ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について

ウラジーミル・プーチン


最近、「ダイレクト・ライン」でロシアとウクライナの関係についての質問に対して、私は「ロシア人とウクライナ人はひとつの民族であり、一体である」と答えた。これらの言葉は、決して短期的な考えや現在の政治状況に促されたものではない。これは今まで何度も言ってきたことであり、私の信念でもある。だからこそ、私の立場を詳しく述べ、現在の状況に対する私の見解を共有する必要があると考える。

まず、私の考えでは、近年、ロシアとウクライナの間、つまり本質的に同じ歴史的・精神的空間である両者の間に生まれた壁は、私たち共通の大きな不幸であり、悲劇であるということを強調しておきたい。これらは何よりも、様々な時期に犯した我々自身の過ちの結果である。しかし、それはまた、常に我々の団結を弱体化させようとしてきた勢力による意図的な活動の結果でもある。使用されている手法は何世紀も前から知られており、何も新しいものではない。それゆえ民族間の問題に乗じて、人々の間に不和の種をまこうとするのだ。そして最終的な目標は、一つの民族を分裂させ、対立させることである。

現在をよりよく理解し、未来を見通すためには、歴史に目を向けなければならない。もちろん、この論文の枠内で1000年以上にわたって起こったすべての出来事を網羅することは不可能である。しかし、我々ロシアとウクライナの双方にとって記憶に留めておくべき、極めて重要な幾つかのターニングポイントについてここに述べることにしよう。

ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人は、ヨーロッパ最大の国家であった古代ルーシの後継者である。ラドガ、ノヴゴロド、プスコフ、キエフからチェルニゴフに至る広大な地域に住むスラブ民族やその他の部族は、1つの言語(現在では古ルーシ語と呼ばれる)、経済的な結びつき、リューリク朝によって、そして、ルーシが洗礼を受けて以降は正教という一つの信仰によって統合されていた。ノヴゴロド公でもありキエフ大公でもあった聖ウラジーミルの宗教的選択は、今日でも我々の親和性を決定する大きな要素の一つとなっている。

キエフの王座は、古代ルーシにおいて支配的な地位を占めていた。それは9世紀末から続いてきたものである。「キエフをすべてのロシア都市の母にしよう」という預言者オレグの言葉は、『過ぎし年月の物語』によって後世に残された。

その後、当時のヨーロッパの他の国家と同様に、古代ルーシも中央権力の弱体と分断に直面した。その一方で、貴族も一般民衆も、ルーシを共通の領土及び祖国として認識していた。

キエフを含む多くの都市が壊滅的な打撃を受けたバトゥの西征後、分裂は激化した。ルーシ北東部はキプチャク=ハン国の支配下に入ったが、主権は限定的に保持された。南部と西部のルーシ領は大部分がリトアニア大公国に編入され、歴史文書では、リトアニア・ロシア大公国と呼ばれていたことに注目したい。

王族や大貴族の氏族は、王の間を転々とし、お互いに確執もあったが、友好関係や同盟関係も築いた。クルコヴォの戦争ではヴォルィーニ領主ボブロク並びにリトアニア大公アルギダスの子息であるポラツク公アンドリュスとブリャンスク公ドミトリユスがモスクワ大公ドミートリー・イヴァーノヴィチと肩を並べて戦った。それと同時に、リトアニア大公ヨガイラ(トヴェル王女の息子)は兵を率いてママイ側で戦った。これらはすべて、我々共通の歴史の1ページであり、その複雑さと多元性を反映している。

西ルーシ、東ルーシの両方で同じ言語が使用されていたことは特筆すべきことである。また、信仰は正教であった。15世紀半ばまで、統一された教会統治が維持されていた。

新たな歴史的展開の中で、リトアニア・ルーシと力を蓄えたモスクワ・ルーシの両方が、古代ルーシ領土再統一の中心地となる可能性があった。実際には、モスクワが再統一の中心となり、古代ルーシ国家としての伝統を受け継ぐことになった。アレクサンドル・ネフスキー公の子孫であるモスクワの諸侯は、対外的な軛を投げ捨て、ロシアの歴史的な土地をまとめ始めた。

リトアニア大公国では別の過程も見られた。14世紀、リトアニアの支配層がカトリックに改宗した。16世紀には、ポーランド王国との間でルブリン合同が締結され、「ポーランド・リトアニア共和国」が形成された。ポーランドのカトリック貴族はルーシの領土でかなりの土地の所有権と特権を得た。1596年のブレスト合同により、西のロシア正教の聖職者の一部はローマ教皇の権威に服した。ポーランド化とラテン化が行われ、正教は排除された。

これを受けて、16世紀から17世紀にかけて、ドニエプル地方の正教徒による解放運動が活発化した。転機となったのは、ボフダン・フメルニツキーの時代の出来事であった。彼の支持者はポーランド・リトアニア共和国から自治権を得ようとした。

1649年、ポーランド・リトアニア共和国王に宛てたザポロージエ・コサックの請願書には、ロシア正教徒の権利が尊重されるべきであり、「キエフの統治者はロシア法およびギリシア法の民であるべきであり、神の教会を踏みにじることがあってはならない」と記されていた。しかし、彼らの意見は聞き入れられなかった。

