SPF アメリカ現状モニター

論考シリーズ

SPFアメリカ現状モニター

ホームへ

論考

No. 125
2022/10/28

日朝外交20年
―「アメリカ要因」再考―

渡辺 将人
北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院准教授

2002年に小泉純一郎総理大臣が歴代の総理として初めて北朝鮮を訪れ、日朝平壌宣言に署名し、北朝鮮側がそれまで認めていなかった日本人拉致を謝罪してから20年が経過した。本稿は2018年の拙稿「米朝首脳会談再考と日朝の構図―ジョージ・W・ブッシュ政権期との比較から―」(『アメリカ現状モニター』No. 18)の続編的な位置づけにあるが、日朝外交に焦点を絞った新たな書き下ろし論考である。北朝鮮外交に「時効」は存在しない。周辺で関係した者全員が墓場まで持ち込む何かを抱えている。だが、そうした厳しい制約の中でも「20年」という歳月は一区切りと言えるものであり、この機に当時の記録も辿りながら「アメリカ要因」を中心に振り返る。

米朝・日朝「シーソー関係」、核・拉致を連携させた6者協議アプローチ

日朝関係の法則で重要なのは、北朝鮮の最大外交目標は、「休戦中」にすぎない朝鮮戦争の交戦相手であるアメリカとの平和条約締結による関係正常化と体制保証であるという点だ。日本との関係も重要な外交課題ではあるが、対米関係が手詰まりになったときに日本になびく振り子の法則が顕著で、逆に言えば米朝関係が極端に悪化していないと日朝関係を進める梃子が駆動しない。

2002年9月に北朝鮮が小泉訪朝を受け入れ拉致問題を謝罪したのは、アメリカのジョージ・W・ブッシュ政権(以下ブッシュ政権)が9/11テロ後に戦時態勢に入り、「ネオコン政権」の下で北朝鮮への攻撃もイラクと同様に容赦しないのではないか、という危機感が高まったことと無関係ではない。だからこそブッシュ政権が末期にレガシー作りに方針転換して北朝鮮との極秘交渉でベタ折れモードになって以降、日朝関係も行き詰まった。平壌宣言を軸に核・ミサイル・拉致の包括的解決を目指す日本の対処方針は何ひとつ変わっていないのだが、米朝関係が北朝鮮の態度の硬軟を外部的に規定してしまうのだ。

そもそも北朝鮮はマルチ外交を同時に進めることをあまり好まず、二国間すなわちバイラテラル外交しかやりたがらない。本格的に動かす「本気フロント」は1つだけに絞る傾向がある。このため、米朝が前のめりで動いているフェーズで、日本がどれだけ誘い水をかけても上の空の返事になりがちだ。

無論、これに対する打開策も模索されてきた。米朝関係を本格的に動かすには日本の協力も必要だと北朝鮮に思わせることだ。拉致問題の解決なしには核問題は進められないという6者協議における日本の戦略は典型例だった。経済支援を得るには、あるいはアメリカに体制保証をしてもらうには、日本との拉致問題の解決が必須という「揺さぶり」で協力を引き出すアプローチだ。「日本が拉致問題を取り上げ、その解決の必要性を訴えるのは北朝鮮に核放棄をさせる上で重要な要素であり、論理的にもかなったことだ」と初代の6者協議日本代表を務めた薮中三十二元外務次官は回顧する1

しかし、この方法が効果をもたらすためには、6者協議のフロントだけではどうにもならない要件も控えていた。日米の信頼に基づく完全な連携だ。アメリカが米朝個別交渉の際にも日本を背後に巻き込む形で緊密な連携を維持しなければ、北朝鮮は日本になびいてこない。日本が蚊帳の外で、アメリカも拉致を日本ほどには重視していないことが北朝鮮に伝われば日本軽視に繋がる。まさにそうした日米連携の綻びが、ブッシュ政権末期以降の日朝外交停滞の遠因だった。

