太平洋島諸国・国際政治講座

櫻田淳講師の特別 講座

- 評論家・慶應義塾大学講師 櫻田 淳 -
新「南洋」戦略論
1. はじめに

平成十一年七月、台湾の李登輝総統が中国と台湾の関係を「国と国の関係」と規定する発言をして以降、中台関係に緊張が走っている。この李総統発言それ自体は、サウディ・アラビア、タイ両国の駐在大使を務めた岡崎久彦氏が「裸の王様」の挿話を引き合いにして説明したように、中台関係の「現実」、あるいは「実態」を表現したものと見るべきものである。無論、李総統発言には、「実態」に過ぎぬ ものを一国の指導者の立場で殊更に言挙げしたことによって、却って中台関係に無用な摩擦を生じさせているという批判があったのも事実である。

しかし、我が国にとって、台湾の現状が保全されることの意味は、そのような中国に対する関係の文脈のみに限定されるものではない。確かに、平成十年十一月の江沢民中国国家主席訪日以降、我が国の対中感情は一気に醒めたものになってしまった。しかも、中国の動向は、読み切れない側面 が相当にある。一方では、国力を付けた中国が覇権主義的傾向を加速させるであろうと指摘する向きもあれば、他方では、共産党政府が十億を超える民と広大な土地を一元的に統治するという難事に耐え切れず、中国が分裂傾向を強めるであろうと指摘する向きもある。この中国の持つ不透明な印象を前にすれば、総統直接選挙を経て「自由主義経済」や「民主的統治手続」を体現する存在になった台湾が、我が国の多くの人々に親近感を与えているのも、むべなるかなといったところである。ただし、にもかかかわらず、台湾の現状が保全されることへの支持は、中国への牽制という意味合いでのみ語られてはならない。我が国にとって、何故、独立した政治主体としての台湾の現状が保全されなければならないかということについて、我が国は、強靱な論理を準備して置く必要があるのである。

そして、台湾の彼方にあるものこそ、昔日、「南洋」と呼ばれた領域に他ならない。私は、昨今の中台関係の緊張に垣間見られるように、中国に対する対応が我が国にとって難しいものになればなるほど、どのように「南洋」を我が国の国際戦略の中で位 置付けるかは、真剣な構想が迫られるであろうと考えている。私は、率直にいえば、そのような「南洋」を位 置付ける試みの射程の中に、台湾の現状を保全するということも含めたいと考えている。新たな意味での「南洋」戦略を策定し遂行する論理を構築する時節が、到来しつつあるのである。

2. 日本と「南洋」の位置

「南洋」とは、赤道以北の西太平洋上、マリアナ諸島、パラオ諸島、マーシャル諸島、カロリン諸島といった島々から成り、一般 にはミクロネシアと呼称される領域である。我が国は、第一次世界大戦を機に、ドイツ領だった「南洋」の島々を占領し、ヴェルサイユ講和条約発効後、国際連盟から委任統治を認められた。その後、第二次世界大戦の終結に至るまでの間、我が国は、パラオに置かれた「南洋庁」の所轄の下、サイパン、パラオ、ヤップ、トラック、ポナペ、ヤルートの六つの支庁を置く形で、これらの島々の統治を進めた。戦後、これらの島々は、米国の国連信託統治領とされてきたけれども、一九八〇年以降、続々と独立を果 たした。目下、「南洋」と呼ばれた領域には、米国自治領としての北マリアナ諸島に加え、パラオ共和国、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国といった国々が存在している。

 戦後、我が国は、総じて、「南洋」への関心を喪った。もっとも、一九八〇年代初頭、当時の大平正芳総理が提唱した「環太平洋構想」の文脈の下、「南洋」への関心が俄に高まりを見せたことがある。しかしながら、そのような関心は、決して持続しているとはいえない。このことの背景には、我が国の統治下に置かれた多くの国々との関係が往々にして、そうであったように、我が国と「南洋」の関係が険悪なものであるといった事情ではなく、我が国が払うべき関心を払うのを怠っていたという事情が、反映されているに過ぎない。無論、第二次世界大戦後期以降、米軍の反攻が本格化する中で、「南洋」の島々は、日米両軍の激突の舞台になった。その攻防の過程で、「南洋」統治時代に築かれた諸々の産業基盤は、破壊し尽くされたし、島民の人々が甚大な被害を被ったのは、紛れもない事実である。しかし、そのことは、開戦以前、我が国が「南洋」に対して進めた平時の統治が、特に愚劣にして苛酷なものであったことを証明する材料にはならない。むしろ、我が国の「南洋」統治が上手くいっていたという指摘は、決して少なくないのである。

