事業紹介

2015年
事業

353 中国人気ブロガー招へい

事業実施者 笹川平和財団 年数 2年継続事業の2年目(2/2)
形態 自主助成委託その他 事業費 6,858,164円
中国人気ブロガー招へい事業概要

中国の人気ブロガーに日本を訪問する機会を提供し、等身大の日本像を中国で伝えてもらう事業です。

1.事前準備とフォローアップ
  • ネットメディア関係者や過去事業参加者などの意見を参考に参加者を人選する。
  • 来日取材のテーマ、視察先、交流の内容などについては、招へい者と具体的に協議する。
  • 過去事業参加者へのフォローアップを随時行う。
  • 本事業の成果発信としての「中国人気ブロガーが日本を語る(仮)」の企画を進める。
2.来日取材
  • 年に3回、1回につき3名、合計9名を招へいする。
  • 招へい時期は春、秋、冬の3回でそれぞれ1週間程度。
  • 招へい者の都合やテーマに合わせて訪問計画を策定する。
第13回招へい(2015)

招聘ジャーナリストブロガー

 楊瀟氏(33)は時尚先生(Esquire China)で副編集長を務める若きジャーナリスト。2010年に『南方人物週刊』記者時代に石原慎太郎東京都知事(当時)を独占インタビューして一躍著名ジャーナリストの仲間入りをしました。その後もアウンサンスーチー氏にインタビューするなど、中国でも注目を浴びるジャーナリストです。

 張傑氏(27)は、中国の新興ネットメディア『共識ネット』のコンテンツ部門の主任。初めての日本訪問で、中国の農村問題の危機感を念頭に置きつつ、日本の農村振興に関心を寄せて今回来日しました。

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楊 瀟(右)

時尚先生(Esquire China)副編集長

張 傑 (左)

共識網コンテンツ部門主任

 

 取材テーマは「お祭り」です。日本では大小あわせて10万以上のお祭りが毎年全国各地で行われているそうです。日本人からすればなぜ日本のお祭りがテーマになるか不思議に感じる人もいるかもしれません、それほど身近でありふれている存在だからです。ところが、中国都市部では「お祭り」がありません。なぜかというと、「お祭り」がたいていはお寺や神社など宗教的な背景をもつ催しで、不特定多数を特定の日時に集め、しかも民間の実行委員会が主催する形式で、募金などを集めてコミュニティの組織力を強化するという形式があるためです。中国では公安当局からこのような催しの許可を得ることは容易ではないわけです。

 今回は、日本のお祭りを取材して、通り一遍ではない日本社会を取材しようという企画意図がありました。そこで、8月下旬のお祭りとして有名な浅草サンバカーニバルや高円寺よさこい踊り、伝統的なお祭りとして新潟の十日町おおまつり、新しいお祭りとして十日町の大地の芸術祭を取材することとしました。

 

取材日程

8/24 来日 笹川陽平日本財団会長を表敬訪問

8/25 新潟県へ移動。おぢや震災ミュージアム そなえ館

飛渡地区池谷集落取材、十日町おおまつり取材

8/26 新潟県立博物館、北方文化博物館取材

8/27 大地の芸術祭取材
8/28 東京へ移動。江戸東京博物館取材
8/29 浅草サンバカーニバル
8/30 渋谷よさこい踊り、高円寺阿波踊り

8/31 帰国日

 

 8月24日、来日した2人は日本財団会長笹川陽平会長を表敬訪問しました。中国都市部でお祭りがないという説明を聞いた笹川会長は「そうしたらコミュニティがダメになっちゃうじゃない?」とコメント。2人もうなづくしかありませんでした「だからこそ日本のお祭りをとおして、日本社会を知りたいんです」。

 

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笹川陽平日本財団会長を表敬訪問

 

 8月25日は新潟へ。新潟ではまず十日町市の小千谷縮(おぢやちぢみ)や小千谷の錦鯉養殖など地域の伝統産業を取材しました。楊瀟氏は「以前、新潟の三条市・燕市でも鉄製品の取材をしたが、ここの一匹数十万円もする錦鯉養殖や世界遺産にも登録されるような小千谷縮があり、地方にもこんなに立派な産業が根付いているのか」と驚いていました。そのあとは中越地震のあとにできた「おぢや震災ミュージアムそなえ館」で、中越地震の時の被害と復興について学びながら震度6以上の地震を体験し、今ここまで復興してきたことを実感しました。

 