日米連携の綻びの遠因

日米の足並みの乱れの根底には複数の根深い問題が横たわっていた。

第1に、アメリカのワシントンの政策当局者や米メディアの拉致問題をめぐる理解の壁である。北朝鮮は冷戦期からアメリカでは特殊な領域で、朝鮮戦争ですら「忘れられた戦争」だった。東アジア専門家内でも日本語、中国語、韓国・朝鮮語と言語習得ごとに地域の知識も分断されがちだった。日朝の複雑な経緯に精通した歴史家が必ずしも実務家になるわけではなく、外交課題の焦点は重大な安全保障課題である核不拡散問題に絞られる傾向もある。民間人が拉致された事件の衝撃性を等身大で理解して、それを核・ミサイル問題と共に包括的に理解できる専門家は少数だった。

2006年にドキュメンタリー『めぐみ:引き裂かれた家族の30年』がアメリカで公開された際も、全米の日本総領事館は現地広報で相当な苦労をした。当時は米メディアの理解も危なっかしい所があった。例えば、2006年4月、横田めぐみさんの母の早紀江さん、弟の拓也さんがホワイトハウスでブッシュ大統領と面会した際、在瀋陽日本総領事館駆け込み事件の金ハンミちゃん一家が突然同席した。それは北朝鮮問題への関心を高めるブッシュ政権なりの工夫だった。だが、案の定、拉致問題の特殊性の輪郭がぼやけた。本稿執筆2022年10月時点においてもAP通信はYouTube上のアーカイブにハンミちゃんしか映っていない素材見本映像を“Mother of Japanese girl abducted by NKorea to meet Bush”のキャプションのまま放置している。キャプションを「ハンミちゃん」に変えるか、ブッシュ大統領の左側(向かって右)にいる早紀江さんと拓也さんを含んだ「引き」の見本素材に差し替えるべきだが、アメリカを代表する通信社のAP通信ですらこの程度の配慮ができないのでは心許ない。

拉致問題への対米協力要請が小泉総理と良好な関係にあったブッシュ政権下でスタートしたこともあり、アメリカ大統領が交代のたびに被害者家族と面会する慣習を定着させたことは、日本の拉致をめぐる対米外交の成果だ。ただ、今のアメリカは、分極化された党派政治のあまりの激しさで、外交安保政策や同盟関係を内政と切り分けられない党派人が少なくない。政権交代やその政権の支持率、外交アセットの喪失を視野に入れると、政権交代に応じて「共和党詣で」か「民主党詣で」だけ、しかも首脳関係だけに偏ることはリスクもある。

特に2000年代後半はイラク戦争の泥沼化を経て、ネオコン的介入主義への批判が吹き荒れていた。「ブッシュ政権肝煎り」という党派争点の箱に拉致問題が閉じ込められてしまうことには副作用もあった。拉致問題は人道問題であり、十分「超党派」訴求力がある問題だ。民主化後の台湾による米連邦議会への種まき同様、共和党強硬派だけでなく、民主党人権派へのアライアンス拡張は、もっと検討されて良い方法だっただろう。

例えば、民主党には権威主義体制の人道問題に厳しく、子を思う母親の心境に同情的な女性議員も多数いる。ライフワークの天安門事件以降、香港、台湾の民主主義支援に個人的な信念で関与し、議会での関連法案を牽引してきた民主党のペローシ下院議長などから、拉致問題についても親身の共感と関与が期待できた可能性はある。属人性頼みの外交には限界と有効期限もあるが、4年か8年で交代する大統領に比べ、議会には引退まで長期権勢を振るう長老議員も少なくない。ホロコーストとの関連でユダヤ系有力者も人道問題への共感性は強い。日本の政治家が襟につけている青いバッチの含意を同時代的には共有していない世代が日本国内で増えてくる中、ラーム・エマニュエル駐日大使がブルーリボンを着任早々の会談から身に付けたことは目を引いた。実は民主党の駐日大使では初めてのことだ。ケネディ大使は身に付けなかったし、ハガティ大使など共和党大使でも早々には着けていなかった。「争点共感アライアンス」のアプローチは、継続性と党派を超えた拡散性において、首脳関係とは別トラックで本来は必須事項となる。

