太平洋島諸国・国際政治講座

櫻田淳講師の特別 講座

- 評論家・慶應義塾大学講師 櫻田 淳 -
小渕恵三「未完の構想」
1. はじめに

去る四月二十二日、我が国政府は、SPF(南太平洋フォーラム)に加盟する太平洋島嶼諸国十六カ国(内、クック、ニウエの二国については、我が国は未承認)首脳を宮崎に招き、「太平洋・島サミット」(PALM2000、第二回日本・SPF首脳会議)を開催した。我が国政府は、平成九年十月の東京での第一回会議に引き続き、SPF加盟諸国首脳との意見交換の場を自ら設定したのである。

そして、「太平洋・島サミット」から三ヵ月後、七月二十一日から二十三日にかけての三日間、我が国は、主要八カ国の首脳を沖縄県名護市に招き、「沖縄サミット」を開催した。無論、「沖縄サミット」は、福岡における蔵相会合、宮崎における外相会合を受けての一続きのものであるから、公式には「九州・沖縄サミット」と呼称されている。しかし、沖縄は、戦中は我が国では唯一の地上戦の舞台となり、戦後は一貫して米国の極東戦略の拠点であったという意味において、我が国では最も大々的に国際政治の荒波を被ってきた土地柄である。この沖縄の来歴を前にすれば、今夏の主要八カ国首脳会議が「九州・沖縄サミット」ではなく「沖縄サミット」と位 置付けられるべきであるのは、当然のことであろう。この点、「沖縄」と「九州」は、同列に扱うわけにはいかないのである。

ところで、私は、本誌平成十二年三月号において、「新『南洋』戦略論」と題された論稿を発表し、パラオ共和国、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国といった旧「南洋」諸国との提携を加速させることを提起した。そして、私は、「沖縄サミット」の開催を念頭に置き、沖縄から台湾を経て「南洋」に至るラインが、来世紀における我が国の新たな「生命線」と位 置付けられるものであろうと指摘した。この私の持論からすれば、「太平洋・島サミット」や「沖縄サミット」は、来世紀の我が国の「生命線」の確定に向けて、我が国が具体的な動きを始めた証とされるはずのものであった。私は、重大な関心を以て、「太平洋・島サミット」や「沖縄サミット」における議論を注視していたのである。

果たして、我が国は、新たな「生命線」を確定するための確かな第一歩を踏み出すことができたであろうか。

2. 二つの「祭」は何を残したか。

「太平洋・島サミット」と「沖縄サミット」という二つの「祭」は、一体、何を残したのであろうか。

「太平洋・島サミット」に際しては、「宮崎宣言」と「太平洋環境声明」という二つの文書が発表された。しかし、「太平洋・島サミット」が生んだ最大の成果 は、太平洋島嶼諸国への関心が、マス・メディアを通じて然るべく示されたことである。三年前の「第一回日本・SPF首脳会議」の折と比べれば、太平洋島嶼国との関係に示された関心の差は、歴然としているのである。事実、会議前日のNHK報道番組「NEWS10」では、クニオ・ナカムラSPF議長(パラオ共和国大統領)のインタビューがあり、会議当日の共同記者会見は、午後五時半からNHKがリアル・タイムで放送していた。また。会議の意義は、会議開催前後の三日間、全国紙六紙の総ての「社説」で取り上げられて論評された。以下、各紙社説から抜き出したものを列挙することにする。

「同じ海洋国家として、日本は二十一世紀の太平洋地域の平和と繁栄に貢献していく責務がある。その努力を惜しんではなるまい」(朝日新聞/四月二十二日付)「これからは『太平洋外交』を、『シルクロード外交』と並ぶ新たな外交の基軸に据えてほしい。戦略的重要さを考えれば、『太平洋外交』の展開は、むしろ遅すぎたと言えるくらいだ」(毎日新聞/四月二十三日付)「これら小さな島国の声に耳を傾けようとする日本の姿勢は歓迎されよう。それを形だけに終わらせず、内実を伴ったものにすることが大事だ」(読売新聞/四月二十二日付)「しかも日本も一員である太平洋という広大な海のフロンティアを念頭に置くとき、島サミットは日本外交に、海洋国家としての新たな魅力を加味する可能性を秘めているとも言えるのではないか」(産経新聞/四月二十一日付)「アジア太平洋のバランスある成長、ひいては地域の安定のためにも日本がフロンティア外交と位 置付けて南太平洋への支援に力を入れるのは時宜を得ている」(日本経済新聞/四月二十三日付)「森首相には、その声を七月の主要国首脳会議(沖縄サミット)に届ける責任がある。海洋や環境は地球全体にとってのフロンティアであり、小さな国の声には人類の未来が宿っているかもしれないのだから」(東京新聞/四月二十一日付)。