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小千谷縮を知るため、小千谷織物工房

 

 夕方、飛渡地区の池谷集落で十日町市地域おこし実行委員会の多田朋孔氏を取材しました。フェデックスとJENが実施した「田んぼへ行こう」プロジェクトをきっかけに十日町市への移住をきめた多田氏は、農村移住の問い合わせが2008年と比較して2014年には4倍にもなり、さらにその半分が40歳以下ですよ、と紹介。多田氏によると「日本は成熟社会で、物資も豊富にあり、都会では社会貢献の幸福感は得難くなっています。だからこそ、農村で暮らし、自身の力を発揮して社会に役立ちたい、そう思う人が増えてきているんです」という。これを聞いた張傑氏は「京大卒でコンサルタント会社出身の多田氏のような知識人が、農村移住を決断して生活していく、これは日本発の新しい潮流かもしれませんね」と感想をもらしていました。

 

353_01_021.JPG池谷集落では農村体験をする人たちのための宿泊所「めぶき」を2015年に建てたばかり

 

 夜にはいよいよ十日町おおまつりへ。まずは夜店を練り歩きながら、たこ焼きや焼き鳥などをほおばります。二人は楽しげに「まるで中国や台湾の夜市みたいだ。小さな店舗が軒を連ねて、歩行者天国になっていて、北京で言うと前門の裏通りみたいだ」「昼間は全然人がいなかったのに、夜はこんなにたくさんの人がいる。彼らはいったいどこからやってきたんだろう?町中の人がでてきてるんじゃないか?」と口々に言い合っていました。名物の「明石万灯」が走り始めると二人は途端に撮影に没頭し、盆踊りも熱心に撮影していました。一通り見たあと、一言「彼らは何のために明石万灯を走らせたり、盆踊りをしているんだろう?」と不思議そうにしていました。

 

353_01_0110.JPGのサムネイル画像十日町おおまつりの夜店

 

353_01_0109.JPGのサムネイル画像十日町おおまつりの明石万灯

 

 8月26日は新潟の豪雪について学ぶため、新潟県立博物館へ。この博物館では新潟県の歴史が学べるほか、冬の街並みを再現した豪雪展示があります。また雪を生活や産業に利用する「利雪」という豪雪地帯ならではの概念に二人は感心し、午前中いっぱいかけて新潟県の歴史や風土を学びました。午後は新潟市の方へ移動し、北方文化博物館という新潟一の豪農と言われた伊藤文吉の邸宅を訪問。農村というと貧しいというイメージがつきまといますが、反面「豪農」という存在が地域社会を支え、伝統文化を保護してきた一面があることを取材しました。

 

353_01_0111.JPG豪雪展示は等身大で再現されています。

 

353_01_0113.JPG北方文化博物館の伊藤家邸宅内大広間でくつろぐ二人

 

 8月27日は大地の芸術祭を取材。まつだい駅から始まって「農舞台」、「まつだい郷土資料館」周辺のアート作品を見ながら、星峠の棚田、脱皮する家絵本と木の実の美術館越後妻有里山現代美術館キナーレなど拠点施設を中心に取材しました。脱皮する家では偶然、鞍掛純一日本大学芸術学部教授とお会いしてお話を聞く機会が持てました。鞍掛先生は「木造の空き家を彫刻刀で削った脱皮する家から出発して、金属でおおったコロッケハウスコミュニティデザイン、そして今年は奴奈川キャンパスで作品もつくりました」とアートを通じて年々村を再生させてきている様子を語ってくれました。

 

 また越後妻有里山現代美術館キナーレでは、大地の芸術祭アートディレクターの原蜜先生にインタビューしました。張傑さんは「大地の芸術祭のような農村復興は他の地域でも起こりえますか?」と問いかけ、原先生は「中国でもあってほしいと思っています。20年前の日本でも誰もこんなことができるとは思っていなかったでしょう」と答えました。大地の芸術祭の取材を終えた張傑さんは「都会の美術館とは全く異なり、自然の中にアートが溶け込み、現地の社会もアートを受け入れている。以前、わたしのふるさとの母校が廃校となり、荒れ果ててしまった様子を見たとき、とても悲しい思いをしました。芸術祭があったおかげで、廃校、廃屋は現代アート作品に生まれ変わり、十日町にやってきた都会の人たちの心を癒し、農村の人たちに誇りを与えた。これはすごい成果ですね。」と感慨深げでした。

 

353_01_0104.JPG農舞台から見えるアート作品の撮影をする2人の記者

 

