日下部尚徳(東京外国語大学講師)
2018.03.26
  • バングラデシュ

バングラデシュからみたロヒンギャ難民問題:その背景と難民キャンプの現状

 2017年8月の「アラカン・ロヒンギャ救世軍」(ARSA)を名乗る武装勢力によるミャンマー警察・軍関連施設の襲撃のあと、70万人ものロヒンギャが国境を越えてバングラデシュ側に避難した。現地報道によると、それまでにバングラデシュにいた人びとと合わせて、計111万のロヒンギャが、難民となってバングラデシュ国内で生活を送っている。

【ARSAによる襲撃と難民の発生】

襲撃事件の発生

 ARSAは2017年8月25日、ミャンマー警察・軍関連施設を襲撃した。これに対してミャンマー国軍は、ロヒンギャのいくつかの村々で掃討作戦を実施した。国境なき医師団の調査によるとこの作戦で1か月の間に6700人のロヒンギャが殺害された。その中には、女性や子どもも含まれており、ARSAの攻撃に対する報復的意図があっとことも否定できない。また、多数のレイプ被害が報告されており、これらが組織的な指示体系のもとでおきたものなのか、今後の調査が求められる。掃討作戦はミャンマー国軍が主体になって実施されたが、警察や国境警備隊、一般の村人も部分的に関わったとされる。ロヒンギャの村々を訪れARSAの捜索という名目で、拷問、処刑、レイプなどが公然と行なわれたとして、国連や国際NGOは批判を強めている。キャンプを11月に訪問したバッテン国連事務総長特別代表は、ミャンマー国軍兵士による女性に対する集団レイプなど「人道に対する罪」にあたる残虐行為が組織的に行われたとして、ミャンマー政府を非難した。

 この作戦の中で、軍はロヒンギャの村々に火をつけARSAのメンバーが隠れる場所を徐々になくしていく作戦にでたことから、ロヒンギャの人びとはバングラデシュの側に追い立てられることとなった。川を渡って逃げる人びとを岸から銃で狙い撃ちしたり、戻ってこられないように地雷を敷設したりするなど、一連の行為は「テロ掃討作戦」の範疇を大きく逸脱していた。結果的に、70万人ものロヒンギャが国境を越え、難民となってバングラデシュで生活を送っている。

ミャンマーにおけるロヒンギャ

 ロヒンギャは、ミャンマーのラカイン州に暮らすベンガル系ムスリムが自ら名乗っている呼称だが、ミャンマー政府は国内におけるロヒンギャという民族の存在を認めていない。彼らは、ベンガル系不法移民であるというのがミャンマー政府の主張だ。1982年に施行されたミャンマーの国籍法では、1823年以前から住んでいると認定された「土着」民族以外は、個別に審査したうえ「準国民」「帰化国民」「外国人」に分類される。ロヒンギャはベンガル系不法移民であるとして、法的に「外国人」として扱われている。

 多くのロヒンギャが何世代も前からミャンマーで暮らしているという事実がありながらも、ミャンマー人の多くは、ロヒンギャはミャンマー国民ではなくバングラデシュからの不法移民だという政府の公式見解を自明のものとして受け取っている。ロヒンギャが土着の民族ではないという政府の歴史認識に加え、ロヒンギャがミャンマーでは少数派のムスリムであることが、ロヒンギャを排除しよういう差別意識へとつながっている。国民の9割近くを占める上座仏教徒は、キリスト教徒やヒンドゥー教徒にはそれほど強い差別意識をもっていないが、ムスリムには強い嫌悪感を有している。そのため、ムスリムは子どもをたくさん産むから、いつか仏教の国であるミャンマーが乗っ取られるといった根拠のないストーリーや、ムスリムが仏教徒女性を騙して結婚し、イスラーム教に改宗させているといった根も葉もない噂も公然と広まっている。

 加えて、他のミャンマー人と異なり色黒で彫りの深いベンガル系の顔立ちであることや、バングラデシュの国語であるベンガル語の一方言である独自の言葉を話し、ミャンマーの公用語であるビルマ語をうまく話せない人が多いことなどが影響して、ロヒンギャに対する差別が助長されている。このように歴史、民族、宗教、言語、人種のそれぞれの観点から、ロヒンギャはミャンマーにおいて「ベンガリ」と呼ばれ、迫害の対象になってきたと言える。

 一方で、バングラデシュ政府の側もロヒンギャを自国民として認めていない。以下に述べるとおり、1970年代後半と1990年代前半にロヒンギャが大量に難民として流入したが、バングラデシュ政府は流入が続くことを恐れ、1992年以降難民ステータスの付与を停止した。バングラデシュは難民条約を批准していないことから、難民として庇護を与えるかどうかは時々の政府の判断による。2012年の事件発生時は、基本的にロヒンギャの受け入れを拒否するだけでなく、さまざまな人道支援実施にも難色を示した。国民感情としては同じベンガル語を話すムスリムであるロヒンギャに同情はするものの、もともと厳しい国家財政の中で受け入れていくのは厳しいというのがバングラデシュ側の実情だ。