このように、太平洋島嶼諸国と良好な関係を築く意義については、日頃、諸々の問題を巡って対立することの多い各紙論調に「常識」、あるいは「共通 了解」と呼び得るものが出来上がっていたということである。そして、「太平洋島嶼諸国との関係が大事だ」という「共通 了解」(commonsense)が我が国国内に根付き始めたことにこそ、「太平洋・島サミット」の「真の成果 」があるのであろう。

翻って、私には、「沖縄サミット」に際しては、何か積極的なものが生み出されたと断じることができない。外務省ウェブ・サイト上の資料によれば、「沖縄サミット」首脳会合に際して、「G8コミュニケ・沖縄2000」、「グローバルな情報社会に関する沖縄憲章」(沖縄IT憲章)、「地域情勢に関するG8声明」、「朝鮮半島に関するG8声明」、「G7首脳声明」という五つの公式文書が発表された。しかし、これらの文書は、総じて網羅的な文書であって、後でも延べるように、別 段、沖縄でなければ出来上がらなかったというものではない。また、沖縄に参集した日本を除く他の七カ国首脳及び政府関係者、あるいは各国の報道関係者には、「何故、2000年の主要国首脳会議は、沖縄で開かれなければならなかったか」ということが、十分に伝わったであろうか。これもまた、疑問なしとしない。結果 として、「沖縄サミット」の光景として世に伝わったのは、「平和の礎」で演説するウィリアム・クリントン米国大統領の姿、あるいは歓迎リセプションで「NEVER END」を歌う安室奈美恵の姿ということになる。この点、私は、「沖縄サミット」には、「失敗しなかった会議」、あるいは「無難に過ごした会議」というほどの評価しか与えることができない。

少なくとも、当初の位置付けでは、「太平洋・島サミット」は「前座」であり、「沖縄サミット」が「真打」であった。外務省が作成したパンフレット「共に語る未来–太平洋・島サミット」には、「G8議長国であるわが国が『太平洋・島サミット』参加国の声に耳を傾けることを通 じて、九州・沖縄サミットの成功の一助ともなるでしょう」と記されている。私は、「太平洋・島サミット」と「沖縄サミット」における扱いの格差には必ずしも同意しなかったけれども、そのような格差は、「太平洋・島サミット」が「小国の会合」であり「沖縄サミット」が「大国の会合」である限りは、自明のこととして受け止められたのであろう。しかし、それにもかかわらず、我が国の今後を展望する上で、多くのものを生んだのは、私の見るところでは、明らかに「小国の会合」である「前座」の方であった。何故、このようなことになったのであろうか。

3. 小渕恵三の「未完の構想」を巡って

人間の歴史は、「こんなはずではなかった_」という人々の慨嘆の葬列である。誰もが、自らの意図した通 りの結果を手にすることはできない。歴史を考える際に、「もしも_であれば」の言辞を持ち込むことが戒められるのは、「意図」と「結果 」が乖離するものであるからである。人々は、諸々の偶然が連続する最中で、何らかの必然の「結果 」を手にしようという「意図」を傍らにしながら、様々な行動に及ぶ。しかし、そのような行動は、必ずしも、人々が手にしたいと願った「結果 」を生むわけではない。そうであればこそ、人々は幾度となく、「こんなはずではなかった_」という慨嘆を漏らす。その意味では、「こんなはずではなかった_」という言葉は、最も人間的な感情が込められた言葉なのであろう。

西暦2000年の日本が関わった二つの「祭」の顛末を前にするとき、私は、この「こんなはずではなかった_」という慨嘆を二重の意味で思い起こす。「太平洋・島サミット」から「沖縄サミット」に至る対外政策の論理は、結果 としては曖昧なものにしかならなかったけれども、その曖昧さを生んだものこそ、「こんなはずではなかった_」の慨嘆に他ならなかったのである。

