ゼミ

第1回やしの実大学報告書

[基調講演1]八重山の先史時代
高宮廣衛

みなさん、おはようございます。高宮でございます。私に与えられたテーマは八重山の先史時代です。数年前にも同じテーマで別 の場所で講演したことがあります。それ以後、新しい発見が増えているわけではありません。そういうことで前回の内容と重なるところもあると思いますが、ご了承ください。
では、まず石垣島をはじめとする八重山諸島に、いつごろから人が住み始めたか、という問題から進めたいと思います。私は人類の一番古い文化である旧石器時代からすでに住み始めたのだろうと思っています。そこで、本題に移ります前に、旧石器時代というのはどういう時代であったのかを少しお話ししてみたいと思います。
世界にはいろんな旧石器の文化がありますが、要点は、だいたい重要な問題は3つくらいに要約できるかと考えます。そのひとつはみなさんご存知の打製石器の製作・使用です。石器の器面 を研摩する技術をまだ持っていなかった。ポン、ポン、ポンと自然礫(石)を打ち欠いて作った、器面 の非常に粗い石器です。最初は非効率的な作り方でしたけれども、長い年月をかけて技術は向上していきまして、打製でもかなりすばらしいものを作るようになりました。
今ここに、持って参りましたのはレプリカです。国立台湾大学の宗文薫というたいへん著名な考古学者が、フランスにある旧石器時代後期の洞窟、ラスコー洞窟にいった際、その入り口にある売店で買ってきてくださったお土産です(笑)。旧石器ながら非常に鋭い刃を持っています。私は学生に旧石器を説明する時にいつもこのレプリカを利用させてもらっています。
ところで、研磨技術を持っていなかったというのが一般的にいう旧石器ですが、当時は磨製石器がないのかといと、きわめて稀ですが、あるにはあるのです。どこにあるのかというと、驚いたことに、この日本です。私も最近まで全然知らなかったのですが、今から3万年ぐらい前の旧石器時代後期に刃の部分だけを磨いた石斧が出てくるのです。刃以外の部分は打製中心で作ってあります。この種の磨製石斧はこのあとすぐに消えてなくなるのですが、外国ではオーストラリアでも旧石器時代後期の遺跡から発見されているという報告があります。

さて、特徴の2点目ですが、2点目は採集経済段階にあるということです。まだ、農耕や牧畜を行っていなかった。つまり、まだ生産の段階に到達していなかった時代です。
それから3番目は年代です。だいたい1万年以前ということになっていますが、これには条件がありまして、旧石器時代は世界のどこでも1万年以前に属しているというわけではなく、先進地域に限られています。先進地域ではだいたい1万年前ごろに新石器文化に移行しています。西アジア、ただ今、フセイン問題で有名なイラン、イラク辺り、それからヨーロッパや中国、そして日本では旧石器と新石器の境は1万年前あたりになります。