第2に、核不拡散専門家の間での日本の不拡散へのコミットメントに対する疑いである。これは拙稿「米朝首脳会談再考と日朝の構図―ジョージ・W・ブッシュ政権期との比較から―」(『アメリカ現状モニター』No. 18)で詳述したのでここでは繰り返さないが、前述の拉致問題の重要性への不理解と部分的に表裏一体になっている。すなわち拉致問題にアメリカを巻き込むならば、日本は核問題にも数倍以上の本気度を示すことが不可欠だった。

第3に、アメリカ側の北朝鮮をめぐる日本外交そのものへのある種の不信感である。それは外務省の田中均元外務審議官(当時はアジア大洋州局長)と「ミスターX」氏の交渉による第1回小泉訪朝のセットをめぐる、日本の独自外交への米側のトラウマと言い換えてもいい。ブッシュ大統領の鶴の一声で、戸惑いと怒りでざわめいたアメリカの外交・インテリジェンス筋も黙認し、日朝会談自体は実現した。しかし、訪朝直前までアメリカに一切の説明がなかった不信感は20年経っても残存している。日朝平壌宣言の内容や訪朝の動向の全貌を掴めていなかったことは、アメリカの鉄壁のインテリジェンスのプライドも傷つけた。

「アメリカ外し」の代償と拉致解決の定義をめぐる不一致

アメリカのニューレフト系の外交研究者の間では、意外にも小泉外交への採点は高い。それは小泉訪朝がアメリカに一切の情報を共有せず仕込んだ点で希有な独自外交に見え、それが彼らの「非介入主義」に親和性があると感じられたからだ2。だが、完全な「アメリカ外し」の代償は高くついた。全ての拉致被害者が無事に戻り日本の世論が納得する返答であれば、文字通りに歴史的外交成果になっていたし、国交正常化への入り口も見えたのかもしれない。しかし、そうはならなかった。

日朝外交は「アメリカ外し」の温床、という印象をワシントンに植え付け、建設的な日朝接触まで警戒され冒険がしにくくなった。他方、アメリカに相談しても、核問題が緊迫する中で対北の外交アセットを拉致問題に優先的に注ぐ意味を詰められれば、押し切りにくくなっていった。アメリカ政府の当局者が一貫して日本に出した注文は「拉致問題の解決」の定義だった。英語で「エンドゲーム(endgame)」すなわち終盤戦の出口戦略だが、これは日本には無理な注文だった。「被害者全員の帰国」以外に日本にとっての「解決」の定義はないからだ。「エンドゲーム」のためのラインを強引に引くことが困難なのは、そもそも論として拉致問題には2つの点で日朝の合意が成立していないからだった。

1つ目は拉致被害者の数と範囲である。2002年に北朝鮮から5人が帰国したが、日本政府認定の残り12人は未だに帰国できておらず北朝鮮は「8人死亡、4人未入国」の立場を崩していない。これ以外にも特定失踪者を含めると被害者の数は相当な数になる。2つ目は生存の問題だ。北朝鮮側は死亡日時や原因を報告したが、その真偽が不明だと日本側は判断した。「生存しているが何らかの理由で帰国できない」という中間的な存在なしに「全員死亡」で報告されたことへの疑念だった面もある。日本は再調査を依頼したが、横田めぐみさんのものと北朝鮮側が主張した遺骨のDNA鑑定で「本人のものではない」との結果が出て以降、日朝交渉も止まったままだ。

中国の覇権主義と中朝関係変容の20年

田中元外務審議官の「大きな絵を描く」外交は、凡人離れした構想力と実行力に満ちていたし、あの仕掛けがなければ、蓮池さん、地村さん、曽我さんがそれぞれご夫妻で、またお子さんたちと帰国できなかったことは紛れもない事実だ3。他方、先に述べたように、その後の日朝外交の停滞を招くアメリカの対日不信という名の副作用も織り込み済みにならざるを得ない挑戦だった。アメリカが2002年の1回目の小泉訪朝の「仕込み方」に難色を示したのは、ミスターXとの接触場所が中国国内だったこととも無関係ではない。マレーシアやシンガポールでも中国のレーダーには捕捉されるので大差ないとも言えるが、中国での会談は事実上の「共有」を意味する。つまり、バイの日朝独自接触の名の下に舞台提供者の中国も参加させている姿勢に見える。同盟国のアメリカを完全に外して米朝極秘交渉をするならば、せめて第三地点で接触すべきではないかという理屈だ。