我が国が「南洋」統治に際して始動させたのは、警察制度と教育制度の整備であった。特に教育制度に関していえば、「南洋庁」設置と同時に、島民学校としての「公学校」が設置され、そこでは、満八歳を就学年齢として、国語、修身、算術、地理、理科、農業、手工などの教育が行なわれた。無論、「公学校」三年の課程は不十分なものであったから、優秀な生徒には「補習科」二年の教育が施された。そして、時代が下ると、島民の青少年の中には、日本人が経営する「私塾」に通 ったり、日本の中学校に通うなどの高次の教育を受ける事例も見られるようになったのである。 また、経済面 でいえば、「南洋庁」設置以前から、我が国の人々は、「南洋」を舞台にして様々な経済活動を展開していたけれども、そのような経済活動を象徴したのが、明治四十一年に既存の貿易会社を発展させる形で設立された「南洋貿易株式会社」であり、大正十年に設立された「南洋興発」という名の会社であった。「南洋貿易」は、「南洋」における貿易を独占しつつ、運輸、回漕、拓殖、水産、鉱業、油脂工業などに事業を拡大する。また、「南洋興発」は、製糖を中心に、倉庫、燐鉱、石油、水産、タピオカ澱粉製造にまで活動の範囲を広げた。加えて、官制会社としての「南洋拓殖」は、関連会社によるものも含めて、燐鉱、農場経営、真珠、アルミニウムといった事業を手掛けていた。

そして、このような「南洋」統治や事業活動の結果 、最終的には、「南洋」には、現地島民五万二千名余りに対して、邦人九万六千名余りが在住するに至ったのである。因みに、ミクロネシア連邦の初代大統領であったトシオ・ナカヤマ氏にせよ、パラオ共和国の現大統領であるクニオ・ナカムラ氏にせよ、そのような邦人男性と現地島民女性を両親に持つ人士であることは、あらためて指摘してもよいであろう。

このように「南洋」に出向いた邦人と現地島民との関係は、どのようなものであったのか。そのことを知る際の一つの手掛かりが、中島敦の著した『環礁 』という名の小説である。中島敦といえば、『李陵』や『山月記』といった味わい深い作品で知られる作家であるけれども、彼は、昭和十六年六月から翌年三月まで南洋庁勤務の国語教科書編纂書記としてパラオに滞在し、その際の体験を基にして『環礁 』を著した。『環礁』に描かれている「内地人」、即ち邦人と現地島民との関係は、何とも穏やかにして閑かなものである。『環礁 』には、日本の女学校で学んだことのある島民女性が登場したり、コプラ採取により五万円乃至七万円の収入を得ていたマーシャルの若き大酋長の話が出て来る。我が国は、「南洋」統治時代、現地島民に日本国籍を与えることはしなかったけれども、教育の機会や経済開発の成果 に関して、現地島民を排除することはしなかったのである。

この点、スタンフォード大学フーバー研究所上級研究員のマーク・ピーティー氏は、その著『植民地』の中で、我が国の「南洋」統治に関して、その「陰」の部分を様々に指摘した上で、次のようにも評価している。

「こうした個人は、やがて成人すると戦後のミクロネシアで指導的な役割を発揮するが、彼らからみると、戦前の日本の学校で技術とともに学んだ忠誠心・勤労精神・規律・覇気などの価値観は、戦後のミクロネシアの若者に与えられた可もなく不可もない教育とは、鋭い対照をなしている」。

「それ(南洋統治の後半期、かなりの数の島民が享受した経済的繁栄)は、日本統治の最も明るい側面 で、委任統治義務を、意図しないまま不完全ながら実現したといえる。もし、太平洋戦争が起こらなければ、こうした側面 は、ますます明るいものとなり、島民たちの記憶の中により深い感情を刻み込んだ時代として記憶されたことであろう」。

また、グアム大学のダーク・A・バレンドルフ教授は、我が国の「南洋」統治に関して次のような評価を下している。

「日本統治が島民におよぼした利益・恩恵は極めて大きかったといえば十分であろう。今日、南洋時代に子供時代を過ごしたミクロネシア政治指導者たちは、日本人が教育を通 して彼らに、健全な価値観と規律を教えてくれたと感謝している。この価値観と規律こそが、現代の世界で彼らが活躍する際に何よりも役立ったのである」。

前に示した『環礁』の記述に重ね合わせるとき、私は、ピーティー氏なりバレンドルフ教授なりが下した評価が、公正なものであると考えている。

しかしながら、戦後、我が国は、このような「南洋」統治の実績を忘れ、「南洋」への関心を持続させることができなかった。政治面 でいえば、我が国から閣僚として「南洋」諸国を訪問した人士は皆無である。一九九〇年代以降、鈴木宗男、小川元、武見敬三、東祥三の四氏が外務政務次官として「南洋」訪問を果 たしたけれども、それは、「南洋」諸国を含む太平洋島嶼諸国の連合体である「南太平洋フォーラム」(South Pacific Forum、SPFと通称) の総会に出席することを目的としたものであって、別 段、「南洋」諸国との関係に特別なものを求めようという意図を働かせたものでもなさそうである。毎年、「南洋」諸国からは公式にせよ非公式にせよ大統領、閣僚級の人士が幾度も来日している事実を前にすれば、この要人往来の非対称性は、私に腑に落ちないものを感じさせる。無論、現在、国家建設を始動させたばかりの「南洋」諸国の主要援助国が我が国なのであれば、援助を受ける側の国が援助を与える側の国に様々な要請を行なうのは、当然のことであり、このような要人往来の非対称性は必然であると指摘する向きもあろう。しかしながら、私は、「南洋」諸国は、我が国が援助を与えている他の国々と同列に扱うべき国々ではないと考えている。何故、このように私が考えるかについては後で詳述するけれども、昔日、我が国は、「南洋」と特別 な関係を築いていたのであるから、今後も「南洋」諸国に対して特別 な関心を払っても、奇異なことではない。