ミャンマー軍に撃たれた足をバングラデシュの病院で切断したロヒンギャ難民。

ARSAとアタ・ウラー

 アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)はミャンマーの軍、警察基地を襲ったグループで、今回の難民流入の直接的なきっかけをつくったロヒンギャの武装組織だ。攻撃を指示したのがアタ・ウラーという人物だと言われている。アタ・ウラーは、1960 年代に迫害から逃れてミャンマーからカラチに移住した両親のもと、パキスタンのカラチのロヒンギャ難民キャンプに生まれた。その後、サウジアラビアに渡って教職につき、お金持ちの家の家庭教師などに雇われ富裕層と親交を深めた。しかし、2012 年のラカイン州における仏教徒とロヒンギャの衝突を機にパキスタンに戻ることを決意した。パキスタンでは武器、戦闘員を調達し、国際的なイスラーム武装勢力の軍事訓練に加わる計画だったと言われている。資金源は、サウジアラビアの富裕層、 そしてサウジアラビア在住のロヒンギャとされる。

 パキスタンでは、アフガニスタンやパキスタンのタリバン、インドやバングラシュで活動しているラシュカレトイバ(Lashkar-e-Taiba、LeT)といった武装勢力と接触したが、交渉がうまくいかなかったとされる。武装勢力に資金をだましとられといった報道もあり、こういった事情からイスラーム武装勢力に根強い不信感を持っているとも噂される。

 ARSA はコーランとハディーズに基づいて指令を出しており、海外のウラマにフォトアを求めるなど、イスラーム的要素が少なからずみられる組織だ。ロヒンギャへの迫害は、民族のみならずイスラーム的にも問題であるということを世界のムスリムに共有してほしいという意図がみられる。

 こういった戦略に加え、ジャマトゥル・ムジャヒディン・バングラデシュ(Jamaat-ul-Mujahideen Bangladesh: JMB) やホルコトゥル・ジハダール・イスラミ・バングラデシュ(Harkat-ul-Jihad al-Islami Bangladesh: Huji B)などのバングラデシュのイスラーム武装勢力と共闘していたロヒンギャ連帯機構(RSO)のメンバーがARSAに合流したことから、同組織はイスラーム武装勢力であるとする論調も多くみられる。

 しかし、ARSAは軍や警察といったハード・ターゲットに対して、ナタや竹槍といった武器で攻撃をしかけており、ソフト・ターゲットを狙った近年のイスラーム武装勢力による無差別テロとはその手法が大きく異なる。また、国連や、アメリカ・イギリス・フランスといった欧米のキリスト教国に支援を要請している点も、イスラーム武装勢力との方向性の違いが見られる。そのため、「Twitter」などのSNSを効果的に使う手法やイスラームの実践を推奨している点に共通点はみられるが、国際的なイスラーム武装勢力からの直接的な指示・命令系統はないと思われる。

 ただ、それでもミャンマー仏教徒にとっては、一連の攻撃がムスリムによる仏教国としてのミャンマー侵略の一環に見えていることは確かである。アルジャジーラの報道によると、世界には、パキスタン35万人、サウジアラビア20 万人、UAE1万人、マレーシア15万人、インドネシア1万人、タイ5000人といった数のロヒンギャがおり、その多くが豊かとは言えない生活を送っている。そのため、今後アタ・ウラーとは異なるルート、ネットワークを経て、過激な行動にでる人がでてくる可能性は否定できない。例えば、マレーシアで資金を集めて、パキスタンでトレーニングをし、インドでテロを起こすことも、ロヒンギャの人口分布や人的ネットワークを見れば可能性がないとはいえない。ミャンマー、バングラデシュ、そして隣国インドは、ロヒンギャ問題がイスラーム武装勢力のイデオロギーと結びつき、テロの増加といった社会不安を誘発することを一番恐れていると言える。

【バングラデシュにおけるロヒンギャ難民】

バングラデシュへのロヒンギャの越境

 ロヒンギャがバングラデシュ国内に大挙して流入したのはこれが初めてではない。かつて1978年にもミャンマー軍事政権による迫害を逃れて、およそ20万人の難民が入国する事件があった。この時はバングラデシュとミャンマー政府間の話し合いで、ほぼ全員が1年以内に帰国したとされる。

 1991年半ば頃にもミャンマー軍による強奪、強制労働、暴行から逃れるロヒンギャの越境が相次いだ。多いときには日に5000人を超え、約27万人がコックスバザールおよびバンドルボン県内21カ所に設置された難民キャンプに収容される事態となった。バングラデシュ政府は当初、ムスリム同胞への支持を表明し、難民を受け入れたが、大量の難民に対応しきれず、二国間交渉を通じての早期送還の途を模索した。当時インドのトリプラ州にはバングラデシュのチャクマ難民6万人が流入していたため、そちらを留保しておきながら、ロヒンギャを受け入れることは、インドとの外交上も好ましくなかった。結果として1992年4月28日に両国は難民の帰還に関する共同声明を発表し、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の関与のもと事態は収束に向かった。このときに帰還することなくバングラデシュ側に残ったロヒンギャも相当数いると考えられている。

