太平洋島諸国・国際政治講座

[特別講座] 松島泰勝講師の特別講座

[第2回講座] ミクロネシアとアジア
はじめに

ミクロネシアとアジアとは地理的に近接しており、歴史に記録される前から人々は海流に乗りそれぞれの間を行き来して何らかの関係を有していたものと思われる。しかし、1521年にマゼランがグアムを「発見」して後に、西欧諸国の支配下にミクロネシアが置かれるようになり、政治経済的に西欧諸国の影響を強く受けるようになった。

このような歴史の流れの中で、ミクロネシアとアジアとの政治経済的関係が形成されたのは、第一次世界大戦後に日本がミクロネシアを南洋群島として委任統治領とした頃からである。同時代においては製糖業、リン鉱石業を初めとした産業が発展し、域外からの補助金に依存することなく、経済自立を実現した。

しかし、第二次世界大戦後にはミクロネシアはアメリカの戦略的信託統治領となり、域外との交流が制限され、経済が停滞した。同時代のミクロネシアと、米軍の統治下にあった沖縄では、統治政策上の類似性があり、米国は、ミクロネシアと、アジアの一角である沖縄とを政治的、軍事的に同一の枠組みの中で認識していたといえる。

アジアとの経済的関係が復活してくるのは、アメリカがミクロネシアへの外資の進出を認めるようになった1960年代の終わり頃である。1980年代以降のアジア経済の飛躍的成長の勢いはアジア経済圏を越えて、ミクロネシアを初めとする太平洋島嶼をも巻き込み始めた。アジア経済との関係が深い島嶼ほどアジア経済の景気の上昇とともに停滞をも経験するようになり、同一の経済変動を示している。

グアム、北マリアナ諸島は米国領の最西端であり、アジアはこれらの島々を通 して米国と接することになる。一方、米国にしてもグアム、北マリアナ諸島をアジア諸国との接点としている。米国はミクロネシア諸国とコンパクト(自由連合盟約、Compact of Free Association)を結び、同地域における軍事戦略上の権利を有しているという意味で、ミクロネシアは安全保障上、重要な位置にあるといえよう。

米国は安全保障上の利益をミクロネシアに見出し、コンパクト資金(盟約に規定された米による援助金)による援助を行っている。軍事戦略的に米国の影響下にあるミクロネシアは、民間の経済活動の面からみると、アジア地域の企業、観光客、労働者による経済的影響が目覚ましい。ミクロネシア諸国はコンパクトに基づいた、軍事的権利の付与と援助金の授与という関係により、政治力学的には米国の方に引き寄せられている。他方、経済力学的には、アジアからのヒト・モノ・カネを通 じてミクロネシアはアジアの経済圏と関係を有するようになり、アジアの方に引き寄せられている。

本論では以上のような観点からミクロネシアとアジアとの関係について論じて行く。ミクロネシアとアジアとの関係に関する注目すべき論考としては次のような著作を挙げることができる。例えば、矢内原忠雄の『南洋群島の研究』やマーク・ピーティのNan'yoは委任統治領時代のミクロネシアの政治経済や社会が分析されている。また、フランシス・ヘゼルのStrangers in Their Own Land は委任統治領時代とともに戦後の米国の信託統治領時代のミクロネシアにおいて展開された大国による支配がどのような実態であったかについて論じている。

以上の論考は主にミクロネシアに対して日本、米国が与えた政治的、経済的、社会的な影響に分析に重点が置かれていた。本論ではミクロネシアとアジアとがどのように政治的、軍事的に同一の枠組みで認識されてきたのか、また、アジア経済圏にミクロネシア経済が統合され、切断され、そして、再統合されるという歴史的な変遷過程がどのようなものであり、アジア経済との統合化がどのような意味をもつのかという問題意識でミクロネシアとアジアとの関係について検討してみたい。

1.日本の委任統治領時代のミクロネシア

日本とミクロネシアとの政治経済的関係
ミクロネシアとアジアとの関係はスペインのガレオン船がアカプルコから銀を中国に運び、中国からは絹、漆器等を運んだ際にグアムが中継地となった時点にまでに遡ることができる。ミクロネシアにアジアの人々の経済拠点が設置されたのは近代においてである。例えば、パラオにおける日本企業の商業活動は、行進社が1891年にパラオを調査したことに始まる。同社は、マラカル島に支店を開設し、93年には、同支店の前に日本国旗を掲げた。その後、日本企業がパラオにおける貿易を独占するまでに成長した(1)。