 因みに、パラオ共和国の国旗は、海を表す青の地に夜空に輝く満月を表す黄色の丸の図柄を持つ。日章旗の白地を青地に、そして「日の丸」を「月の丸」に置き換えれば、それは、パラオ共和国の国旗になるのである。私は、このことを以て、現在のパラオ共和国の人々が昔日、自らを統治していた日本に対して特別 な親近感を抱いている証左であると断ずることはしない。しかし、そのことは、逆にパラオ共和国の人々が日本に反感を抱いているということ示すものでもないであろう。われわれは、中国や朝鮮半島との関係に呪縛される形で、我が国の統治下にあった総ての領域において我が国に対する遺恨や反感が残されたという予断の下で、物事を考えないほうがよいのではなかろうか。そのような予断がある限り、われわれは、「南洋」を含む周囲の国々との自然な付き合いを続けることに支障を来すのではなかろうか。そして、パラオ共和国の「青海満月旗」は、そのようなことを、我が国の人々に語り掛けているのではなかろうか。

3. 新「南洋」戦略の意味

それでは、戦後半世紀を経て、「南洋」諸国との関係を築き直す意味は、奈辺にあるのであろうか。そのことには、二つの意味が考えられる。

先ず、「南洋」諸国との関係を築き直すことには、我が国の信条や価値意識といったものを明示することに結び付くという意味がある。私は、後でも触れるように、「南洋」諸国には、東南アジア多島海諸国と同様、広大な海洋を通 じて「進取性」と「開放性」という価値が体現されていると考えている。そして、これらの国々との提携を進めることには、我が国が「進取性」と「開放性」の価値を本当に大事なものとして位 置付けることができるかどうかということが、密接に関わることになるであろう。国際日本文化研究センターの川勝平太教授が指摘したように、東南アジア多島海は、自由貿易と呼ばれるものの発祥の地であった。川勝教授によれば、「イギリス人は東南アジアで自由貿易を学び、それをイデオロギーにした。自由貿易はアングロ・サクソンの専売特許ではない。その原型は東南アジアにある」とのことである。この点、京都大学の白石隆教授は、「海の帝国」と題された連載論考(『中央公論』平成十一年七月号以降連載)の中で、英国の勢力が及んでくる前の東南アジアでの自由貿易の有り様を詳述している。白石教授によれば、十八世紀以前の東南アジアは、「まんだらシステム」とも呼ぶべき秩序の下にあったとのことである。この時期の東南アジアには、海上交通 や河川交通の要衝に様々な港市が成立するとともに、特に土地の肥沃な場所に水稲耕作に基づいた人口の集住地が発生した。そのような様々な港市や人口の集住地を拠点にして登場した大小、様々の「権勢を持つ人々」、即ち「大王」や「王」が互いに競合と消長を繰り返す形で、「まんだらシステム」の秩序体系が維持されてきたのである。当然のことながら、そこでは、人々の活動が、特定の排他的、閉鎖的な空間の中に閉じ込められるということは、あり得なかった。戦後の我が国の経済発展が「自由貿易」と呼ばれてきたものの恩恵を被ってきたことを前にすれば、われわれは、この「自由貿易」の原型に想いを致す必要がある。そして、われわれは、あらためて、「海洋国家」としての我が国の存立を支える「自由貿易」の基底を成すのが、「進取性」と「開放性」の価値に他ならないということを確認すべきであろう。

我が国は、率直にいえば、米国のように「自由と民主主義」といった固い理念を基にして国家が成り立っているわけではない。このことは、我が国の対外関与が明確な論理を持たず、往々にして没価値的にして無原則に行なわれるかのような印象を周囲に与えることになっている。無論、昭和初期、我が国が「大東亜共栄圏」構想を示す流れの中で示した「王道楽土」、「五族協和」といった標語は、我が国の対外関与を根拠付ける「理念」を表示するものとしては、曖昧なものであった感が否めない。「大東亜共栄圏」構想の頓挫によって、我が国の多くの人々には、奇妙な「理念」に振り回されることの不毛さという印象だけが残った。しかも、このような大々的な「理念」を振りかざして外に臨むというのは、我が国の「国柄」に合致した流儀だとはいえないのであろう。しかし、それにもかかわらず、凡そ国家が「価値の体系」としての側面 を持つ以上、我が国の対外関与もまた、何らかの「価値」と無縁ではいられない。我が国は、大仰な理念やイデオロギーを示すことはできないとしても、様々な機会を通 じて、「何が日本国にとって大事なのか」という価値の基準を逐一、示し続けることはできるはずである。我が国の対外関与が、実利一辺倒であるという印象を与えたり、たとえば「人権」といった借り物の概念に縛られないようにするためには、このような価値の基準の提示を続けることは、大事な作業である。そして、「南洋」諸国との関係を通 じて示される価値こそ、「進取性」と「開放性」の価値なのである。

