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レポート・エッセイ

公益法人制度改革にモノ申す ~議論の推移と問題点~

螺旋状の進歩

トラックで激しく首位を争っている二人のランナー、と見えたのは、一人は周回遅れの走者だった。なんていうことは現実にはあまり起こらない。しかし、螺旋状の進歩、つまり三次元で見れば確実に進歩しているものが、二次元で見たら同じところを行ったり来たりしているように見える、という例は結構多いものだ。女性の労働時間制限とか、大きな政府・小さな政府というのはその典型だろう。

同じレベルで、同一の次元で議論しているように見えるが、実は全く問題意識が違う、という話である。同床異夢といってもよさそうなものだが、見ているのが夢ではなくて、真面目な議論だからことは厄介なのだ。

民間非営利活動、あるいは公益法人を巡るこのところの議論(あるいは、らしきもの)を聴いていると、これはその典型例ではないか、と思わせるものがある。

というのも、今回の制度改革にあたっては、非営利法人設立と法人活動における公益性認定が論点であるかの如く見受けられるからだ。何故それが周回遅れの首位争いかというと、時代は今さら非営利だ、公益性だなどという古典的な区分を巡っての議論をとうに超えているからにほかならない。換言すれば、非営利性の今日的意味は、営利との峻別それ自体にある訳ではない。むしろ両者の関係性にこそ存在する。

それは営利と非営利のクロスオーバー現象とでもいうべきもので、例えば企業の社会的責任(CSR)及びそれを受けた投資スキーム(SRI)に顕著であり、米国におけるSRI投資残高は2兆ドルを超えた。まだよちよち歩きのわが国においてさえ一千億円を数える。例えばこの投資スキームが公益か私益かという議論にどれほどの意味があろうか。さらに、民間非営利組織である Global Repporting Initiative(GRI)が企業の財務・環境・社会に及ぼす影響を問うトリプル・ボトムラインもいまや耳新しいものではない。営利活動の成果評価に外部経済要素が入るのみならず、その基準設定者の立場にあるのが民間非営利組織なのだ。ちなみに類似のスキームであるISOも、その下部組織は民間でこそないものの非営利組織である。

知的所有権(IP)を巡るオープンソース化の動き、あるいはこの問題に投影される南北問題には、営利動機による経済活動と言う伝統的なものの考え方の否定にまで連なる動きが見られる。しかも、それは一部の物好きだけの運動ではないことはリナックスを見れば明白だ。

さらに衝撃的な例を挙げれば、これだけはクニの、従って「公」の専権事項だと思われていた軍隊の兵站・兵員訓練から実際の戦闘行為にまで私企業(PMF)が参加し、その世界的経済規模は10兆円を超えるという。

だから、公益なるもの、あるいは公と私の区分を、ある時代・地域・文化・目的といった制約から自由に、アプリオリに与えることが可能だ、またそうあるべきだという古めかしい考え方が、民主主義的な操作定義(operational definition)に代わって幅を利かす。甚だしきはパブリックセクター(早くいえばオカミ)がその区分をする権限を保有すべきだなどという考えが見え隠れするというのは驚きでしかない。

法制度というのは、しかし、時代を追認することが多いと言う。ならば百歩譲って周回遅れには目をつぶるとしよう。それでもなお理解し難い幾つかの混乱が見られるのはどうしたことだろう。以下にその代表的なものを挙げて論評する。


罰するのか誉めるのか

悪いことをした者を見つけ出して罰する。悪いことをする奴が現れないように予防措置をとる。それと善いことをした人を誉める。模範的な行いを奨励する、というのがまるで別の話だというのは三歳の童子でも理解する。暴走族を取り締まるのと、優良ドライバーを表彰するのは違う。短所を矯正するのと長所を伸ばすのは同じことではない。

公益法人の中に「蜜の味」だと揶揄されたり、存在意義がどこにあるのか判然としない、にもかかわらず税金が注ぎ込まれている、あるいは税制上の優遇措置を受けている、そんなものが少なくないのは誰でも知っている。それを摘発、処分するための公益法人改革は大いに結構だし、どんどんやればよい。