先ず、小渕恵三前総理にとっての意味である。「太平洋・島サミット」の開催も主要八カ国首脳会議の沖縄開催も、小渕前総理の熱意なくして実現し得なかったものである。この小渕前総理の熱意は、何によって支えられていたのか。小渕前総理が自らの施政方針を表すものとして用いていたのが、「富国有徳」の言葉であり、それが川勝平太・国際日本文化研究センター教授の著書『富国有徳論』に因んだのは、知られた事実である。しかし、私が推測するところでは、小渕前総理は、川勝教授の議論からは、国家運営方針としての「富国有徳」論だけではなく、対外政策方針としての「西太平洋津々浦々連合」論にも、相当な程度まで影響を受けていたのではなかろうか。川勝教授の著書『文明の海へ』には、「沖縄は、西太平洋文明の要である」という記述があり、一九九四年に沖縄県で第一回国際島嶼学会が開催されたという事実が紹介されている。小渕前総理は、外務大臣就任直前から、中央アジア諸国に着目した「シルクロード外交」を展開していたけれども、その着想に影響を与え続けていたのが、小渕前総理にとっては稲門の後輩であった故・秋野豊氏(当時、筑波大学助教授)であったのは、つとに知られた事実である。そうであればこそ、同じように、小渕前総理は、総理就任以降、秋野氏と同様に稲門の同窓である川勝教授の議論に影響を受ける形で、「陸の外交」としての「シルクロード外交」に続く「海の外交」を構想していたと考えるのは、無理なことではではないのではなかろうか。

無論、このような私の推測には、「所詮は推測に過ぎない」と一笑に付す向きもあるかもしれない。「人柄の小渕」、「鈍牛」、「真空総理」といった小渕前総理への形容は、小渕前総理が自ら何事かを為そうとする意志を明確に示す類の政治家ではないという印象を世に広めていた。しかしながら、太平洋島嶼諸国、あるいは沖縄への適切な関心に裏付けられていなければ、小渕前総理にとっては、わざわざ、第一回目の開催時には世の関心を全く引かなかった「日本・SPF諸国首脳会議」を「太平洋・島サミット」の名で衣更えを図り、外務当局の異論を抑え込む形で主要国首脳会議の沖縄開催に踏み切るというのは、決して必然性を伴った決断ではなかったはずである。事実、三年前、平成九年十月に開催された「第一回日本・SPF諸国首脳会議」は、再三述べたように世の関心を引かなかったのみならず、我が国政府も気合を入れて臨んでいたようには見えない。外務省の資料によれば、「第一回日本・SPF首脳会議」に際しては、議長として会議の議論を仕切ったのは、当時の高村正彦外務政務次官であり、主催国たる我が国の首脳である橋本龍太郎総理(当時)の基調発言は、高村政務次官が代読する形で済まされていたのである。無論、戦後、我が国が太平洋島嶼諸国に払ってきた関心が総じて低いものであったことを踏まえれば、「日本・SPF首脳会議」という枠組を設けたこと自体は意義深いことであったけれども、会議自体には然程の精力が注がれたわけではなかったのである。然るに、小渕前総理は、紛れもなく「日本・SPF首脳会議」を名実ともに備わった首脳同士の協議の場に変貌せしめようとした。私の聞くところでは、「太平洋・島サミット」開催直前、小渕前総理から森喜朗総理への政権移譲に伴う混乱の中で、「森新総理には本当に議事を仕切って頂けるのか_」と心配する声が外務省内にはあったとのことである。このことは、「太平洋・島サミット」が外務大臣や外務政務次官の仕事ではなく総理大臣の仕事と位 置付けられていた事情を物語っている。そこには、小渕前総理の意志が反映されていたと見るべきであろう。

このように考えれば、小渕恵三という宰相は、自前の構想を持って対外政策に臨んでいたのではなかろうか。大雑把にいえば、「前例を踏襲する」のが官僚の職分であり、「前例を作る」のが政治家の職分であるとすれば、小渕前総理は、自前の構想の下、確かに「前例を作った」からである。惜しむらくは、小渕前総理は、自らの構想を実現する作業に手を付けた矢先に鬼籍に入ったということである。前にも触れたように、小渕前総理は、外相在任時以降、中央アジア諸国に着目した「シルクロード外交」を展開し、それに加えた別 の外交基軸としての「太平洋外交」を構想していたかもしれないけれども、それは、「未完の構想」に終らざるを得なかった。その意味では、小渕前総理の逝去は、小渕前総理自身にとっては無論、我が国の外交にとっても、「こんなはずではなかった_」事柄に違いなかったのである。