1899年にドイツはスペインからパラオを買い取ったが、ドイツ時代に力が注がれた事業は、リン鉱石の開発である。1903年にドイツの探検家によりアンガウル島が発見され、9年より採掘が始まった。ドイツの銀行と他の企業がドイツ南洋リン鉱会社を設立し、アンガウル島の採掘権を手に入れた。ドイツ政府は9人の首長に1、200マルクを支払い、島全体を買い取るとともに、150人の島民を他の小島に移住させた。会社は香港から800人の労働者を連れてきた。また、ヤップ島をはじめとするカロリン諸島から220人の労働者を来島させ、さらに、80人のパラオ人を働かせた。アンガウル島の1911年におけるリン鉱石の輸出額は1.25百万マルクにのぼった(2)。

第一次世界大戦でドイツが敗北して後、1914年に日本海軍がミクロネシアを占領し、17年には日英連合秘密協定により日本が地中海に艦隊を派遣する代わりに、イギリスは赤道以北のミクロネシアを日本領とすることを承認し、その後、ロシア、フランスの了解を得た(3)。パリ講和会議によって旧ドイツ領ミクロネシアはC式委任統治領となり、日本は受任国となった。それと前後して日本のミクロネシア統治時代は軍政期と、南洋庁が設立された22年以降の南洋庁期に分けることができる。なお、当時のミクロネシア委任統治領は、日本政府により南洋群島と呼ばれた。

当時、トラック島(現在のチュウーク島)に海軍本部が設置されたが、南洋庁の設立にともない、本部はパラオに移された。トラック島は船の停泊に便利であったが、パラオはアジア地域や日本からの距離が近いことが移転の決め手となった(4)。アジア諸国からパラオが近いという地理的有利性は、戦後においても米軍の基地建設計画、日本のスーパーポート構想等を生み出す要因になり、今日の観光業発達の要因の1つになっている。

第二次世界大戦中にパラオは中部太平洋における重要な補給基地となったが、南洋群島の戦略的な価値を認めていたのは日本だけでなく、米国もそうであった。南洋群島が日本の委任統治領になる際に、ウィルソン大統領の要望により、南洋群島は軍事施設の建設が禁じられるとともに、他国の商業、貿易のために開放されることを保障することが義務付けられた(5)。また、ヤップ島には上海、グアム、メナドを結ぶ海底ケーブルの中継所があり、米国は同島における中継所の利用、米国人の居住、資産の保護を求め、1921年にその要求が認められた。さらに、日米通 商航海条約の適用範囲を同群島にまで拡大することを日本政府に了解させた(6)。実際には、米国は南洋群島に商業拠点を設置することはなかったが、南洋群島が他国から閉鎖され、軍事基地として利用されることを恐れていた。

C式委任統治領の規定では軍事基地の建設が禁止されていた。しかし、1930年から34年の間に通 信施設が設置され、34年から40年にかけてはトラック諸島の海軍基地が増強された。40年からはマ_シャル諸島で航空兵力の拠点が建設され始めた。

C式委任統治領は、人口が少なく、領地が狭く、文明の中心から離れている地域に適用され、委任統治国の法的な一部として統治国の法律に基づいて統治する領域であった。国際連盟は査察する権利をもたず、委任統治国が統治行政に関する年次報告を提出する義務を果 たすだけでよかった(7)。

ドイツ時代に行われたリン鉱の開発は日本時代にも引き続き行われた。日本の南洋経営組合が海軍の委託によりアンガウル

島のリン鉱の採掘を行った。軍政時代には、リン鉱採掘権、全ての施設、ペリュリュー島・トビー島・ファイス島における未開発のリン鉱採掘権を南洋燐鉱会社から日本政府が買い取り、南洋庁の官営事業となった。その後、南洋拓殖という政府系の企業が採掘を行うようになった。同島のリン酸分は約40%であり、ナウル島、オーシャン島、マカテア島に次いで良質のリン鉱石であった。ドイツ時代から南洋庁時代までは約160万トン、南洋拓殖時代は約100万トン、戦後のリン鉱開発時代は約150万トンであり、合計410万トンが採掘された(8)。