 2012年5月末には、ラカイン州で 5 月末に仏教徒のラカイン族の少女がムスリムのロヒンギャの集団に暴行のうえ殺害されたとされる事件が発生した。この事件をきっかけにロヒンギャとラカイン族双方の報復合戦が激化し、 6 月10日には同地域に非常事態宣言が出されるに至った。この過程でも数百人のロヒンギャがバングラデシュ側に避難した。

 ここまでの段階で、ミャンマーに戻ることを拒否し、バングラデシュに暮らすロヒンギャは、同国に残された2カ所の公式難民キャンプか、一般のバングラデシュ人に混じって生活をしていた。UNHCRによると2016年当時、バングラデシュ国内には30万人以上のロヒンギャが暮らしていたとされる。しかし、歴史的にはイギリス植民地時代から国境であるナフ川を渡って両国自由に行き来しており、ベンガル人とロヒンギャを区別するのは難しく、国境周辺ではロヒンギャを祖先や親戚に持つ人も多い。言語もベンガル語のチッタゴン訛りを話すことから、ロヒンギャの数を正確に把握することは困難であり、実数はUNHCRの推計以上とも言われていた。

 このような状況の中で、ミャンマーのラカイン州で2016年10月9日、武装集団が警察施設3カ所を襲撃し、警察官9人が死亡するという事件が起きる。ミャンマー国軍はロヒンギャによる襲撃とみて、取り締まりの名目で軍事行動にでたため、2ヶ月間で7万人近くがバングラデシュ側に越境した。ハシナ首相は2017年1月12日にミャンマーの外務副大臣とダッカで会談し、バングラデシュに避難しているロヒンギャをミャンマー側に「戻す」よう要請するなど、帰還に向けた交渉を進めた。一方でミャンマー政府は、国内のロヒンギャ武装勢力の徹底的な摘発に乗り出し、2017年2月15日に国家顧問室が、国軍による武装勢力掃討作戦の完了と治安の回復を宣言した。

 そして2017年8月25日、70万人もの難民発生の直接的要因となったARSAによる襲撃事件が発生する。ミャンマー政府はARSAを上記の武装集団と同組織であると断定し、掃討作戦を実施した。作戦はミャンマー国軍が主体になって実施されたが、警察や国境警備隊、一般の村人も部分的に関わったとされる。この作戦の中で、軍はロヒンギャの村々に火をつけ、ARSAのメンバーが隠れる場所を徐々になくしていく作戦にでたことから、大勢のロヒンギャがバングラデシュの側に追い立てられることとなった。川を渡って逃げる人びとを岸から銃で狙い撃ちしたり、戻ってこられないように地雷を敷設したりするなど、一連の行為は「テロ掃討作戦」の範疇を大きく逸脱していた。また、ARSAの捜索という名目で、拷問、処刑、レイプなどが公然と行なわれたとして、国連や国際NGOは批判を強めた。結果的に、半年間で70万人ものロヒンギャが国境を越え、難民となってバングラデシュで生活を送っている。

襲撃事件後のバングラデシュ政府の対応

 2016年、2017年の襲撃事件発生後、バングラデシュ政府はイスラーム武装勢力に対する懸念をミャンマー政府と共有するなど、ミャンマー政府の立場を擁護する姿勢をみせた。その背景には、2016年のダッカ襲撃テロ事件以降、イスラーム武装勢力掃討作戦を実施しているバングラデシュ政府にとって、ミャンマー軍部との協力関係が不可欠であったことや、過去の難民対応の経験から、ミャンマーへの最終的な送還を念頭に置き、ミャンマー政府と良好な関係を維持したいという思惑があった。そのため、ミャンマー国軍による人権侵害には触れないと同時に、ARSAによる今回の攻撃にバングラデシュの何らかの組織が荷担していないことを強く示すために、ミャンマー政府の対応を支持する立場をとった。

 ミャンマーを通って中国に抜ける交易ルートと、ラカイン州との貿易に関する権益の確保もそれを後押しした。バングラデシュは国境の9割をインドと接しており、北側に陸路で中国に行こうとすれば、必ずインドを通過する必要がある。現在の政権与党であるアワミ連盟(Awami League: AL)は親インド政権だが、2013年国会総選挙マニュフェストのもと全方位外交方針をとっており、中国との関係も重視している。中国はバングラデシュにとって最大の輸入相手国であり、2016年10月14日には習近平国家主席が来訪し、2兆円もの経済支援を表明している。同時に、2016年には中国から機密性の高い潜水艦2隻の引き渡しをうけるなど、軍装備品において中国は近年特に存在感を増している。これらのことから、ミャンマーを通って中国に抜けるルートは外交戦略上も経済的観点からも確保しておく必要があり、ミャンマー政府との協力関係は不可欠であった。