次に、森喜朗現総理にとっての意味である。森総理への政権移譲は、率直にいえば急転直下の出来事であった。無論、政治家とは、すべからく宰相の座を望むべき存在であるから、森総理が自ら政権を担当することになった暁のことを考えていなかったはずはない。しかし、森総理にとっての「こんなはずではなかった_」は、表面 上は、紛れもなく急遽、政権を継承し、小渕前総理の代役として政権運営を始動せざるを得なかったことにある。森総理が青木幹雄官房長官以下、小渕内閣下の総ての閣僚を留任させて政権を発足させたことは、その事情を物語っていよう。そのことは、森総理に対しては、「沖縄サミット」に至る小渕前総理の対外政策「構想」を実現させる役割をも、継承させる意味合いを持っていたのである。ただし、森総理は、自民党幹事長として小渕政権下の政治運営を裏方として支えた人物である。私は、政権継承に際して、「この時期に、何故、『太平洋・島サミット』が開かれなければならないか」、あるいは「何故、わざわざ沖縄で主要八カ国首脳会議を開くのか」ということの「諒解」もが首尾良く継承されたとは考えない。そして、この「諒解」が確実に継承されなかったことが、「太平洋・島サミット」から「沖縄サミット」に至る対外政策の論理を曖昧なものにしたのではなかったか。前に触れたように、「沖縄サミット」首脳会合に際しては、「G8コミュニケ・沖縄2000」を初めとする五つの公式文書が発表されたけれども、これらの文書は、別 段、わざわざ沖縄という舞台の上を選ばなければ出来上がらなかったという類のものではない。「沖縄サミット」に際しては、ウィリアム・クリントン米国大統領の「平和の礎」訪問、あるいはG8首脳を迎えた歓迎行事といった付属行事において、我が国は、沖縄の「独自性」を打ち出すことができたかもしれないけれども、本来の「会議」に際して、その「独自性」を示すには至らなかったのである。また、「沖縄サミット」の開催後、実に八百億円に上る開催費用が、批判の槍玉 に上がった。私は、小渕前総理ならば、どのように八百億円という開催費用の意味を説明したであろうかと考える。多分、小渕前総理は、「これは、一過性の催事を開催するための費用ではなく、沖縄を新たな対外拠点にするための投資である。それを考慮すれば、八百億円は決して法外な金額ではない」とでも説明したのではないか。しかし、このような政策の「構想」は、それが個人の頭脳の中で組み立てられるに留まるとともに、政治指導層の中で共通 の「諒解」として定着していなければ、実際の実現に際して曖昧さや歪みを生じることになるのである。その点、森総理にとっては、「太平洋・島サミット」と「沖縄サミット」の何れも、他人の土俵で取った相撲に他ならなかったのではなかったか。たとえ、「沖縄サミット」首脳会合に際して「グローバルな情報社会に関する沖縄憲章」(沖縄IT憲章)が採択されたことによって、森総理が、「情報社会への対応」を自らの政策の「独自性」として打ち出す端緒を手にしていたとしてもである。そして、このことこそが、森総理にとっての「こんなはずではなかった_」に他ならかったのであろう。

我が国では、「官僚主導」という言葉は、我が国における諸々の政策の立案と遂行の実態、広くいえば政治や行政の風景を表すものとして自明のものとして使われてきた。この「官僚主導」が好ましくないという観点から、従来、様々な模索が続けられてきた。来年の中央省庁再編に併せて行なわれる副大臣・政務官制度の導入は、そのような模索の果 実と呼ぶべきものであろう。しかし、副大臣や政務官のような制度的な裏付けが出来上がったとしても、自前の政策構想を持たない政治家には、諸々の政策を立案し遂行するというのは、本当のところは覚束ない。逆にいえば、宰相のような地位 にある政治家が、施政に際して一定の構想を準備していれば、物事は然るべく動くものなのである。諸々の政策の「骨格」を示すのが政治家の役割であるとすれば、政策の「肉付け」を行うのが官僚の役割である。その点、小渕前総理の「未完の構想」は、小渕前総理の退陣後、政策の「骨格」の意味が周囲には十分に理解されないまま、「肉付け」だけが急いで行なわれたのではなかろうか。