その後、B.フメルニツキーのモスクワへの上訴が続いた。フメルニツキーのモスクワへの訴えは、ゼムスキー・ソボルによって検討された。1653年10月1日、このロシア国家最高代表会議は、同じ信仰を持つ兄弟たちを支援し、その庇護下に置くことを決定した。1654年1月、ペレヤスラヴリ会議はこの決定を承認した。その後、B. フメルニツキーとモスクワの大使がキエフを含む数十の都市を訪れ、その住民はロシア皇帝に誓いを立てた。ちなみに、ルブリン合同の締結時には、このようなことは一切なかった。

1654年にモスクワに宛てた手紙の中で、B. フメルニツキーは、皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチに、「ザポロージエ・コサックとロシア正教世界全体が、皇帝のツァーリの強く高い手の下にある」ことに対して感謝の意を表した。つまり、ポーランド国王とロシア皇帝の両方に対する挨拶のザポロージエ・コサックサックは自らをロシア正教徒と呼び、定義したのである。

ロシア国とポーランド・リトアニア共和国との間の長引く戦争の間、B.フメルニツキーの後継者であるヘトマンたちの中には、モスクワから「距離を置いたり」、スウェーデン、ポーランド、トルコに支援を求めたりした者もいた。しかし、繰り返すが、国民にとってこの戦争は、実際には解放的な性格のものであった。この戦争は、1667年のアンドルソヴォ条約が締結されて終結した。最終的な結果は、1686年の「永遠の平和条約」によって確定した。ロシア国家は、キエフ市と、ポルタヴァ、チェルニゴフ、ザポロジエを含むドニエプル川左岸の土地を併合した。これらの住民は、ロシア正教徒の大部分と再統一された。この地域は「小ロシア」と呼ばれた。

その後、「ウクライナ」という名称は、12世紀以降、古ロシア語の「周縁」という言葉が、様々な辺境地域を指していた文献に見られるような意味で使われることが多くなった。また、「ウクライナ人」という言葉は、古文書から判断すると、もともとは国境を守る国境警備隊を意味していた。

ポーランド・リトアニア共和国に留まった右岸では、古い秩序が復活し、社会的・宗教的抑圧が強まった。左岸では、逆に統一国家の保護下に置かれた土地が活発に発展し始めた。ドニエプル川の対岸から住民が大挙して移り住んだ。彼らは同じ言語、そしてもちろん同じ信仰を持つ人々の支援を求めた。

スウェーデンとの北方戦争中、小ロシアの住民は誰と一緒になるかを選ぶ必要はなかった。マゼーパの反乱を支持したのは、ごく一部のコサックだけであり、様々な身分の人々が自分たちをロシア人であり正教徒であると考えていた。

コサックの長老たちの代表は貴族に属し、ロシアにおいて政治、外交、軍事の分野で高い地位に就いた。キエフ・モヒーラ・アカデミーの卒業生は、教会生活で指導的な役割を果たした。それはヘーチマン国家の時代にも、ロシア帝国の時代にも同様であった。小ロシア人は様々な方法で、大きな共通の国、国家観、文化、科学を作り上げた。彼らはウラル、シベリア、コーカサス、極東の探検と開発に参加した。ソ連時代には、ウクライナの出身者は、国家指導部の最高位を含む最も重要な地位を占めていた。ソ連共産党はN.フルシチョフとL.ブレジネフによって30年近くにわたって統率されたが、彼らの党歴はウクライナと最も密接な関係があった。

18世紀後半、オスマン帝国との戦争の後、ロシアはクリミアと黒海地域の土地を編入し、それらは「ノヴォロシア」と呼ばれた。そこにはロシア全土の人々が定住した。ポーランド=リトアニア共和国の割譲の後で、ロシア帝国は西部の旧ルーシ領を取り戻した。例外はガリシアとザカルパッチャで、これらはオーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)の一部となった。

西ルーシ領の統一国家への編入は、政治的・外交的決断の結果だけではなかった。それは共通の信仰と文化的伝統に基づいて行われた。そしてまた、言語的な近さも強調したい。17世紀初頭、ユニアート教会のヨゼフ・ルツキー大司教は、「モスコヴィア(モスクワ地域)の住民がポーランド・リトアニア共和国のロシア人を兄弟と呼び、彼らの書き言葉はまったく同じであり、話し言葉は異なるものの、さしたる違いはない。これは言ってみれば、ローマとベルガモの住民のようなものだ」 とローマに報告している。ご存知のように、ローマとベルガモは現在のイタリアの中央部と北部である。

もちろん、何世紀にもわたって分断され、別々の国家で生活する中で、地域の言語的な特殊性が生まれていった。文語は地域の言語により更に豊かになった。イヴァン・コトリャレーウシキー、フルィホーリイ・スコヴォロダ、タラス・シェフチェンコらが大きな役割を果たした。彼らの作品は、我々の共通の文学的・文化的遺産である。タラス・シェフチェンコの詩はウクライナ語で、散文は主にロシア語で書かれた。ロシアの愛国者であり、ポルタヴァ地方出身のニコライ・ゴーゴリの著書はロシア語で書かれており、小ロシアの民俗表現や民話のモチーフに満ちている。これらの遺産をロシアとウクライナの間でどのように区別することができるのか。そして、なぜそうしなければならないのか。