次に、我が国が「南洋」諸国との関係を築き直すことには、北朝鮮や中国といった国々と向き合う際の心理的な圧力を減殺するという意味がある。冷戦終結以後、明らかになったことは、主要先進諸国の中でも、我が国以上に周囲の国々と緊張要因を抱え込んでいる国も珍しいということである。北朝鮮や中国との関係が相当に緊張を孕んだものであるのは、あらためて指摘するまでもない。ロシアに関していえば、旧ソ連時代のように明々白々な「脅威」とは意識されないようになっているかもしれないけれども、北方四島の帰属を巡る問題が解決されず平和条約が締結されないままでは、その関係に依然として不透明な要素が残るのは仕方のないことである。そして、唯一、韓国との関係だけは、平成十年十月の金大中大統領来訪を機に、我が国にとって穏やかなものになりつつある。無論、我が国が気の許せない国々に取り巻かれているという構図は、冷戦期と現在とでは、然程、変わっているわけではない。このような緊張した環境の中で、我が国が平衡感覚を喪わずに来れたのは、日米安保体制に基づく米国の関与という裏付けがあったからである。しかしながら、我が国が弱小の国家であった時代ならばともかく、国際社会で一定の影響力を行使し得る存在になった現在、米国の関与に対してのみ自らの平衡感覚を保つ条件を求めるのは、決して賢明なことではない。周囲の国々との緊張した関係を前にして右往左往しないようにするための条件は、自ら手にする構えを示すことが我が国にとっては大事なことである。

我が国と周囲の国々との関係という点に関連して、一九八〇年代初頭、当時の西ドイツのヘルムート・シュミット首相は、「西ドイツには友邦はあるが、日本にはない」という趣旨の発言を繰り返したことがある。前任首相であったヴィリー・ブラントが展開した「東方外交」以来の成果 によって、特にナチス・ドイツに蹂躙された東欧諸国との和解を果 たした自信が、このシュミット首相の発言には反映されている。そして、シュミット首相の発言に接して、我が国では、中国や韓国との和解を実現できない我が国の現実に道徳上の引け目を感じるという趣旨の議論が、示されたものであった。しかしながら、現在から振り返る限りは、ブラントからシュミットへと続く西ドイツ社会民主党主導の「和解」路線が、結果 的には、現在の欧州におけるドイツの影響力の揺籃になったのは、間違いない。この西ドイツの「和解」路線に関しては、従来の我が国では専ら道徳上の観点から評価する向きが支配的であったけれども、近隣に「友邦」を築く方策という戦略的な見地から評価し直し、我が国の今後の参考に供していくことは、大事なことであろう。

目下、我が国の正面に北朝鮮や中国といった今後の動向が不透明な国々が位 置し、これらの国々への対応は、我が国には頭痛の種とも呼べるものであるかもしれない。けれども、われわれは、背後を振り向き太平洋の彼方に眼を向ければ、そこには、数々の「友邦」となり得る国々が存在することに気付くべきではないであろうか。我が国の対外関与の姿勢に関して抜き難い習性になっているのは、「孤立」への恐怖である。確かに、食糧、資源などの国家存立の条件を海外に依存する度合いが高く、その意味では脆弱な権力基盤しか持ち得ない我が国にとっては、国際社会での「孤立」は、国家としての破滅に直結する。そして、昭和初期の我が国が「孤立」への道を歩み、遂には戦争へと傾れ込んでいったという印象は、我が国の多くの人々には、鮮烈なものがあったろう。また、「孤立」への恐怖は、「村八分」といった言葉に象徴される我が国の伝統的な価値意識にも裏付けを持つものであろう。しかし、そうであるならば、我が国は、「孤立」を回避するための戦略の立案に際して、強靭な論理を用意していて然るべきである。それは、「嫌われたくないから波風を立てない」という消極的な流儀とは本質的に似て非なるものである。そして、現在は、我が国が戦略的に「友邦」を築くという構えを示してもよい頃合である。戦略的に「友邦」を築く構えを実際の政策として遂行する際には、我が国と出来るだけ「国柄」に近似した条件を持つ国々から始動させるというのは、自然な発想である。「南洋」諸国との提携は、その具体的な第一段階として位 置付けられるべきものである。

1990年代以降、我が国の将来像を巡る議論で提起されたのは、「普通 の国」の概念であった。しかしながら、「普通の国」とは、様々な国々が地勢、気象、歴史、伝統といった点において様々な条件の下で存立している以上、本来は、「どこにも存在しない国」なのである。我が国は、「南洋」諸国との提携を加速させることを通 じて、我が国の「国柄」といったものを内外に鮮明に示すべきなのであろう。

