ゼミ

第1回やしの実大学報告書

八重山からの報告
島を海から見る視点

石垣島文化課 係長 阿利 直治

あり・なおじ
1954年八重山郡波照島生まれ。
沖縄国際大学で考古学を学んだ後、
'79年より石垣市教育委員会に勤務。
発掘調査を続けている。

篠遠先生や片山先生の講演の際、拝見させいてただいたスライドに、私はある種のショックを受けました。まず、そのことからお話したいと思います。先生方のスライドには、遺跡のある場所を海側から、つまり海上から見た写 真が数枚ありました。
これらの写真を撮影するうえで先生方には、恐らく、その遺跡に住み着いた人々は海からアプローチした、という認識があったのだと思います。この認識は、石垣島の遺跡を調査する上でも非常に重要なことだと私は思っています。
八重山、そしてこれは沖縄本島にも言えることだと思いますが、遺跡の発掘調査報告書にある写 真で遺跡を海側から撮影した写真、あるいはスライドがどのくらいあるのでしょうか。私の記憶ではほとんどないといわざるをえません。
このことが何を意味するのかといいますと、我々の行っている遺跡の分布調査は陸地からのみ見ていて、海から見た陸地のからのみ見ていて、海から見た陸地のありようというものを、ともすれば見落としがちではなかったのか。私はそのようなことを先生方の写 真を見て啓発させられたしだいであります。
3年ほど前の話になりますが、石垣市とは姉妹都市の間柄である北海道の稚内市から考古学の専門の職員の方がお見えになりました。私は、彼が到着してまず何をしたいですかと尋ねました。 すると彼は「みなさんの分布調査に同行して調査の方法を見たい」とおっしゃいました。それで私達は通 常行っているスタイルで、彼と一緒にテクテクと市内の原野、畑地あるいは川沿いを正味20日かけて歩きました。そして彼は最後の日にこんなこと言いました。「あなた方の手法は大方わかりました。しかし、なぜ私を海岸線に案内しなかったのですか」と。

八重山考古学の今後の研究課題

大濱永亘 八重山商工高学校教諭

おおはま えいせん
1945年台湾生まれ。
職務の傍ら長く遺跡の保護運動に努める。
日本考古学会長、東南アジア考古学会員、
沖縄国際大大学南島文化研究所特別研究員。

まず、八重山の最初に住み始めた人たちは、どこから来たのかですが、八重山にはオセアニアのように高い島、低い島がたくさんあり、低い島への拡散、低い島への先史時代を解明すること、そういった島々への移住ということが非常に重要になるわけです。
ところが、オセアニアで無土器文化における編年の材料となった釣針が、八重山ではまったく見つからない。ですから平地の島(低い島)への拡散、移住がいつ行われたのかはまだはっきりしません。

ただいえることは、低い島の多良問島の添道遺跡で下田原系の土器片と石器が数片見つかりました。波照間島の下田原貝塚でこれはやはり非常に豊かな文化で、イノシシの飼育もやっていたことがわかっています。

先史時代の第・期(有土器文化)の遺跡は全部で20ケ所見つかっていますが、残念なことに、カーボン年代測定を出したのは、石垣島の大田原遺跡と下田原貝塚の2点のみです。大田原が3970年前、そして下田原の上層が3200年前。八重山の新石器時代有土器文化の年代はそれだけしか今ないわけです。

無土器時代に関していいますと、遺跡が必ず決まった立地条件の場所にあることに気がつきます。海岸低地砂丘ですね。これが不思議です。無土器がどうして砂丘にあるのか。内陸では今まで一度も発見されてないわけです。必ず、海が一望できる所、そして海岸の海辺、湧き水が出る所、新規砂丘と呼ばれる所。仲間第1貝塚は別 です、あそこは古砂丘ですから。他の場所では、無土器といわれるものが、宮古島の浦底遺跡の2500年前から波照間の大泊浜貝塚の12世紀頃までといわれているわけですが、石蒸し料理の焼き石が出てきます。そして石斧でいいますと方角石斧、こちらは柱上鑿形石斧といっていますが、これはカヌーを作るために使ったのでないかといわれています。

