んでいる)[e.g. Arporn 1989: 24; Narumon et al. 2016:13]。

その後アダン諸島はサトゥーン県に組み込まれることになる。1936年に原罪者留置法がタイの国会で制定されると、受刑者の拘留と更生を担当する矯正局、それに内務省が「職業訓練コロニー」という名の刑務所の設置場所を探し始め、サトゥーン県のタルタオ島、アダン島、ラーウィ島、リペ島がその候補地としてあがった。そしてタルタオ島が流刑地として決まり、1938年に刑務所の設置が終わると、続々と多くの重罪人と政治犯が送られてきた[Darunai 2007:39]。

1941年から1945年にかけては第2次世界大戦(太平洋戦争の局面)の影響で、リペ島を含むアダン諸島に暮らすウラク・ラウォイッは食材を得るのに苦労した
[16]。アダン島の岬周域に日本軍が拠点を形成し、そのあたりをウラク・ラウォイッは「日本湾」と呼んだ。その時期の海域は日英軍の戦闘があり危険なので自由に海に出ることができず、また植えた稲も全員が十分に食べられるだけの量は収穫できないので、ヤシの実やバナナなどで飢えをしのいだ[17]。またこの時期、戦闘に巻き込まれる危険を避けるために、他の場所からリペ島に移住してくるウラク・ラウォイッが多く、それもまた食料不足の原因となった。

リペ島のウラク・ラウォイッを悩ましたのはそれだけではなかった。1944年以降、タルタオ島を逃げ出した囚人が海賊となって、アダン諸島の海域を通る船を襲って、物資を奪取する行為が目立つようになった。なぜなら、タルタオ島でもアダン諸島と同様に食料不足に陥っていたからである。1946年に入って、タイ政府はイギリス政府と手を組んで、この海域における取り締まりを強化して海賊は絶滅し、リペ島のウラク・ラウォイッはようやく安心して暮らせるようになった。タルタオ島の刑務所としての役割は1948年に終わった。

その他、リペ島のウラク・ラウォイッの生活を変えるきっかけとなった出来事には、1947年に他所からタオケー(仲買人)がリペ島に移住してきたこと、1958年に学校
[18]が建てられたことなどがある[Narumon et al. 2016:14]【写真8】。タオケーはその後もリペ島に集まるようになり、1950年代以降、ウラク・ラウォイッは採捕した魚介類を彼らに売ることで生計を立てるようになった。バーガットが行われていた頃は、自ら船に乗って他所(主にタイ本土のサトゥーン市街地)へ移動することで物々交換をし、必要物資を手に入れてきた。ところが、タオケーがリペ島に流入したことで、遠出の必要性が下がったのであった。自給自足の生活から商業的な生活へと変わり、ウラク・ラウォイッ住民のなかには富の貯蓄をする者も出てきた。1990年代になるとウラク・ラウォイッの中でタオケーを輩出するまでになった[Supin 2007:31]。また子供たちは学校でタイ語などを勉強し、島に流入してくるタイ人との関係性もそれまで以上に深くなっていった。

【写真8】2023年5月撮影、リペ島北東に位置するウラク・ラウォイッらが通う学校
【写真8】2023年5月撮影、リペ島北東に位置するウラク・ラウォイッらが通う学校