4. 二つの「祭」の後の課題

もっとも、以上の議論にもかかわらず、我が国には、色々と手掛けるべき課題は、山積している。「太平洋・島サミット」と「沖縄サミット」という二つの「祭」の運営には、外務当局を中心とする幾多の人々の尽力があり、私は、そうした人々の労を多とする。けれども、何よりも大事なことは、「祭」が終った後に何を具体的に進めるかということなのである。私は、「太平洋・島サミット」と「沖縄サミット」のそれぞれに即して、以下の二点を指摘することにしよう。

先ず、「太平洋・島サミット」に際して、既に触れた「宮崎宣言」と「太平洋環境声明」という二つの文書が発表された他、我が国は、「太平洋フロンティア外交」の名の下に、太平洋島嶼諸国に対する政策方針として「宮崎イニシアティブ」を発表した。私は、率直にいえば、「太平洋・島サミット」、即ち「日本・SPF首脳会議」という枠組のみを介して太平洋島嶼諸国に関わることには若干の違和感を禁じ得ない。SPFという枠組にオーストラリアやニュージーランドといった国々の影響力が既に強く及んでいる現状を前にすれば、我が国は、SPFを介して太平洋島嶼諸国と向き合う限りは、これらの国々にとっては、「外部の有力友好国」の域に止まらざるを得ない。その意味では、我が国の中長期的な課題として、私が拙稿「新『南洋』戦略論」でも提案したように、旧「南洋」諸国と東南アジア多島海諸国とを併せる形で、「西太平洋海島諸国会議」とでも呼ぶべき枠組を構築し、その枠組を主導的に切り回すことが、模索されなければならない。しかし、我が国は、当面 の対応として、既存の「日本・SPF首脳会議」の枠組を誠実に運営し続けるべきである。それは、我が国にとっては、主要国首脳会議に際して往々にして垣間見られるような肩に力の入った対応が暗示するように、多国間首脳会議の運営に不慣れであるという現状を克服するという意味からも、大事な作業なのである。そして、我が国は、折角、「太平洋フロンティア外交」という新たな対外政策概念を打ち出したのであるから、それを地道に具体化させていく必要がある。

一案としては、政府開発援助の一環として、我が国が数基の通 信衛星を打ち上げ、地上の関連施設も含めて太平洋島嶼諸国に供与するというのは、「太平洋・島サミット」と「沖縄サミット」の双方で議論の対象となった「デジタル・デヴァイド」(情報格差)に対応する意味からも、有意義な仕掛ではなかろうか。当然、これには、必要な人材の育成も含まれるものとする。現に、我が国の宇宙開発事業は、度重なるH2型ロケットの打ち上げ失敗などによって停滞している感が否めないのであれば、この「パシフィック・サテライト・プロジェクト」とでも呼ぶべき事業は、太平洋島嶼諸国との提携も然ることながら、我が国の宇宙開発の現状に刺激を与えるものとしても作用しよう。無論、これを実際に始動させるためには、単純に思い付くだけでも外務、郵政、通 産、文部、科学技術といった諸省庁が、所掌の垣根を越えて関わることになるけれども、それは、太平洋島嶼諸国との関係の持つ意義を前にすれば、是非とも推し進めるべき施策であろう。