ドイツ時代には、25人の植民地政府職員が約2千以上の島々を統治していたが、南洋庁では1930年代の中頃において約950人の職員が勤務していた。南洋庁長官は行政、立法、司法の全権を有しており、パラオのコロールに控訴院があり、他の南洋群島にあった3つの支部に地方裁判所がおかれ、裁判官は南洋庁長官が任命し、罷免することができた(9)。

島民の教育にも南洋庁は力を注ぎ、ミッションスクールを廃止した上で、1918年に南洋群島全体に3年間の公学校を開校して約1,700人の生徒が通 うようになった。26年にはパラオに木工徒弟養成所が設置され、南洋群島内において優秀な生徒を集めたが、殆どがパラオ人であった。生徒達は養成所から小遣いと衣服が支給され各種の技術を学んだ。彼らの技術は日本人移民に必要とされており、41年には鍛冶工、自動車機械工、電気工等も養成した(10)。

経済開発をするにあたり重要になるのが土地であるが、南洋群島の土地制度は南洋庁により次のように定められた。日本人や日本の会社が地元民の土地を購入し、譲渡し、担保にすることが禁じられた。土地を借りる場合は10年を期限とし南洋庁の許可と登録が必要であった。南洋庁は地元民により占有されていない土地を官有地とした。

南洋庁の土地調査によれば、1932年における南洋群島の土地の中で、地元民が所有している土地は6万エーカーであるのに対し、官有地は15.6万エーカーにのぼった。日本人移民が増大した結果 として、31年に土地の売買や譲渡、担保物件としての利用が南洋庁長官の許可を得るという条件で認められた。南洋庁はパラオにおいて土地調査を実施し、それを基に土地改革を行い、クラン所有の土地形態を個人所有の土地形態に変更しようとした。1930年代の終わり頃にはコロールにおいてクラン所有の土地所有権を南洋庁が否定し、非パラオ人の土地所有を認可したので、コロールの土地の半分以上がパラオ人以外の人の手に渡った(11)。

土地調査の結果、土地台帳が作成されたが、台帳作成の目的は、土地の個人所有という考え方と、家族を基本とした相続を定着させることであった。1971年に米国は土地委員会をつくり、土地の所有権を決定する作業を始めたが、その際、土地台帳は土地公聴会で重要な基礎資料として利用された。現在でも土地の所有関係を決定する際の証拠として土地台帳が重要な役割を果 たしている。

南洋群島の開発が進むにつれて、日本からの移民数も増大した。1920年の南洋群島の全人口が5万2,222人であったが、33年には8万884人に増大した。その内、日本からの入植者は3、671人から3万670人に増えた。33年における入植者の出身別 内訳は沖縄から1万7、598人、東京から2,733人(そのほとんどが小笠原島、八丈島出身)、鹿児島から1,061人(そのほとんどが奄美大島出身)であった。ドイツ統治時代にドイツ人を含めた島外者は約200人であったのと対照的である(12)。ドイツが主に島嶼民を労働力として利用していたのに対して、日本は移民労働者を開発の担い手とした。

これらの移民労働者によって南洋群島の開発が行われた。特に成長したのがサイパンを中心に行われた製糖業である。製糖業では地元民がほとんど採用されず、日本からの移民が労働者として働いた。1920年代において南洋庁は産業奨励金全体の80%から90%を製糖業に配分した。32年から35年の間においても90%近くの奨励金が製糖業に投入されていた。製糖業を中心とする産業開発のために、32年の時点で南洋群島の総面 積の77%が官有地となった。22年から32年の間に輸出量が104倍、輸出額が12.3倍に増大した。さらに砂糖に対する出港税が27年以後、租税収入の90%以上を占めるようになり、32年には南洋群島は日本政府から財政的自立を達成した(13)。援助金によらず、諸島内での経済活動によって財政収入をまかなったことが委任統治領時代の大きな特徴であり、米国の戦略的信託統治領時代、そして、現在では米国を初めとする諸外国からの援助金に大きく依存している。

1922年から35年までの間に、製糖業がもたらした輸出収益の47%が日本に還流した。製糖業を中心とする輸出産業が成長した理由として次の諸点を指摘できる。(1)日本から安価で、よく働く労働者を投入したこと。(2)日本が世界の主要な原料供給地から経済的に孤立していたので、砂糖、リン鉱石、コプラ、鰹節等につき比較的高い価格で大量 に日本からの需要があったこと。(3)国際的な貿易システムが崩壊し、それに代わる大東亜共栄圏というブロック経済圏によって製糖業が保護されたことである。しかし戦後、国際的貿易システムが再建され、ミクロネシアの輸出物に対する保護策が消滅し、さらに、安価でよく働く労働者の流入が制限されたことでミクロネシアの輸出産業は衰退した(14)。

