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緊急レポート 同時多発テロのニューヨークから
─悲しみを乗り越え、再生を誓う人々

  • フォード財団 プロジェクト・ディレクター
    茶野順子

鳴り響くサイレンの音からそれは始まった

2001年9月11日午前9時少し前、ミッドタウン・マンハッタンにあるフォード財団の職員たちは、あちらこちらで鳴り始めた、けたたましいサイレンの音に驚かされた。サイレンの音は、いずれもロウワー・マンハッタンの方角を目指しているようだった。
誰からともなく、口コミで刻々とテロ事件の情報が伝わってくる。みな仕事どころではなくなった。てんでに家族や知人の安否を電話で確認し、テレビのあるオフィスに群がった。ワールド・トレードセンターが倒壊する模様をテレビで目の当たりにした職員の中には、ショックと憤りで号泣する者もみられた。10時過ぎには、財団の近くにある国連本部の職員が避難を始めたというニュースが流れ、職員の一部に動揺が広がり始めた。 10時半ごろ、フォード財団の総務部門の次席統括者が10階から地下2階までの各フロアを回り、職員に財団の方針を説明した。
「財団幹部は、市内の交通機関がまったく遮断されている現時点で職員を財団ビルから退去させるのは、責任のある態度ではないと判断しました。職員は個々の状況に応じて対応を決めて下さい。オフィスにとどまる職員のために、財団はカフェテリア・サービスも含めて、通常どおり機能します」
この口頭伝達の約30分後には、プログラム・バイス・プレジデントの1人が各人のオフィスを訪れ、手を取って労りの言葉を述べるとともに、「このような時こそ、気を強くもって持ちこたえよう」と励まして回った。しばらくして、理事長のスーザン・ベレスフォードが、やはり一人ひとりのオフィスを訪れて、励ましの言葉を述べるとともに、安全な行く先が確保できているかどうか尋ねていた。
私の上司は、ニュージャージーへ帰る交通手段がなかった私を彼女のロウワー・マンハッタンのアパートへ招いてくれ、同じ方向へ向かう数人の職員と一緒に歩いて帰る段取りを整えてくれた。
市中はサイレンの音が鳴り止まず、徒歩で家に向かう人々であふれかえっていた。ロウワー・マンハッタンに近づくに従って、投げ捨てられた簡易マスクや赤十字マークのついた紙コップなどが散乱しているのが目立つようになった。ところどころにバリケードが設けられ、その合間をトラックや救急車だけが通り過ぎて行く。おそらく軍用機だろう、時折聞こえる飛行機の音がいつになく不気味に響き、人々は足を速めた。
ロウワー・マンハッタンからブロンクスにつながるマンハッタン橋を目指して黙々と歩く人たちと対照的に、付近の住民の多くは、通りに腰を下ろしたり、立ち止まったまま、抜けるような青空にもうもうと立ち上げる白煙をいつまでも見続けていた。

州民の75%が近親者や親しい友人を亡くした

11日の午後に倒れた第7ワールド・トレードビルから数ブロック離れた上司の家で、頻繁に往来するトラックの音を聞きながら一夜を明かした後、私は運転の再開されたニュージャージー・トランジットに乗って自宅に帰った。 最寄り駅であるプリンストン・ジャンクション駅のいつもと違って不規則に空いている駐車場を抜けると、昨朝とまったく変わらない町の様子が目に飛び込んだ。この違和感は、なかなか消し去ることができなかった。

地元紙の報じるところによると、ニューヨークへの通勤者が少なからずいる私の子供たちの高校では、テロ事件発生がわかった段階で、保護者の勤務先の電話番号をもとに、父母がワールド・トレードセンターに勤める子供たちを割り出したそうである。そして、子供たちを個々にカウンセリング・オフィスに呼んで、事情を説明したということだ。だが、次第に一般の生徒の間に動揺が広まったため、最終時限のはじめに校長から簡単に事実を伝える校内放送があり、その日の課外活動はすべて中止されたという。
中学校に勤める知人の話では、学区のすべての学校で職員を集めた会議が開かれたそうである。学区に設けられている危機管理チームの助言もあり、子供たちの心を安定させるためには、これからも普通の生活が続くことを身をもって示すことが重要であるとの判断だったという。そのため、翌日から普通どおりに授業を行い、生徒から働きかけがあったとき以外は特別に話題にしないことが決まった。また、学区主催による犠牲者を追悼する集会がもたれた。 後日行われた調査によると、実にニュージャージー州民の75%に、近親者、あるいは親しい友人に犠牲者がいることが判明した。