加えて、このような太平洋島嶼諸国との提携を加速させるためにも、我が国は、多彩 に提携の「拠点」を用意しておく必要がある。「太平洋・島サミット」以降、我が国の人々にも知られるようになったのは、太平洋島嶼諸国に中には、その長閑で平和的なイメージにもかかわらず、相当に複雑な内情を抱えている国々があるということである。この数ヵ月だけでも、SPF事務局が設置され、我が国の対太平洋島嶼諸国政策の主要な「拠点」であるフィジー共和国において、民族対立を背景に持つ反政府勢力による議会占拠事件が、起こっている。また、ソロモン諸島でも、反政府武装勢力が首相を拘束し、首相が辞意を表明するといった事件が、起こっている。このような複雑な内情を持つ国々を前にして、我が国が対外政策上の「拠点」としての機能を二、三の特定の国々に過剰に依存し続けることの危うさは、適切に検証されるべきであろう。その意味では、私が拙稿「新『南洋』戦略論」でも提案したように、パラオ共和国に特命全権大使を駐在させ、太平洋島嶼諸国に対する関与の新たな「拠点」にすることは、早々に行なわれなければなるまい。「太平洋・島サミット」に際して、太平洋島嶼諸国に対する世の関心が高まったことには、クニオ・ナカムラSPF議長の存在が大きく与っているけれども、我が国としても、一般 国民の中に芽吹き始めた「親和性」の気運を大事にしつつ実際の政策を遂行していくべきであろう。我が国にとって、太平洋島嶼諸国の総てと良好な関係を築く意義は、否定しようがないけれども、実際の関与に幾分かの濃淡の差が生じるのは避けられない。そして、むしろ、そのような濃淡の差を自覚的に付ける戦略的な感覚こそ、我が国には大事なものであろう。

次に、我が国は、「沖縄サミット」に際して沖縄を国際政治の舞台に押し出したのであるから、今後の対外政策の展開の中で、どのように沖縄を位 置付けるかについて、一定の方針を用意しておく必要がある。というのも、沖縄の本土復帰後、我が国が設けた官庁が沖縄開発庁であったことに象徴的に示されているように、永田町や霞が関に象徴される中央の立場からすれば、沖縄は結局は「開発」の対象でしかなく、どのように沖縄が沖縄として持つ「価値」や「特質」を生かすかは、考慮の外にあったからである。しかし、沖縄が持つ「価値」や「特質」を表すものとして「万国津梁」の言葉があるのであれば、今後、われわれが考えなければならないのは、どのように、「万国津梁」に相応しい政策上の枠組を沖縄に付与するかということである。この点、「太平洋・島サミット」における議論を具体化させるものとして、去る七月八日、琉球大学を舞台に「太平洋・学長サミット」が開かれ、太平洋島嶼諸国の高等教育機関の代表と技術交流や人材養成の有り様を巡って意見交換が行なわれたことは、「万国津梁」としての沖縄の「価値」や「特質」の生かし方に一定の方向付けを示したものと見るべきであろう。私が拙稿「新『南洋』戦略論」でも提案したように、沖縄から台湾を経て「南洋」に至るラインが我が国の新たな「生命線」になるとすれば、沖縄こそは、その「生命線」の起点になるものであるからである。この際、我が国としては、学術交流、技術交流、人材養成といった観点だけでなく、経済、文化といった様々な「人々の活動」の観点から、沖縄の「万国津梁」としての実質性を支えるための制度上の仕組は、今後は多彩 に用意していくべきであろう。たとえば、沖縄を舞台にして国際的な芸術祭を毎年、開催するといったことは、そのような仕組の具体例として、一考に値しよう。

無論、現在の沖縄が抱える最たる問題が在沖米軍基地を巡るものであるのは、いうまでもない。しかし、沖縄に集中する安全保障上の負担は、我が国が集団的自衛権の行使を許容し有事法制を策定することを通 じて、米国の「同盟国」としての構えを成せば、相当な程度まで軽減されるはずのものである。しかも、今秋の大統領選挙以後の動向に依っては、「日本が自立した同盟国として振る舞えるようになれば、米国が沖縄に軍隊を駐留させておく必要がない」という議論は、米国国内でも勢いを増すことになるであろう。沖縄県民の中には、「在沖米軍基地がなくならない限り、沖縄の『戦後』は終らない」と指摘する声がある。私は、当面 、在沖米軍基地を総て廃するということが現実に可能かはともかく、沖縄の「戦後」は早々に終らせなければならないと考えている。沖縄を語る際に、沖縄戦の記憶や在沖米軍基地に象徴される安全保障上の負担ばかりが議論の対象とされ続けるのは、沖縄にとっては不幸なことであるばかりか我が国全体にとっても決して利益にはならないからである。その点、少なくとも、従来、我が国の世論の一部に見られたように、安全保障上の負担の軽減を求める「沖縄の声」に便乗して、自らの安全保障上の怠惰を正当化するが如き振る舞いは、今後は差し控えるべきである。そのような振る舞いは、沖縄戦の記憶や在沖米軍基地の存在を前面 に出した「戦後」の思潮上の呪縛を強めこそすれ、決して弱めることにはならないからである。そして、沖縄の「戦後」を終らせることができるのは、紛れもなく、「万国津梁」としての沖縄の「価値」や「特質」を生かそうとする我が国の国家としての「意志」なのである。

