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レポート・エッセイ

新疆からイスタンブルに新天地を求めたカザフ人

  • 笹川平和財団  主任研究員 松長 昭

  • 本レポートは、勉誠出版発行「アジア遊学」no.49(イスタンブル特集)に掲載された

  • フォーラム2000本会議の模様。


    まつなが・あきら
    1960年生まれ。笹川平和財団事業部主任研究員。中央アジア地域研究・トルコ民族史専攻。現在は近現代のトルコ系諸民族の人口移動を中心に研究している。著書に『近代日本とトルコ世界』(勁草書房1999年)『アゼルバイジャン語文法入門』(大学書林1999年)などがある。

イスタンブルにはさまざまな民族が共存している。オスマン帝国時代以来、バルカン半島やアナトリアから移動した人たちの子孫たちが多数を占めている。その他、遠く中央アジアなど東方から移住したウズベク人、ウイグル人、カザフ人達もいる。1950年代に移住すたカザフ人は、中国の新疆地域から20年余りの歳月をかけてイスタンブルにたどり着いた人々であった。
はじめに

1991年のソ連崩壊は,ユーラシア大陸に大きな政治的変動を起こし,中央アジア・コーカサスにカザフスタン,ウズベキスタン,トルクメニスタン,キルギスタン,アゼルバイジャンが独立国として誕生した。これらの国々はトルコ系民族が多数を占め,「トルコ系共和国」とも呼ばれている。中央アジア・コーカサスの人々が独立を喜んだのは当然であるが,トルコ共和国の人々も「兄弟国」が誕生したと喜んだのであった。ところで,トルコはオスマン帝国以来多くの亡命者や避難民を受け入れてきた。トルコ共和国には,さまざまな理由によりトルコに移住した人々が住んでいる。そのような人々の中に1950年代に新疆からトルコに移住したカザフ人もいる。彼らの移動の歴史は,新疆とトルコを結びつける数少ないエピソードである。ハリーフェ・アリタイ老人(1917年)からの聞き書きによりこれを紹介したい。


1.新疆から甘粛・チベットへ

イスタンブル在住のカザフ系トルコ人の父祖たちは,現在の新疆ウイグル自治区カザフ自治州アルタイ地区オラルタイの冬営地サルトガイと夏営地カラショラ,セクピルタイの間を移動する遊牧生活を送っていた。1930年代に起きた大寒波がカザフ人を新疆からトルコまで大移動させる発端となっている。
「アルタイ地方の冬は例年厳しく積雪も多かった。とくに1932,33年の冬は例年にない大寒波が襲った。このためカザフ遊牧民の部族長(タイジ)たちが飼養していた羊など家畜多数が死滅し,また一般牧民たちの家畜も全滅してしまった。カザフ人の裕福な者も普通の牧民もみな家畜を失い貧困と飢餓に苦しんでいた」(アルタイ老人談)
飢餓や生活苦などから逃れるため,33年10月アルタイ地方サルトガイ河地域で遊牧していた1万とも2万とも言われるカザフ遊牧民たちがアルタイからハミ(哈密)の北方約百キロに位置するバルクル(巴里坤)方面に移動した。当時新疆を支配していた軍閥盛世才は,カザフ人が彼の統治に非協力的反抗的であったのでカザフ人たちに圧迫を加えた。バルクルも安住の地にはなかったので,さらに東方の甘粛に移動した。甘粛を支配していた回民軍閥馬歩芳は,カザフ人に利用価値があると思い,甘粛への移動を黙認した。34年,アドゥヴバイ=バイガザンが率いる500家族がバルクルから甘粛に向けて移動を開始した。その後も35年から38年次々と移動し,甘粛に移動したカザフ人の合計は約18,000人であった。
新疆を離れたカザフ人たちは,約二年間甘粛や青海で遊牧生活をおくった。甘粛や青海はチベット人やモンゴル人が多数を占め,チベット人は自分たちの遊牧地に侵入してきたカザフ人を敵視し,カザフ人を襲撃して家畜を略奪した。カザフ人とチベット人との対立や衝突が頻繁に起こり,カザフ人にとって甘粛や青海も安住の地とはならず,約2,500人は新天地を求めてチベット方面に移動を開始したのであった。それ以外のカザフ人は甘粛や青海にとどまったり,バルクル方面に再び戻ったりしている。
チベットに向かう山岳地帯の移動は,遊牧生活で寒さに慣れていても厳しく,高山病も彼らの旅を一層困難なものにした。必要な食糧を途中で現地調達し家畜をつれながら移動を続けた。中国兵とカザフ人の交戦があって,約1,500人のカザフ人が犠牲となり,500-600人が捕虜となった。青海ツァイダム高原から約20日間かけて,ようやくチベット国境のナクチュー(那曲)に到着したが,ナクチューの地方役人はチベット入国を峻拒した。このためカザフ人は,新たな移動先を英領インドとし,来た道を引き返すふりをしてカシミールに向かった。高山病に悩まされながら,約一年かけて遊牧しながらカシミールまで移動した。