無論、6者協議の開催場所が北京だったように、中国には北朝鮮外交の地の利はある。特に北京は日朝双方の大使館が徒歩でも行き来できるような狭い範囲内にあり対面接触がしやすい(相互の敷地に車で出入りする)。北朝鮮本国に隣接していて高麗航空の平壌便も北京には週数回乗り入れている。「極秘」接触でなくても日朝協議は北京が定番ではあった(近年はモンゴルやストックホルムなども)。そのため北朝鮮関連に絞った人員は、メディアでも外交当局でも、ソウルとは別に北京や瀋陽を拠点に配置される。私自身、北京支局での仕事は北朝鮮関連の担務が中心を占めていた。北朝鮮を本気で動かす仕込みで、中国を媒介に中国にある種の仁義を切って中国の面子を立てれば、北朝鮮も安心するし中国も無闇に邪魔してこない、という実利も否定できない。

だが、米中関係や中国の存在は、2000年代当時と今では様変わりした。中国の軍事力、経済力、サイバー技術の成長も著しく、米中対立が強まり台湾を巡り緊張が高まる現在において、この方法を採用することは今となっては難しい。20年前の状況だからこそ実現した日朝外交だったと言える。6者協議のような場で中国に北朝鮮問題の責任を担わせる道も行き詰まっている。

北朝鮮外交をめぐるプレイヤーの錯綜と情報戦

日朝外交に関しては、国内外で主体ごとの方針や温度が一致していないことがある。例えば、外務省が日朝協議を再開して関係改善を図るたびに国内の捜査当局は違う動きを見せることがあるし、担当課への出向で人事交流はあるものの、外務省、警察庁、公安調査庁は目的上一枚岩ではない。ましてや官邸内でも総理と官房長官、与党内の自公、そして自民党内でも脅威認識や政策優先度には微妙な温度差がある。それぞれが番記者を通じてオフレコ情報で観測気球を上げるが、情報の漏れ方次第では外交の仕込みも無残に潰れる。

アメリカ国内でもホワイトハウス、国務省、ペンタゴン、インテリジェンスで意向は異なる。政策専門家の中でもアジア地域屋と核不拡散マフィアでは優先順位が違うし、国務省の外交の相場感をホワイトハウスのコミュニケーション担当や政務の顧問が支持率目的で平気でひっくり返してしまうこともある。大統領の個性もある。トランプ政権の米朝首脳会談はまさにこれで、国務省は東アジア専門家も不拡散専門家も、会談そのものに反対だった。

取材側の情報源やニュースバリューに対する判断の偏り問題も否定できない。日本のメディアでは、拉致は警察公安関係をカバーする社会部の取材領域なのだが、外交は外務省霞クラブや官邸を担当する政治部が見ており、総理周辺や外務省系の拉致情報は政治部が掌握する。相互のメモのやりとりはないので、政治部だけに蓄積される情報もあれば逆もある。筆者が経験したような同一問題担当の部間異動は民放では稀にあるが、新聞やNHKでは難しい人事で、通常は外務省と警察庁の情報は同時期には相互参照しない。報道も異なる焦点で非統一に行われている。

報道の「主流」が内政で、国際記者が「亜流」な米メディアには別の問題がある。ホワイトハウス記者は大統領の日々のアジェンダに忙しく、国務省記者も東アジア外交に多くの時間を割けない。かつてはワシントン・ポストのオーバードーファーなど北朝鮮専門家と言える古参の記者が健筆を振るったが4、それは情勢が動いていたからだ。動かなくなると専門記者の発表の場は縮小されるし、社内での立場は弱くなる。