ジュリアーニ市長の素晴らしいリーダーシップ

テロ事件の直後から、「テロリストの思う壺にはまることなく、団結してこの困難に立ち向かおう」と、誰からともなく言い合っていた。こういった人々の注目を集めた1人がニューヨークのジュリアーニ市長である。
ガン治療のために、昨年、上院議員選挙への立候補を断念したばかりのジュリアーニ市長は、ワールド・トレードセンター跡地の救出作業の総指揮を取りつつ、毎日記者会見を行った。その様子はテレビ、ラジオを通じて広く全国に報道された。ジュリアーニ市長は、犠牲者とその家族に真摯な追悼の意を表し、生存者救出作業の状況を説明した。また、市が公共サービスの正常化および市民の保安に努力していることを伝え、予想もしなかった惨事に打撃を受けたニューヨーク市民を勇気づけたのである。
市民の居ても立ってもいられない気持ちを察するかのように「いま必要なのは医療関係者、消防士、溶接工などの訓練を受けた、あるいは技術のある人だけだ。それ以外のボランティアはあとで必要となるだろう」と諭し、また懸念されたアラブ系、南アジア系アメリカ人やイスラム教徒に対するヘイト・クライムについて、「テロリストの究明は国の機関に任せよう。個人での人種偏見に基づいた行動は絶対に許されない」ときっぱりと否定した。
そうかと思うと、「もう大丈夫。ショッピングやレストランに出掛けよう」と市民を励ますなど、常にその取るべき行動の指針を示すリーダーとして、市民、マスコミの信頼を得た。
ニューヨークタイムズの9月23日付の「The hero」と題した記事では、ヘミングウェイを引用して「grace under pressure」(圧力の下の優美)とジュリアーニ市長を称えている。ジュリアーニ市長の人気上昇に加え、事故直後にワールド・トレードセンターに急行し、危険を顧ず救命活動にあたりビル倒壊の犠牲となった消防士と警官が300人以上にも及んだことから、ニューヨーク市民の間で市当局への信頼が高まってきている。


市民個々人が考え始めた社会貢献

このように、行政機関がそのなすべきことをしていることを見極めた上で、一般市民は、自分でどんな貢献ができるかを自問しつつ、募金活動に参加したり、献血センターで行列をつくったり、ボランティアに参加できるNPOを探したりしているようである。 また、多くの企業がアメリカ赤十字や、ユナイテッドウェイ・ニューヨーク支部とニューヨーク・コミュニティ・トラストが共同で設置した「9月11日基金(September 11 Fund)」などに多額の寄付を行っている。それに加え、自社の製品を寄付したり、トラックなどを提供する会社、職員の寄付のマッチングを行う会社なども多数に上った。さらに、企業と同様、数多くの財団が赤十字や「9月11日基金)」などに寄付を行ったり、救助活動や犠牲者の家族に対してさまざまな援助を行うNPOに助成を行うことを約束している。

フォード゙財団も、個人および団体の救助活動支援のために1000万ドル用意することを決定した。また、少数ではあるが、助成申請や事業報告書の提出期限を延長すると発表した財団も出てきているようである。
9月下旬に予定どおり開催された定例理事会の終了後、スーザン・ベレスフォード理事長の提案により、理事と財団職員のインフォーマルな会合が開かれた。これはまったく異例のことである。しかし、多くの職員が、互いに心情を吐露し、怒り、不安、悲しみなどを分かち合う機会を欲していたことを考えると、斬新かつ的を得た措置であったと言えるだろう。その中で、前チェロキー族首長の理事は、ネイティブ・インディアンの言い伝えをもとに、こう職員を励ました。
「You cannot see the future with tears in your eyes」(涙で曇った目では未来は見えない)ニューヨークはいま、街中の至るところに手作りの行方不明者ポスターが貼られ、人々の一層の悲しみを誘っている。本当に悲惨な出来事だった。その悲劇の中で、多くの人々が自分の持ち場においてリーダーシップを発揮し、事件に対処したことも事実であった。これからも理性を曇らせることなく、強い心でテロリズムに相対することこそ、いま私たち一人ひとりに求められていることであると思う。

(茶野順子氏は、91年にSPFに入団、98年より米国フォード財団に出向中である。)

※このレポートは個人の意見であり、必ずしもSPFのそれを代表するものではありません。

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