民間の公益活動、ひらたくいえば「世のため、人のため」になることをオカミの手を借りずに行う。それがより広く、より多く行われるような風土を作り出す。制度を構築する。社会的認識のレベルを上げる。

そのために何が障害になっているかを考える。奨励するためには何をすればよいかを考える。これは「悪い」公益法人を征伐するのとは全く別の話である。

こんな分かりきった話が、「制度設計にあたっては」というマクラ言葉がついたとたんにこの2つがごっちゃになる。いわばブレーキを踏みながらアクセルをふかす運転になる。ブレーキ装置が付いていること、正常に作動することの確認は重要だ。しかしそれとアクセルを踏みながらブレーキを踏むのとは全く別のことだ。

法人設立の許可主義はおかしい。もっと自由に設立できるよう準則主義にすべきだ。だからといって相続税逃れに財団法人を無闇に作られてはかなわない。だから「制度設計にあたっては」それはでき難いようにしておくべきだ。

世のため人のためにする仕事について、税制面で優遇、あるいは奨励措置を採るのは結構だ。しかしそれを悪用するものが出るといけないから、「制度設計にあたっては」予め参入障壁を築いておくべきだ。のみならず、何が世のため人のためになるか、という判断は公平無私な国家機関にして初めてなしうるものである。また、そうでなくては困る。

この議論の奇妙さは改めて指摘するまでもないだろうが、実はこの延長線上にさらにいくつかの問題がある。


予防の善し悪し

ことが起こってからでは遅い。起こる前に対策を講じることが肝要で、そのほうが経済的にも安くつく。

予防医学はこの考えに基づいて発達したし、火の用心から青少年非行防止、最近は予防外交(preventive diplomacy)なんて言うのまである。しかし、無原則にこの考えを適用すると、とんでもないことになるのは歴史が証明している。そして苦い経験の末に「これだけはするまい」といったカテゴリカルな御法度、あるいは negative list としての「犯罪人のマグナ・カルタ」のような型で定めるのがよい、という結論に達したのは周知のとおりである。

犯罪予防のための劣性遺伝子除去を標榜した、断種などの優生学(eugenics)は記憶に新しい。その再来が遺伝子診断をめぐって議論されるようになっている。予防が抑圧に転じやすいのは人の知るところで、特に権力がこれを振りかざすと途方もない結果を招来する。

悪いことをした者は処罰する、のではなく、それを予防しよう。でき難いようにしよう。したくてもできないようにしておこう。その一典型が悪名高い治安維持法の予防検束であった。何も治安維持法まで遡らなくとも、現行の公益法人制度の主務官庁による指導監督制度がこれだ、というのは意外に知られていない。

もともと組織経営者のガバナンスに公権力が掣肘を加える、善導する、という発想自体がナンセンスなのだが、これについては後に触れる。ここで問題なのは、すべきでもなく、またできもしない指導監督をする、すべきだ、と定めた結果(当然のことながら)様々な歪みが生まれる。余りに自明のことだから詳論は避けるが、情報公開、経営透明度向上に代えて「指導監督」を置いたのが「胡散臭い」「蜜の味」公益法人出現の唯一最大の原因だったのである。最近はやりの言葉で言えば、主務官庁に対してだけアカウンタブルでありさえすればよい、という公益法人制度に問題があったわけだ。だから、もしかして公益法人制度改革の理由の1つが従来制度の欠点、あるいは欠陥についての反省であるのならば、何はさて措いても先ず許可制度とそれと表裏一体になった指導監督制度の撤廃をこそ指摘すべきなのだ。ところが、ほとんど無邪気といってよいほどこの点については軽く見られている。問題があるのは指導監督それ自体ではなく、それが煩瑣にわたったことだ、と言わんばかりの言説はその一例だ。「臭い匂いは元から絶たねばダメ」なのに、匂いの元が解っていなければ、再度匂いがしかねないのが怖い。