その空白を埋めているのが異分野のしかもアカデミックな書き手であることは興味深い。『「招待所」という名の収容所:北朝鮮による拉致の真実』(柏書房、2017年)の著者ロバート・ボイントンは、外交記者でもなければ朝鮮専門家ではなく、ニューヨーク大学大学院で「ニュージャーナリズム論」を講じるジャーナリスト教授だ。筆者は本作の構想段階からプロジェクトに関与して虎の子の情報源も惜しみなく提供した。それは拉致問題がアメリカで正しく理解される糧になればと願ったからだ。日米合作は本意ではなく、アメリカ人が拉致問題を読み解くことに意味があると考え黒子に徹した(朝鮮問題に精通する山岡由美氏の精緻な翻訳で刊行され幸運であった)5

原著は英語で一義的には拉致問題に無知なアメリカ人に経緯を説明する含意があった(The Invitation-Only Zone: The True Story of North Korea’s Abduction Project, Farrar Straus & Giroux, 2016)。明治以降の日本の近代化を朝鮮半島と日本の関係性からマクロの視点で概説し、そこに個別の拉致事件や日朝キーパーソンをミクロの視点で位置付けている。北朝鮮が公式に拉致を認めた2002年前と後の世論変動の観察は外部目線ならではだ。日本人読者には一見既知の内容が多いが、アメリカ人が拉致問題と北朝鮮に向き合う日本をどう観察したのかを知る文献としては価値がある。

日朝平壌宣言に込められた「仕掛け」

北朝鮮外交については真偽不明の情報も横行する。韓国の脱北者による情報などは断片的で検証不能なものが少なくない。1都市、1カ国ソース依存の判断や温度計測はときに危険で、交渉内容も複数の証言やピースを重ねることでようやく時間差で可視化されることがある。急がない、決めつけない。これが東京、ワシントン、北京、平壌で細々と続けた20年の観察経験からの筆者の実感でもある。

例えば「小泉訪朝」も一括りにはできない。1回目の2002年9月と2回目の2004年5月は成立メカニズムも目的も別種のものだからだ。いわゆる「ミスターX」ルートで仕込まれたのは1回目の訪朝で、訪朝は基本的にこの1回で完結することを前提としていた。2回目は1回目に帰国した拉致被害者の家族の帰国をめぐって、国内の複数の日朝関係筋との連携で実現された。

1回目の訪朝で合意した日朝平壌宣言はごく少数の関係者で作成された。1990年代から継続的に日朝間で交渉されてきた国交正常化と過去の清算を見据えた文書であるが、他方で「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題」と表現こそ遠回しであるが拉致問題に触れ、そして安全保障に関する問題すなわち核・ミサイル問題について北朝鮮側の合意を取り付けた意義は大きい。国交正常化による巨額の経済支援を望んでいた北朝鮮も平壌宣言に大きな期待を滲ませていた。

だが、外務省内でも、仕上げを担った条約局(現在の国際法局)と原図を持ち込んだアジア大洋州局の綱引きは神経戦だった。平壌宣言は国交正常化、過去の清算、拉致、安全保障問題の4本柱になっているが、末尾の「双方は、安全保障にかかわる問題について協議を行っていくこととした。」という一文が不自然に一行独立して切り離されている。この文章は、安全保障に関する4項目の最終文のようにも見える。しかし、冒頭文と共に宣言4項目を挟み込む総括文のようにも見える。北朝鮮への安保協議を約束させる文書として、アメリカの核問題懸念への配慮も上手に織り込んでいた。まるで誤植のように見える不自然な「一行スペース」は敢えて設けられたものだった。

だが、4項目の最終3~4段落目の核・ミサイル問題の箇所は、完成前の最終段階で、北朝鮮側の自主性を尊重する穏健な表現に一部修正された。ミサイル発射のモラトリアムについても「2003年以降も更に延長していく意向」の確認に留まった。その後、周知の通り、北朝鮮は2006年を皮切りにミサイル発射と核実験に相次いで踏み切っているだけに、軍事行動への抑止は強めに具体性を残しておくべきだった、という悔恨の情を日本側当事者は抱えることとなった。