南洋群島において製糖業を発展させたのが南洋興発会社である。同社は1921年に松江春次によりサイパンに設立された。製糖業で失敗した西村拓殖会社のバラック小屋に収容されていた千人以上の沖縄県民をそのまま従業員として採用した。松江はサイパンの砂糖黍刈り労働者の供給先として沖縄県に注目した。その理由として次の4つの理由を挙げている。

(1)既に千人以上の沖縄県民が働いており、さらに沖縄から労働者を採用することで移民の間の軋轢を和らげることが出来る。
(2)沖縄県民は亜熱帯気候に慣れている。
(3)沖縄の島々で製糖業が行われているように、沖縄県民は砂糖黍刈り労働に向いている。
(4)沖縄から移民を募ることで沖縄内の失業問題を緩和することが出来る。移民費用を有していない農家に対しては、会社により費用が支給された(15)。

1920年代後半のソテツ地獄と呼ばれる沖縄諸島内の食糧不足状態をプッシュ要因として沖縄県民が南洋群島に生活の場を求めた。

南洋興発には小作人と作業夫(会社が経営する工場や農場または、小作人の農場で働いていた人々)がおり、小作人は既に開墾されていた5_6ヘクタールの土地が配布された。農家は砂糖黍生産の12%を南洋興発に搬入し、その他は南洋庁の定めた価格で南洋興発に販売したが、不作の時には会社に供出する義務を免除された(16)。また、南洋興発の職員の過半数は沖縄県民であったといわれている。

1934年に南洋興発はパラオとサイパンに鰹節工場を設立した。約300隻の中型漁船が操業していたが、そのうち約50隻がトラック諸島海域で、約250隻はパラオ海域で操業を行っていた。37年には6千トンの鰹節が生産されており、砂糖に次ぐ輸出高をあげていた(17)。35年に南洋興発は南興水産を設立し、パラオに本社を設置した。37年には南洋拓殖が南興水産の株式の半数を取得して実質的に管轄下において、日本内地における鰹節需要の過半数をまかなった(18)。水産業にも多くの沖縄県出身者、特に糸満地方の漁民が進出した。

その他にパラオではパイン、綿花、コーヒー、タバコが栽培された。1936年には帝国政府令により南洋拓殖会社がパラオに設立され、南洋群島の10カ年開発計画が作成された。南洋拓殖はアンガウルやその他の島々においてリン鉱石採掘業の経営を行うとともに、38年からはバベルダオブ島のガルマウ村においてボーキサイトの採掘を始めた(19)。

南洋庁の経済開発により、経済的利益を得ていたのは日本人移民だけでなく、パラオ人も様々な経済活動に従事していた。例えば、マーシャル諸島や殆どのカロリン諸島の島民は日本人のブローカーにコプラを売っていたが、パラオでは島民自身がブローカーになる場合があり、中間所得層を形成していた。1930年代までにパラオの首都コロールに野菜と果 物市場が形成され、島民は南洋庁と協力して農業生産者協同組合を結成した。また、パラオ人の中にはパン屋、魚屋、散髪屋、レストラン等の経営者になる者が現れた(20)。

日本の委任統治領時代に、土地改革が行われ、各種の経済開発が実施された。日本人移民が開発の主導者であったが、南洋群島の人々、特にパラオ人は開発の過程に積極的にかかわった。南洋群島は委任統治領という形で日本の政治的、経済的な圏域の中に統合され、経済的な自立を達成した。

2. アメリカの戦略的信託統治領時代のミクロネシア

(1)ミクロネシアと沖縄との軍事的、政治的関係
戦後、南洋群島は米国の戦略的信託統治領となり、米国の政治経済的管理下におかれた。現在の北マリアナ諸島、パラオ、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島が、日本の委任統治領から米国の戦略的信託統治領に移行した。ミクロネシアが戦略的信託統治領になる過程は、沖縄の米軍統治領化の過程と平行した形で進められており、アジアの一部である沖縄と、ミクロネシアは以下に論じるような関係性を有していた。