八重山から旧石器遺跡が発見される
可能性は十分ある

図1 170万年~100万年前の水陸分布

図2 40万年~2万年前の間で何回か
現れた陸域分布

ところが、先進地域の周辺地域、例えば台湾とかフィリピン、おそらくインドネシアもそうだったと思います が、こうした地域では1万年以降にも旧石器文化は存続します。それで将来、八重山で旧石器文化の遺跡が発見されたとしますと、上限は1万年以前にさかのぼるかも知れませんが、下限は1万年以後に下る可能性も十分あります。それでは、旧石器の遺跡が八重山から出るのかというと、残念ながら今のところ発見されていません。ただ、人類の歴史とは関係ありませんが、1万年以前の動物化石が発見された場所はいくつかあります。
そのひとつは、石垣市内にある石底山です。そこからは歴史時代の陶器や土器などが出ていますが、それらよりもはるかに古い動物化石も25種類発見されています。このように動物化石の出土する古い遺跡は八重山でも確認されていますが、旧石器時代の人骨、あるいは人工遺物が出土する遺跡は今のところ確認されていないのです。それでは、今後も発見の可能性がないのかといいますと、私は、大いにあるだろうと見ています。
その理由のひとつのは、まず古人類に関することですけれども、八重山の少し北にある宮古島では有名なピンザアブ人が出土しています。それから沖縄本島に行きますと有名な32000 年前の山下町洞人など、いくつか旧石器人が発見されています。それから台湾に目を向けますと佐鎮人が発見されています。このように八重山の南北で更新世の人類が発見されていますので、運がよければ八重山でも発見の可能性があると見ているわけです。現在沖縄、宮古、台湾で発見されています古人骨は、すべて進化の段階ではもっとも新しい新人のグループに賊します。この新人は我々現代人の直接の祖先だといわれており、後期旧石器時代になってはじめて現れる人類です。
最近、沖縄近辺の地質学的研究が非常に進みまして更新世という約200万年前に始まり、1万年前に終わる地質時代に、だいたい2回、琉球諸島は陸続きになったということが分かってきました。以前は1回だとされておりましたが。琉球大学の木村政昭先生が海底探査を行った結果 、2回陸橋で結ばれたということが判明したわけです。まず、更新世における最初の陸橋は約170万年前ですが、この時は中国南部から陸地が延びてトカラ列島で一旦途切れる。九州とはつながっていなくて、現在もそこが生物境界線になっています(第1図)。この時代は人類でいえば原人の時代で、北京原人が生きていましたので陸続きでありましたから、八重山に渡ることは可能でした。
次に100万年前ごろに八重山は孤島になり、再びつながるのがだいたい40万年前ごろ。この時代は旧人の時代ですので、運がよければ八重山から旧人の遺跡が見つかるかもしれません。山下町洞人や港川人はこの時の陸橋を利用したのでしょう。このように2回の陸橋があったということが分かったのは20年ぐらい前でして、それ以前は私たちは船か筏で来たんだと考えていました。
ちょうど篠遠先生のご講演ではアボリジニーの人々がオーストラリアに渡ったのが5万年前だということでした。オーストラリアは当時ユーラシア大陸と陸続きになっていなかったといわれています。したがって、海の上を歩いていくわけにはいきませんので(笑)、船で行くか、筏で行くか、何かすでに渡航手段を持っていたのではないかと推察されています。

奄美大島や台湾で発見されている
剥片を持った旧石器人が八重山にも?

陸南部から台湾や八重山諸島・沖繩諸島を経てトカラ列島まで続く陸橋が、当時確実に存在したのであれば、新人だけではなく旧人、そして原人の発見もあるだろうというふうに私は考えています。ところで、宮古のピザアブ人ですとか、沖繩の山下町洞人がどのような文化を持っていたのかといいますと、今のところまったく分かっていません。当時、彼らが使用したと見られる石器や骨角器など人工遺物が見つかっていないのです。そういうことで旧石器研究は大きな壁にぶつかっているのです。 ところで、沖縄諸島の北に奄美諸島があります。そこでは最近、旧石器の一番最後の段階である後期旧石器時代の石器が発見されています。それから南の台湾でも同じ時代の石器が発見されています。これらの石器は不定形な剥片、剥片とは破片のことですが、大きな石から打ち欠いて石器を作る時にたくさんの石くずが出ます。このような石のかけらを剥片といいまして、その剥片をそのまま石器として使うのです。また、打ち欠いて残った石の核心の部分を石器として使用する場合、この種の石器を石核石器といいます。石斧は石核石器の一種で、先ほどお見せしたフランスからのお土産品であるレプリカの打製石斧も石核石器の1例です。


八重山式土器文化の起源

このような石器が奄美と台湾で発見されたわけですが、奄美のものはだいたい2万年前と古く、他方、台湾のものはずっと新しく5000年ごろのものです。日本でいうと縄文後期に相当します。日本ではすでに新石器時代に入っているわけですが、台湾ではまだ旧石器時代が続いていたということになります。このことは八重山の旧石器時代を考える際に暗示を含んでいると思います。ところで不定形の剥片石器はこういう石器は香港や中国南部、それからずっと南へ下がってオーストラリアでも最近出土したとの報告があります。それで、もし将来、八重山から旧石器が発見されるとしたら、奄美や台湾で出たような剥片石器であろうと渡しは見ています。以上で旧石器を終えまして、次に新石器文化に移りたいと思います。

新石器文化もみなさんご存知のことと思いますが、いろいろの時代的特徴があります。その中で主要なものを取り上げると、だいたい3つにしぼられますが、ひとつは磨製石器の使用です。もうひとつは土器の出現、土器の主な用途は煮炊きです。そして3つめは生産経済といって、農耕や牧畜を行う段階に入る。つまり旧石器時代の採集経済から生産経済へ移行するわけですが、ここに人類の一大転機があります。
ところで、この3番目の農耕や牧畜ですが、このような生産経済への移行は世界の先進地域(例えば、西アジア、ヨーロッパ、中国など)に限られ、周辺地域、例えば北欧などでは磨製石器や土器は出ますが、農耕や牧畜は行っていなかったようで、日本の縄文時代も北欧などのケースと同じだったと考えられています。
ただし、最近の九州の佐賀県や福岡県における発掘調査の結果 から、縄文後期にすでに稲作を行っていたということが分かっています。それだけではなく、最近はより古い縄文後期にも稲作を行っていたのではないかと思わせる遺物が出ています。また、さらに進んだ意見としては、縄文中期に遡って稲作を想定する研究者もいます。実は岡山県辺りでプラント・オパールといいまして稲の花粉化石が縄文中期の遺跡から検出されたという報告がありまして、稲作の開始もだんだん古く遡るようになってきています。