2.インド,パキスタンでの生活

1941年9月,英領インド当局はカザフ人に武器の放棄を条件に入国許可を与え,3,039人(1,000世帯)がインドに入国した。インド軍の命令に従ってカシミール州ラダックまで移動し,それからムザフェル・アーバードのキャンプに収容された。このキャンプでの生活は,劣悪で伝染病が蔓延し,死亡者が続出して2年間で約1250人に激減してしまった。
43年末,約450人は列車でボパールに向かい,同地のキャンプに収容された。市当局はキャンプ内に「カザフ・センター」というと産施設と学校を開設した。授産施設では革鞄や刺繍の製作が教えられた。家庭ではカルパク(革製の帽子)や手袋を作り,町で売り歩いて日銭を稼いだ。その後,市当局は町はずれにカザフ人を定住させた。この地区はカザフ・アーバード(カザフ人街)と呼ばれた。その他の約七百人は山岳地帯に移住した。彼らの生活も楽ではなく,ペシャワール,ラワルピンディなどの都市に行商に出かけ日銭を稼いでいた。カザフ人の生活はインド入国後もずっと貧しい状態が続いていた。
47年8月にインドが独立し,パキスタンもインドから分離独立した。インドではヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が表面化し,イスラム教徒は避難民としてインドからパキスタンへ移住を余儀なくされた。イスラム教徒であったボパール在住のカザフ人も同郷のカザフ人が定住していたパキスタンのペシャワールなど移住した。
パキスタンのカザフ人たちは無国籍のままであったので,パキスタン国籍取得のためパキスタン政府に申請した。しかしパキスタンは中国との外交関係を配慮したのか,この申請を却下した。カザフ人にとりパキスタンも安住の地にはならなかったのである。次なる安住の地として,トルコ系諸民族が生活している土地で唯一の独立国であるトルコ共和国への移住を考え始めた。彼らには,これを実現する具体的な糸口がなかなか見いだせなかった。50年2月14日ラホールでバトゥー・トルコ大使と会見する機会ができたので移住希望者リストを手渡した。かすかながらもこの糸口に希望をかけることとなった。
51年10月17日,ペシャワール在住のカザフ人たちは,「東トルキスタン・カザフ難民協会」を組織し,相互扶助やトルコへの移住実現に次のことを決めた。

  1. トルコへの移住実現のため在パキスタン・トルコ大使館と連絡を密にすること。必要ならばトルコに代表を派遣してトルコ政府高官に直接請願すること。
  2. パキスタン政府と良好な関係を維持し,パキスタン政府から移住問題で支援を取りつけること。
  3. 中華人民共和国によるいかなる企てにも一線を画すること。
  4. 東トルキスタン同胞が個人,家族を問わずパキスタンかインドに来た場合,必要な協力や支援をすること。