4. 新「南洋」戦略の方策

それでは、新「南洋」戦略とは、どのような具体的な手順を伴うものであろうか。私は、試論として次の二点を提起することにしたい。

第一は、戦後、総じて低調であった政治、経済、産業上の交流を加速させることである。政治面 でいえば、前に論じたように、戦後、我が国からの要人の往来が希薄であったことは、反省に値する。その意味では、取り敢えず一度でも閣僚級の人士、率直にいえば外務大臣の訪問は、早急に実現されるべきであろう。これに関連して、現在、我が国は、「南洋」諸国に対する外交態勢として、順次、大使館を開設し、臨時代理大使を常駐させている。そして、「南洋」諸国を統括する特命全権大使は、フィジー駐在大使が兼任することになっているのである。私は、この現状を改め、昔日、我が国が「南洋庁」を置いていたパラオに特命全権大使を駐在させ、パラオ駐在大使にミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国との関係を担当させるようにすべきであると考えている。我が国が「南洋」諸国との関係を重視しているということを示す仕掛は、意識的に準備すべきなのである。このようにすれば、我が国が「南洋」諸国に対して持つ関心の有り様は、鮮明なものとして内外に印象付けられよう。そして、目下、小渕恵三総理が展開する「陸の外交」としての「シルクロード外交」に併せ、「海の外交」としての新たな基軸が、新「南洋」戦略を通 じて、出来上がることになるのである。

新「南洋」戦略の具体的な施策を一案として挙げるならば、「南洋」諸国の性格を前にする限りは、たとえばパラオ共和国に海洋に関わる諸々の研究と人材養成の拠点を我が国の資金によって設立することは、大いに考慮すべきではなかろうか。「南洋」諸国には、現在、パラオ共和国、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国に、それぞれカレッジ級の高等教育機関が一つずつ設けられている。けれども、もし、日本とオーストラリアを結ぶ東経一三五度線の中間に位 置し、ミクロネシアから東南アジア多島海に至る領域の中間を占めるパラオ共和国に、このような拠点が設けられるならば、それは、西太平洋島嶼諸国全体の相互の交流拠点が設けられることを意味する。この研究拠点から、海洋資源の保護や管理、海洋汚染の防止などに関わる知識や人材を含めた「ソフト・ウェア」が創造され、世界に発信されるならば、そのことは、全人類に対する多大な貢献を意味しよう。そして、このような研究拠点に対する我が国の資金拠出は、とかく没価値的な印象が根強く残る我が国の対外経済援助の有り様を修正するとともに、我が国が「海洋国家」として大事にすべき「進取性」と「開放性」の価値の意義を表す具体的な仕掛を用意したことになろう。加えて、民間では、「南洋」諸国を含む太平洋島嶼諸国との交流を図る具体的な動きが既に始まっている。たとえば、一九八九年には、笹川平和財団の特定基金として「笹川太平洋島嶼国基金」が設置され、一九九〇年以降、実に多彩 な事業が展開されている。我が国は、国家戦略の一環として、このような民間の動きをも奨励、支援すべきであろう。

第二は、将来の課題として、「南洋」を含む西太平洋海域の安全保障に関して、我が国が現在よりも広範な責任を果 たしていくことである。現在、「南洋」諸国は、米国と自由連合を結び、領域内での米国海軍艦艇の自由な航行と寄港とを認める形で、安全保障の確保を全面 的に米国に依存している。今後、米国の覇権が永続的に維持されるのであればともかく、米国が世界の万事に首を突っ込むことには、最近、疑義を差し挟む声が決して小さくない。「米国は『世界の警察官』たり得ないし、そうである必要もない」という議論は、米国の国内世論の中で勢いを増しつつあるのである。この流れの中では、私は、有事はともかく平時において、米国がハワイ以西への安全保障上の関与を漸次、縮小していく事態を予測して置く必要があると考えている。そのような事態が現実のものとなった場合には、米国が西太平洋で果 たしてきた安全保障上の役割を補完するという構えが、我が国にとって大事になるであろう。そして、その際には、「南洋」諸国が米国と結んでいる自由連合の流儀が、我が国の安全保障上の「南洋」関与の有り様を根拠付けるものとして踏襲されよう。無論、米国と「南洋」諸国との自由連合協定は今後、半世紀に渉り友好なのであるから、我が国としても、その協定を尊重し続けるものとする。このようにすれば、我が国は米国を相手にして、目下、懸念されている朝鮮半島での有事だけではなく、平時においても、「南洋」海域を舞台にして安全保障上の協力を進めることができるであろう。同盟の実質性とは、結局のところは、有事に際して必要な支援を提供できるといった信頼も然ることながら、平時において平生の共同活動を積み重ねたという実績によって担保されている。日米同盟の円滑な運営を支えるためには、「南洋」海域を舞台にした平時の共同活動は、格好の仕掛なのである。そして、「南洋」海域を舞台にした共同活動を続ければこそ、日米同盟は、従来、往々にして揶揄されてきたような「米国による一方的な保証の枠組」ではなく、同盟が本来、示すべき双務的な姿に飛躍的に近付くことになるであろう。

