事業紹介

2016年
事業

インド北東部支援に係る調査事業

事業概要

本事業は、民族的、文化的多様性に富んだインド北東部の事情に配慮しつつ、同地域の持続的発展へ向け、人的交流や知的交流事業支援を念頭に、当財団が取り組むべき方向性ならびに具体的支援策を明らかにするほか、将来の活動の基盤となるネットワークを構築することを目的としています。 【事業計画】  ➣ 調査研究  ➣ 現地会合の開催(於インド)  ➣ 現地専門家の招へい

事業実施者 笹川平和財団 年数 1年継続事業の1年目(1/1)
形態 自主助成委託その他 事業費 15,600,000円
アルプジョティ・サイキア教授(インド工科大学グワハティ校)を囲む研究会を開催しました

2016年6月27日、現在実施中の「インド北東部支援に係る調査」事業の一環として、インド工科大学(IIT)グワハティ校より、同地域を代表する環境歴史学者であるアルプジョティ・サイキア教授をお招きし、笹川平和財団ビルにてクローズドの研究会を開催しました。

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研究会では、インド北東部のほか、近隣のミャンマー、バングラデシュを専門とする若手研究者を中心に、計15名が参加しました。

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冒頭、インド北東部、特にアッサム州の現状と背景をより深く把握するため、津田塾大学の木村真紀子准教授から「インド北東部:アッサム州における紛争と運動」について発表があったのに続き、サイキア教授からは、「1947年以降のアッサムの経済史とその長期的傾向」と題した講演が行われました、講演では、1947年のインド・パキスタンの分離独立によって東パキスタン(現バングラデシュ)とインド北東部の間に国境線が引かれた結果、ブラマプトラ河を通じたベンガル湾へのルートが遮断され、アッサムは、当時の国際交易の一大拠点だったコルカタへのアクセスを失った上、交易の中心的役割を担っていたベンガル商人をはじめとする外部からの直接商業投資などが減少してしまったこと等が指摘されました。その結果、かつて栄華を誇っていたジュート生産等が衰退するなど、東ベンガル地域に隣接する地理的な優位性に大きく依存していたアッサムの経済が大きな打撃を受け、またそれらが現在に続く構造的な問題につながっていると説明しました。

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講演後は、コメンテーターの佐藤宏氏(元アジア経済研究所)をはじめ、他参加者と活発な意見交換が行われました。

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出張報告

2016年6月、インド北東部への出張に同行頂いたミャンマー史専門の石川和雅さんに、その旅で感じたことを文章で綴って頂きました。インド北東部8州のなかでも、特にミャンマーと歴史的・文化的にも関係が深いマニプール州都インパールが石川さんの視点にどのように映ったのか、それを知ることで、この地域の複雑で豊かな文化を知るとともに、国境や、東南アジア・南アジアという領域の「境界線」を超えて、歴史やその地域を大局的かつダイナミックに見ることの重要性を改めて教えられます.

(汎ア基金事業室 主任研究員・中村 唯)



「インパールの山、エーヤーワディーの河」

石川和雅

6月の雨

山並みは、重く湿気を含んだ雲に覆われていた。南西モンスーンに吹き流されてきた雨雲が、ヒマラヤ山脈東端の山々に遮られ、行き場を失っている。インド東北部の雨季の空である。やがて、機体が高度を下げ始めると、広大な盆地が視界に入った。しかし、一面の水である。滑走路があるはずの、平坦な陸地が見いだせない。
1944年、インパール作戦が展開されたのは、このような雨雲の下だったのだろう。雨季までのインパール攻略を掲げて、ミャンマー側から日本軍が進撃を開始したのが3月の半ば。4月、盆地内への進出を試みるも、イギリス軍の堅陣に阻まれ、山中での対峙に移行する。やがて訪れた雨季のなか、補給の道を失った日本軍は、山中で膨大な数の病死者や餓死者を出し、作戦中止に至るのである。インパールの雨は、そのような記憶を想起させる。

インド平和祈念館にて

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インパール郊外の田園風景

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しかし、この土地に暮らす人びとにとって、雨季の雨は欠くことのできない自然の恵みである。6月のインパール盆地は、まさしく天然の水がめのように機能する。山に降った雨水は、盆地の底に流れ下って、インド東北部最大の湖であるログタク湖を形成する。その周囲には、水の流れを利用した水田地帯が広がる。この水びたしの土地の北側に、マニプール州の州都、インパールの町並みが広がっている。

ログタク湖

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インパールの街角

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聖地カングラ

インパール市街地の中核部に相当するのが「カングラ」だ。かつて、マニプール王国の王宮が置かれていた場所である。インパール盆地の平野部に暮らすメイテイ族は、ここカングラの地を政治的な中心地として、盆地内の諸勢力を糾合し王国を築いた。戦乱のなかで一時的に王宮が移転することはあったが、1891年にイギリス軍の支配下に入るまで、政治的かつ宗教的な中心はカングラにあるものと認識されていた。
カングラとは、メイテイの言葉で「乾いた土地」、「水が引いた土地」を意味するという。6月のインパールを訪れると、この言葉の意味がよく理解できる。山で雨が降っているときでも、インパールの上空は晴れている。降り注いだ水は、より低い土地に流れこむため、カングラの地にはさほどの影響がない。このような地形的な利点が古くから好まれたのかも知れない。