沖縄は第二次世界大戦後、海軍の施政下におかれたが、将来の沖縄の統治方法を巡って、統合参謀本部と国務省との間に次のような見解の相違がみられた。1945年10月、グリ_ンランドやアイスランドとともに沖縄を「主要基地」とすることに統合参謀本部は決定した。「主要基地」とは米国が絶対的な管理権を持つ基地のことである。46年1月には施政権者を米国とし、沖縄の基地を無制限に使用することを骨子とした沖縄の戦略的信託統治領化案を統合参謀本部はまとめた。それに対し、国務省は46年6月に沖縄の日本への返還と、沖縄の非軍事化を主張した。その理由は米軍政府の領土不拡大の方針を守り、沖縄統治に伴う財政負担を軽減し、基地建設により生じるであろう国際的な緊張を避けることができるからであった(21)。

一旦、国務省が統合参謀本部に歩み寄り、1948年から49年にかけて沖縄を信託統治領にし、講和条約でこれを確定しようとした。講和会議に先立ち、50年の9月に国務省と国防総省との間に共同メモが作成された。それは大統領の承認をえた上で、講和条約の草案となった。その草案で重要なのは、沖縄の信託統治とミクロネシアの戦略的信託統治とが同じ草案の第6条で扱われていたことであり、沖縄の信託統治をミクロネシアの戦略的なそれと同じ性格のものにしようとする統合参謀本部の意図が示されていたことである。しかし、国務省は50年の10月から翌年の3月にかけて沖縄の信託統治領化構想を骨抜きにしようとし、3月草案を作成した。その第3条で朝鮮の地位 とミクロネシアの地位に言及し、日本の主権の放棄を明記するとともに、第4条では沖縄や小笠原における信託統治の可能性を示唆したが、日本の主権放棄は明示しなかった。実際の講和条約の第3条では沖縄の信託統治領化の将来における可能性について触れるのみであった。その上、講和会議で米国代表のダレスと英国代表のヤンガ_が日本の沖縄に対する潜在主権を認める発言をした(22)。

このように戦略的信託統治領から信託統治領へと変わり、さらに日本の潜在主権を認めるというように、統合参謀本部と国務省との見解が折衷された形で沖縄の地位 が確定された。

しかし、沖縄はその後、信託統治領にならなかった。その理由として国務長官顧問のコ_エンは次のように述べている。沖縄が信託統治領にならなかったのは、もし信託統治領にすると住民の経済的、社会的水準を増進させ、国連の信託統治委員会に報告書を提出する義務が生じたからであり、そして、住民から基地建設のために土地を獲得することが、信託統治領の下では困難であると考えたからであった(23)。52年には統合参謀本部も極東軍司令部や国務省が取り決めた信託統治領化構想の廃止という方針にしたがった(24)。

だが、米国はミクロネシアにおいて60年代初めまでほとんど住民の経済的、社会的水準の向上のための措置をとらなかった。沖縄を信託統治領としなかったのは土地取得と基地の自由使用が沖縄領有の最大の理由であり、信託統治領にすること自体に拘らなかったからではなかろうか。

沖縄基地では核兵器の持ち込み、戦闘作戦行動が自由に行なえただけではなく、旧安保条約の行政協定や、新安保条約の地位 協定による制限を受ける必要もなかった。日本本土において基地を建設する際には米軍用地特措法の手続きに従わなくてはならなかった。しかし、沖縄では米軍が一方的に発令する布令や布告によって、土地から人々を強制的に立退かせることができた(25)。

沖縄には安全保障条約や行政協定が適用されず、沖縄への米軍基地の配置について日本政府は発言権をもたないということが既成事実となった。1950年代後半になると沖縄の日本からの事実上の分離が明らかになった(26)。そして、沖縄で58年に行なわれたB円からドルへの通 貨変更の際、陸軍省は、グアム、プエルトリコ、ヴァ_ジン諸島、太平洋の戦略的信託統治諸島つまりミクロネシア(グアムは米国領)における通 貨変更をモデルとして示し、ドルへの切り替えを主張した(27)。

日本の潜在主権を認めたものの、実質的には米軍が政治経済的実権を握り、統合参謀本部が当初考えていた戦略的信託統治領化案で目指した統治方法と基地使用が可能となったのである。