ロシア帝国の南西部、小ロシアとノヴォロシア、そしてクリミアは、その民族的・宗教的構成において多様な発展を遂げた。クリミアのタタール人、アルメニア人、ギリシア人、ユダヤ人、ケレイト人、クリムチャク人、ブルガリア人、ポーランド人、セルビア人、ドイツ人やその他の民族がこれらの地域に住んでいた。彼らは皆、自分たちの信仰、伝統、習慣を守っていた。

何かを理想化するつもりはない。1863年のヴァルイェフ通達や1876年のエムス法は、海外からのウクライナ語の宗教的・社会政治的文献の出版や輸入を制限した。しかし、ここでは歴史的背景が重要である。これらの決定は、ポーランドにおける劇的な出来事と、ポーランド民族運動の指導者たちが「ウクライナ問題」を自国の利益のために利用しようと望んだことを背景として下された。また、芸術作品やウクライナ語の詩集、民謡集は出版され続けていたことを付け加えておく。客観的な証拠によれば、ロシア帝国では、大ロシア人、小ロシア人、ベラルーシ人を統合した大ロシア国家の枠組みの中で、小ロシア人の文化的アイデンティティが活発に発展していた。

同時に、ポーランドのエリートや小ロシアの知識人の一部では、ロシア人とは別のウクライナ人という概念が生まれ、強化されていった。これには歴史的根拠がなく、またあるはずもなかったので、結論はさまざまな虚構に基づいていた。ウクライナ人はスラブ人ではないといった主張や、逆にウクライナ人が本物のスラブ人であり、ロシア人である「モスクワ人」はスラブ人ではないなどの主張などである。このような「仮説」は、ヨーロッパ国家間の対立の道具として、政治的な目的のためにますます利用されるようになった。

19世紀後半から、オーストリア=ハンガリー当局は、ポーランドの民族運動とガリシアにおける親モスクワ的な感情への対抗策として、このテーマを取り上げた。第一次世界大戦中、ウィーンはいわゆるウクライナ・シーチ銃兵隊軍団の結成を推進した。正教とロシアに共鳴していると疑われたガリシア人は、残忍な弾圧を受け、ターレルホフとテレジンの強制収容所に入れられた。

これらの事態のさらなる進展は、ヨーロッパの帝国の崩壊、旧ロシア帝国の広大な地域で繰り広げられた熾烈な内戦、外国の介入と関係している。

二月革命後の1917年3月、中央ラーダがキエフに設立され、最高権力機関であると宣言した。1917年11月、中央ラーダは第3次ウニヴェルサール(第3次宣言)で、ロシア国内にウクライナ人民共和国を樹立することを宣言した。

1917年12月、ウクライナ人民共和国の代表は、ソビエト・ロシアとドイツおよびその同盟国との交渉が行われていたブレスト=リトフスクに到着した。1918年1月10日の会議で、ウクライナ使節団の代表はウクライナの独立に関するメモを読み上げた。その後、中央ラーダは第4 次ウニヴェルサールでウクライナの独立を宣言した。

宣言された主権は短命に終わった。わずか数週間後、ラーダ代表団はドイツ陣営の国々と別の条約に調印した。窮地に陥っていたドイツとオーストリア=ハンガリーは、ウクライナのパンと原材料を必要としていた。大規模な供給を確保するため、彼らは自らの軍隊と技術者をウクライナ人民共和国に派遣する同意を得た。しかし、実際には彼らはこれを占領の口実として利用した。

今日、ウクライナを外部からの完全な統制下に置こうとする人々は、1918年、このような決定がキエフの政権にとって致命的となったことを思い出すべきである。占領軍の直接的な関与により、中央ラーダは打倒され、ヘトマンP.スコロパドスキーが政権を握った。彼はウクライナ人民共和国の代わりに、実際にはドイツの保護領であったウクライナ国家を宣言した。

1918年11月、ドイツとオーストリア=ハンガリーで革命が起こった後、ドイツの銃剣の支持を失ったP.スコロパドスキーは路線変更し、「ウクライナは全ロシア連邦の結成に向けて最初に行動する」と宣言した。しかし、すぐに再び体制は変わった。いわゆるディレクトーリヤ(臨時政府)の時代がやってきたのだ。

1918年秋、ウクライナの民族主義者たちは西ウクライナ人民共和国の設立を宣言し、1919年1月にはウクライナ人民共和国との統一を発表した。1919年7月、ウクライナ人部隊はポーランド軍に敗れ、旧西ウクライナ人民共和国の領土はポーランドの支配下に入った。

1920年4月、S.ペトリウラ(現代ウクライナに押し付けられた「英雄」の一人)は、ウクライナ人民共和国臨時政府に代わって秘密協定を締結し、軍事支援と引き換えに、ポーランドにガリシアと西ヴォルィーニの土地を譲渡した。1920年5月、ペトリウラ支持者たちはポーランド軍部隊の護送でキエフに入った。しかし、これは長くは続かなかった。すでに1920年11月、ポーランドとソビエト・ロシア間の休戦後にペトリウラ軍の残党は同じポーランド軍に降伏した。

ウクライナ人民共和国の例は、内戦と騒乱の時代に旧ロシア帝国に生まれたさまざまな準国家体制がいかに不安定であったかを示している。民族主義者たちはそれぞれ別の国家を作ろうとし、一方、白色運動の指導者たちはロシアの一体性を支持していた。ボリシェヴィキの支持者たちによってつくられた多くの共和国は、自分たちがロシアの外にいることを想像していなかった。しかし、さまざまな理由から、ボリシェヴィキ党の指導者たちは、彼らを文字通りソビエト・ロシアから押し出すこともあった。