日本中の児童に行った予防注射で、特異体質かあらぬか、数人の子供が死に至った。それだって問題になるだろう。注射を打った子供がことごとく変調を訴え、その多くが死んだというのに、予防注射に問題はない。制度的欠陥ではない、といい募る。試問を受けた有識者会議が「多少薬品選定プロセスに改めるべき点はあるかもしれない」と答申したら、誰が納得するだろうか。

今回の議論は100年ぶりのそれにしては、さして革新的でも、まして時代の先端を行くというにも遠いという点は先に触れた。それは措くとしよう。一体、今回の制度改革は、民間非営利活動を奨励しようというのか、間違った方向に行っているのを是正しようというのか。それぞれどちらであるかによって、対応策は違うだろう。両方を一度にやるというのは、意図はともかく実際にはろくなことにならない。のみならず、間違いの是正だけとっても、その原因はどこにあるのか。見当違いの議論は見当違いの方策しか生まない、ということである。その話はこれくらいにして奨励策の方に移る。


参入障壁

平成14年3月の閣議は「民間非営利活動を社会・経済システムの中で積極的に位置付ける」とした。奨励とまではゆかないまでも、これを認知し、意義を認めるということだろう。もっとも、官僚の作文(閣議決定のことである)というのは往々にして常識では理解できない意味を持つから要心にこしたことはない。例えば平成8年9月の閣議決定は、公益法人が「経済社会において重要な役割を担う」、だから「その活動の適切な発展」のために「適切な指導監督等を強力に推進しなくてはならない」とのたまう。

こんなこともあるのだから、今回の閣議決定だって、官僚の良き指導のもと、積極的に位置付ける、くらいのことは平気で言いかねない。注意が必要だろう。しかし、それが杞憂に過ぎないという人も多いようだから、ここは素直に奨励しようと考えているらしい、としておこう。問題はその手段である。

日本の自動車産業はいまや世界に冠たる地位を占める。トヨタのレクサスなどはフリードマンによってグローバリゼーションの代名詞に使われているくらいだ。

もしかして企業に代わって、日本の優秀なお役人がモデルを決め、生産台数を決定し、ついでに価格も通達する。車の色は何種類にするか、エンジン排気量についても通達で決めていたら、もっと世界を席巻していただろう、という人がいるだろうか。議論は正反対で、規制やお役所の介入があればあるほどダメになるのは、同じ自動車でも規制、規制でがんじがらめのタクシー業界が気息奄々として死にかかり、それでも何のためか全車両がメーターを2台つけて(あれが何のためで、メーカーが日本に何社あって、1台いくらが知っている人いますか?)走り回っているのと好対照である。

護送船団方式は、その業界を破滅させる確実な方法だ、というのは日本の銀行を見れば一目瞭然だ、とは言い古された議論だろう。

規制による保護政策の典型は、とにかく参入障壁を高くするところから始まる。クラブに入るのにお役所が睨みを利かす訳だ。一旦保護を受けるクラブメンバーになったら、ああしろこうしろとうるさい代わり、ご指導に従ってさえいれば、安定した生活が保障されるかの如き幻影がある。経営の才覚も不要なら、競争もない。業界に役所OB(retired and tired)をお迎えするなど何ほどのことか、というわけだ。

ひるがえって公益法人改革。「積極的に位置づける」(奨励する)方策の最大なるものの1つが税制上の特別措置であることには異議を唱える人は少ない。古今東西を問わず、資源問題が非営利組織にとって最大の問題の一つだからであり、その意味で税制の問題は忘れるわけにはゆかない。

それかあらぬか政府税調も呼応して「民間非営利活動は、一層その重要性を増してくる」から「適正な税制のあり方を検討していくべき」(平成16年11月)とする。

こうした口当たりの良い作文にうっとりしていると、次に起こる(あるいはもう起こっている)議論は、「非営利活動の全てが同じように社会的に重要な訳ではない。自ずから相互間に機能の軽重、従って税制面での扱いにも差があってしかるべきである」「そのためにはその機能の軽重、社会的意義の多寡について判断が必要になる」というものであろう。それは誰が判断するのか、が最大の問題になる。それが一旦決まってしまえば、後はおなじみのクラブメンバー選定のプロセスである。「税金をまけるんだろう、それには厳格な要件が必要だ」から始まって、いつか来た道(deja vu)だから繰り返すことはあるまい。


非営利法人原則非課税?