3500年前に突然現れ、忽然と消える
八重山最古の土器、下田原土器

八重山の下田原式土器

さて、次に八重山諸島の新石器時代についてみますと、この時代の八重山で農耕や牧畜が行われていたかどうか、現在のところ確かな資料がありません。しかし、新石器のメルクマールである土器や磨製石器は存在していますので、新石器文化に含めることに問題はありません。八重山の一番古い旧石器文化は下田原式土器文化です。この古い文化を代表する下田原式土器とは、いったいどういう土器なのか、その特徴を見てみたいと思います。
同じ3500年前の土器に沖繩では伊波式土器があり、八重山には下田原式土器があります。両方がどう違うのか見てみますと、伊波式土器は円筒形で、下田原土器は球形です。土器の口の部分を考古学では口縁部といいますが、伊波式は胴部から口縁部にかけて外の方へ反っています。八重山の土器は逆に胴部から口縁部の方へ内湾しています。それから八重山の土器には取っ手が2個ついていますが、伊波式にはつきません。一番大事なのは口縁部で、伊波式の口縁部は山形にとがっています。しかし、八重山の下田原式の口縁部はスパッと水平方向に切れています。この種の口縁部を平口縁といいます。それから伊波式の器面 には文様が描かれていますが、下田原式は基本的に無文です。このような違いがあります。

沖縄本島の伊波式土器

さて、この沖繩の伊波式土器に見られる山形の口縁部は、実は縄文土器の主要な特徴のひとつです。例えば当時の朝鮮半島には櫛目紋土器というのがありますけれども、櫛目紋土器は一貫して平口縁で、その点で縄文土器とはっきり区別 できます。このような山形突起の特徴から沖繩の伊波式土器というのは、縄文の影響を受けているといえるわけです。大きな意味ですと縄文系統の土器ということができます。それに反して八重山の下田原式土器は器形からいいましても、また施文の有無などの点から見ましても文様からいいましても縄文系統に含めることはできません。つまり伊波式と下田原式はつながらないわけなんです。

赤崎貝塚出土のシャコ貝製の貝斧

うした土器の分析から、沖繩の土器には縄文・弥生の影響を認めることができますが、八重山の下田原式には認められません。そのことから、八重山地方には沖縄諸島以北とは、異なった先史世界が展開しているといえるわけです。では、どうして宮古諸島以南に縄文や弥生文化の影響がおよばなかったかといいますと、沖繩と宮古島の間には300kmの長さに渡って水深が1000m以上もある宮古凹地と呼ばれる海峡があって、当時の航海技術では、この宮古凹地をその南北に住む人々は自由に渡れなかったようです。
これまで話してきたことから、沖繩の伊波式土器は九州系統ということがお分かりいただけたと思います。それでは下田原式土器のルーツはどこなのかというと、今のところまったく不明です。また、この下田原式土器文化の週末も謎で、この土器文化は忽然と消えていくのです。そして次の時代になると、今度は土器を伴わない石器主体の先史文化が現れます。土器を伴いませんので無土器時代、あるいは無土器文化と呼んでいます。
無土器文化といいますと、一般的にはすぐ旧石器時代を思い浮かべます。ところが、八重山の無土器時代の石器を見ますと、すべて磨製なんです。つまり、新石器時代のものなんです。このような特殊事情から、我々はこの文化を新石器無土器時代(あるいは文化)と呼んでいるわけです。この時代の主要な石器は石斧ですけれども、その中に貝斧、つまり、シャコ貝で作った斧が混ざってきます。

八重山には貝斧や石斧に
象徴される文化があったのか? あるいは種族が交替は?