こうして1918年初頭、ドネツク=クリヴォーイ・ローク・ソビエト共和国が建国され、ソビエト・ロシアへの加盟をモスクワに申し入れた。しかし、それは拒否された。V.レーニンはこの共和国の指導者たちと会談し、ソビエト・ウクライナの一部として行動するよう説得した。1918年3月15日、ロシア共産党中央委員会は、ドネツク地方からの代表を含むウクライナ・ソビエト会議に代表を派遣し、会議で「全ウクライナのための一つの政府」を樹立することを明確に決定した。ネツク=クリヴォーイ・ローク・ソビエト共和国の領土は、その後、南東ウクライナの地域を形成した。

1921年、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国、ポーランドの間で結ばれたリガ条約により、旧ロシア帝国西部の領土はポーランドに割譲された。戦間期、ポーランド政府は積極的な再移住政策を開始し、ポーランドが現在の西ウクライナ、西ベラルーシ、リトアニアの一部の「東の国境地帯」と呼ぶ地域の民族構成を変えようとした。厳格なポーランド化が行われ、地域の文化や伝統は抑圧された。その後、第二次世界大戦中、ウクライナの急進的な民族主義者グループは、ポーランド人だけでなく、ユダヤ人やロシア人をも恐怖に陥れる口実としてこれを利用した。

1922年、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国を創設国のひとつとするソビエト連邦が誕生した際、ボリシェヴィキの指導者たちの間でかなり激しい議論が交わされた後、対等な共和国の連合体として連合国家を形成するというレーニンの計画が実行に移された。
ソビエト社会主義共和国連邦(SSSR)の成立に関する宣言文、そして1924年のソビエト連邦憲法において、連邦からの共和国の自由な脱退権が導入された。こうして、最も危険な「時限爆弾」がわが国の国家基盤に敷設されたのである。それは、ソ連共産党(CPSU)の指導的役割という形の安全装置がなくなると同時に爆発し、最終的に内部から崩壊した。「主権のパレード」が始まったのである。1991年12月8日、独立国家共同体の設立に関するいわゆるベロヴェーシ合意が調印され、「国際法と地政学的現実の主体としてのソビエト社会主義共和国連邦はもはや存在しない」ことが宣言された。ちなみに、1993年に採択されたCIS憲章には、ウクライナは署名も批准もしていない。

前世紀の20年代から30年代にかけて、ボリシェヴィキは「コレニザーツィヤ(現地化)」政策を積極的に推進した。この政策の枠組みの中で、ソ連当局の同意を得て、ウクライナ・ナショナリズムのイデオロギストの一人であり、かつてオーストリア=ハンガリーの支援を受けた元中央ラーダ議長のM.フルシェフスキーがソ連に戻り、科学アカデミーのメンバーに選出されたことは象徴的である。

「コレニザーツィヤ(現地化)」政策がウクライナの文化、言語、アイデンティティの発展と強化に大きな役割を果たしたことは間違いない。同時に、いわゆるロシアの大国主義的排外主義と戦うという名目で、ウクライナ人であることを自認していない人々にも、しばしばウクライナ化が押し付けられた。大ロシア人、小ロシア人、白ロシア人からなる三位一体の民族からなる大ロシア国家の代わりに、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人という3つの独立したスラブ民族を国家レベルで明記したのが、ソ連の国家政策であった。

1939年、ポーランドが占領していた土地がソ連に返還された。その大部分はソビエト・ウクライナに併合された。1940年、1918年にルーマニアに占領されたベッサラビアの一部と北ブコヴィナがウクライナ・ソビエト社会主義共和国の一部となった。また、1948年には黒海に浮かぶズメイニー島もウクライナ領となる。そして1954年、ロシア連邦のクリミア州がウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管された。

オーストリア=ハンガリーの崩壊後、チェコスロバキアに帰属したカルパティア・ルテニアの運命については、ここで別途述べることにしよう。地元住民のかなりの部分はルテニア人であった。今ではほとんど忘れられているが、ソ連軍によるトランスカルパティアの解放後、この地域の正教徒たちは、カルパティア・ルテニアをロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に編入、もしくは直接ソ連邦(SSSR)ソ連に編入すること、つまりカルパティア・ルテニア共和国を独立させることに賛成した。しかし、この意見は無視された。そして、1945年の夏、プラウダ紙が書いたように、カルパティア・ウクライナの「旧祖国ウクライナとの再統一」という歴史的な出来事が発表された。

このように、現代のウクライナは完全にソ連時代の発案である。我々は、その大部分が歴史的ロシアの犠牲の上に築かれたものであることを知っており、また忘れてはいない。このことは、17世紀にロシア国家と再統一された土地と、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国のソ連崩壊時の領土を比較すれば明らかである。

ボリシェヴィキは、ロシア人民を社会実験の無尽蔵の材料とみなした。彼らは世界革命を夢見ていたが、それは彼らに言わせれば、国民国家を完全に廃止するものだった。それゆえ、彼らは恣意的に国境を画定し、領土を惜しみなく「贈与」した。結局のところ、ボリシェヴィキの指導者たちが国を分割する際に、いったい何を指針としたのかは、もはや重要ではない。細部について、あるいはこれらの決定の背景や論理について議論することはできる。ここでひとつはっきりしているのは、ロシアは実際に奪われたということだ。