 8月28日は東京に戻り、江戸東京博物館を見学しました。江戸時代から東京への一般民衆の生活の移り変わりを学びつつ、館内の各所コーナーで駕籠や、魚屋さんのもっこ担ぎ、火消纏など、江戸時代の風俗を体験しました。また江戸時代の祭りの様子なども学びつつ、現在の祭りとの違いなどについて見学し「日本人は江戸時代からお祭りが好きだったんですね、格好ややってることは何百年も変わってないところもあるんですね」と。

 

 8月29日は原宿表参道のよさこいと、浅草サンバカーニバルの2か所、8月30日は高円寺阿波踊りを取材。3つとも伝統的な祭りというよりは戦後に生まれた新しいタイプのお祭りです。よさこいは100チーム、サンバカーニバルは16チーム、阿波踊りも150連以上と多数の団体が色とりどりの衣装に身を包んでパフォーマンスをしますが、2人はこのタイプのお祭りを見るのは初めて。最初は不思議そうだった2人も、よさこい、サンバ、阿波踊り、とそれぞれでリズムに乗って楽しみながら見ていました。この時最初、2人から質問されたのは「彼らはいくらくらいの時給をもらっているの?え、時給はない?だって練習もするでしょう?え、本当に給与はないの?彼らの衣装は市役所が払ってくれるの?え、払ってくれない?本当に!?」と、お祭りに参加している人たちが自発的に参加しているとは信じられない様子でした。

 

353_01_0102.JPG浅草サンバカーニバルを見る楊さん

 

 お祭りの臨場感を味わいながら取材を続けた2人は「地域社会の絆を深め、人と人の結びつきを強くするという日本のお祭りのもつ力、参加する人や観覧する人に生きる力、活力を与える、そういう力に気が付いた」と感想を言っていました。今回の取材を通じて、中国ではなかなか体験できない、だれでも「楽しい」気持ちをシェアできる日本のお祭りがもつ力を実感してもらえたようでした。

第14回招へい(2015)

中国でも著名な知日派ジャーナリスト、章弘氏を招へいし、2015年11月9日(月)~11日(水)にかけて東日本大震災の被災地のうち、宮城県、福島県を取材しました。

 

招へい者

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章弘氏

章弘氏は1958年生まれの中国でも著名な知日派ジャーナリストでテレビプロダクション経営者。

 

北京外国語大学日本語学科卒。1980年代に早稲田大学政治学研究科修士課程留学。1995年よりCCTVでテレビプロデューサーとして活躍後、2006年に独立、プロダクションを経営。

 
2011年3月11日の東日本大震災が起きた時、章弘氏はCCTVの東日本大震災特番で20日まで連続10日間にわたってコメンテーター、通訳を務め続けた。今回は本人の強い希望もあって「東日本大震災、被災地のいま」をテーマとした来日取材を企画。

 
日程

2015年

11月9日(月)

羽田空港で出迎え、仙台へ移動、仙台空港取材、仙台泊

2015年

11月10日(火)

仙台市内より石巻市北部へ移動。大川小学校、雄勝地区、女川町佐藤水産、

女川町地域医療センター、牡鹿半島狐崎漁港、石巻市日和山。名取へ移動。名取泊

2015年

11月11日(水)

名取市日和山、メイプル館、山元町NPO法人未来に向かって助け合い、

浪江、双葉、大熊、富岡など帰宅困難地域訪問。郡山駅より東京へ移動。

 

取材内容
 2011年から始めた「中国人気ブロガー招へい」事業は今回で通算14回目となり章氏で36名を招へいして最後とする予定。この「中国人気ブロガー招へい」事業は、初回(2011年4月に2名の著名ジャーナリストブロガーを招へい)も東日本大震災の被災地である石巻市や名取市取材だったため、東日本大震災から始まって、終わることになりました。

 

11月9日 午後 羽田空港→東京→仙台→仙台空港

 

羽田から仙台へ:章氏が羽田に到着したあと東京駅を経て仙台へ新幹線で移動。仙台到着時にはすでに暗くなっていましたが、章氏は仙台空港から取材を始めたいとのことで、そのままスーツケースを持って空港へ向かいました。

 

353_02_152.JPG仙台空港 

 