 また、ロヒンギャ難民は現在、コックスバザール南部で難民生活を送っているが、北側にはバングラデシュ政府と先住民族間の土地問題を抱え、現在も和平協定実施を巡り争いが絶えないチッタゴン丘陵地帯がある。この地域にはイスラーム武装勢力の基地が複数あることも指摘されている。そして、さらにその北には、民族、宗教間で紛争の火種を複数抱えているインド北東部があり、これらの地域を縦断する形で、武装勢力の資金、武器、人的ネットワークが形成されることへの懸念をバングラデシュとインドは共有している。バングラデシュでは2009年以降親インド路線をとるALが政権与党の座にあり、両国は政治・経済の両面で緊密な関係にある。また、国境を越えて移動するイスラーム武装勢力の動向は両国共通の関心事項であることから、イスラーム武装勢力との関係が疑われるARSAの襲撃に端を発する今回の問題に関しても両政府は歩調を合わせたと言える。

 インドは世界第三位となる1億8000万人ものイスラーム教人口を抱えている。これだけの人口規模がありながらも、国民の多数派はヒンドゥー教徒であり、ムスリムは少数派になる。ヒンドゥー至上主義的な言動で知られるモディ首相が2014年に政権の座について、ムスリムが社会的な疎外や政治的な差別を感じる場面が増えたとも言われており、このような状況下にあって、国内のイスラーム武装勢力がミャンマーにおけるロヒンギャの迫害を理由に過激な行動にでることをインド政府は恐れていると言える。

 インドでは、8月28日にキレン・リジジュ内務閣外大臣が国会において、安全保障上の脅威であることと、安い労働力の流入による賃金低下を理由に、ロヒンギャ難民を国外追放する方針を明らかにした。インド国内には8月の事件以前から4万人のロヒンギャ難民がおり、そのうち1万6000人がUNHCRの難民認定を受けているが、インド政府は認定を受けているロヒンギャも同様に国外に追放されるべきと主張している。これに対し、ロヒンギャの代表2人がインド最高裁に政府の送還方針を撤回するよう求める訴えを起こしたが、判決は先延ばしにされている。

 さらに、インドはラカイン州で、インフラ整備支援を加速させている。インド北東部からラカイン州の沿岸都市シットゥエーまでを陸路と水路で結ぶことで、インド北東部の経済発展を推し進める計画だ。このように、インドが安全保障上の理由とラカイン州における開発利権からミャンマー政府を支持する立場をとったことが影響し、親インド路線をとるバングラデシュのAL主導政権も、帰還の要請はしながらも、ミャンマー政府に対する批判は事件発生当初避けていた。これにより、ミャンマー、バングラデシュ、そしてインドからロヒンギャが孤立する事態となった。

 バングラデシュ政府はこれ以上ロヒンギャが越境してこないように、最低限の人道支援にとどめる「生かさず殺さず」の難民政策を維持したため、食糧を求める難民が路上脇に座り込み、1000円ほどで売られているビニールシートで雨風を凌いだ。子どもや高齢者の衰弱は特に激しく、少なくない数のロヒンギャが命からがら逃げてきたバングラデシュで命を落とすこととなった。バングラデシュの開発援助関係者の名誉のために追記すると、同国のNGOや国際援助機関の危機対処能力は決して低くはない。世界最大のNGOと呼ばれるバングラデシュ農村向上委員会(BRAC)や、2006年にノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス博士率いるグラミン・グループは、貧困削減に大きな成果をあげている組織として国際的にも有名だ。緊急援助の体制も度重なる自然災害の度に経験を蓄積し、日本をはじめとする二国間ドナーや各国赤十字の協力のもと強化されてきた。にもかかわらず、難民発生当初、大規模な難民の流入を恐れる政府は、NGOや国連機関に対して限定的な支援許可しかださなかった。特にNGOに対しては、1992年の難民対応の際に、イスラーム保守強硬派の団体がNGOの名前を使ってキャンプに入り込み、政治活動を行った過去があることから、政府は規制を強め、コックスバザールでもともと活動していた小規模なNGOにしか活動許可をださなかった。また、国連機関に対しても、92年の帰還事業で政府ともめたUNHCRではなく、難民支援の経験の少ない国際移住機関(IOM)に全体調整任せたことから、配給も人びとに十分に行き届かず、キャンプ周辺の環境も悪化する事態となった。

支援の拡大

 しかしながら、急増する難民と国際社会の関心の高まりから、消極的な難民政策は徐々に変更を余儀なくされることとなる。2017年9月15日のスワラージ印外相とハシナ首相の電話会談おいて、スワラージ外相は状況の変化を「ローカルイシューから、グローバルイシューに」と表現し、対応策を協議した。結果として、9月中旬から徐々に国連機関やNGOによるロヒンギャ難民支援を拡大すると同時に、これまで同調姿勢をとってきたミャンマー政府に対して、難民の帰還を受け入れないことを理由に、ハシナ首相が非難声明を出すに至った。