この記事を書くにあたり、私は秘密文書ではなく、周知の事実を含む公開文書に依拠した。現代のウクライナの指導者たちや、彼らの対外的な後援者たちは、こうした事実に触れたがらない。しかし、国内外のさまざまな場面で、今日では、ソ連共産党もソビエト連邦も、さらには現代のロシアさえも何の関係もない出来事さえも含めて、「ソビエト政権の犯罪」を非難するのが一般的である。同時に、ボリシェヴィキがロシアから歴史的領土を引き剥がそうとした行為は、犯罪行為とはみなされない。その理由は明らかだ。これはロシアの弱体化につながり、我々の敵対者には好都合だからである。

ソ連ではもちろん、共和国間の国境は国家の国境として認識されていたわけではなく、連邦のあらゆる特性を持ちながら本質的に高度に中央集権化された一つの国の枠組みの中での形式的なものだった。繰り返すが、これはソ連共産党が主導的な役割を果たしていたためである。しかし1991年、これらすべての領土、そして最も重要なことは、そこに住む人々が一夜にして外国にいることを知ったことだ。こうして、彼らは歴史的な祖国から引き裂かれたのである。

これは何を意味するのか。国や社会も含めて、何もかもが変わるのである。そしてもちろん、ひとつの国家が発展していく過程で、さまざまな理由や歴史的状況によって、ある瞬間、別の国家であると感じたり、自覚したりすることもある。このような場合、我々はどのように対処すべきなのだろうか。答えはただひとつ、それは敬意をもつことである。

自分の国家を創設したいのですか?どうぞやってください。しかし、どのような条件で創設するのかという問いは残る。ここで、新生ロシアの最も著名な政治家の一人であるサンクトペテルブルク初代市長A.ソプチャクの評価を思い出してみよう。法律家として高い専門性を有した彼は、あらゆる決定は正当なものでなくてならないと考え、1992年に次のような見解を述べている。「連邦創立メンバーの共和国は、1922年の条約を自ら破棄した後は連邦加盟時の国境に立ち戻るべきであり、それ以外の領土については、その根拠は破棄された為に、すべて議論と交渉の対象であるべきだ」と述べた。

つまり、「持っていたものだけを持って立ち去れ」ということだ。この論理には反論しがたい。ただ、すでに述べたように、ボリシェヴィキは連邦ができる前から恣意的な国境線の引き直しを始めており、領土に関するすべての操作は、人民の意見を無視して単独で行われたことだけは付け加えておく。

ロシア連邦は新たな地政学的現実を受け入れた。そして、単にウクライナの独立を承認しただけでなく、独立国として立ち上がるために多大な貢献をしてきた。困難な1990年代と2000年代において、我々はウクライナに多大な支援を行った。キエフは独自の「政治的算術」を用いているが、1991年から2013年にかけて、ウクライナは安いガス価格のおかげで820億ドル以上の予算を節約できただけであり、今日では、ヨーロッパへのガス輸送のための15億ドルのロシアからの支払いに文字通り「しがみついて」いる。だが、もし両国間の経済的な結びつきが維持されていれば、ウクライナにとって数百億ドルに達するプラスの効果があったであろう。
ウクライナとロシアは、何十年、何百年にもわたってひとつの経済システムとして発展してきた。30年前の協力関係の深さは、今日の欧州連合(EU)諸国が羨むほどだった。我々は自然で相互補完的な経済パートナーである。このような緊密な関係は、競争上の優位性を強化し、両国の潜在能力を高めることができる。

ウクライナには、強力なインフラ、ガス輸送システム、先進的な造船、航空機製造、ロケット製造、計測機器、世界レベルの科学、設計、工学の学校など、大きな潜在力があった。このような遺産を得たウクライナの指導者たちは、独立宣言の際に、ウクライナ経済は先進国の仲間入りをし、人々の生活水準はヨーロッパで最高レベルになることを約束した。

かつてウクライナとソ連全体が誇りにしていたハイテク産業の巨人たちは、いまやその面影を失いつつある。過去10年間で、機械製造業の生産高は42%も減少した。ウクライナの発電量は30年間でほぼ半減している。最後に、IMFによると、コロナウイルス流行前の2019年、ウクライナの1人当たりGDPは4千ドル以下だった。これはアルバニア共和国、モルドバ共和国、未承認国家コソボを下回っている。ウクライナは現在、ヨーロッパで最も貧しい国となっている。

この責任は誰にあるのか?ウクライナの人々だろうか?もちろん違う。ウクライナ政府こそが何世代にもわたって積み上げてきた成果を無駄にし、浪費してきたのだ。我々は、ウクライナの人々がどれほど勤勉で才能に溢れているかを知っている。彼らは粘り強く、成功し、傑出した結果を出すことができる。そして、これらの資質、開放性、自然な楽観主義、ホスピタリティは、どこにも消えてはいない。我々がウクライナに対してそうであるように、ロシアに対して好意的であるだけでなく、大きな愛情をもって接する何百万もの人々の気持ちは、今も変わっていないのである。