加えて、このような安全保障上の「南洋」関与の前提として、我が国は、現行憲法典を改正し、海外に派遣し得る「海軍」を再建させた上で、「南洋」海域の巡視や哨戒を目的として、ヘリコプターや垂直離着陸機、あるいは水上輸送機を搭載した航空母艦の保有に踏み切るべきであろう。今後、我が国が保持すべき海軍とは、評論家にして麗澤大学教授である松本健一氏の言葉にある「テリトリー・ゲーム」の手段ではない。「テリトリー・ゲーム」の時代ならば、海軍とは、排他的な勢力圏を確保するための手段として使われるものであったかもしれないけれども、今後の海軍の役割は、海賊への対処、自由航行路の保全、海洋汚染の防止といったように、国際的な海事警察機能の一翼を担うことへと比重を移すであろう。その点でも、「テリトリー・ゲーム」の時代の海軍の有り様に思考を呪縛されることは、弊害が多いのである。

戦後半世紀、われわれが「南洋」との関わりの中で反省すべきは、繰り返しになるけれども、「南洋」が我が国の統治を離れた後、我が国が「南洋」への関心を一挙に失ったことである。宗主国と植民地という些か評判の芳しくない図式を持ち出すならば、「南洋」の宗主国であった我が国は、戦後、旧植民地であった「南洋」に対する関与を総じて手控えてきたのである。無論、このことには、戦後の「南洋」が米国の統治下にあり、我が国としても「南洋」の事情に容喙することに躊躇せざるを得なかったという事情も反映されていよう。しかしながら、現在、たとえば英国がインドに対して、あるいはフランスが旧領アフリカ諸国と維持している濃密な関係を前にするとき、我が国は、「『植民地政策』以後の政策」に関して、明確な展望を以て臨んでいなかったといわざるを得ない。戦前と戦後における「南洋」関与の断絶、あるいは落差は、戦前の我が国が「南洋」政策を進めるに際しても、強靱な論理の裏付けを用意し得なかったという事情を暗に物語っているといえよう。

5. 新「南洋」戦略の前提「西太平洋海島諸国会議」構想

ただし、このように、我が国が新「南洋」戦略を遂行するに際しては、次に挙げる重要な前提を踏まえて置くべきであろう。

その前提とは、新「南洋」戦略の策定と遂行が、我が国の排他的な「勢力圏」を確保するという発想の下で行なわれるようなことがあってはならないし、そのような印象を周囲に与えてはならないということである。前に触れたように、「南洋」諸国は、独立を果 たすまでは、戦後一貫して米国の統治の下に置かれてきたし、他の太平洋島嶼諸国と同様に、オーストラリア、ニュージーランドのような地域大国と浅からぬ 関係を築いてきた。我が国が「南洋」への関与を始動させる際には、米国、オーストラリア、ニュージーランドといった国々との協調を絶えず模索する姿勢が、大事になるであろう。というのも、新「南洋」戦略の始動には、第二次世界大戦時の経緯を前にすれば、特にオーストラリアのような国からは警戒や懸念が示されることは、十二分に考えられるからである。第二次世界大戦中、旧日本軍は、パプア・ニューギニアやソロモン諸島に版図を広げる一方、オーストラリア北部に位 置するダーウィンを爆撃したり、シドニーに二隻の特殊潜行艇を潜入させたりした。オーストラリアにとって、日本とは、建国以来の「泰平の夢」を破った最初の「外敵」に他ならかったのである。この事実は、新「南洋」戦略の遂行に際しては、大いに顧慮されるべきであろう。我が国の振る舞いが周囲に対して無用な恐怖心を惹起させない仕掛は、適切に準備して置く必要があるわけである。

ところで、若干、話が逸れるようであるけれども、平成八年四月、橋本龍太郎総理とウイリアム・クリントン米国大統領が「日米安全保障共同宣言」を発表して以降、平成十一年六月の「新・日米防衛協力指針」関連法案成立に至る流れの中で、日米安保体制の実質性を向上させる試みが続けられた。この同盟強化の動きに反対、あるいは対抗する形で提起されたのは、中国やロシアを含むアジア近隣諸国との多国間協力の枠組を構築することを急ぐべきであるという趣旨の議論であった。同盟とは、特定の国々を対処すべき「仮想敵国」として位 置付けることを暗黙の前提している以上、「国家」の持つ露骨な部分が表れやすい。「国家」の意義を軽視する戦後の思潮の中では、「国家」の持つ露骨な部分が赤裸々に語られるのは、歓迎されることではないのであろう。しかし、政策研究大学院大学副学長を務めた佐藤誠三郎教授が遺稿となった論文「『国防』がなぜ『安全保障』になったのか」(『外交フォーラム』一九九九年特別 篇所収)の中で指摘したところによれば、「多国間の枠組も、相互理解を深め、緊張を緩和するためには有益であるが、穏やかな討議と情報交換の場にすぎず、構成国の行為を拘束できるような決定ができるわけではない」のであるし、結局のところは、「同盟を基礎とした集団的自衛体制を超える多国間の有効な安全保障枠組を、人類はまだ見出せていないのである」とのことである。多国間協力の枠組に対して過剰な幻想を抱くことは、確かに弊害が大きいものであろう。