 また、バングラデシュ側の方針転換の背景には、不十分なロヒンギャ難民支援に対して、野党やイスラーム保守層からの批判が高まったことがある。とくにイスラーム保守強硬派のヘファジャテ・イスラーム(Hefazat-e-Islam:HI)は積極的に政府批判を展開した。HIの代表は「ロヒンギャへの弾圧がやまなければ、ミャンマーでジハードが起きるだろう」と発言するなど、政府に対する攻勢を強めた。2018年末に予定されている国会総選挙を前に、最大野党のバングラデシュ民族主義党(Bangladesh Nationalist Party: BNP)やイスラーム主義政党のジャマアテ・イスラーミー(イスラーム協会: JI)、そしてその支持団体でもあるHIが、ロヒンギャ問題を政治化し、与党批判の材料として使うのを無視できない政治的な思惑もあった。

 ALは、2017年に国定教科書におけるイスラーム関連記述の増加や宗教学校への公的な資格付与など、イスラーム主義団体の要求に沿った政策を次々と実行している。世俗主義を標榜するALがこれまで手を付けてこなかった分野での政策変更は、総選挙を睨んでのイスラーム主義層の取り込みであるとの見方が強く、今回のロヒンギャ対応への変化もその一貫であるとする指摘を否定できない。

 また、コックスバザールにおいてはもともとBNPやJIの強い支持基盤があることから、同地域のAL候補者から、これ以上ロヒンギャ問題を放置すれば、選挙に悪影響がでるとして、執行部を批判する動きも見られた。これを受け、ハシナ首相は9月12日にキャンプを訪問し、難民に寄り添う姿勢を見せるとともに、NGOや国連機関を通じた支援を拡大した。

帰還の合意

 日々数百人単位で増加する難民の帰還に向け、両国政府は11月15日からミャンマーのネーピードーで会合を開き、11月23日に合意文書への署名に至った。しかし、帰還の具体的なプロセスや期限などで意見の一致が見られず、両政府は合意書を公表しなかった。現地報道によると、今回の合意は1992年の帰還事業の際に結ばれた協定を基礎としており、バングラデシュ側は、1年以内の帰還完了と、帰還プロセスに国連機関を関与させることを求めた。ミャンマー側は、署名から2カ月以内に帰還を開始することを求めたが、帰還完了期限と国連機関の関与については難色を示した。合意に基づき、両国で越境したロヒンギャのリストの作成が開始されたが、バングラデシュ側での作業が終わっていないとして、当初予定されていた2018年1月23日までの難民帰還開始には至らなかった。

日本の対応

 2017年11月18日から20日にかけて河野太郎外相がバングラデシュを訪れ、外相会談およびロヒンギャ難民キャンプの視察を行った。外相会談においては、「包括的パートナーシップ」の下、バングラデシュの2021年までの中進国化実現に向けて全面的に協力する旨が述べられ、経済協力に関する協議がなされた。

 また、河野外相による北朝鮮への圧力を最大限まで高めるとの発言に対して、アリ外相から日本の立場を強く支持する旨の発言があった。バングラデシュには北朝鮮大使館があり、会談を通じて北朝鮮へ圧力をかけるねらいがあったと考えられる。加えて、バングラデシュが日本の安保理常任理事国入りを支持する立場であることを確認し、安保理改革の実現に向けて連携していくことで一致した。

 この会談の中で、河野外相は難民の帰還を含むロヒンギャ問題の恒久的解決に向けた支援を表明した。これによると8月26日以降に実施された400万ドルの緊急支援協力に加え、国際機関を通じた食料などの支援を合わせた計1860万ドルが約束された。新たに決定したのは、 国連世界食糧計画(WFP)を通じた緊急無償資金協力1500万ドルとUNHCRへの360万ドルの支援増額である。

 ロヒンギャ問題に関しては、いち早く外相が難民キャンプを訪問し、支援を約束した日本に対する評価は高い。一方で、国連総会第3委員会(11月16日)や国連人権理事会(12月5日)における、ミャンマー政府に対する非難決議を日本が棄権したことに対して、バングラデシュ政府内からは不満の声も上がっている。日本政府としては、欧米諸国がミャンマー政府を強く非難するなかで、ミャンマーと中国が接近することをけん制すると同時に、バングラデシュ・ミャンマー両政府との対話を通じて、この問題を解決するねらいがあると思われる。

【難民キャンプの現状と今後の課題】

クトゥパロンキャンプ

 筆者は2月にロヒンギャ難民キャンプを訪れた。観光地であるコックスバザールの中心地から南にむけて車を走らせると、Mother of Humanity (人道の母)と書かれた横断幕が数キロごとに設置されており、現政権によるロヒンギャ支援の功績を十二分にアピールしている。2時間ほど車を走らせたところにあるのが、クトゥパロンキャンプである。丘を切り開いて形成された難民キャンプには10万人のロヒンギャ暮らし、支援団体の人たちが表する「メガキャンプ」の名にふさわしい様相を呈している。平地から斜面まで竹と強化ビニールで作られた家や支援団体のロゴのはいったテントが所狭しと並んでおり、広大なキャンプ全体を見通すことはできない。中には大規模な市場もあり、干し魚や野菜、噛みタバコ、生活雑貨などが売られている。支援団体によって作られた井戸やプラスチックで作られた簡易の給水設備、トイレ、無料の診察所なども多く見られ、かなりの数の援助団体が支援にあたっていることがわかる。