[13] 1871年1月20日、ビンアブドゥラー家の12子としてトンブリー県で生まれた。父親は海軍所属のマレー語通訳士であり、主にタイ政府(サイアム)との交易を望む外国の窓口としての務めを果たした。そのほか、当時タイ政府が支配していたマレー各州からもたらされる、忠誠を示す金の花、銀の花を受け取る役目を担っていた。サマンタラットブリンは少年時代にタイ語だけでなくマレー語を習得し、イスラームの文化も習熟した。1889年に父親の意思を継いで内務省でマレー語の通訳士として勤務した後、1898年にはパッタニー州にマレー語通訳士として異動し、ベートン地区長の座に就いた。そして1912年にサトゥーン県副知事に、1914年に県知事に就任した。1963年7月14日に逝去した[Bunsuem 2003: 99-102]。
[14] ジュライ山は、ウラク・ラウォイッの言い伝えの中では、彼らの祖先が暮らしていた特別な場所である。ウラク・ラウォイッのなかには、死後は魂がジュライ山に帰ると信じる者もいる[Methira 2009: 62]。
[15] 本連載第3回目の記事にも登場する人物。ダーラー本人の語りでは、6人の兄弟がいたという[Transbordernews 2015/4/15]。
[16] 政治家として要職に就き、ポール・アディレックス(Paul Adirex)のペンネームで小説家活動を続けていたポーンポン・アディレークサーン(Pongpol Adireksarn)の処女作『業火の海(The Pirates of Tarutao)』では、太平洋戦争期におけるタルタオ島をめぐる話が描かれている[ポール 2001]。著者はタルタオ島の刑務所からの脱獄に成功した政治犯の実話や、元囚人やその子息へのインタビューをもとにこのフィクション小説を書いた。作中ではアダン島とリペ島のウラク・ラウォイッ村落が「海のジプシー」村落として言及され、さらにはタイ人の父親とウラク・ラウォイッの母親との間に産まれたハーフの女性が重要人物の一人として登場する。作中においても、日本軍のタイ侵攻に伴いタルタオ島への食糧配給船の減便や停止、マラリアが流行するもキニーネが枯渇する等、刑務所の囚人と職員たちが飢えと病に直面するという、過酷な状況下にあったことが描かれている。
[17] 同時期、モーケンもアンダマン海域を自由に移動できず、まともに漁ができないので空腹に苦しんだ。モーケンのなかには日英軍の戦闘に巻き込まれて流れ弾にあたって死んでしまった者や[鈴木 2016:111]、英軍の後方支援にまわった者[Ivanoff 1997:21]、日本軍の仕事に従事した者などがいた[Ferrari et al. 2006:25]。
[18] 開校当初は小学1年から4年生までの授業のみ行っていたが、のちに6年生まで教えられるようになった。その後は幼稚園と中学校も併設されている。今でも幼児から中学生までのウラク・ラウォイッが同じ場所で学んでいる。[Narumon et al. 2016:40]。 学校名は、アダン島村学校である。本連載第3回目の記事で詳述するように、土地問題で近年世間から注目を浴びている。

参考文献

Arporn, Ukrit. 1989. The Boat Floating Ritual: A Reflection of the Social and Cultural Life of Chao-Le of Hualeam Village in Lanta Island, Krabi Prefecture. M.A. thesis. Bangkok: Sinlapakorn University.(in Thai)
 
Arporn, Ukrit. 2011. The Dynamics of Interactions and Ethnic Maintenance of Chao Lay and Other Lanta Islanders in Krabi Province. Journal of Social Research 34(2): 62-92.(in Thai) 
 
Bunsuem, Rutthaphirom. 2003. History of Satun Province. Bangkok: Oodiansto.(in Thai)
 
Darunai Jaroonthong. 2007. History of Urak Lawoi Community on Lipe Island, Satun Province A.D. 1950-2006. M.A. thesis. Bangkok: Sinlapakorn University.(in Thai)
 
Ferrari, Oliver., K. Utpuai., N. Hinshiranan., and J. Ivanoff(Translated by Nicolle Francine), 2006. Turbulence on Kho Prathong: Phang Nga Province, Thailand. Paris: Kétos.
 
Ivanoff, Jaques. 1997. Moken: Sea-Gypsies of the Andaman Sea Post-war Chronicles. Bangkok: White Lotus.
 
Methira Krainathi. 2009. Progress in the Settlement of Urak Rawoi’ in Phuket Province. In CUSRI ed. Southern Ethnic Dynamism: The Andaman Littoral and Marine Populations. Bangkok: Chulalongkorn University Social Research Institute, pp. 61-73.
 
Narumon Arunotai, Paladej Na Pombjra, Usa Khotsiphet, Kingkeaw Buaphet. 2016. History and Interesting Things on the Cultural Route of Urak Lawoi Community on Lipe Island, Satun Province. Bangkok: Chulalongkorn University Social Research Institute.(in Thai)
 
ポール・アディレックス、2001『業火の海:タルタオ島の海賊』野中耕一訳、燦々社。
 
Rongrian Ban Ko Adang. 2005. Syllabus for Understanding Local Knowledge of Urak Lawoi in the Adang-Rawi Islands. np. MoPhoTho.(in Thai)
 
Supin, Wongbusarakum. 2007. The Urak Laowi’ of the Adang Archipelago, Thailand. Bangkok: Themma Group.
 
鈴木佑記、2016『現代の〈漂海民〉:津波後を生きる海民モーケンの民族誌』めこん。
 
Transbordernews 2015/4/15(最終閲覧日:2023年12月8日)
「(ト・キリ―の子孫にあたる)『アンチョーティパン』の血筋をひくリペ島開拓者の娘からの海民の平和を願う切実な声」
https://transbordernews.in.th/home/?p=8108
(in Thai)

YUKI SUZUKI 鈴木 佑記
国士舘大学政経学部 准教授

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