平壌宣言の署名「ペン」をめぐる真相

ところで、平壌宣言署名に関しては複数の裏話がある。中でも揮っているのは「100円ペン」であろう。小泉総理が100円均一で売っているようなペンでサインしたのは事実である。ただ真相のディテールは以下だ。大同江迎賓館の控え室のソファーに腰をおろしていた小泉総理は「どう署名すればいいんだ」と外務省事務方に声をかけたという。段取りを解説したのは同室で待機していた秋葉条約課長(現・内閣安全保障局長)だったが、一通りの署名手続きを解説すると小泉総理は「どれで書けばいいのか」と尋ねた。

秋葉課長はとっさに胸ポケットから自分の万年筆を取り出して小泉に手渡した。小泉総理は万年筆を受け取ると手元にあった紙の余白にさっと試し書きをして「これは書きにくいな」と不満を漏らした。すかさず外交担当の別所浩郎総理秘書官(当時)が小泉に駆け寄り、たまたま持っていた100円均一で売っているようなサインペンを手渡した。小泉はそのペンを握り直して無言で試し書きすると「うん、このほうが書きやすい」とそのペンを握って別室の署名式に赴いた。

小泉総理はペンを携えていたわけではないが、秋葉課長の万年筆と別所秘書官の「100円ペン」が混同された伝説も流布している。いずれにせよ北朝鮮側がこの署名に並々ならぬ力を入れていたのは事実で、それは署名現場の記念切手化からも明らかだった(平壌市内の外国人向けのホテルでも長く販売されていた)。だが、この署名の段取りについての無視し難い問題は、北朝鮮側に渡された拉致被害者の安否を記した朝鮮語資料のすべてを十分に吟味、精査する時間の余裕がないままの署名だったことで、これが後に非難を浴び、帰国後の政府対応の混乱の元凶となった。

カウンターパートのX氏と田中アジア大洋州局長と平松北東アジア課長は、明かされていない細かい調整的な接触も含めれば実に50回以上の接触を重ねたが、一連の行動は決して田中局長の独断ではなく官邸のお墨付きが与えられていた。小泉総理の許可のもとに、福田官房長官、古川官房副長官が一致して絡んでいた。ただ、情報管理だけは極めて徹底しており官邸内部への共有先も厳選された。何しろ米政府が掴めていなかったほどだ。意外にも最初の情報漏洩は韓国経由だった。噂を嗅ぎつけた韓国メディアが日本政府に未確認情報として確認を求め、それは何れかの韓国政府筋経由と見られた。北朝鮮外交において、韓国政府との情報共有は韓国プレスとの共有と同義であることは、ワシントンでは常識だったが、この時も情報震源はソウルだった。

ブッシュ政権の米朝接近とキッシンジャー非公式外交

北朝鮮の間口をこじあけるには、大きな外交的歴史的「うねり」を追い風にしなればならない。これは田中元外務審議官の言う通りである。小泉総理が拉致問題を解決できると踏んだのは、間違いなく国交正常化という「うねり」があったからで、本稿でも指摘した通りブッシュ政権下で北朝鮮が悪の枢軸とされて米朝が完全に冷え込み、イラク情勢下でネオコンが意気軒昂だったことも関係している。北朝鮮の安全保障をめぐる生存本能を根拠に勝算を見込むだけの環境は整っていたのだ。

しかし、その国際環境は急速に変化した。6者協議で北朝鮮とアメリカの対話の舞台が用意され、次いで米朝接触も水面下で活発化し始めたことで、皮肉なことに北朝鮮の対日二国間外交欲は低下した。日朝双方は遺骨DNA問題以降、不信感のスパイラルに入った。当初は、生存者は返して全員について徹底調査をしなさい、だった日本政府も、(被害者は全員生存していることを前提に)全員返しなさい、というトーンに厳しさを増した。拉致を認め日朝平壌宣言に署名した金正日総書記が2011年に亡くなったことも手詰まり感を増幅した。無論、可能性を信じて日本外交は機会を狙ってきた。2014年には横田早紀江さんが孫のキム・ウンギョンさんとひ孫とモンゴルで面会することもできた。北朝鮮外交は「言葉」だけでは動かず、「支援」が交渉の糸口になる。だが、食糧や物資は中韓など他ルートからも流れ込み、水面下で活発化しつつあった米朝接近で日本の支援カードの誘引力は相殺された。

