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[ワークショップ全文②] 「地域社会の多様性とムスリムコミュニティーに関するワークショップ」
~ミャンマーでの調査結果を事例に~」(2017年3月28日開催)【斎藤紋子氏報告1/4】

2000.04.01

斎藤紋子氏報告

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(斎藤) ただ今ご紹介にあずかりました斎藤と申します。よろしくお願いいたします。
 私は、ミャンマーのムスリムについて、2003年頃から調査を開始しております。基本的に都市部に住むムスリムの調査をしてきました。今回、笹川平和財団のほうから調査ということで依頼を受けまして、改めて最近のヤンゴン、マンダレーという都市におけるムスリムの調査をいたしました。
 まず、最初にミャンマーのムスリムの概要についてお話ししたいと思います。ミャンマーのムスリムは、人口およそ220万人といわれています。これは2014年に国勢調査が行われ、それの結果として昨年、公開されたものです。ミャンマーの全人口は推計値を含んで5148万人といわれていますので、その4.3%ぐらいとなります。
 推計というのは、内戦がまだ終わっていなかったり、先ほど言われたロヒンギャの問題など、調査できない場所があるため、その人たちは調査対象ではありませんでしたが、推計値はその人たちも含めてということになっております。推計を含まないとすると、ムスリムの人数は半分になりまして、120万人ぐらいといわれていますので、おそらく100万人弱がロヒンギャとしてカウントされているのではないかと思われます。
 ミャンマーのムスリムとは、全体的にどういう人たちなのかというと、多くは植民地時代に、同じくイギリスの植民地であったインドから流入した人たちとその子孫、混血の人たちも含めて、そういった人たちが主流となります。ミャンマーは、実は英領下に入った時に最初は英領インドのビルマ州という形で併合されましたので、往来が自由でした。このようなことから、インドにいるよりビルマのほうがどうも暮らし向きが良さそうだからと移動した人の他、上層から下層まで、植民地の公務員から、下はそういった公務員たちに仕えるような人たちまで、いろいろな人が入ってきたことになります。
 その前の時代、王朝時代にも実は戦争捕虜とか兵士とか、それから商人などの形でムスリムも流入しています。この人たちについては、もうそれ以上深く出身はどこだということまで言えないですけれども、だいぶ前に入ってきているから、もう出自が分からない、そういった人たちの子孫たちも残っています。
 場所的に、上ビルマというのはおおよそミャンマーの半分から上のほうを想像していただければよいのですが、この上ビルマという地方にはムスリムが古くから居住しています。これはなぜかというと、ミャンマーの歴代各王朝が上ビルマに置かれたことが多く、その王朝との関係を持っていたムスリムが居住してきた歴史があるからです。ミャンマーの下半分、特にヤンゴンは英領になってから開発されましたので、ムスリムが古くから住んでいるのは上ビルマと言われる地方が多いといわれています。王様から下賜された居住地やモスク用地なども上ビルマには残っていますし、これはいろいろな文献にも書かれています。
 例えば、ヤンゴンは植民地時代になってから開発されましたので、ヤンゴンのモスクは植民地時代に建設されたものになります。ちなみに、ヤンゴンがイギリス領、イギリスの植民地に入ったのは1852年になります。最初、ヤンゴンが英領化された時には、マンダレーという土地はまだミャンマー王朝の下にありました。その時代も含めて、マンダレーにあるモスクというのは、特に王朝時代に居住地と隣接で建設されたようなものもあります。
 いくつか写真を紹介させていただきますが、これは、The Mosque in Mogul Street, Ragoon,1890年とありますが、このモスクは1860年代に建てられたのではないかといわれています。ムガール・ストリートというのは、今は、通りの名前が変わって、シュエボンター・ストリートという名前になっていますが、同じモスクがスルティ・スンニ・ジャマー・モスクという名前で、実際に現在もあります。このように、植民地時代に建設されたモスクというのは、今も、もちろんヤンゴンダウンタウンを中心に長く残っております。
 一方、こちらはマンダレーのモスクになりますが、ここは1996年とこの写真には書いてありますけれども、実際には、こちらの碑文のようなものに、記録が残っていて、ビルマ語で分からないかもしれないですが、1862年と書いてあります。1862年というのは、ヤンゴンは植民地下に入っている一方で、まだマンダレーは王朝の下にありまた。このコンバウン王朝のもとで、ミンドン王とティーボー王という王様に使えたムスリムが、ここの土地をモスク用地として寄付をし、ここに建設されたものです。実際のモスクは第二次大戦中に焼失しておりまして、1回建て直し、さらに96年にもう1回建て直したということで、ここには1996という数字が入っております。