2014年までは、何百もの協定や共同プロジェクトが、両国の経済、ビジネス、文化的な結びつきを発展させ、安全保障を強化し、共通の社会問題や環境問題を解決するために機能してきた。それらはロシアとウクライナの双方の人々に具体的な利益をもたらした。これこそが我々が最も重要だと考えていたことだ。だからこそ我々は、ウクライナの指導者たち全員と、実りある協力を行ってきたのである。

2014年にキエフで悪名高い事件が起きた後も、私はロシア政府に対し、経済的な結びつきを維持・支援するため、関係省庁との接触の選択肢を検討するよう指示した。しかし、昔も今もウクライナ側にはそれに応じる意志はない。とはいえ、ロシアは今もウクライナの3大貿易相手国のひとつであり、何十万人ものウクライナ人が我が国に働きに来ており、歓待され、支援を受けている。これが彼らの言う「侵略国」と呼ぶロシアの実態なのである。

ソ連が崩壊したとき、ロシアとウクライナの両国の多くの人々は、文化的、精神的、経済的な緊密な結びつきは確実に保たれ、核心において常に一体であると感じている人々の共通性も保たれるとまだ心から信じていた。しかし、最初はゆっくりと、そして次第に急速に異なる方向に事態は進展し始めた。

実際、ウクライナのエリートたちは、国境の問題を除いては過去を否定することで自国の独立を正当化しようと考えた。彼らは、ウクライナがロシア帝国とソビエト連邦の占領下にあった時代について語り、歴史を神話化し、書き直し、ウクライナとロシアを結びつけるものすべてを歴史から消し去った。30年代初頭の集団化と飢饉の悲劇は、我々共通のものだったが、ウクライナ人に対する大量虐殺として語られるようになった。

過激派やネオナチは、公然と、そしてますます堂々と野望を表明するようになった。彼らはウクライナの人々から金を奪い、盗んだ金を欧米の銀行に預け、自分の祖国を売ってでも資本を維持しようとしている。これに、国家機関の慢性的な弱体化と、何者かの地政学的な意思に喜んで従属したがる立場を加えるべきだ。

2014年よりずっと以前から、米国とEU諸国はウクライナに対し、ロシアとの経済協力の縮小と制限を組織的かつ執拗に迫っていたことを思い出してほしい。我々はウクライナ最大の貿易・経済的パートナーとして、ウクライナ・ロシア・EUの枠組みで新たな問題について話し合うことを申し出た。しかし、そのたびに「ロシアは関係ない。これはEUとウクライナの問題だ」と言われた。西側諸国はロシアの度重なる対話提案を事実上、拒否してきたのである。

ウクライナは欧州とロシアの間の障壁となり、対ロシアの踏み台となることを狙った危険な地政学的ゲームに一歩一歩と引き込まれていった。必然的に、「ウクライナはロシアではない」という概念だけでは満足できなくなる時が来た。彼らは「反ロシア」を必要としたが、それは我々にとっては決して受け入れられるものではない。

このプロジェクトの顧客は、「反モスクワ・ルーシ」の創造というポーランドとオーストリアのイデオローグたちの古くからある思想をベースにしている。そして、これがウクライナの人々のために行われているなどという冗談はやめてほしい。ポーランド・リトアニア共和国はウクライナの文化を必要としなかったし、コサックの自治権などなおさら必要なかった。オーストリア=ハンガリーでは、歴史的なロシアの土地は容赦なく搾取され、最も貧しい地域のままだった。ナチスはウクライナ民族主義組織(OUN)並びにウクライナ蜂起軍(UPA) の共謀者たちの支援を受けたが、彼らはウクライナなど必要とせず、単にアーリア人支配者たちのための生活圏と奴隷が欲しかっただけである。

2014年2月にも、ウクライナ国民の利益など考えられていなかった。深刻な社会経済問題、当時のウクライナ政府による過ちや、一貫性のない行動によって引き起こされた国民の正当な不満は、単に冷笑的に利用されただけだった。西側諸国はウクライナの内政に直接干渉し、クーデターを支援した。急進的な民族主義者グループは、その切り札として機能した。彼らのスローガン、イデオロギー、露骨な攻撃的ロシア恐怖症(ルソフォビア)は、多くの点でウクライナの国家政策を左右するようになった。

我々を繋いでいるものすべてが攻撃対象となった。何よりもまず、ロシア語だ。「マイダン」新政府はまず、国家言語政策に関する法律を廃止しようとした。その後、「権力の浄化」と教育に関する法律が制定され、実質的に教育過程からロシア語が排除された。

ついに今年5月、現大統領は「先住民族」に関する法案を議会に提出した。この法律では、ウクライナ国外に独自の国家を形成していない少数民族だけが認められる。この法律は採択され、新たな不和の種がまかれた。そしてこれは、すでに述べたように、領土、国家、言語構成、そしてその形成の歴史の点で非常に複雑なこの国において起こったのである。

こういう反論もあるかもしれない:単一の巨大な国の話、三位一体の民族の話なのだから、自分をロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人のどれだと思おうと大差はないだろう。わたしもこの意見に同意する。なぜなら、自分の民族を定義することは、特に混血家族においては、すべての人が自由に選択できる権利だからである。

