堀場明子(上智大学アジア文化研究所客員研究員)
2014.01.23
  • タイ深南部

タイ深南部紛争の概要と背景

タイ南部の紛争として現在問題となっているのは、マレーシアとの国境に近いタイ南部の3県、パタニ、ヤラー、ナラティワート県とソンクラー県の一部であり、一般的に「Deep South深南部」と呼ばれている地域である。この地域の人口は約200万人であり、75~80%がイスラーム教徒であるが、バンコクのイスラーム教徒とは異なり彼らはマレー語を母語とし、「パタニ・マレー」と呼ぶ独自のアイデンティティを持つ。2004年から再燃化した武装勢力と政府の大規模な衝突が相次ぎ、爆弾事件や襲撃事件なども散発し2013年末までに5600人に上る犠牲者が出ている紛争地域である。

  タイ深南部とよばれる地域は、14世紀から19世紀にかけて、マレー系のイスラーム王国「パタニ王国」が統治していた地域である。パタニ王国は、マレー半島の東西交易中継港市の一つとして栄え、イスラーム知識人(ウラマー)を多数輩出し、東南アジアにおけるイスラーム教育・知識の中心地として知られていた。しかし、19世紀に入ると、近代タイによって統合されるプロセスが進み、1909年の英領マレー領とタイとの間で結ばれた英–シャム条約により、タイと英領マラヤ間に近代的な意味での国境が引かれた。

  この地域のタイ化政策で、長年にわたりマレー文化や宗教が国家によって厳しく管理され、パタニのアイデンティティが危機に直面したことを受け数々の激しい反発が起きた。中でも1947年に起きたハジ・スロンをめぐる一連の事件 1 が今なお語り継がれている。1957年、マレーシア独立によるマレー・ナショナリズムの高揚、タイ深南部地域に仏教徒を大量移住させる政策の実施などにより、1960年代から1970年代にかけてパタニ解放戦線(BNPP)、パタニ革命戦線(BRN)、パタニ統一解放機構(PULO)などの武装組織が生まれ、分離独立運動の活動が本格化した。

Photo: Nakharin Chinnawornkomal. Copyright. www.wewatch.info

  しかし、1980年代以降は、タイ中央政府の様々な懐柔政策、特に第四軍管区司令官に治安と深南部の地方行政に関する権限を与え、柔軟な政策運用を可能にする南部国境県行政調整センター(SBPAC)の設置により、分離独立運動は下火になっていく。SBPACの創設後、インフラ整備、パタニ・マレー住民の公務員採用、「投降と恩赦」作戦 2 などの対策により、暴力事件は減り、治安の回復に一定の効果が見られた。タイ化の基本方針は変わらなかったが、多文化主義的な教育政策、公教育やテレビの普及でタイ語を理解する人が増え、トラブルが減ったことも一因であろう。

 下火となっていた分離独立運動であるが、2001年にタクシンが政権につき、SBPACをはじめとする諸制度を廃止し、軍を中心に統治を行っていた深南部の治安維持の権限を警察に委譲したことがきっかけで状況が変化、特に2004年以降、武装組織によるタイ治安部隊との武力衝突が再燃した。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を受け、タイ政府はテロ防止宣言を採択する中で、ムスリムということで深南部の分離独立運動とは関係がないにも関わらず、パタニの人々をイスラーム過激派・テロ組織のネットワークにつながる危険性があると疑ったことや、2003年から行った「麻薬撲滅」キャンペーンにより約2,500人が当局によって殺害されるという強硬策で深南部統治に臨んだことも状況悪化につながった。そして、2004年1月に起きた陸軍基地の襲撃事件とその実行犯の弁護にあたったソムチャイ弁護士の拉致事件(警察によって暗殺されたと疑われている)、さらにクルセ・モスク事件 3、タクバイ事件 4として記憶されている二つの象徴的な事件が、タイ深南部の治安をさらに悪化させることになった。

  タイの治安部隊と分離独立を求める武装組織という争いの構図であるが、武装組織のターゲットは、タイの治安部隊、タイ人仏教徒だけではなく、公立学校に勤務するムスリム教師や、役所に勤めるムスリムのスタッフにも及んでいる。ムスリムであってもタイ側に加担した裏切り者であるとの判断から武装組織のターゲットになっている。さらに、爆弾事件が無差別に起きており一般の住民にも被害が及んでいる。これらの暴力事件や爆弾事件は、武装組織が行ったもののほか、タイ治安部隊が自作自演で行ったものもある。また、麻薬取引などに絡んだ犯罪事件も多発しており、犯行声明が出されないテロ行為であるため、明確な見分けがつかないのが、この紛争の解決を遅らせている。