仙台空港に到着後、名取市観光案内所に立ち寄り、被災当時の写真や動画、被災状況を記した大型の壁面地図を見ながら案内所職員のはからいで、当時の様子を記したビデオを見たりしながら、職員の方と当時のことを話す。空港からは、語り部タクシーにて、仙台市内にかけての被災状況などを聞き取りしつつ、ホテルへと移動しました。 

 

353_02_140.JPG名取市観光案内所にて被災当時の動画を見る訪問者のみなさん

 

11月10日 大川小学校、雄勝地区、女川町佐藤水産、女川病院、牡鹿半島漁港、石巻市日和山

 
朝7時半にホテルを出発し、チャーターしたタクシーで大川小学校へ。大川小学校は全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明となった最も犠牲者の多い学校。章氏が言うには、一つだけぽつんと瓦礫のなかに残っていた上履きも印象的だが、生徒たちの卒業制作の壁画で日本人と中国人がパンダを介して中国国旗の下で手をつないでいる絵が涙をさそったようでした。

 

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大川小学校から長面浦へ移動。そこに居合わせた牡蠣漁師の小川さんを取材。ちょうど漁網を片付けているところでしたが、快く取材に応じてくれました。震災後、長面浦も壊滅的被害を受け、しかも浦の中には瓦礫がたくさんあり、とても漁を再開することはできなかったという。自治体の援助でがれき撤去の仕事に携わったが、浦がきれいになると、がれき撤去の仕事はなくなり、漁もすぐには再開できず、苦しい生活を送ることを余儀なくされたという。まだまだ漁再開に向けてがんばるという小川さんに章氏は「まるで彼女の澄んだ瞳は長面浦の海のようだ」とこぼしていた。

 

353_02_113.JPG取材に応じてくれた小川さん

  

雄勝町役場跡近くでは、津波で壊された自分の家を自力で再建している元医師の高橋さんを取材しました。震災当時、高橋さんは裏山の一本の木によじのぼり一命をとりとめた。ボランティアの手によって、家が建っていた場所の瓦礫はきれいにとりのぞかれたが、子供や親戚からの熱心な「引っ越していらっしゃい」という勧めを断って、たった一人で高橋家が200年以上暮らしてきたこの土地に戻って来た。夜はワゴン車やコンテナハウスの中で過ごしながら、ボランティアの助けを借りて、先祖代々の住まいの設計図を引き、自分の山林から木を切り出し、そしてボランティアと共に、旧宅と寸分違わぬ家屋の骨組みを組み立ててきた。高橋さんは先祖から受け継いできた遺産を自分の代で絶やさないため、子孫にも震災の記憶を受け継ぐため、取材の最中も作業を続けていました。

 

353_02_105.JPG取材に応じてくれた高橋さん

 

21軒中17軒が被災、移転した雄勝の波板地区では地区会長の鈴木紀雄さんを取材しました。波板は白砂の美しい海岸で、夏には多くの海水浴客でにぎわったという。しかし今は鈴木さんの家だけを残してすべて津波に流されてしまったという。幸いにして難を逃れた鈴木さんの家も瓦礫に埋もれ、途方に暮れていたところ、ボランティアたちの力できれいに瓦礫を片付けることができたという。また硯の産地として有名な雄勝では硯石の注文もあり、いまは元住民たちで一生懸命硯石の加工の仕事をしているという。章氏はたくましい鈴木さんたちに静かに感動しているようでした。

 

353_02_085.JPG再建した鈴木さんの家

353_02_081.JPG硯石を加工する鈴木さん

 

 

女川町:章氏のたっての願いで佐藤水産の前へ。佐藤水産は20人の中国人研修生を逃がして、自身は津波に呑まれた専務がいたことを章氏は、震災当時、CCTVで解説していた。その印象が強く、また遺族の気持ちを慮って事前コンタクトはとくにとらず、佐藤水産の今の様子を見たいということで通りがかったところ、思いがけず昼休み中の中国人実習生に取材することができました。「佐藤社長にどうかよろしく伝えてほしい、感謝している、としょっちゅう中国の友人、知人に頼まれます」という実習生に、章氏も「どうかよろしくお伝えください」と伝えていた。震災以来どうなったかわからなかった佐藤水産が復旧、操業し、中国人実習生も満足げに働いていることが確認でき、章氏は感無量の様子でした。

 

353_02_079.JPG通りがかりに撮影した佐藤水産の様子

 