石蒸し料理の焼き石、貝斧、方角石斧などがポリネシアあるいは、フィリピンとの関係の接点として上げられるのではないかと思うのです。
さきほどの篠遠先生の講演でもサモア、トンガで土器を作るのをやめた理由が調理法が石蒸に変わったからだとのお話がありました。八重山にも土器がなくなることがあるんですね。
また、リュウキュウサルボウの殻類に穿孔した貝器にしても、下田原貝塚や名蔵貝塚あたり出てますけど、ミクロネシアやフィリピンから出るものと非常によく似ている。
印東道子先生(北海道東海大学教授)や高山純先生(帝塚山大学教授)あたりは、偶然に発生したのではないかといっているわけですが、今後も考え続けなければいけない問題です。

石器に関しても同様で、不思議なことに先史時代の石斧が多数発見されるのは、洪積世史台地末端という地形的に同じような場所です。これはなぜなのか。現在見つかっているのは海岸部ですが、内陸への展開が果 たしてあったのか。
今のところ内陸の方から石斧が多数出土することが確認されていなく、今後調査する必要があるでしょう。

そして12世紀以降になりますと、八重山では断片的に歴史に登場するわけです。最初、1390年に宮古、八重山が中山入貢というのがでてきますし、1477年には朝鮮漂流民の見聞があります。3名が与那国に漂着して、その後各島々伝いに本国へ送還された、彼らの記録を見ていきますと。西表島ではイノシシを捕っているわけです。山に行ってもヤマイモ捕っている。原始時代のスフ文化の終末期では、これらが食料として欠かせないものだったのではないかと推察しているわけです。1477年ですがいわゆる原始時代の生活ですよね。そして、1500年のオセケアカチ・ホンガワラの乱で歴史時代の琉球王国の時代になります。

八重山の先史時代は一元論か、二元論か

もうひとついえることは、編年の中においても、ポリネシアの場合でしたら一元論、原住民と先住人がまったく同一の民族であるというお話ですが、八重山の場合は、カーボン年代測定の中では有土器時代と無土器時代との間に800年のミッシングリンクがあります。空白時代があるわけです。これをどう解釈したらいいのか。有土器文化を作っていた人が、石蒸し料理の中で無土器文化に移行したという一元論で捕らえられるべきなのか、それとも有土器の人と無土器の人は異なった民族で、民族の入れ換えが起こったという二元論で捕らえるべきなのでしょう。それは今後の調査の進展にかかってくるわけです。

ところで、残念なことにフィリピン、オセアニア地域と関係のある無土器時代の遺跡はセメントの混和材用としての砂採取でほとんど壊されています。ですから最低のマナーとしての基本的な記録調査を踏まえなければいけないと思います。実は最近、ビロースクから拾ったひとつの陶片を小川英文先生や印東先生が去年見て、たったひとうつの陶器ですが、ペルシア陶器だといわれました。もし事実であればたいへんなことです。こうした新しい発見がまだまだ八重山には多いんです。

それに名蔵貝塚では17地点から確認されているのに、シャコガイ製貝斧が出てくるところは2ケ所と限られてくるわけですね。非常に面 白いです。また、宮古島の浦底からは200点以上の貝斧が出てますけども、ここの場合、完品で綺麗です。名蔵の場合はほとんど使われているわけです。使用痕があって刃の欠けがある。貝斧を作る場所と使う場所が違っていたのでしょうか。わたしには分かりませんが、今後注意して見ていかなくてはならないことでしょうね。

カヌーの場合でも櫂がでてきたりしているわけですから、カヌーを作る工房があったという形の選り分けができないかどうか。そういうものもこれから研究を深めていかなくてはいけないと思います。同じように、名蔵湾ですね。阿利さんらが掘った、崎枝赤崎遺跡から開元通 宝が33枚出ました。また湾に面した貝塚遺物(石斧、貝塚)では得られた年代はほとんどが近似的です。しかし、遺跡の範囲や規模の大小、共伴遺跡などに著しい違いがある。それはなぜなのか。まだはっきりとはいえませんが先史時代第・期のシャコガイ製と呼ばれる文化の中においても貝塚形成のあるものとないものがあるわけです。

同じ湾の両側で一方で石斧が何100点も出る遺跡があると思えば、一方では崎枝赤崎遺のように石斧が数点しか出ない。そういう有土器時代の遺跡からは石英剥片石器がたくさん出てきます。これが、奄美から出てきたような類に入るのかどうか。無土器からは出ないわけです。それもまた研究していかなくてはならないと思います。ですから今日は、われわれの今後の研究の示唆になるような意味で、オセアニアの方々からぜひ学びたいと思って参加しています。ありがとうございました。

「第1回やしの実大学報告書」(1998年4月)
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