それなら無制限でよいのか、という話になる。つまり、非営利法人でありさえすればその所得に税金をかけないでよいのか(寄付金免税の話もある。これについては後に触れる)ということだ。

営んでいる事業の内容が鉄鋼生産であれ、タクシー業であれ、非営利、すなわちその所得を構成員で配分しない(株主に配当したり、役員賞与に使ったりしない。)のなら、所得税をかけない(あるいは低率にする、という方法もある。しかし話を単純にするため、あえて all or nothing で考えよう。)でよいのか。

ここで「よいのか」というのが少し曲者である。この問いかけは「べき」かどうか、つまり税金をかけるべきではないかどうか(かけるべきかどうか、ではないことに注意)という規範的・価値判断的(normative)なものと紙一重だからだ。

これはえてして不毛な、というか政治的な議論を生みやすい。例えば今回の一連の議論の過程でみられた「本来課税・本来非課税」あるいは「原則課税・原則非課税」の議論がその典型である。この議論で参加者が言いたいのは実は次のようなことだ。

ある活動(非営利活動、公益活動、社会貢献活動、何でもよい。)に「本来」は課税す「べき」だ。というのなら、課税しなくてもよい、すべきではない、という論者の側に自分の主張が正しいことの挙証責任がある。本来非課税だ、というのが事前に合意されていれば、その逆になる。

これに「ある活動」に対する価値判断とか、信念のようなものが加わると、もっと話はややこしくなる(ように見える)。すなわち、こんなに意義がある活動には「本来」税金をかけるべきではない。そうに決まっている。それに税金をかけるとは何ごとか。

ちなみに、これをひっくりかえすと、もっと面白い議論になる。こんな意義ある活動をしている志の有無を税務署ごときに判断されたくない。判断されてたまるか、というもの。

税金って何だ。安全に、快適に暮らせる社会インフラの整備や、社会的なさまざまのニーズにかかる費用を、国民の合意に従って、みんなで分担する仕組みではないか。分担の仕組みについては、うまいやり方もそうでないのもある。それを議論して決めてゆこう、という話だ。話の具合によってはいろいろ紛れるから、税金をうんと取りたい人はとる「べき」だという議論になるし、そうでない人は逆の「べき」を主張するだけのことだ。

さて元に戻って、上がった利益をみんなで分けてしまわない、つまり儲かったからといって、高い賞与に化けたり、みんなで豪勢に使っちまったりしない。そんな法人ならばそもそも課税すべき対象がない、と考えることも可能ではないか。(いや、そういう会社だって、みんなの税金で作り上げた社会インフラのお世話になっている。応分の税金は頂くべきだ、という考えだってもちろんある。)そうやって税金がかからないままに、貯めに貯めたオカネを会社が解散するときに分配した、というのではまずいから、解散時残余財産の分配は禁止する、という考え方もあれば、なに、分配するときに個人所得税でがっちり税金を取ればそれはそれでよい、という考え方もあろう。

「べきだ」、「べきではない」と目くじらたてる話も、煎じ詰めればこの辺りなのだが、要は時の国民がどちらにより納得するか、ということになる。

もちろんこのどちらかの選択肢しかない訳ではない。鉄鋼業やタクシーというのはいくらなんでも行き過ぎで、社会福祉とか、環境あるいは国際交流といった、一見して「世のため人のため」色の強い分野・業種に限定してはどうだ、という「常識的」な声もある。(これを敢えて難しく言えば、非営利観念は私益と両立する。よって、非営利のみでは足りず、公益観念を必要とする、ということになる。)タクシーでも、障害者用に限定すべきではないか、という話だ。