ただし、新「南洋」戦略を遂行する前提として、「南洋」諸国を代表とする「海島国」(islands country) 同士の協力の枠組ならば、我が国は、その樹立と運営に中核的な役割を果 たし得るし、そのように努めるべきなのではなかろうか。前に述べたように、私は、新「南洋」戦略を遂行する際には、「南洋」に対する我が国の安全保障面 での関与も始動させるべきであると考えている。この安全保障面 での関与が利己的な印象を与えるのを避けるためにも、我が国は、「南洋」を取り巻く国々と「相互理解・緊張緩和・穏やかな討議・情報交換」を進める枠組を準備していて然るべきなのである。

その意味から、私は、「西太平洋海島諸国会議」(以下、「海島諸国会議」と略記)とでも呼ぶべき枠組の構築を提案する。「海島諸国会議」では、海賊などへの対処、海上自由航行路の保全といったものから、産業振興、人材の養成、海洋研究の推進、海洋資源の保護や管理、地球温暖化に伴う海面 上昇への対処、海洋汚染の防止に至るまで、西太平洋の「海島国」が直面 する様々な問題を議論するものとする。おそらく、その際の構成国は、パラオ共和国、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国、フィリピン、インドネシア、マレーシア、ブルネイ、パプア・ニューギニア、日本、米国、オーストラリア、ニュージーランドということになるであろう。そして、「海島国」に他ならぬ 台湾は、「海島諸国会議」には、たとえ正式構成国でなくとも、オブザーバーしての然るべき待遇を与えて招くのが、妥当なところであろう。この点、梅棹忠夫国立民族学博物館顧問は、「海と日本文明」(『中央公論』平成十二年一月号所収)と題された論文の中で、文明論の観点から、「西太平洋同経度国家連合」という考え方を提示している。私は、手前味噌ながら、「海島諸国会議」が実際に始動すれば、それは、梅棹顧問の「西太平洋同経度国家連合」の提唱を具体化した枠組として位 置付けられ得るものであろうと考えている。そして、私は、その始動を大いに期待したいと考えている。

無論、私が示した「海島諸国会議」構想には、次のような二つの批判が提起されるであろう。

第一の批判は、中国、ロシア、韓国、ヴェトナムといった国々を排除するような枠組の構築を我が国が主導することは、これらの排除された国々を刺激し、我が国の立場を難しいものにしないかというものであろう。しかし、このような「友達の友達は皆、友達だ」の発想の下、多国間協力の枠組を構築しようとすれば、それは、枠組自体の性格を曖昧にするばかりか、枠組の運営に支障を及ぼすことになる。私の位 置付けでは、「海島諸国会議」は、「海島国」が直面する課題への対応を協議する場であって、そこに「海島国」ならざる中国、ロシアなどの国々を招き得ないのは、当然のことなのである。国情に近似した条件を持つ国々が、限定された課題を巡って議論を行い、意思の疎通 を図ることには、何ら批判されるべきことでもないはずである。

第二の批判は、「南洋」諸国を含む太平洋島嶼諸国が参加する国際枠組としては、前に言及した「南太平洋フォーラム」、即ちSPFが既に結成され、我が国とSPFとの対話も始動しているのであれば、我が国が殊更に「屋上屋を架す」ような真似はする必要もないというものであろう。しかしながら、それぞれの国々は、諸々の枠組が重畳的に組み合わされた中で、適宜、自らの立場を守っていくという流儀が、少なくとも今後の対外関与の有り様としては、比重を高めていくのではなかろうか。たとえば、現在の欧州には、欧州安全保障協力機構、北大西洋条約機構、欧州連合、西欧同盟、欧州・大西洋パートナーシップ理事会といった様々な国際枠組が構築されているけれども、総ての欧州諸国が、このような枠組の総てに加わっているわけでもない。欧州諸国にしてみれば、自らが関わる枠組とは、適宜、自らの利害と関心に基づいて、自らの影響力を反映させる枠組だということなのであろう。とすれば、我が国が自らの身の丈に合った枠組の構築に尽力し、その枠組の運営に責任を持つという機会は、我が国の対外戦略の上でも、絶えず模索されるべきではないであろうか。我が国は、SPFを通 じて「南洋」諸国と向き合う限りは、何時までも「南洋」諸国にとっての「外様」、「客分」でしかなくなる。無論、SPFは、二〇〇〇年から「太平洋島嶼国フォーラム」(Pacific Islands Forum) と名称を変更するようであるから、この名称変更を機に、文字通 りの「太平洋島嶼国」たる我が国も正式構成国として「太平洋島嶼国フォーラム」に加わるのであれば、話は別 である。しかし、そうでないならば、我が国は、自らの関心と利害に適した枠組の模索を意識的に行なうべきである。「海島諸国会議」構想は、そのような模索に関する私の一案なのである。