Photo: Surapan Boonthanom. Copyright. www.wewatch.info

  タイ深南部紛争の根幹には、異なる文化・言語を持つ「パタニ・マレー」の人々のアイデンティティ擁護と統治における自治権の要求が存在する。タイ国内の抜本的な統治機構改革、地方分権化の行方とタイ深南部の要求は連動しているといえる。タイの治安部隊の予算をめぐる駆け引きや、紛争中だからこそ横行する麻薬・人身売買などの違法ビジネスの利権などが、治安回復の大きな障害となっている。紛争の継続に伴い地域の軍事化が進み、治安部隊は正規軍・民兵併せて数万人規模 5に膨れ上がっている。また、この地域は、政府の開発政策の恩恵をあまり受けておらず、目立った産業がない。そのため、例えば、若者にとっては大学に進学しても卒業後に就く仕事がなく、バンコクとの格差が著しいという経済状況が、何らかの暴力事件に関与する若者の行動の背景にあることも忘れてはならない。

  2006年のタクシン政権の崩壊後、首相による陳謝やSBPACの復活などが行われたものの、治安状況の改善はみられなかった。また、いくつかのチャンネルで和平交渉が試みられていたが、武装組織側の実態や彼らの要求が不明であること、タイ政府側の混乱や政治的解決への意志が弱く、成果は乏しかった。しかし、突如として2013年2月28日に、マレーシアのナジブ首相の仲介で、インラック首相はタイ深南部で活動している武力勢力の一つBRNと和平に向けての「対話」を開始すると発表した。しかし、3月から月に一回のペースで行われてきた和平対話も、これまでのところ具体的な成果はあがっていない。また同年末からのタイ中央政府自体の政治的混乱で、和平対話が中断している。タイ深南部の紛争解決の目途は立っていないのが現状である。

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Notes:

1.パタニのカリスマ的なウラマーであったハジ・スロンが、タイ中央政府に対し、マレー語の使用、ムスリムの役人としての登用、イスラム法の導入などを含む7項目の要求を行った。熱狂的な支持を集めていたハジ・スロンの動きを警戒したタイ当局が彼を投獄した為、翌年に「ドゥスン・ニョールの反乱」と呼ばれる暴動がナラティワート県で発生、400人以上の死者を出し、多くがマラヤ(現マレーシア)に逃亡した。ハジ・スロンは1954年に釈放されたが、息子と共に行方不明となった。これには、警察の関与が疑われている。パタニ側は、武力を使わず正式に要望を示したにもかかわらず、ハジ・スロンを投獄、行方不明にした中央政府による不当な対応は、現在も抑圧の象徴として語り継がれている。 6パタニのカリスマ的なウラマーであったハジ・スロンが、タイ中央政府に対し、マレー語の使用、ムスリムの役人としての登用、イスラム法の導入などを含む7項目の要求を行った。熱狂的な支持を集めていたハジ・スロンの動きを警戒したタイ当局が彼を投獄した為、翌年に「ドゥスン・ニョールの反乱」と呼ばれる暴動がナラティワート県で発生、400人以上の死者を出し、多くがマラヤ(現マレーシア)に逃亡した。ハジ・スロンは1954年に釈放されたが、息子と共に行方不明となった。これには、警察の関与が疑われている。パタニ側は、武力を使わず正式に要望を示したにもかかわらず、ハジ・スロンを投獄、行方不明にした中央政府による不当な対応は、現在も抑圧の象徴として語り継がれている。

2.武装勢力の沈静化を図るもので、構成メンバーに投降を求め、投降したものは罪に問わず優遇したので、投降者が短期間で増加した。

3.2004年4月、深南部各地で同時多発的な爆弾事件が起き、治安部隊との銃撃戦により100人以上が死亡、パタニ県では、歴史的モスクであるクルセ・モスクに立てこもった犯人グループ32人が全員射殺され、タイ政府の行き過ぎた対応が批判を浴びた。

4.2004年10月にナラティワート県のタクバイ郡で起きた事件。デモに参加して身柄を拘束された住民78人がトラック移送中に窒息死したという事件で、人権を無視したタイ当局への強い非難が巻き起こった。

5.深南部に展開している民兵の種類や規模については、玉置充子「タイ深南部問題の現状」『海外事情』拓殖大学10月号2010年 pp.79-82を参照。

AKIKO HORIBA堀場明子

上智大学アジア文化研究所客員研究員

知られざるタイ深南部。そこには異国情緒漂う美しい風景があった。 | YINDEED MAGAZINE

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