資本主義

非営利観念は私益と両立するではないか、という話には、そんなことをしたら、八百屋さんもコンビニも、われもわれもと非営利法人になって、法人税なんぞとれなくなってしまう、という意見も含まれる。この猜疑心を深追いすると際限がないから、先の「罰するのか誉めるのか」をもう一度お読み頂くとして、ここでは、株式(市場)による資金調達というのが、配当あるいはキャピタルゲイン期待の株主を公募するという、近代資本主義の産物であったことを想起して頂くに留める。民間非営利活動というのは、「配当を求めない(求めてはいけない)出資」によって成り立っている。のみならず、残余財産の配分も禁じれば、全く事業の趣旨に対する賛意の表明、善意の寄付以外の何ものでもない。とすれば、非営利法人課税の廃止が、資本市場と産業資本調達の構造に大異変をもたらす可能性を内包しているとは考え難い、というのが常識的な見方であろう。

それよりは、equal footing つまり通常の営利企業としてある業種を営む人が、同一業種の税金の安い非営利組織と競争上不利な立場に置かれる、というほうが深刻だと考える人もいる。法人売上高利益率は平均して3から4%、法人税額が仮にその半分だとして、理屈の上では価格を最大2%安くできることになる。それがどうした、と考えるか、死活問題だ、と考えるか。(ちなみにおそらく問題が一番起こりそうな小売業ではこの値は4分の1くらいになる。)

こう眺めてくると、この問題に対処するためには、発生した所得をある(世のため人のための)目的に使う、というのと、ある仕事それ自体がそうした目的そのものである場合を別に考えるべきか、同一視してよいか、を検討する方が現実的だということになる。心身に障害を持っている人の雇用創出のためにパン屋を開くのと、地球環境維持の資金集めのためにパン屋を開くのと、同じパン屋の所得の扱い(税金をかけるかどうか)が同じでよいのかどうか、という話である。双方ともにそれなりの理由がある。どちらも(多少の差こそあれ)優遇すれば良い、という考え方もあろう。同時に、両者の間には目的合理性において手法に直接度の差がある。前者を優遇する理由こそあれ、後者は equal footing の見地から問題だ、とすることも可能だろう。

ここで議論しているのは必ずしも形式論理の話ではない。むしろ、われわれはどのような活動が社会において行われることを望むか。如何にして活動の多様性を保証できるか。どれほどそうした活動を奨励するか。そうした活動の行われる枠組みをどのようにして提供できるか。その枠組みと周辺との摩擦を最小限にできる制度設計はどのようなものか、といった考慮の一端として課税の問題を議論している。

非営利組織の所得は原則課税である。従って、同窓会の幹事が会費をやりくりして次年度のために少し繰り越しを作ったら、それは勿論課税対象である、といった形式論理と同じレベルの議論をしている積りはない。

再び「べき」のような話になってきたからもう一度念を押すが、法律がどのような税制度を定めるか、定めないかは国民が決める。どんな税金を徴収しようが、するまいが、それは時の国民の決めることである。(憲法に反する差別的な税制度などが許されないのは言うまでもない。)。その限りでは、何を奨励するのか、どれほど奨励したいのか、という「この国のかたち」の議論がなくてはならない。それなしで重箱の隅を突いていると、馬車を馬の前に繋ぐような話になる。

とかく税金を巡る話は細かくやりだすとキリがない。税法にどんな定めをおいても、必ず抜け道を考えだす人が出るのは古来人の知るところ。それに備えたイタチごっこのためだけでもないだろうが、税務職員5万人、税理士6万7千人がこれにかかりきりになっている位のものである。だからと言うわけでもないが、これ以上の詳論は避けて、今一つ寄付の話にだけあっさり触れておくことにする。