女川では公益財団法人地域医療振興協会運営の地域医療センターも訪問。高台にあり、震災当時の女川町の住民たちも多くがここに避難していました。地震と津波が相次いで病院を襲ったとき、一階部分はすべて水に浸かったけれども、みな2階に避難して被害者は一人も出なかったといいます。病院は無休で診療を続け、患者が健康保険証をもっていなくてもいつもどおり診察し、次々と患者を受け入れ、近隣被災者に無料で食事を提供し、温かい汁物やおにぎりを道路際まで運んで、避難生活を送る人々に配ったという。非常時の病院の任務を立派に果たした様子がセンター内で紹介されており、章さんも資料収集に余念がありませんでした。

 

353_02_071.JPG医療センターで津波の高さを指し示す章さん

  

牡鹿半島狐崎漁港:カキ養殖で有名な漁港。ここも震災時にはたくさんのがれきで埋もれていました。ボランティアらが瓦礫収集に力を発揮し、いまでは立派なカキ養殖場の事業を再開している。カキ漁師のみなさんは好意的に取材に応じたうえ、特別に漁船も一艘貸してくれ、養殖場も見学できました。いまでは被災したこともわからないほど立派な牡蠣を生産して全国に出荷しているという。

 

353_02_041.JPG牡蠣剥き作業をする狐崎漁港のみなさん

  

石巻市日和山:石巻市内を車窓取材で黒澤氏からの説明を交えて方々の小学校、中学校を見つつ、日和山の頂上から市内南部を見渡し、頂上にある震災前後の写真と比較できるように展示しており、それだけでも山の南側が津波で壊滅した悲惨な状況が伝わってくるようでした。このあと名取市へ移動。

 

353_02_043.JPG日和山から眺めた石巻市

 

11月11日 名取市日和山、山元町NPO未来に向かって助け合い、福島県帰宅困難地域。

 

名取市日和山:閖上地区にある高さ6.3mの小高い丘で小さな神社の祠があり、津波被害をうけた閖上地区の慰霊の場所となっています。ここで語り部タクシーの運転手さんから閖上地区の被災状況の紹介を受けました。
 閖上地区は震災当時人口5600人で、地震があったとき4000人ほどがこの地区にいたが944人が亡くなったとのこと。名取市の被害者が多く出た理由としては防災無線20機のスピーカーが地震で壊れてしまっていて伝わっていなかったこと、江戸時代や昭和のチリ地震津波では被害を受けなかった記憶が住民にあってすぐ逃げなかったこと、2階建ての公民館に避難した人たちが、さらに遠方の中学校へ再避難をしたことにより移動中津波に呑まれたこともあるという。

 

353_02_025.JPG閖上地区の住居跡

 

山元町NPO法人未来に向かって助け合い:山元町は18000人の人口のうち、600人以上の犠牲者があった。さらに町の面積の3割以上が浸水、約5500世帯の半数近い約2500世帯の家屋が水没、取り壊しとなったため、海岸から2キロほどは何もない原野になっている。このNPOは奇跡的に残った高台の家屋を改修して農業支援やアニマルセラピーなどの活動をおこなっている。耕作放棄地を桑畑として再利用、桑茶の栽培などで収益をあげ、仕事を無くした住民たちを雇用し、地域交流拠点を目指している。ポニーが3頭いるため、休日になると子連れ家族が遊びに来るらしく、将来はヤギやウサギなども飼って、もっと若い家族連れが山元町に戻れる機会を作りたいとのことで、章氏も役所に頼らず民間の力で地元を活性化させようとしている様子を興味深く取材していた。

 

353_02_159.JPGNPO未来に向かって助け合いでの取材の様子

 

浪江、双葉、大熊、富岡など帰宅困難地域:震災から約四年たった2015年2月、福島原発の横を通る国道6号線が全面開通。今回の取材でも「原発通り」の国道6号線を通過して郡山へ行くことにしました。線量は原発のある大熊町でも5~14マイクロシーベルト/毎時程度でした。駆け抜ける分にはほぼ問題のない線量です。6号線のすべての脇道にバリケードが設置され要所でマスクをした警備員が配置され、無人となった双葉町の入口にかかる「原子力、明るい未来のエネルギー」の標語ゲートや、1トンの汚染土袋が積み上がった海岸、震災直後から放置されたままの家屋などを撮影しながら郡山へ抜け、都内へと戻りました。

 

353_02_012.JPG無人となっている双葉町にかかる「原子力明るい未来のエネルギー」の標語

353_02_011.JPG国道6号線横の脇道にかかげられた通行止めの表示

 