一方、東京在住の漢那憲和、伊江朝助、仲吉良光等の沖縄住民は吉田茂首相に対して、1946年9月に次のような「沖縄日本復帰につき請願」と題する請願書を手渡した。

衆議院選挙法貴族院多額納税議員法により日本国政にも参與し自治民として立派な成績 を収め居る次第につきサイパン、テニアン等の如き委任統治民とは選を異にするものに て連合国規約の信託統治制は我が沖縄には該当せざるものと存じ候(28)。

信託統治の対象となるのはサイパン、テニアンのような自治能力がない諸島であり、沖縄は戦前日本の議会制政治の一翼を担い、地方自治を行なってきたので、信託統治下に置くべきではないとの主張である。

1957年に沖縄統治の基本法となる行政命令が発令された。その背景には太平洋地域における米軍戦略の変更があった。つまり、東京におかれた米極東軍総指令部が廃止され、ホノルルの太平洋地区司令部に統合されたため、極東軍司令官が兼任していた琉球民政長官の役職が廃止され、行政命令によって高等弁務官が新設された。この行政命令が立法化されたものがプライス法である。それはグアム、プエルトリコ、バ−ジン諸島、米領サモア等を統治する基本法に類似したものであった(29)。行政命令で高等弁務官の設置が決まった。沖縄の高等弁務官は、国防長官が国務長官と協議した上で大統領の承認を得て、現役軍人の中から指名された。沖縄と、外国や国際機関との関係についてのみ国務長官の権限があり、その他は全て国防長官の管轄下にあるので(30)、沖縄の統治は軍政的色彩が非常に強いものとなった。

高等弁務官は様々な権限をもった沖縄の最高権力者であった。ミクロネシアにも高等弁務官がおり、絶対的な力をもっていた。社会経済の開発を怠った米国に対する国連の勧告を受けて、ミクロネシア援助は1962年の約680万ドルから翌年には約1、500万ドルに増大した。また、63年にミクロネシアに派遣されたソロモン調査団も援助額の増大と社会経済的投資の拡大が必要であると提言した。米国援助の大部分は教育投資に向けられ、契約教師や平和部隊が送り込まれた(31)。沖縄でも同じ傾向がみられ、米国援助の平均して3割から4割は教育関係費に配分された。

ソロモン調査団による報告書ではまた日本のビジネスマン、技術者、漁民のミクロネシアへの入域を認め、ミクロネシアの経済開発のために日本からの資金導入が提案されていた。そして、同報告書は、米国の関心や忠誠心を島嶼民にもたせる手段として、住民を米国に訪問させ、米国式教育を受けさせるべきであると提言した(32)。沖縄でも1961年の池田・ケネディ会談以後、日本援助が急増し、日本の経済力を利用して沖縄の開発を推し進めようとした。ミクロネシアの各界の指導者に米国を見学させる国民指導員計画は、沖縄においても実施されていた。

ソロモン報告書では、選挙で選ばれた議員で構成される議会と、議会により任命された行政長官を長とする自治政府の創設が必要であると指摘されていた。その際、自治政府は高等弁務官の管理下におかれるが、この政治形態は沖縄で実施されている形態と同じ様なものになるだろうとしている。高等弁務官の権限の範囲は、軍事法の公布権、安全保障上必要とされる立法権や行政権、そして、全ての法律への拒否権、行政府局長の任命権、行政長官の解任権、議会の解散権というように広範囲にわたっていた(33)。

ミクロネシアの新しい政治形態は沖縄をモデルとしていたといえる。沖縄の通貨制度や行政法が米国の太平洋やカリブ海の統治領のものを参考にしていたように、ミクロネシアの高等弁務官制度は沖縄のそれを基にして考えられており、数々の米国統治領が一体のものとして認識されていた。

1962年にミクロネシアに対する米国からの援助額が急増したが、その頃、沖縄でも日本本土からの援助額とともに米国からの援助額が急激に増えた。61年にケネディ大統領はケイセン調査団を沖縄に派遣した。同調査団は沖縄を日本本土と同じ生活水準にするために米国の援助を増大しなければならないとする勧告を提出した。それを受けて大統領は約600万ドルから約2、500万ドルに援助額を引き上げる法案を議会に提出した。大統領の増額案は議会に反対されたが、それでも翌年には約1、200万ドルの援助を議会は承認した(34)。66年にミクロネシアの経済開発についての計画書であるナサン報告書が発表された。同書では公共部門よりも私的部門における経済開発を推進することが強調されていた(35)。また、同書は沖縄で米国民政府と琉球政府が共同で作成し、72年に出版された琉球経済開発調査報告書においても参考資料の1つとされていた(36)。