大田原遺跡の石斧

これまで我々は石斧も貝斧も編年材料にならず、これらは同じ時代のものと漠然と捕らえていました。ところが最近、どうも両者は時期が違うのではないだろうかと考え始めるようになりました。八重山の石斧を主体にする遺跡を見てみますと、表土の撹乱層からは石斧と貝斧が一緒に出てくることがあります。ところが、その下の未撹乱層から確実に貝斧が石斧に伴って見つかったということがしられていないんですね。そこで、石斧を作った文化と貝斧を作った文化は、はっきり分かれるのではないかと疑ってみたわけです。 宮古島に貝斧が出土するところがありまして、浦底遺跡といいますが、ここでは未撹乱層から貝斧が200点以上も出てきたんです。しかし、それに伴う石斧はわずかに2点でした。圧倒的に貝斧優勢の遺跡で、放射性炭素年代測定法で2500年から1900年前という数値が出てきました。で、八重山の石斧の年代を見てみますと、古いものは1800年前で、あとは12世紀です。ひとつだけ2500年前という古い数値が出ていますが、これはどうも貝斧が出土した層のようです。
それで貝斧を作った文化と石斧を作った文化が時期的に分かれるならば、まず、最初に八重山には土器を伴う下田原式土器文化があって、次に無土器期の貝斧文化、そしてそのあとに無土器期の石斧文化が続くことになりますけれども、その場合、下田原式土器文化に伴う石器が一旦貝斧文化の介在によって中断させられることになります。そして無土器期の終末に再び石斧文化が現れるという、たいへん複雑な変化をたどることになるわけですが。どうもその辺の文化推移をどう解釈したらいいのかは、自信がありません(笑)。

与那空港トゥグル浜

それからまだ詳しく研究したわけではありませんが、無土器期の石斧と、一番古い有土器の下田原式土器文化に伴う石斧が、一見非常によく似ています。しかし、果 たして両者の間に系統があるのかどうか、両文化の系譜関係を考えるうえで、是非とも検証せねばならない問題です。ところで、この両文化の系譜関係の有無を考えるうえで、重要だと見られる遺跡が与那国島のトゥグル浜遺跡です。この遺跡には土器こそ伴いませんが、石器やその他の遺物は非常によく下田原遺跡のものに似ています。そういうことで、無土器期の古い様相を伝える遺跡ではないかと見ているわけです。この遺跡が古い下田原式土器文化と先史時代終末期の無土器期の石器を結びつける鍵を握っているように思われます。たいへん重要な遺跡と見ています。
先ほど篠遠先生のご講演にありました、西ポリネシアでしたでしょうか、そこでも突然土器が消えてなくなるとのことでした。こうした有土器から無土器への変化が同じ太平洋圏内にあり、八重山にも当てはまるのではないか、と考える研究者もいます。しかし他方、まだ土器が発見できないだけなんだという研究者もいます。
さて、時代は飛びまして12世紀になりますと、今度は急に北から新しい文化の波がやって来ます。九州の佐賀県に滑石という非常に柔らかい石の算出地がありまして、この滑石で鍋型の容器を作るのですが、この種の容器を滑石製石鍋といっています。この滑石製石鍋は非常に高価な交易品として、東は関東地方辺りまで運ばれ、そして南は九州を越えて奄美・沖繩へも持ち込まれ、沖縄諸島にも分布していることが分かっていました。この石鍋が10年ほど前に八重山でも見つかりまして、このような遠いところとも交易を行っていたのかと、関係者はみんなびっくりしました。八重山にも来ていたことが分かったんです。
繰り返しますが、この土器は非常に高価なものだったようで、庶民は手が届きません。そこで、まねをして作るわけです。石鍋を模倣した土器が沖縄諸島では城跡などから大量 に出土していまして、この種の模倣土器を城跡土器と呼んでいます。この呼び名は考古学上の正式な名称ではなく、ニックネームです。また八重山では、この石鍋に由来する土器が竹富島の新里村貝塚から見つかりまして、この土器を新里村式土器と呼んでいます。
この新里村式を祖形として八重山では外耳土器という取っ手が2個水平方向につけた新型式の土器が出現します。この外耳土器も石鍋に由来するという意味で、沖繩の、いわゆる城跡土器と兄弟関係にあるのです。
かつて沖縄諸島と先島諸島はまったく違った先史土器文化圏に賊していましたが、ここへ来て初めて共通 の祖先に由来する土器を作るようになり、八重山を含めた先島諸島が琉球文化圏に包摂されていくわけです。この包摂される時期が12世紀ごろです。そして15世紀には琉球王朝が成立すると、今度は政治的に琉球王国の版図に組み込まれていく。八重山の先史時代から歴史時代の概観しますと以上のような推移となります。

「第1回やしの実大学報告書」(1998年4月)
  • 国際政治講座
  • 情報通信講座
  • 島嶼経済講座
  • ゼミ

このページのトップへ