その一方で,在パキスタン中国大使館員がカザフ人への個別訪問や手紙により新疆への帰還を促した。この動きに対して,カザフ難民協会はカザフ人同胞に中国大使館の言動を信用しないよう注意を喚起し,大使館から送付された雑誌や手紙を回収し,これを大使館に返送した。しかし大使館の工作やパキスタンでの生活苦から,52年7月に海路11名,53年4月に陸路19名が新疆に帰還した。その後も中国大使館員はカザフ人にさまざまな接触を試みたが失敗している。これら30名を除いたカザフ人たちは,結束が堅く中国側の工作に乗らなかった。新疆で漢人による圧政を覚えているので,中国大使館からの新疆帰還の誘いを断固拒否したのであった。 カザフ人はトルコ政府に対して大使館経由やその他のルートでトルコ移住の請願をたびたび提出した。これに対してトルコ政府は52年3月13日付け閣議決定により,「東トルキスタンからインドに避難しているトルコ系350人,その他にパキスタン,サウジアラビアに亡命しているトルコ系1,500人の合計一850人を定住者としてトルコに受け入れる」が決定した。当時のトルコは東西冷戦の激化によりブルガリアなどからトルコ系避難民を大量に受け入れていて,そのような脈絡からカザフ人も受け入れられている。
53年8月31日,カザフ人を代表してハリーフェ・アルタイとハムザ・イナンがトルコ大使館を訪問してトルコへの渡航経路や手続きについて話し合われ,アルタイがカラチに残り出国続きをすることとなった。渡航費用は,トルコやパキスタン政府からの援助はなく自弁しなければならなかった。新疆からパキスタンまで流浪の旅を続け,貧しいカザフ人にとり渡航費用の捻出は容易ではなかったが,金銭を都合しあって乗船券をようやく購入することができた。アルタイは53年の4ヶ月間カラチに滞在し,ひとりでカザフ人全員の渡航手続きをした。彼はパキスタン出国からイスタンブル到着までの様子を次のように感慨深く語っている。 「カラチに4ヶ月間滞在したが,宿賃はすぐに底をついてしまい,2ヶ月間はモスクに宿泊し,残り2ヶ月間はバラック小屋を借りて夜露をしのいだ。渡航手続きもようやく完了し,最後のカザフ人グループに加わってカラチを出港した。乗船券はデッキ・クラスであったので,波しぶきのかかる甲板上でカザフ人は身を寄せ合って過ごした。カラチを出航して11日でバスラ港に入港し上陸した。バスラからバグダード経由の鉄道で憧れの国トルコに入国し,54年1月12日イスタンブルのハイダル・パシャ駅に到着した。我々の目にはイスタンブルが何と活気のある大都市に見え,とうとう到着したという感激と安堵感で一杯であった」
53年9月12日から12月26日までの4ヶ月間に合計1,379名(430世帯)がトルコへ移住した。カザフ人は,41年のインド入国以来,トルコ入国を果たすまで10年余,また新疆アルタイ地方を離れてから20年余りの歳月が流れていた。アルタイ地方を離れた時には,1万とも2万とも言われたカザフ人はいろいろな原因により減少し,最終的にトルコに入国できたのは1,400名弱に過ぎなかった。