寄付

非営利活動は「配当を求めない出資」によって成立する。これがほかでもない寄付の話で、これなくしては民間非営利活動は元気が出ない。しかし日本では、特に個人による寄付が低調である、とよく言われる。多く見積もっても1,500億円。アメリカが十数兆円であるのに比べれば、何たる少なさであるか、という話である。そんな日本でも毎年ユニセフが百数十億、共同募金が二百数十億募金実績があるのだから、他の組織だってやりようによっては集められなくはない筈だ、と考えることも出来よう。しかし、「寄付文化」の活性化のためにはインセンティブが欲しい。現在のほとんど禁止・抑圧的な寄付に関する税制度から、いま少し奨励的なものに変えてはどうだ、という論者は多い。

奨励的な税制、つまり「それとして」認められるような活動をしている組織に対する寄付は、所得申告の際に経費控除できるようにする。その「それとして」の認定が税務当局の近視眼的な運用解釈によって、現在のところ存在しないも同然になっているのをなんとかすべきだ。また、その経費控除上限額も現行の25%からもう少し上げてはどうか、という議論である。たしかに、今の徴税側の禁止的とも言うべき運用は改善の余地があり、「寄付文化」の育成についてはそうした制度面、あるいは運用面の手直しをするのは結構な話だろう。少なくとも害にはならない。しかし、寄付税制をいじったら寄付が増えるかというと、それを確言することは誰にも出来ない。自動車の車検制度が安全運行に関係があるか、というのと同じで、米国で車検制度のある州とない州の間に、車両整備不良による交通事故の頻度に有意の差が見られなかった、というのとよく似ている。

それよりも、現在中央ヨーロッパ諸国で花盛りの「パーセント法」、つまり納めた税金の一定率(1%というのが多い)を自分の指定する民間非営利組織に振り向ける、という制度の導入に熱心な向きもある。所得税15兆円。その1%で1,500億円だから、個人寄付が倍増することになろうか。受取り手の審査にどんな条件がつくかを別にすれば、悪い話ではない。これが「寄付」といえるか、とか議論をしだせばこれまた際限がないが、民間非営利活動の源である「配当を求めない投資」すなわち寄付文化の振興に向けてのあの手この手は極めて重要である。しかし、先にも触れたように、その善意の寄付を厳格に「非営利」の枠のもとに留めおくこと、すなわち組織解散時の残余財産の配分禁止も同様に強調されるべきであろう。


ところで非営利

非営利とは利益非配分だ、といえば明快なようだが、現実問題の処理にあたっては、それほど黒白がはっきりしている訳ではない。役職員が「目を剥くような」給料をとればこれはれっきとした利益配分だが、どこまでが納得できて、どこからがアウトか、というグレーゾーンは常に存在する。(念のために指摘しておくが、その事実と非営利観念の有用性それ自体とは関係ない。)

おそらくは「世のため・人のため」と「われら・お身内」の区分、私益とか共益といわれるものと公益の違いについても、似たようなところがある。

実践的な知恵としては、ある事象についてより鮮明なイメージが欲しければ、グレーゾーン出現の可能性をできるだけ減らして、恣意的あるいは裁量的な判断の余地を最低限のものにするのが賢明というものであろう。

これは、可能なかぎり議論を操作的(operational)でかつ定量的(quantitative)なものにすべく工夫をこらすことを意味する。その知恵のうちの一つが、積極的な主張(これをすべし)を避けて、消極的なそれ(これだけはするまい)で代替させることであるのは、東洋人なら誰でも知っている。「汝の欲するところを人に施せ」と考えるから人権概念や民主主義の押しつけが起こる。「汝の欲せざるところは人に行うなかれ」ならば四方穏やかであろう。

「世のため人のため」、あるいは「われわれが社会に行われることを望み、それ故に何らかの税制上の奨励措置を講じてもよいと考えるもの」、人の名付けて「公益」というもの、にして然り。より明確に定義しうるある範囲のもの、つまり「いくら何でもこれを公益とは言わないよね」というものだけは除いて、それ以外のものが公益である、とする方が紛れが少ない。のみならず除外のプロセスはより操作的でありうる。