 しかし、あまりにも人びとが密集して暮らしていることに加え、不衛生なトイレや垂れ流しにされた排水など、衛生環境は劣悪といってもよいレベルだ。バングラデシュでは4月ごろから雨が降りはじめ、6月には本格的な雨季となる。屋根のないトイレなどはあっという間に汚水があふれ、感染症を誘発することが予想される。感染症は妊婦や子ども、高齢者など、抵抗力の弱い人びとの間で発症しやすいことから、衛生環境の整備に加え、衛生知識を広めていくことが求められる。現地のNGOの中には、衛生問題をコミカルな芝居にしてキャンプをまわるプロジェクトを実施している団体もある。娯楽を提供すると同時に、基本的な衛生知識を身に着けてもらうのが目的だ。

 雨季に最も心配される事象としては土砂崩れがある。非常に弱い地盤の斜面にも多くの人が暮らしており、少し長雨が続けばあっという間に崩れるであろうことは、地質の専門家でない筆者の目からも明らかだ。5月はサイクロン(台風)シーズンでもあり、災害対策はまったなしである。具体的には避難警報の周知と避難場所の確保が重要となるが、支援団体も日々の生活を支えるので一杯一杯で、問題の認識こそあるが、手が回っていないのが実情だ。また、実際に対策をとるにしても、そもそも人びとが生活するための土地も十分でない状況で、避難場所をどのように確保するのかという問題がある。伝え聞いた話では、欧米のNGOが難民キャンプに遊技場を作る計画があるという。難民のストレス軽減が主目的ではあるが、いざという時の避難場所を平時で確保しておく意味合いがある。もともと住んでいたバングラデシュ人との兼ね合いもあり、土地の活用に対して非常に神経をとがらせている現状では、このような突飛とも言えるアイデアが人の命を救うこともありうるかもしれない。3月に発表された政府とUNHCRが行った調査によると、10万人のロヒンギャを安全のために移転させる必要がある。

 

「人道の母」と書かれた横断幕。現政権によるロヒンギャ支援の成果をアピールしている。
クトゥパロンの避難民キャンプの様子
地盤の弱い斜面にたつ難民キャンプの家々。雨季には土砂崩れの危険がある。

テクナフ

 キャンプの中では最も南に位置するテクナフ地域は、コックスバザールの中心地から車で3時間ほどかかる。一般的に南にいけばいくほど、ミャンマー国境であるナフ川の川幅が広くなるため、越境することが困難になる。そのため、この地域は北のほうのキャンプに比べて難民の数が少なく、クトゥパロンなどに比べると落ち着いた雰囲気をもっている。しかし、水を汲みに2キロ以上歩かなければならないなど、規模が小さく人口密度が比較的低いことからくる問題が見られる。

 また、筆者がこの地域のキャンプで聞いた話では、政府が提供した土地に暮らしている人びとは土地代を払う必要がないが、私有地に住み着いた難民は、地主に世帯当たり500タカ(TK)を毎月払っているという。基本的に就業は認められていないことから、ミャンマーからもってきた資産や援助物資を売ることによって得た現金でこれに対応していると思われるが、この点に関してはより詳しい調査が求められる。

現地NGOへのインタビュー

 キャンプで活動するいくつかのNGOのスタッフに支援状況やニーズに関して話を聞いた。現地の最大手NGO「Mukti」のスタッフからは、家庭内暴力やハラスメントによって、女性の安全が脅かされているとの指摘がなされた。仕事がないことや、狭いキャンプ内での生活からくる過度のストレスが、弱い立場にある女性に向かいがちになることは想像に難くない。また、昼間給水のために井戸が使われていることや、キャンプの人々がアクセスしやすいオープンな場所に井戸が設置されることから、女性たちは人目を避けてまだ日も登らぬ明け方や深夜に体を洗う必要があり、その際のセキュリティの確保が困難であることを問題視する声もあった。危険を知らせるためのホイッスルや懐中電灯、衛生的な状態を保つサンダルや石鹸などに対する支援要請があったが、すでに配られている地域もあり、こういった支援の不均衡を丁寧に洗い出し、取り残される難民のいないようにしていくきめの細かな対応が今後は求められていくと思われる。