3.トルコでの生活

カザフ人はやっとの思いでトルコ入国を果たした。トルコ語が話せず不安であったが,これまでの貧困生活から今度こそ脱出できるかもしれないと期待していた。トルコ政府が用意したイスタンブルのトゥズラ・シルケジ・ゼイティンブルヌ収容施設に収容された。アルタイはトルコ入国当初のカザフ人たちの様子について次のように語っている。
「トゥズラの収容施設は軍の兵舎であり,毎日3回の食事が与えられた。カザフの男性たちは,日中は農場で日給3トルコ・リラで朝から晩まで農作業に従事した。この労働を通じてトルコ社会と初めて接触するようになった。女性たちは施設内で刺繍,帽子,皮鞄,布袋,絨毯などを作り,これらを売って生活の糧にした。施設内でトルコ語講習会が開かれ,カザフ人たちはトルコ語を学んだ」
トルコ政府はカザフ人に土地の無償供与を決定し,カザフ人はイスタンブルの施設からトルコ各地に移っていった。さらに政府は農機具,家屋,短期運転資金の貸与,1年間の税金免除,農業が軌道に乗るまで兵役猶予などと特典を与えてカザフ人の自立を支援した。しかし供与されたニーデなどの土地は農耕に適さない不毛の土地で,耕作の経験に乏しいかったので,農地の開墾は困難を極めたのであった。女性たちは家計の足しに手袋,帽子,衣服を作った。50年代の生活は,パキスタンの時と同じく移住先の各地で貧しい状況が続いていた。ただ当時のトルコはトルコ人もみな貧しかった。
60年代末までにカザフ人約900名は農業に見切りをつけイスタンブルに職を求めて再移住している。60年代以降イスタンブルは地方からの人口流入により人口が急増した。カザフ人はイスタンブルのゼイティンブルヌなどの空き地に「ゲジェコンドゥ」と呼ばれるバラック小屋を建てて,カザフ人コミュニティーを形成し,羊・牛皮のなめし業や皮製品縫製業を生業とした。
70年代,欧米から多くの観光客がイスタンブルを訪れ,グランド・バザールでカザフ人が縫製したアフガン・コートを土産に買っていった。一部のカザフ人たちは,皮革製品による収入で生活が安定し,ゼイティンブルヌの「ゲジェコンドゥ」を3,4階建てに建て替えたり,郊外のキュチュク・チェクメジェに庭付き一軒家を建てたりしている。
80,90年代,カザフ人コミュニティー内部でも,他のトルコ人社会と同じように事業に成功して豊かになった家族,相変わらず貧しい家族との生活の格差が生じている。カザフ人は「カザフ・トルコ基金」という親睦団体を設立し,さまざまな行事を行って相互扶助や親睦を図っている。トルコへ移住してから50年が経過し,トルコ人社会に溶け込んでいる一方,風貌が日本人にも似ているので,トルコ人社会の中ではマイノリティーを意識しながら生活している。

4.ソ連崩壊とカザフ系トルコ人

カザフ系トルコ人たちは,1991年のソ連崩壊とカザフスタン独立を「アナユユト(原郷,先祖の地)」の出来事として,我がことののように喜んでいた。91年10月29日,アンカラでのカザフスタン大使館開館式典には,多くのカザフ系トルコ人が出席し,自国の大使館が開館したかのように祝福していた。それまで関心を抱きつつも遠くに感じられていた「アナユユト(原郷,先祖の地)」の存在が急に身近なものとなったのである。
この頃からトルコ共和国では,中央アジアやコーカサスのトルコ系諸共和国と交流が始まり,カザフ系トルコ人たちの視線もいっせいにカザフスタンに向いた。とくに若い世代の間では,彼らの関心は父祖たちの故郷である新疆ウイグル自治区ではなくカザフスタンである。本来の「アナユユト(原郷,先祖の地)」である新疆ウイグル自治区アルタイ地区とは,親戚訪問が一部で細々と行われているにすぎない。トルコで生まれ育ったII・III世の世代は,祖父母や父母のような流浪の経験をしておらず,新疆のアルタイ地方も祖父母が語る昔話に出てくる一地名に過ぎないのである。老人たちがいまなお新疆のアルタイ地方に郷愁の念を抱いているが,若い世代はアルタイ地方に何ら特別の感情を抱いてはいないのである。 筆者にカザフ人の流浪の歴史を語ってくれたアルタイ老人は40年間住み慣れたトルコを後にして,イスラム教の宣教活動のため「アナユユト」のカザフスタンに移住した。住み慣れたトルコから離れ,「アナユユト」に戻っていったアルタイ老人の姿は,「アナユユト」への思い入れとカザフ人アイデンティティーの強さを示しているのかもしれない。
カザフ系トルコ人たちはトルコ社会にとけ込んで生活していても,強い連帯感を持ちながら相互の親睦を図り,カザフ人としてのアイデンティティーを維持している。現在3,000人とも5,000人とも言われるカザフ系トルコ人がイスタンブルで今後世代の重ねてもカザフ・アイデンティティーを維持できるか注目していきたい。

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