本稿で筆者が提案したいのは「公益」定義を税制上の奨励措置のための差別要件と観念し、操作的な定義をすることである。そのためには、「非営利」と「残余財産配分禁止」を求める。こうすれば、わざわざ「公益」の認定機関の設立も必要としないし、恣意的な判断を避けることが出来る。極めて機能的で優れたものである、といえないだろうか。


全体像

どんな活動を奨励したいのか、そのためにはどんな方法があり得るのか、についての話に熱が入り過ぎて、今回の制度改正の今ひとつの問題点、というより最大のそれに触れるのが少し遅くなってしまった。問題というのは、(実は熱の入った部分とまんざら関係がないわけでもないのだが)わが国非営利法人、あるいは非営利活動の全体像をどのようなものとして捉えるのか、という視点である。

周知のように、この100年の間に、民法34条の公益法人から、学校法人、社会福祉法人、宗教法人などのさまざまグループが、100を超える法律によってスピンオフしていった。それぞれがそれぞれに固有の歴史・制度やタテ割りの主務官庁を持つことから、そうした活動の全体が余り統一体として観念されることはない。しかし、少し考えてみれば明白なように、そのほとんどは広義の民間非営利活動である。

これらの活動を一括して、民間非営利活動としての、ひいては非営利法人の全体像を捉えることにどれほどの実益があるか。そんな観念のお世話にならなくても充分これまでやってこられた。改めてそんな視点を導入する、というのは単に学者の玩具か、理論家の暇つぶしに過ぎないのではないか、と考える人がいるかもしれない。

もしかして現在の日本における民間非営利活動に何の問題もなく、鼓腹撃壌とでもいうべき有様だったら、全くその通りだろう。何も改めてその全体像についての検討作業など不要である。

しかし、そもそも公益法人制度の見直しが何故俎上に上ったか、それに想いを致すだけでも問題の所在は知れる。それだけではない。少子高齢化社会の到来を迎えて、経営危機を囁かれることの多い私立学校の公教育との住み分け、介護保険制度下での社会福祉法人の将来、年金・保険システムの諸問題顕在化に伴う医療体制のあり方。さらには現代人の精神的荒廃の中での宗教法人の役割。これらは全て民官非営利活動の将来像の確立を強く要請している。

グローバリゼーションの最中にあって、営利組織とそのガバナンスの問題はさまざまに議論され、かつ多くの試行錯誤がなされている。それに比して「非営利」の世界は、その守備範囲が公私双方の領域にまたがることもあって、必ずしも充分な検討がなされてこなかった。特にわが国の非営利組織は、片方では「公益国家独占主義」に毒されて瀕死の状態が続き、他方では営利動機の側からのアプローチに、自らの独自性を発見しかねている。公と官の同一視といった、日本的特殊事情を捨象しても、非営利と営利、公と私の問題は冒頭にも述べたようにグローバルな問題意識であり、もしかしてわれわれが豊かな伝統に基づく「日本モデル」を提示できれば、それは日本のなしうる大きな世界的貢献であると言っても良い。この分野の議論では、これまで「米国では」「イギリスでは」式の“出羽守”が多く、江戸時代まで脈々として引き継がれ、今日にその痕跡を留める固有の歴史に立脚したものが少なかったように思う。

その意味では、百年ぶりの民法34条の見直し、非営利法人制度の確立はまさに歴史的な事件になる可能性があった。何故「あった」と過去形でいうかといえば、全く公開の議論がされないまま、うやむやのうちに今回制度改正の検討対象は公益法人周辺に限定されたように見受けられるからである。その他の非営利法人の将来像については一切言及されない。何故か。

拙速を尊ぶ理由は何もない。営利動機に基づかない経済行為、配当を求めない投資はいかに定義されるか。それをわれわれはどう評価し、どう対応するか。それは伝統的な公と私の弁別、あるいは私益と公益にどう関連するか、あるいはしないか。そうした問題は「この国のかたち」の根幹に関わるとともに、新たなる時代の文化の源泉になるはずのものである。今からでも遅くない。非営利活動の全体像についての検討が開始し、今回の制度改革の対象とされるべきである。

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