このように考えるならば、「太平洋・島サミット」と「沖縄サミット」という二つの「祭」が焙り出したのは、今後の我が国において自前の対外戦略を構想するための仕組が大事だという極めて平凡な事実である。この平凡な事実を平凡なものとして放置し続けることには、もはや積極的な意義などあろうはずもない。われわれは、自前の対外戦略を立案し遂行することに際し、従来以上に貪欲に振る舞って然るべきなのである。

5. おわりに

二つの「祭」は終った。しかし、「太平洋・島サミット」の結果 、「日本・SPF諸国首脳会議」は、今後、定期的に開かれることになった。我が国は、二、三年後、太平洋島嶼諸国首脳を再び迎えることになる。また、主要八カ国首脳会議もまた、現行の枠組が続けば、八年後に我が国が開催の任を引き受けることになる。西暦2000年の日本が関わった二つの「祭」は、幕を閉じたかもしれないけれども、同じ「祭」は、少なくとも八年を目処に再び開かれることになる。その際、われわれが次の「祭」に対応するためには、「日本にとって、太平洋島嶼諸国との関係は、どのようなものか」、「日本は主要八カ国首脳会議という枠組に拠って何をしようとするのか」といった点に関して、明瞭な論理が用意されていなければならないのである。

そして、このような論理は、特定の政治家の個人的な「着想」として納得されるものではなく、統治層、あるいは広く国民一般 の「常識」として定着するものでなければならない。

凡そ、一国の対外政策を貫く論理は、国家の「統治」に携わる人々の「常識」としての色彩 を持つとともに、父親(母親)から息子(娘)、師匠から弟子、あるいは先輩から後輩へと相伝される諸々の作法や流儀と相似た性格を持つものである。たとえば、英国にとっては、欧州大陸対岸の低地地方と呼ばれた地域の保全は、久しい間、対外政策遂行上の前提であったし、米国にとっては、「自由と民主主義」の理念は、対外政策を展開する上での裏付けであった。湾岸戦争時、当時のジョージ・ブッシュ米国大統領が派兵の理由として「何故ならば、われわれがアメリカだからだ」と語った際、「自由と民主主義」の理念は、確かに米国の対外政策を裏付けるものとして意識されていたのであろう。そして、少なくとも、その対外政策の論理は、国内で政権の移譲や交代が行なわれても、変更されることがなかった。繰り返しになるけれども、対外政策の論理は、統治の「常識」として政治的な立場を越えて共有され、世代を越えて相伝されるべきものであって、国内政治の当座の動きや世の雰囲気といったものに左右されるべきものではない。「民主主義の母国」と称される英国において、外交や対外政策の遂行が民主的な統制の及ばない領域にあるものとされてきたのは、その事情を物語っていよう。この点、戦後の我が国では、「日米安保堅持か非同盟中立か」といった議論に象徴されるように、対外政策の議論は、観念の上で極端な分裂を示してきた。そのことによって、対外政策に関わる「常識」の形成が図られなかったのは、我が国の現状を前にすれば、誠に損失の大きいものではなかったか。現在でも、去る六月の総選挙で初当選を果 たした幾多の議員の中に、「非武装中立が理想である」などと公言する若手女性議員が依然として混じっている事実を前にすれば、私は、そのような損失を埋めていく道程が険しいものであるとの感慨を抱かざるを得ない。

「冷戦の終結」以後、十余年の星霜が巡った今、我が国に何よりも必要とされているのは、後世に対して相伝していくに値する対外政策の「常識」である。そのような対外政策の「常識」を形成していくためにも、今後、暫くの間、対外戦略に関する諸々の案は、朝野を挙げて多彩 に提出されるべきであろう。今は、観念論としてではなく具体論として、対外政策を論ずる時節であろうからである。

※雑誌「諸君」2000年11月号に掲載されたものを著者の許可を得て転載しました。(やしの実大学事務局)
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