だが現実問題として、今日のウクライナの状況はまったくちがう。というのも、ウクライナは強制的なアイデンティティの変更を伴っているからだ。ウクライナのロシア人は、自分たちのルーツや祖先の世代を否定させられているだけでなく、ロシアは自分たちの敵だと思い込まされているのだ。ロシアに対して攻撃的な、民族的に純粋なウクライナ国家の形成という強制的な同化の過程は、我々に対する大量破壊兵器の使用に匹敵する結果をもたらすと言っても過言ではないだろう。このような粗野で人為的なロシア人とウクライナ人の断絶の結果、ロシア人は数十万人、数百万人単位で減少するかもしれない。

我々の精神的一体性も攻撃対象となった。リトアニア大公国の時代のように、彼らは新たな教会分裂を始めた。政治的な目的を隠すことなく、世俗的な政府は教会生活に無礼にも介入し、分裂、教会の接収、司祭や修道士の殴打にまで問題を発展させた。モスクワ総主教庁との密接な関係を維持するウクライナ正教会の広範な自治権でさえ、彼らにとっては全く気に入らないものであり、何としてもこの目に見える、何世紀にもわたる血縁関係の象徴を破壊する必要があるのである。

ウクライナの代表が、ナチズムの美化を非難する国連総会決議に何度も何度も反対票を投じてきたことも、彼らの行動からすると理にかなっている。ウクライナでは、当局の保護の下でナチス親衛隊(SS)の戦犯の残党を称える行進や聖火行列が行われている。周囲を裏切ったマゼーパ、ポーランドの支援を受けるためウクライナの土地を差し出したペトリウラ、ナチスに協力したバンデラは、国家的英雄の地位に置かれている。彼らは、若い世代の記憶からウクライナの誇りであった真の愛国者や勝者の名前を消し去ろうと、あらゆる手段を用いているのである。

赤軍やパルチザン部隊で戦ったウクライナ人にとって、大祖国戦争はまさに愛国戦争であった。2000人以上がソビエト連邦の英雄となった。その中には、伝説的なパイロット、イワン・コジェドゥブ、恐れを知らないスナイパーであり、オデッサとセヴァストポリを守ったリュドミラ・パブリチェンコ、パルチザンの勇敢な指揮官シドル・コフパクがいる。この屈強な世代は、我々の未来のために、我々のために戦い、命を捧げた。彼らの功績を忘れることは、我々の祖父、母、父を裏切ることに他ならない。

「反ロシア」計画は、ウクライナの何百万人もの住民によって拒否されてきた。クリミアとセヴァストポリの人々は歴史的な選択(ロシアへの編入)をし、南東部の人々は平和的に自分たちの立場を守ろうとした。しかし、子どもたちを含む全員が分離主義者やテロリストのレッテルを貼られた。彼らは民族浄化と軍事力の行使を脅し始めた。そしてドネツクとルガンスクの住民は、自分たちの家、自分たちの言語、自分たちの生活を守るために武器を取った。2014年5月2日にオデッサでウクライナのネオナチが人々を生きたまま焼き殺し、新たなカティンの森事件を引き起こした後、彼らに何か他の選択肢が残されていたのだろうか?バンデラ派の信奉者たちは、クリミア、セヴァストポリ、ドネツク、ルガンスクで同じような大虐殺を実行する準備ができていた。彼らは今もその計画を諦めていない。彼らはその時を待っているのである。しかし、我々がいる限り、その時が来ることはないだろう。

クーデターとそれに続くキエフ当局の行動は、必然的に対立と内戦を引き起こした。国連人権高等弁務官事務所は、ドンバス紛争に伴う死傷者の総数は1万3000人を超えると推定している。その中には高齢者や子供も含まれている。恐ろしく、かけがえのない命の損失である。

ロシアはこの殺し合いを止めるためにあらゆる手を尽くしてきた。ドンバス紛争の平和的解決を目的としたミンスク協定が締結された。それに代わるものはまだ存在しないと私は確信している。いずれにせよ、ミンスク協定パッケージの下でも、ノルマンディー・フォーマット諸国首脳の関連声明の下でも、誰も署名を取り下げていない。そして、2015年2月17日の国連安保理決議の見直しに着手した国もない。

公式な交渉の過程で、特に西側のパートナーから「引っぱたかれた」後、ウクライナの代表は定期的にミンスク合意に「完全にコミットしている」と主張するが、実際には「この合意は受け入れられない」という立場に基づいている。彼らは、ドンバスの特別な地位やそこに住む人々の保証について真剣に議論するつもりはない。彼らは「外部からの侵略の犠牲者」というイメージを利用し、ロシア恐怖症を煽ることを好んでいる。また、ドンバスで血なまぐさい挑発行為を展開している。要するに、どんな手段を使っても外部の支援者やご主人様たちの注意を引こうとしているのだ。

このような状況から、私はますます「キエフはドンバスを必要としていない」ということに確信を深めている。それはなぜか?第一に、キエフが武力、封鎖、脅しによって押し付けようとしている命令を、これらの地域の住民は決して受け入れないからだ。そして第二に、ロシア、ドイツ、フランスの仲介を通じてドネツク人民共和国およびルガンスク人民共和国と直接交渉することで、ウクライナの領土保全を平和的に回復する真のチャンスを与えるミンスク1およびミンスク2の結果は、「反ロシア」プロジェクトの論理全体と矛盾している。この「反ロシア」プロジェクトは、内外の敵のイメージを常に醸成することでしか成り立たない。さらに付け加えれば、現在のウクライナは欧米諸国の保護と支配の下にあるのだ。