ブッシュ政権末期以降のアメリカは、北朝鮮を本気では締め付ける気がないどころか、イラク戦争の泥沼で東アジアに姿あれども心ここに有らずの状態が続いた。6者協議代表のヒル国務次官補が北朝鮮の資金凍結解除の交渉を進めたことで日米の足並みの乱れは決定的になった。ブッシュ政権は、表では国連決議で制裁の構えを見せつつ贅沢品の規制など時間稼ぎの制裁に終始し、テロ支援国家指定も解除した。ゲームチェンジャーは、2006年10月、キッシンジャー元国務長官が極秘に北京で胡錦濤国家主席(当時)と会談したことだ。元長官が、北朝鮮のミサイル発射停止と核開発凍結の引き換えに米朝が国交正常化する「パッケージ案」を提案したことで、これに驚いた中国側は提案の真意をワシントンに確認した。追って唐家璇国務委員が訪朝して金正日総書記に米側の提案を伝えている。ここから、核実験対応と米朝接近という「表と裏」が米朝間で同時並行に進むというややこしい展開になった。

2006年10月末に北京で行われた(6者協議代表級による)極秘の米中朝会談に次いで、11月7日に北朝鮮外交トップの姜錫柱が北京入りした情報が日本政府を激震させた。姜錫柱の動きは完全に金正日の意向の反映を意味したからだ。ブッシュ・小泉の良好関係にもかかわらず、この時期の突然の6者協議再開へと繋がる一連の動きは、米側から日本には知らされずに進んだ。その頃、北朝鮮から出された「アメリカの州の1つの日本は、6者協議には要らない」という、日米離反と日本除外を強調する挑発的な声明が日朝関係の黄昏を象徴した。

「米朝が突然正常化したら」「KEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)第2弾が提起されたら」「米韓がKEDO第2弾に賛同したら」「拉致問題が追いやられる」「アメリカが民主党政権になった際のシナリオがない」「ブッシュ政権のレガシー作り路線では」−-日本政府内での不安の声は、蚊の鳴くような呟きからいつしか騒めきに転じていた。「制裁と融和」の二枚舌で、米中朝の接触の真意を日本と完全に共有してくれない当時のブッシュ政権について、「アメリカが日本に本当のことを言っていないと思いたくない」という外務省幹部の苦悩に満ちた呟きにも深刻さが漂っていた。

日朝外交「停滞の16年」をめぐる源流

無論、周知のようにこの時期の米朝接近が上首尾に運んだわけではない。報じられなかったキッシンジャーと胡錦濤の極秘会談は、帰国後にハドレー国家安全保障大統領補佐官らに共有され、中国の前向きな協力姿勢も伝えられたが、ブッシュ政権のホワイトハウスは、一連の非公式の動きを表の外交に転換することには躊躇感を見せ、本気度が高まっていた中国との間に米中同床異夢を生じさせてしまった。

他方、日本政府も決して手を拱いていたわけではなく、北京を軸にした米中朝の接近に先立つ形で、日本主導で6者協議を再開させる仕掛けを様々な形で構築していた。2005年の北朝鮮核兵器放棄の6者合意を取り戻すことに奔走したのは薮中元次官から6者代表を引き継いだ佐々江賢一郎元駐米大使(当時はアジア大洋州局長)であった。日本は種々の非公式接触の場を東京に設ける6者協議再始動の動きにも主導的イニシアチブを発揮した。韓国を北朝鮮側に付かせて「2対4」関係になることを防ぐ「1対5」連帯のため、米中2カ国との調整が最優先された。日本主導、アメリカ主導、2つの6者協議再開の非公式の動きがあった中で、いずれにおいても韓国はデリケートな扱いの対象であった。