 観光に行ったことがある方は、もしかしたらご存じかもしれませんが、マンダレー近郊のアマラプラというところに、木製の橋がある有名な場所があります。僧院などもたくさんある場所なのですが、この一角に、先ほど言った王朝のボードーパヤー王の時代に地方領主を務めていた、ウー・ヌという人のお墓がこのように立っています。ここは最近の反ムスリム運動で破壊されたというふうに聞いています。このウー・ヌという人は、実は、ムスリムなんですけれども、仏典結集に付いてスリランカに行き、仏典を集めてきたという功績も持っている人です。
 例えば、今言った領主とはどういった生活をしていたのかというと、記念写真を撮ってあるのがたまたま残っていたようなので、写させてもらったんですけれども、こういった感じで、ムスリムなんですけれども、やはり現地のミャンマー人と結婚して、ミャンマー人としてこの土地を治めるということをしていたと聞いております。
 もう少し、ミャンマーにおけるムスリム分類ということで、先ほど人口は申し上げましたが、220万人のうちのおよそ半分がロヒンギャおよび、名前はあまり出ませんが、政府が土着民族として認定している、カマンという民族がいまして、これもほぼ全員がムスリムになります。人数は非常に少ないですけれども、カマンという民族がヤカイン州に多く暮らしています。
 それ以外のムスリムはヤカイン州以外のところに散らばっているので、場所によって多い・少ないというのはもちろん分かれますけれども、一応、全国にいます。
 中国系ムスリムは、ミャンマーではパンデーと呼ばれますが、この人たちも少数ですが、中国との国境付近だけでなく、ミャンマー全土にいます。それから、もう一つはマレー系のムスリムで、パシューと呼ばれていますが、このマレー系ムスリムは、マレー半島のほうにつながるタイとの国境の辺りに住んでいることが多いということです。このパシューも少数です。インド系を中心とするその他のムスリムが、ロヒンギャと半々ぐらいで、人数的には多くなります。インド系を中心とすると言いましたのは、インド系の民族も、たくさんありますので、どの民族が何人とかというような細かい調査はされておりませんので、こういう言い方をさせていただきました。混血の人たちも含まれますし、その子孫もいますし、少数ですが、普通のビルマ族、もしくはほかの土着民族から改宗をしてムスリムになったという人もおります。
 最後に言ったインド系を中心とするムスリムの中に、ビルマ文化を受容しているというふうに自認している、バマー・ムスリムと呼ばれている人たちがいます。これは民族的なものではなくて、自分たちがビルマ文化を受け入れているし、そんなにインドにはこだわっていないという人たちがバマー・ムスリムであって、必ずビルマ民族と混血でなければいけないというものではありません。考え方によりますので、他のムスリムとはっきり区別して、人口が何人と言えるものではありません。ただ、あまり多くはないですけれども、今、いろいろと反ムスリム運動など問題になっている中で、積極的に動いているのがバマー・ムスリムという人たちになります。
 今言ったバマー・ムスリムの人たちは、イスラームの解釈とか実践で違いが出てきます。さっきインド系と大まかに言いましたが、インド系の人たちの中でバマー・ムスリムたちがいると言うと、おそらくバマー・ムスリムの人たちは、「インド人とは関係ない」と嫌がると思います。それよりも、ビルマの文化を受け入れたか、受け入れてないかということだという感じです。
 多くのモスクでは、ミャンマーでは女性の礼拝が認められていない一方で、こちらに金曜日の礼拝の写真を撮らせいただいたもので、女性の礼拝の写真があります。ここは、上の階がもう少し広いので、人数的に男性が上で女性が下というふうになっているそうですけれども、少しですが、このように女性も金曜日の礼拝ができるようになっているモスクがあります。金曜日の礼拝ができるのはバマー・ムスリムの人たちです。
 それから、服装で言いますと、こちらがバマー・ムスリムのご夫婦で、これは彼らの娘の結婚式の時に撮らせてもらった写真ですが、こういう衣装は普通のミャンマー人が着ているような服装とほぼ同じです。一方で、バマー・ムスリムではない人たちは、このように、女性はスカーフをかぶったほうがいいということで、このような感じでスカーフをかぶっている人たちもおります。
 服装だけでは一概に言えませんので、この人はスカーフをしているからバマー・ムスリムじゃないとか、そういった分け方もできず、ちょっと難しいですけれども、一応、ビルマ文化を受け入れているか、入れてないか、それからイスラームの解釈に関して多少違いがあるという点で分けることができます。
 いろいろなムスリムがいますけれども、現状、さまざまな暮らしにくさを抱えつつミャンマー社会で暮らしているのが実際の状況になります。もちろん軍政時代も同じような感じではありましたが、軍政の時にはあまりおおっぴらにできないので、嫌がらせもこそこそという感じではあありました。ところが、今、言論の自由ができ、集会の自由もありますので、いろいろな形で、おおっぴらに嫌がらせを受けているというような状況もあります。



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