章氏は「自身のジャーナリスト人生のハイライト」と言うほどの手ごたえを感じ、帰国後、すぐに1万字以上の記事を書き上げました。取材成果は「大家/皆が見た日本(仮)」と題した、これまで招へいした来日ブロガーの日本観をまとめた成果物に掲載予定です。

『大家看日本』出版記念座談会

2016年3月10日午前、『大家看日本』の出版記念座談会が北大博雅国際酒店にて開催されました。この座談会は中央編訳出版社、共識ネット、笹川日中友好基金による共催です。主催者を代表して中央編訳出版社の劉明清総編集長、共識ネットの周志興総裁、笹川日中友好基金運営委員長の尾形武寿、胡一平主任研究員が会議に出席しました。座談会には『大家看日本』の執筆者から李礼、張力奮、関軍、章弘、徐春柳、朱学東、劉新宇、巫昂、楊瀟、封新城、包麗敏らが参加しました。また許章潤、任剣濤、周濂、施展ら四人の学者と駐中国日本大使館の山本恭司公使、騰訊ネットの楊瑞春副総編集長らも会議に参加しました。司会は『東方歴史評論』の李礼執行編集長が務めました。

まず、主催者側からの挨拶として劉明清中央編訳出版社総編集長は「日中国交正常化から40数年がたち、両国関係は経済や文化などの分野で次第に互恵的、相互補完的構造を形成してきましたが、歴史認識上の距離や現実的な利益の衝突が政治や外交関係を不安定にし、国民の心理は一定の距離感を保っています。まさに今日の天気のような、春寒料峭、春になって寒さがぶり返し、肌寒く感じられるようです。こうした背景のもとで、我々三者が協力して『大家看日本』を出版することは特別な意義と価値を持つのではないかと思います」と発言しました。最後に劉明清総編集長は共催した三者と作者に謝意を表しました。

 

周志興共識ネット総裁は「中日民間交流の生き生きとした事例を通じて、中日関係をより良く解決するのに必要な知恵、双方の知恵が求められます。私たちは歴史を記憶しなければなりませんが、同時により重要なのは未来を見ることです。ある言い方があります。日本に行ったことのある人は皆日本を好きになる、『大家看日本』はこうした日本を理解する一つの視角を読者に提供するでしょう」と述べました。

 

尾形武寿笹川日中友好基金運営委員長は「日中交流に30年間携わってきました。『大家看日本』は中国人気ブロガー招へい事業の成果物です。笹川日中友好基金は日中民間交流に携わる公益団体としてこの事業を立ち上げました。この事業は2011年に開始してからこれまでの5年間で14回にわたって35人の著名なブロガーを招へいしました。彼らはメディア人としての独特な視角と鋭い感性で日本の政治、外交、経済、文化、社会、国民生活を間近に観察し、自ら体験した事柄をすぐさま発信していきました。そして集大成がこの本になります」と述べました。

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そのあと10数名の執筆者が自身の日本体験を語り、自らの見たこと、感じたこと、思ったこと、考えたこと、そうしたものが詰まった本がこの『大家看日本』と言えるでしょう。最後に四名の専門家からは理性的な立場から「アジアの先頭に立って、日本は明治維新から富強の道を歩み、早期に経済の近代化、現代化に成功したモデルでした。中国は改革開放以後、国力が持続的に高まったものの、いまだにソフトパワーでは日本に及びません。こうした状況は日中関係の改善に新たなチャンスが生まれてきたとも言えます。いま、まさに政治的な智慧が鍵となる時が到来しています。双方の理解は双方が必ず通らなければならない道です。『大家看日本』は政治的な発信力を社会的な発信力で変える一つの有益な試みだといえるでしょう。この本が提供する日本を見る視点は、日本を妖魔化したり、敵対的に見たりしない、一つの理性をもって日本を見る道を示しています」との所感が述べられました。

 

『大家看日本』は、22名のブロガーが日本を訪れ、観察した真実の日本の姿を現し、ひとつの客観的に眺める「窓」のようなものです。本書は日中観察、他山の石、浮光掠影(さっと見た印象)の三部構成となっており、22編の文章は日中関係、東日本大地震、東京オリンピックなど比較的注目を集めるようなものと、日本文化、食事、農村発展などのテーマについての評論やエッセイなどの形式で書かれています。異なる角度から日本の政治や社会を見ることで日本のライフスタイルや日本文化の細かいところまで再現されています。このように多くの話題を展開することで、客観的な真実の日本を見つけることができるのではないでしょうか。

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