6. おわりに -沖縄、台湾、そして「南洋」へ

来る二〇〇〇年七月に開催される先進国首脳会議は、沖縄を主な舞台とする。そのことは、我が国にとって、いかなる意味を持つことになるのであろうか。先進国首脳会議の沖縄開催に際しては、嘉手納基地のような米軍基地の存在に象徴される安全保障上の過重な負担、あるいは決して振興しているとはいえない地域経済への配慮が、強調されてはいる。しかしながら、そのような実利的な視点の範囲内に先進国首脳会議の沖縄開催の意義を限定してしまうのは、沖縄という舞台装置の使い方としては、決して賢明なものではない。沖縄を通 じて、どのような「価値」を内外に発信するかということが、考慮されなければならない。

沖縄が本土に復帰して以後、特に本土の人々に沖縄の存在を印象付けた最初の出来事は、復帰三年後の沖縄海洋博覧会の開催であった。この国際博覧会に「海洋」の名が被せられていたことは、我が国にとって沖縄が持つ「価値」を見極める上では、誠に示唆的である。沖縄が「海洋」を通 じて持つ「価値」には、既に指摘した「開放性」と「進取性」が明らかに埋め込まれているからである。そして、沖縄海洋博覧会以降、我が国の対沖縄政策が決して成功してきたといえないのは、この「開放性」と「進取性」という価値を生かし切って来なかったという事情が反映されているのではなかろうか。

事実、沖縄は、琉球王国時代からアジア諸国との経済、文化の交流拠点に位 置していた。琉球王国では、朝鮮や中国沿海部との交流の結果、二千トン級の大型船舶が建造され、沖縄の人々は、特に十四世紀末以降、そのような当時としては世界最先端水準の船舶に乗って、東南アジア地域に交易圏を拡大した。そして、近代以降もまた、沖縄の人々は、海洋を越えて世界に雄飛して行った。明治以降の海外移民の内訳を県単位 で見れば、沖縄の占める位置は決して低くない。「南洋」に関していえば、日本統治時代に当地に渡った邦人の六割は、沖縄出身の人々である。我が国は、明治十二年の琉球処分を機に沖縄を自らに帰属するものとしたことによって、沖縄の体現する「開放性」と「進取性」の価値を自らの「国柄」の中に着実に組み込み直したのではなかったか。今、われわれは、あらためて、そのことの意味を想起しなければならない。

現在、我が国は経済停滞の最中にある。それは、他面 において、諸事に渉って従来通りの流儀を続けたいという願望を捨てきれないことの結果 でもある。しかしながら、我が国の人々は、本質的に旧套墨守を旨とする国民性を持つわけでもない。何時の世にも、幾多の人々が「開放性」と「進取性」を旨として動こうとしているのではなかろうか。目下、われわれが顧慮すべきは、「開放性」と「進取性」の価値を重んじる気風が尊重され、諸々の社会制度が、そのような価値を生かすものとして機能しているかということなのである。

その意味では、どのように、沖縄から台湾を経て「南洋」へと続く「海上の道」の意義を我が国の今後の国際戦略の中で位 置付けるかということは、来世紀の我が国の道程を展望する上では最も重要な課題になるであろう。私は、あえていえば、この「海上の道」こそが、我が国の新たな「生命線」と位 置付けられるものではないかと考えている。昭和初期、我が国が中国大陸の向こうにある「満蒙」を「生命線」と設定したのは、我が国の「国柄」に照らし合わせて、無理の伴わないものであったとはいえないであろう。けれども、私は、「南洋」に至る「海上の道」を「生命線」と設定することは、理に合ったものではないかと考えている。我が国が国際戦略を遂行する上で死活的な利害を持っているのは、どのような海域なり地域なりであり、大事にしなければならないのは、どのような価値なのか。そのようなことを見極めるためには、今では時代錯誤の趣きさえある「生命線」の発想それ自体は、決して無意味なものではないはずである。少なくとも、従来のように「国連中心主義」、「非核三原則」といった標語を無邪気に振り回しているよりは、沖縄から台湾を経て「南洋」に至る「生命線」を保全するという姿勢を明確にする方が、我が国の対外関与の方針を打ち出す有り様としては、遼かに成熟したものであろう。そして、我が国は、自らの国際社会における責任の一環として、その「成熟」をこそ示すべきなのであろう。

付記、平成十一年十二月十八日付読売新聞夕刊によれば、我が国政府は、沖縄サミット直前に太平洋島嶼諸国首脳を宮崎に招き、「太平洋・島サミット」を開催する方針とのことである。このことは、我が国が戦後初めて太平洋島嶼諸国に対する関心を明確な国家意志として示したという点において、画期的なことである。この上は、我が国にとっては、「太平洋・島サミット」を確実に成功させるとともに、このサミットを一過性の催事ではなく恒常的な国際枠組に発展させ定着を図ることが、極めて重要な課題になるであろう。

※雑誌「諸君」2000年3月号に掲載されたものを著者の許可を得て転載しました。(やしの実大学事務局)
[櫻田淳講師の特別 講座](2001年3月)
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