ゼミ

第1回やしの実大学報告書

フィールド・スタディ日記

出土の土器を見るイキモトさん

我々この報告書の取材班は、全員が本州人(オセアニアに対していうならば先進諸国民に値するのだろう)であった。八重山の方にとっていえば、我々は旅人である。八重山や他の太平洋の島々は、我々のような旅人を毎年大量 数受け入れる。そこで、会期中、石垣繁実行委員長を始め、八重山の人々に聞いてみた。観光客をどう思うのかと。そして何人かの方々からの答えを総合すると以下のとおりだ。 「石垣島は観光収益が年間約500億円で、現在、島の最大の産業です。石垣市は『観光立市』と銘打ち観光資源のにもっと力を注いでいこうとしています。しかし、今までの観光化では経済的には潤うが、なくしてしまうものも多かった。
これまでは観光資源として本州の人々が捕らえてきたのは『南の島の青い海、白いビーチ』というものだけであったが、今後はその島に住む人が作り上げてきた文化も観光資源となるよう、島から情報をどんどん発進していきたい」
観光に関する話題はパネルディスカッションでも議題にのぼった。その中でパプア・ニューギニアのボカレンさんが語ったことが印象的だった。

上勢頭芳徳さん

それは、観光には功罪には2種類あるということだ。2つとは、経済的に潤っても伝統文化が観光化して本来の形から離れるパターンと、そのままでは廃れていきそうな伝統文化が、観光によって伝統文化が経済性を生むため廃れずに残っていくパターンである。

ボカレンさんがいいたかったのは、観光化した中でも本物の文化がある、観光資源として本物の伝統文化が継承される可能性がある。観光を侮ってはいけないということだろう。島人と旅人との交流がありえるなら、できれば旅人との接点の中で本物の伝統文化が残っていくようなお付き合いがしたいものである。

上勢頭芳徳さん

そのために旅人がしなければならないのは、島に実際に古くからある伝統文化とは何かをもっと知ることである。 島人以外の人ニとって、島への理解を深める機会としても、やしの実大学はあるのだと思う。そこで講演とパネルディスカッションが開かれる前に行われたフィールド・スタディに関する記事を、島人ではなく、島人の集まりに参加した旅人の視点で書かせていただこうと思う。

八重山の伝統的集落の景観を残す竹富島へ


伝統的な建物が並ぶ竹富島

2月8日朝、オセアニアから来た4人、篠遠、片山両博士、実行委員会の方々に我々取材班を加えた面々は、八重山文化研究会の人たちの案内のもと、石垣港から竹富島に渡った。
高速船で所要時間は7分。陸島の石垣島と違い、隆起サンゴの「低い島」である竹富島で、竹富島喜宝院蒐集館の上勢頭芳徳さんが我々を迎えてくれた。
「竹富島は周囲約9km、87年に全国で24番目に重要伝統的建造物保存地区(いわゆる町並み保存地区)に指定されました。人口280人ちょっとで、そのうち65歳以上の高齢者が36%も占めている島です。戦後になって人口は減少の一途をたどっており、高齢率も高まっていましたが、最近は一度島を離れた若い人が、帰ってくるということも少なくなく、ここ5年ほど人口が増えています」
竹富島集落景観保存事務局長も務める上勢頭さんは、伝統的な集落の残る島の中心部に案内する前に、現在、発掘調査が進行中の新里村遺跡に我々をいざなった。
新里村遺跡は島の北部。12世紀から14世にかけての集落跡で、八重山に琉球文化、果 ては九州からの本土文化の伝播を物語る数々の遺物が出ている。遺跡に到着すると発掘調査を進めている竹富町教育委員会の仲盛敦さんが解説をしてくれた。
「口縁近くに取っ手を持つ『八重山式外耳土器』が出土しました。これは下田原土器以来途絶えてしまった土器文化が、再び始まったことを意味します。また、九州産の滑石製石鍋も出土していますので、この時代には九州の文化がすでに八重山にも伝わっていました」 広い遺跡を全員でゆっくり見てまわる。あいにく天候は崩れ、小雨が舞う。住居跡の外周には14世紀に作られたという石垣が巡らされており、中にはその高さが2mを超えるところもあった。この石垣は、台風の防御であり、隣家との境界。石垣が低くなっている場合は隣家同士が親族ではないかと考えられているという。
新里村遺跡に1時間ほど滞在した後、霊場である御嶽(うたき)に案内される。八重山を始め、沖繩には本土の神道とは異なった宗教がある。御嶽はその霊場で、祈願場であり祭祀場だ。フクギなどの巨木に囲まれた境内は、きれいに掃き清められていた。
続いて昔ながらの赤瓦の屋根を持つ家々が並ぶ島の中心部を訪れた。家々はサンゴ石灰岩を見事に積み上げた石垣に囲まれおり、その間にできた路地は車が通ることはできない。
「美しい」
イキモトさんとタニエラさんが口を揃えた。
「こうした古い形の景観が残っているのは、残そうという強い思いを持った島の人々がいることです。景観の美しさもさることながら島の人の強い意志がすばらしい」
とは、ボカレンさんだ。
我々は、経済性を優先するあまり、自然環境や伝統文化をないがしろにしてきた。
売らない
壊さない
乱さない
汚さない
活かす
と、定められた竹富憲章には、開発をしないという強い意志を感じる。将来に向け何を残して、何を捨てるか。竹富島の人々がした選択を我々本州人も早くしなければならないと痛切に思った。

八重山人類学の始祖鳥居隆蔵ゆかりの地
川平貝塚を訪ねる

鳥居龍蔵ゆかりの地、川平貝塚

午前中いっぱい竹富島で過ごした後、我々一行は石垣島に戻り、島の北西にある川平を目指した。まず、観光名所にもなっている川平湾で、小島が浮かぶそこはコバルトブルーの美しい水をたたえており、黒真珠の養殖が行われていた。 この川平湾から内陸へわずかに入ったところに川平貝塚がある。この貝塚は、明治37(1904)年に東京帝国大学人類学教室の鳥居龍蔵によって八重山諸島における最初の考古学調査が行われた場所である。

鳥居といえば、帝大内における肩書きは標本整理係とはいえ、考古、民族、自然人類学にいたる分野で台湾、朝鮮、満蒙と東アジア全域を調査した人類学者だ。しかも鳥居の研究は当時の学会が文献研究に重きを置いていたのに対して、直接現地に赴く方法であり、人類学の分野でフィールド・ワークを研究のもっとも重要な方法とした最初の日本人といっていい。
「やはりもう、神様みたいな人ですよ」
片山博士は、鳥居龍蔵の調査した貝塚跡に向けさかんにシャッターを切っていた。

石垣市教育委員会を訪問

「鳥居龍蔵はこの川平で土器を発見し『外耳土器』と名付けました。これがいわゆる八重山式土器で12世紀に再開した八重山の土器文化を物語る遺物です。また、鳥居先生は八重山の人の身体的な特徴から八重山の人々の起源は台湾との説を当初だしました。ところが後にその節を自ら覆し、八重山の人は大陸起源だといいました。なぜ覆したのかは分かりません」
とは、石垣市教育委員会の阿利直治さん。
八重山に考古学の手が初めて入った地である川平貝塚を、訪問コースに組み込んだのは阿利さんだった。鳥居龍蔵の調査から約1世紀。いまだ解明されない謎も多いこの八重山。川平貝塚は島人の機嫌を探る研究が始まった地。それは、アイデンティティを探ろうとする意志の記念碑のようにも思えた。

(文/藍野裕之写真/鎌田慶司)

「第1回やしの実大学報告書」(1998年4月)
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