軍事的にもミクロネシアと沖縄は相互補完の関係にあった。沖縄に設置されていた毒ガスが1971年に撤去されたが、その行き先はジョンストン島であった。それを移送する前に、ホノルルに本拠をおく先住民世界会議が米軍に対して、毒ガス移送に関する公聴会を開くように要求した。しかし、米国は移送について太平洋島嶼は法律上、発言する権利はなく、毒ガス移動は環境に悪影響をもたらさないとし、公聴会開催を拒否した(37)。

1955年に大統領に提出されたニュ−ルック戦略では、沖縄は前進基地、日本とフィリピンは補助的基地、台湾は前哨基地、マリアナ諸島は補給基地、アラスカとアリュ−シャン列島は後方基地として位置付けられ、それらの基地における海軍力、空軍力の充実の必要性が力説されていた(38)。

沖縄とミクロネシアは戦後、米国の施政下におかれた。1960年代初めに米国は援助金を増額する等の措置をとったが、基本的に両地域に対して本格的な経済開発策を実施しなかったことが共通している。ミクロネシアが戦略的信託統治領となり、軍事的機能が重視されたように、沖縄も経済開発よりも軍事的利用という側面に力点が置かれた統治が行われていた。

(2)戦略的信託統治領下のミクロネシア
米国にとりミクロネシアが軍事的に重要であった理由は次の通りである。

(1)日本とフィリピンの米軍基地を自由に使用できる保証がない。
(2)ミサイルをはじめとする兵器の近代化により前進防衛線をミクロネシアまで後退さ せても支障がなくなった。
(3)ミクロネシアはアジア大陸から約3千キロ離れているため、中距離ミサイルの攻撃 射程外であった。
(4)島の散在、および狭小性という自然条件が軍の機密保持を容易にし、基地防衛のた めに地上兵力数を一定程度に抑えることが可能である。
(5)自国の施政権下にあり、人口も少ないため基地建設が容易である(39)。

パラオを例に挙げてみると、同地の軍事戦略上の重要性は第二次世界大戦中から認識されていた。パラオを拠点として日本軍はフィリピン、インドネシアに駐留していた連合軍を攻撃した。米軍にとりパラオを初めとするミクロネシアの島々は自らの国民の血を流して勝ち取った領土であり、戦後の冷戦を背景とする核実験場、アジア情勢に対応した基地建設という目的のために、米国は1947年から戦略的信託統治領としてミクロネシアを統治を始めた。米国は同領域において軍事的活動を保証された上に、安全保障理事会に対し同地域の統治に関する報告義務を果たすだけでよかった。一般的な信託統治領では軍事活動が禁止され、国連総会への報告が義務付けられていた(40)。戦後の冷戦構造の中でミクロネシア諸島は、地政学的な観点から米国の重要な拠点として位置付けられた。

軍事的意味付けの強調とは対照的に、ミクロネシアは戦前の委任統治領時代に比べて経済的には停滞した。技能をもつ日本人がミクロネシアを去り、戦争により経済施設が破壊されて後、戦前までの経済水準に戻ることが困難になった。また、幾つかの米国企業から投資の申し出があったが、軍事戦略上の理由で同地域を外部から遮断する必要があるとして米軍が拒否したケースがあった。例えば、パラオに2百万ドルの投資を申請した米国の漁業会社は米軍の反対により進出を断念せざる負えなかった。

米軍に進出を許可された企業は、島々において経済活動を独占的に行った。例えば、1945年の暮れから、軍の営業許可を受けた米国商業会社(USCC) がミクロネシアにおける貿易を一手に扱うようになった。同社は船舶の問題や米軍との関係悪化を原因としてパラオから撤退し、47年からは島嶼貿易会社(ITC)が独占的に貿易活動を行うようになった(41)。

1950年代終わりから60年代はじめにかけて、戦時中のスクラップがミクロネシアからの主要輸出品となった。アンガウルのリン鉱石採掘は47年から日本企業により再開され、数百人の日本人が働き、リン鉱石は日本に輸出されたが、55年に資源が枯渇した(42)。