 また、難民が支援物資に依存することへの危機感も聞かれた。依存とはいっても難民に就労が認められていないことから、援助物資に頼った生活をせざるを得ず、現金収入がないことが問題であるということを指摘したものだ。一部の難民は、ベビータクシーの運転手をしたり、支援物資を売ることで現金を得て商いをはじめたりと、厳しい状況の中でたくましく生活をしているが、これらは本来許されていない。そのため多くの人びとは、衣食住に対する援助物資のみで生活している。しかし現実には携帯代や、ちょっとした生活雑貨、生鮮野菜など購入するためにも現金が必要となる。コックスバザールの現地NGO「Pulse」は、大型のビーズをつかった簡単な工芸品などを作ってもらい、収入向上を目指すプロジェクトを実施している。また、ミシンを支援して、生理用品やおむつを作って販売もしくは配給することによる生産者の収入向上と女性や子どもの衛生環境の改善の両方を目指す取り組みを検討している。

難民キャンプの市場で野菜を売る家族

ヒンドゥー教徒の難民

 ロヒンギャというとムスリムをイメージしがちであり、定義の仕方によってはその見解も間違いではないのであるが、コックスバザールにはわずかではあるがヒンドゥー教徒のキャンプも存在している。キャンプは基本的に宗教ごとにコミュニティが構成されており、筆者が訪れたコミュニティもヒンドゥー教徒のみの100世帯で構成されていた。「マジ」と呼ばれる地域のリーダーに話を聞いたところによると、彼らは自分たちのことをロヒンギャとは言わないとのことであった。ミャンマー政府の見解では、ロヒンギャという民族は存在せず、ムスリムであろうとヒンドゥー教徒であろうと、ベンガル語の一方言を話すインド系住民「ベンガリ」は、ベンガルからの不法移民であるという位置づけである。

 100世帯のうち26世帯が女性を世帯主とする家族で、夫がなんらかの事情でいない家庭である。このような家庭は、一般的に支援物資へのアクセスやコミュニティにおける発言力などにおいて、男性が世帯主の家よりも不利な立場に置かれやすい。このキャンプでは、大きな道路に近い場所に女性を世帯主とする家族がまとまってテントをはって暮らしており、このような事情に配慮する姿勢が見られた。

 女性を世帯主とする家庭の中でもことさらに大変な境遇にある人がいるとしてAさん(女性)を紹介された。Aさんは、夫と娘をロヒンギャの武装勢力であるARSA、つまりベンガル系ムスリムに殺されたという。夜に覆面で顔を覆った集団が村を襲い、村人を切りつけ、村に火を放った。Aさんは命からがらバングラデシュの側に逃げこんだが、夫と娘は逃げ切れなかった。現在は、キャンプで配給される米や豆、油などの支援物資に頼った生活をしているが、立ち上がることもなく、ずっと伏せた様子からも、心的なケアが必要であることは間違いない。

 ただ、ここで注意しなければならないのは、彼女を含め、話をきいたヒンドゥー教徒全員が、ARSAが村を襲ったと証言しながらも、覆面に覆われていたため襲撃者の顔を見ていないということである。ミャンマー政府は、ARSAが、ミャンマー政府側のスパイであるとしてヒンドゥー教徒の村を襲い虐殺したと発表しているが、真偽のほどは明らかでない。以前はムスリムのコミュニティとの交流もあったが、この事件以降、バングラデシュの避難民キャンプにおいてもほとんど交流がなくなったという。

 彼らの生活に関して言えば、きちんとした調査が必要であるが、筆者の見た様子ではトイレや井戸、テントは整備されており、マイノリティであるヒンドゥー教徒の村に対して、支援がほとんど来ないといった問題は発生していないと思われる。ただ、コミュニティ全体として、燃料となる薪の不足を訴える人が多かった。他の大規模なキャンプでは市場が自然発生的に形成され、薪がうず高く積まれて売られている。現地メディアでは、キャンプ周辺地域において、ロヒンギャ難民が薪として使用するために木を大量に伐採していることを問題視する報道がなされている。その是非はさておき、そこで得られた薪は、コミュニティの市場や個人的なネットワークを通じて難民の人びとにいきわたるが、コミュニティが小さなヒンドゥー教徒はそこにアクセスすることができず、配給頼みになっていることが予想される。

配給物資を持ち帰る人びと

安全な帰還にむけて

 クトゥパロン地域において、日本のパキスタン系モスクが支援しているコミュニティを訪れた。日本に暮らすムスリムが遠く離れた顔も知らないロヒンギャを支援していることを私たちは知っておく必要がある。このコミュニティには毎月20万TKがモバイル送金システムや人づてで日本から届いており、その資金で井戸やモスク、マドラサを建設している。

 支援されたマドラサに案内された際に、そこに集まった人びとがミャンマーで何があったのかを口々に話はじめた。紙面の関係上その一部を以下に記すことにとどめたい。

 「夜、急にミャンマー国軍の軍人が来て、村の中心に集まるように指示された。そして集まった住民に対して銃弾を浴びせ、家々に火を放った。生きているものも死んでいるものも、子どもも女もみんな火の中に投げ込まれた。銃弾が飛び交うなか命からがら逃げたが、少なくない数の人が被弾して、命からがらナフ川をわたった。ミャンマー軍は渡る際にも銃を撃ってきた。バングラデシュ側につくと、バングラデシュ軍の人が助けてくれた。食べ物や毛布、住む場所も提供してくれた。ミャンマー国軍からバングラデシュは私たちを守ってくれた。感謝の気持ちしかない。」