米朝接近の狂騒の2006年10月の翌月、アメリカは中間選挙で民主党が議会多数派を奪還し、米朝関係は次なるフェーズへと足を踏み入れた。レームダック化したブッシュ政権の米朝接近が時間切れとなった上に、誕生したオバマ政権が内政重視の「医療保険改革政権」だったからだ。オバマはイラク戦争で失墜したブッシュ政権に学び、外交はリスク回避一択と決め込んでいた。特にクリントン政権が末期に手をつけて失敗した北朝鮮問題を警戒し、「戦略的忍耐」という名の棚上げに徹した。その後のトランプ政権下での米朝接近もトランプ大統領個人のスタンドプレーのまま頓挫したのは周知の通りだ。「中間層外交」で非介入主義に迎合し、米中対立の局面で対北の協力が中国から引き出せないバイデン政権においても北朝鮮政策の進展は険しい道である。

これが2000年代半ばまでに起きたことのスナップショットである。当時の構図がまるで冷凍庫で凍結されたように、日朝・米朝外交の現在を縛り付けている。散発的な動きはあれども、大きな意味では2006年以降は「停滞の16年」と言わざるを得ない。伝統的にアメリカの対北外交は「封じ込め」と「限定関与」で揺れてきた。「限定関与」は現状維持の代名詞でもあり、1994年の「枠組み合意」の価値は2002年までの8年間の現状維持にあった。しかし、核をちらつかせれば生存できることを一度学んだ北朝鮮は、その魔法の杖をそう簡単には捨てない。

米朝の間には「時間感覚」をめぐるすれ違いも横たわる。準臨戦態勢が日常の北朝鮮は社会が一体となって「米帝」への敵対感情を日々鼓舞するが、朝鮮戦争が「忘れられた戦争」化しているアメリカ社会では、北朝鮮外交も「悪の枢軸」「戦略的忍耐による棚上げ対象」「レガシー作りの道具」と、政権ごとに節操なき七変化を繰り返す。米朝間には言い様のないある種の時空的断絶がある。そして日朝関係はその歪みの影響を否応なしに被ってきた。日本の対北朝鮮外交の2国間関係の進展・停滞の諸要因は、別の北朝鮮をめぐる2国間外交を紐解くことで立体的に浮かび上がる、という特殊な性質を有する。すなわち「日朝外交20年」とは、「日米外交20年」、「米朝外交20年」の別名でもある。

(了)

*注のない情報はいずれも筆者による匿名の政府関係者、日朝・米朝外交筋への直接の取材(2001年〜)による。

1  薮中三十二『外交交渉四〇年:薮中三十二回顧録』(ミネルヴァ書房、2021年)134ページ。(本文に戻る)

2 例えば以下。Bruce Cumings, North Korea: Another Country (New York: The New Press, 2003). 日本語訳は、ブルース・カミングス(杉田米行監訳、古谷和仁、豊田英子訳)『北朝鮮とアメリカ:確執の半世紀』(明石書房、2004年)。(本文に戻る)

3 田中均『外交の力』(日本経済新聞出版社、2009年)。(本文に戻る)

4 Don Oberdorfer and Robert Carlin, The Two Koreas: A Contemporary History (New York: Basic Books, 1997). 日本語訳は、ドン・オーバードーファー、ロバート・カーリン(菱木一美訳)『二つのコリア:国際政治の中の朝鮮半島』(共同通信社、1998年)。(本文に戻る)

5 Robert S. Boynton, The Invitation-Only Zone: The True Story of North Korea’s Abduction Project (New York: Farrar Straus & Giroux, 2016). 日本語訳は、ロバート・S.・ボイントン(山岡由美訳)『「招待所」という名の収容所:北朝鮮による拉致の真実』(柏書房、2017年)。(本文に戻る)

この記事をシェアする

アジア戦略イニシアチブ

ホームへ

SPFアメリカ現状モニター

ホームへ

ページトップ