カングラ

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メイテイ族には、独自の信仰体系がある。宇宙の創造と破壊を象徴し、かつメイテイ族の初代の王とされるパカンバ王など、独特なパンテオンが世界観の中軸を成している。パカンバ王は今もカングラの地下で玉座に坐していると信じられており、王国時代には国王の即位儀礼や葬儀は全て、この土地の神聖性に結び付けて催行されていた。
しかし、往時の姿を伝える遺構はほとんど残されていない。1891年のイギリス軍との戦闘で多くの王宮施設が破壊され、占領後はイギリス軍の駐屯地となったためである。この辺りの経緯は、1885年に滅ぼされたミャンマー王国の運命を思い起こさせる。ミャンマー王国の都であるマンダレーの王宮も、やはり占領後に掠奪を受けて荒廃した。そして、駐屯地化されたことが遠因となって、1945年に空襲で焼失してしまったのだ。
カングラは、インド独立後も長らく治安部隊アッサムライフルズの駐屯地となっていたが、近年それも終わり、公開が始まった。復元作業が進み、マニプールのユニークな文化に接する機会がつくられつつある。

メイテイ族の祭りの風景

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ブラマプトラとエーヤーワディーのあいだで

地図を広げてマニプール州を俯瞰してみると、この土地の重要性が理解できる。北西には、チベット高原から下ってきたブラマプトラ河が西へ流れ、ベンガル世界へとつながっている。一方、マニプールから東のアラカン山系を越えれば、ミャンマー王国が栄えたエーヤーワディー河流域の世界が広がる。インパールの山は、この土地を外界から孤立させていたわけではなく、二つの河の世界を結ぶ交流の道としても機能してきた。
我々は時に、硬直的な地理区分で世界を認識しがちだ。ミャンマーまでは東南アジア。インドからは南アジア。無意識的な線引きが、多くのものを見落とさせてしまう。便宜的な知識の整理には有効でも、現実に存在する地域性の理解を阻害する要因となってしまうのである。マニプールの歴史に接すると、そのことを痛感させられる。
マニプール王国とミャンマー王国との間には、長い交流の歴史がある。17世紀には、強勢を誇ったマニプールの騎馬隊が、ミャンマー王国の都インワの周辺にまで迫ることもあった。18世紀以降、両国の力関係が逆転すると、マニプールからは多くの兵士や、織物職人が戦争捕虜としてミャンマーに移住した。現在も、マンダレー周辺には「カテー(マニプール)」に由来する地名やコミュニティが多く残る。
両地域の文化的な類似性や交流を理解するには、東部インパール・アンドロ村の、ムトゥア博物館が最適だ。画家であったムトゥア・バハドゥール氏が、独自の研究活動を経て作り上げた施設である。ここには、マニプール各地の伝統家屋や工芸品が集められているこの施設の最大の特色は、関心がマニプールに限定されていないことだろう。ミャンマー、タイ、ラオス、ベンガルなど近隣諸地域からも、数々の生活用具や工芸品が収集されている。このような広い視野に基づく活動が、現代を生きる個人によって担われているのである。

ムトゥア博物館

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「フロンティア」としてのミャンマー

雨雲に覆われた山並みの向こうに広がる国々の存在をはっきりと思い描いている人たちが、インパールには確実に存在する。アンドロ村で会ったメイテイ族の男性は、よくミャンマーとの国境の町モレーへと買い物に行くという。マンダレーで造られた家具や木彫り細工は、とても品質が良いそうだ。村の雑貨屋の軒先では、様々なお菓子の袋を吊り下げている。よく見ると、ミャンマー産のヒマワリの種だ。今は細々とした国境貿易があるだけだが、ミャンマー、ひいては東南アジアへの道が開かれることは、マニプールの人びとに大きな可能性をもたらす。経済的な発展への可能性でもあれば、自らの文化をより広い文脈で保全していく可能性ともなり得る。
「最後のフロンティア」。民主化に舵を切った2012年以降、ミャンマーはこのように呼ばれるようになった。フロンティアとはいったい何なのだろうか。製造業の新たな移転先か、市場か、それとも投資先か。ミャンマーに突如当てられた光は、目を眩ませるほどにギラついている。自分たちの目を、疑うことも必要なのかも知れない。インパールの山の彼方に流れるエーヤーワディーの河。それを、可能性のフロンティアと思い描く人びとの心性も、今という時代には確かに息づいているのだ。

インパールで見つけたミャンマーのお菓子

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インパール―マンダレー間のバスの広告

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