 気が付くと、ロヒンギャの人びともロヒンギャ語通訳や案内として同行してくれたバングラデシュの人びともみんな泣いていた。弾圧し虐殺するのも、難民を助けるのも同じ人間のすることである。大規模な難民発生に対して、国境を閉鎖することも、追い返すこともなく70万人ものロヒンギャを受け入れているバングラデシュの人びとを国際社会はもっと評価するべきである。

 バングラデシュ憲法第123条第3項(a)によると、任期満了による解散の場合、解散の期日に先立つこと90日前から解散の期日当日までの間に選挙を行うこととされる。現政権の初議会は2014年1月29日であるため、次回国会総選挙は2018年10月31日から2019年1月28日までの間に実施される見込みだ。

 しかし、国会総選挙を前に、与野党の攻防が激しさを増してきている。とくに野党関係者の拘束、襲撃事件などが多発したことから与野党間の対立が深まり、公正な選挙実施に向けた協議は依然として進んでいない。2014年に実施された前回総選挙は、BNPを中心とした野党18連合がボイコットした状態で実施され、ALが3分の2以上の議席を獲得した。野党連合は再三にわたり中立的な選挙管理内閣制度のもとでの再選挙を要求してきたが、ALは応じてこなかった。

 2018年2月8日には、横領の容疑でジアBNP総裁に懲役5年、ロンドンにいるタリク・ラフマンBNP上級副総裁に懲役10年の有罪判決を言い渡した。ジア総裁が刑務所に収監される事態を受け、BNPは全国で抗議運動を展開した。一連のBNP幹部の逮捕は、2年以上の有罪判決を受けた人物は国会総選挙に出馬できないという憲法規定を利用したBNPへの攻勢であるとの見方も強い。

 国連事務総長のスポークスマンは、2018年2月26日、国際社会にロヒンギャ難民支援を訴える一方で、バングラデシュ政府に対して公正な選挙を求める声明を出した。ロヒンギャ難民支援を大規模に実施する以上、国連としてもバングラデシュに民主的な体制を維持してもらう必要があることから、今後もALに対する公正な選挙実施に向けた国際社会からの圧力が強まると考えられる。

 深刻化するロヒンギャ難民問題は、一歩間違えると国内外からの批判を免れないことから、国会総選挙を前にハシナ政権は慎重な対応を余儀なくされている。不十分な難民対応や安全が確認されない状態での強引な帰還は、イスラーム主義勢力や野党による政権批判につながる。その一方で、国内の貧困層からは難民重視の政府の姿勢に不満の声が上がり始めている。2017年は、度重なる大規模洪水によって米価が高騰したが、それをロヒンギャ難民支援のせいだとする誤った主張も見られるようになり、貧困層を中心に一部でロヒンギャ支援を否定的にとらえる動きもある。そのため、ロヒンギャ難民への対応は、少なくとも選挙が終わるまでは大きな動きを見せることなく、現状政府がとっている海外援助頼みの難民支援と、慎重な帰還対応を継続することが予想される。このようなバングラデシュ政府の対応を非難することはたやすいが、一方でこれだけの数の難民を、自国にも4000万人の貧困人口を抱えるバングラデシュが受け入れているという事実もわれわれは認識する必要がある。

 先述のように、日本に関して言えば、いち早く河野太郎外相が難民キャンプを訪問し、支援を約束したことに対するバングラデシュの評価は高い。一方で、国連総会第3委員会(11月16日)や国連人権理事会(12月5日)における、ミャンマー政府に対する非難決議を日本が棄権したことに対して、政府内からは不満の声も上がっている。日本政府としては、欧米諸国がミャンマー政府を強く非難するなかで、ミャンマーと中国が接近することをけん制すると同時に、バングラデシュ・ミャンマー両政府との対話を通じて、この問題を解決するねらいがあると思われるが、それをどのように具体化して見せていくのかが今後の鍵となる。キャンプにおいては雨季の土砂災害や感染症の拡大が予想されており、計111万人の命を守るには国際社会の協力が不可欠だ。また、二国間合意に基づく帰還事業が、ミャンマーにおける安全を十分に担保したうえで、本人の同意のもとに実施されているか、第3者の視点で進捗を注視しなければならない。ロヒンギャ難民問題はバングラデシュとミャンマーの二国間問題としてだけでなく、アジアの難民問題としてわれわれは向き合う時期にきている。ロヒンギャの人びとの未来が、バングラデシュの国内政治に左右されることのないよう、国際社会は官(ODA)民(NGO)をあげてサポートを継続していく必要がある。

(2018年3月26日脱稿)

NAONORI KUSAKABE日下部尚徳

(東京外国語大学講師)

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