これが実際に起きていることだ。第一に、ウクライナは、社会に恐怖の雰囲気を作り出し、攻撃的なレトリックを用い、ネオナチを甘やかし、国を軍事化している。これに伴い、外国人アドバイザーによるウクライナ当局、特殊部隊、そして軍隊に対する監督、ウクライナ領土の軍事的な「開発」、NATOインフラの配備など、完全な依存というのみならず、直接的な外部統制が行われている。前述の「先住民族」に関するスキャンダラスな法律が、ウクライナでの大規模なNATOの演習に隠れて採択されたのは偶然ではない。

ウクライナ経済の残りかすの吸収や天然資源の搾取が、同じ偽造工作のもと行われている。農地の売却がそう遠くないうちに行われ、誰がそれを買い取るかは明らかだ。そう、ウクライナには時折、財源や融資が割り当てられるが、それは自国の条件と利益の下で、欧米企業への優遇や特権の下である。ところで、これらの借金は誰が返すのだろうか?どうやら、現在のウクライナ人の世代だけでなく、その子供たち、孫たち、そしておそらくはひ孫たちが返済しなければならないようである。

西側諸国の「反ロシア」プロジェクトの立案者たちは、ウクライナの政治体制を、大統領、下院議員、閣僚が変わっても、ロシアとの分離や敵対に対する態度が変わらないように仕向けている。現職大統領(ゼレンスキー)の主な選挙スローガンは和平の実現だった。彼はそれを掲げて政権に就いた。しかし、その公約は嘘であり、状況は何も変わっていない。それどころか、ウクライナとドンバス周辺の状況はある面では悪化しているとさえ言える。

「反ロシア」プロジェクトには、主権国家ウクライナの居場所はなく、ウクライナの真の独立を守ろうとする政治勢力の居場所もない。ウクライナ社会における和解、対話、現在の行き詰まりからの脱出について言及する人々には「親ロシア派」のレッテルを貼られるのである。

繰り返すが、ウクライナの多くの人々にとって、反ロシアプロジェクトは受け入れがたいものだ。そのような人々は何百万人もいる。しかし、彼らは自分の意見を述べることを許されていない。自分たちの主張を擁護する合法的な機会は、事実上奪われているのである。彼らは脅迫され、地下に追いやられている。彼らは自分の信念や発言などによって、迫害されるだけでなく、殺されることもある。そして、それらの殺人者は原則として罰せられない。

ウクライナの 「正しい」愛国者とは、今やロシアを憎む者だけであると宣言されている。さらに、我々が理解するところでは、将来的にウクライナの国家全体をこの考え方にのみ基づいて築き上げることが提案されている。憎しみと恨みは、世界史が繰り返し証明してきたように、多くの深刻なリスクと重大な結果を伴う、非常に不安定な主権の基盤である。

我々は「反ロシア」プロジェクトに関連するすべての手口を理解している。そして、我々の歴史的領土と、そこに住む我々に近い人々が、反ロに利用されることは決して許さない。そして、そのような企てをしようとする人々には、このような行動は自国を滅ぼすことになると申し上げたい。

ウクライナの現政権は、西側の経験を参考にし、それを模範としたがる。オーストリアとドイツ、アメリカとカナダがどのように隣り合って暮らしているかを見てみよう。民族構成も文化も近く、実際、同じ言語を使い、主権国家であり続け、独自の利益を持ち、独自の外交政策をとっている。だからといって、最も緊密な統合や同盟関係が妨げられるわけではない。両国の国境線は極めて慣習的で透明性が高い。そして、国境を越えた市民は、自国にいるように感じる。彼らは家族をつくり、勉強し、働き、ビジネスをする。ウクライナの何百万という市民がロシアに住んでいるように。我々にとって、彼らは自分の家族であり、親戚なのだ。

ロシアはウクライナとの対話に前向きであり、最も困難な問題についても話し合う用意がある。しかし、そのためには、我々のパートナー(ウクライナ)が自国の国益を守っており、誰かに奉仕して我々と戦うために誰かの道具になっていないということを確信する必要がある。

我々はウクライナの言語と伝統を尊重する。我々は、ウクライナ人が自分たちの国家の自由で安全な繁栄を望んでいることに敬意を表する。

私は、ウクライナの真の主権はロシアとの協力関係においてのみ実現可能と確信している。我々の精神的、人間的、文明的な結びつきは、何世紀にもわたって形成され、同じルーツにさかのぼり、共通の試練、成果、勝利によって築かれてきた。我々の親族関係は世代から世代へと受け継がれている。それは、現代のロシアとウクライナに住む人々の心の中に、記憶の中に、何百万もの家族を結びつける血の絆の中にある。我々は、これまでも、そしてこれからも、何倍も強く、成功し続けるだろう。結局のところ、我々はひとつの民族なのだ。

今、これらの言葉は、一部の人々によってねじ曲げられた形で受け止められている。解釈の仕方は様々だろう。しかし、多くの人が私の言葉を受け止めてくれるはずだ。ロシアはこれまでも、そしてこれからも 「反ウクライナ」ではない。そして、ウクライナがどのような国になるかは、そのウクライナ国民が決めることなのだ。

ウラジーミル・プーチン

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