外部からの経済的投資を抑制し、自給自足的な生活を維持させ、軍事戦略上の拠点として利用しようとした、米軍のミクロネシア統治は「動物園政策」と言われている。しかし、世界的な植民地独立運動の高まりと、1961年の国連調査団の勧告等により米国のミクロネシアへの援助政策が60年代初めに転換した。先に指摘したように、ケネディ大統領は62年に上院議会の法案に署名して、ミクロネシアへの予算が1,500万ドルに増大した。次いでソロモン調査団を派遣し、経済開発の方向性を探らせた(43)。米国はミクロネシアにおける経済開発の必要性とともに、政治的な自立化の必要性を認めて、65年にミクロネシア議会を設立させ、69年にはミクロネシア諸島の将来における政治的地位を決定するための政体交渉を始めた。

1962年に米国企業によるミクロネシア投資が自由化されたが、外資進出の例としては、64年にパラオにおいて米国の漁業会社であるバン・カンプ海鮮食品会社が設立されたケースがある。同社は沖縄住民を漁民として働かせ、約百万ドルの冷凍施設を設置した。当初、6隻の漁船を有していたが、後に16隻に増え、創業から数年のうちには年間約20百万トン(価格にして約3百万ドル)のマグロを陸揚げするまでに成長した。バン・カンプ社の経済効果はパラオ人漁船員の賃金獲得という形でパラオ経済にも及んだ(44)。戦略的信託統治領ではないが、62年からはグアムへの渡航が自由化され、観光業発展の契機となった。

1974年にはミクロネシアへの外国からの投資に対する規制が撤廃された。78年までのミクロネシア全体における外国投資の資産は約1、800万ドルであり、その約半分はパラオに投下されていた(45)。戦前において南洋庁が設置され各種産業が発展していたパラオに外資が集中していたことは興味深い。

なお、日本政府は1981年から、ミクロネシア、マーシャル、パラオの自治政府に対し年間3億円を目途にODAを供与し始めた(46)。また、日本のNGOや企業も信託統治領時代のパラオに進出していた。例えば、オイスカ産業開発協力団は、オイスカ・パラオ研修センターを82年に完成させ、ガスパン、イボバン、ペリュリューの各州に試作田を設置し、研修所では日本語、農業の授業を行った(47)。

米国の戦略的信託統治領時代においては、1962年、74年からは規制緩和はあったが、それまでは基本的に外部からの経済投資に制限が設けられており、アジアとの経済的関係は限定された形でしか生じなかった。他方で、アジアの一角である沖縄が米軍統治領となったことから、ミクロネシアと沖縄は軍事的、政治的に同一の範疇でとらえられるようになり、共通した制度や政策が導入されていた。

3.ミクロネシア・アジア経済圏形成の可能性

ミクロネシアとアジアの経済的結合
戦略的信託統治領時代が終わり、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島、パラオ共和国が独立したが、防衛権を米国に与える代わりに膨大な援助金が供与されるという自由連合国となった。北マリアナ諸島は米国のコモンウェスルとなり、グアムは米国領のままであった。

ミクロネシア連邦とマーシャル諸島は1986年に独立したが、独立とともに米国との間で締結したコンパクトが発効した。コンパクトの内容は、ミクロネシア連邦とマーシャル諸島に対して米国は、15年間、安全保障に関して権限をもち、その見返りに両国に贈与ベースで財政援助を行うというものである。マーシャル諸島に対しては別途、核実験による被害の補償として150百万ドルが支給された。コンパクト援助に加えて、気象・郵便・航空行政・教育・医療に関してのプログラム援助や、関税の免除(商品の付加価値と、現地産の材料価格との合計が商品評価額の35%以上であることを条件とする)等の特別経済措置がとられた。また、グアム、ハワイをはじめとする米国領土への自由な移住を認め、移住先では各種の経済支援が実施された。

ミクロネシア諸国は独立後、米国から補助金が投入されたが、実際に島嶼における経済発展の推進力となったのはアジア企業の活動であった。例えば、台湾のティンホン社は1992年にマーシャル諸島に活動拠点を設置し、同社の漁船が排他的経済水域で操業を始めた。その結果、91年には8、248トンの水揚げであったが、92年には25、562トンになり、93年には111、198トンに激増した(48)。ティンホン社は95年に約700人の中国人漁民をマーシャル諸島に労働者として連れてきて働かせた(49)。

マーシャル人がそれまで経営していたタクシー業、小売り業、レストラン業、自動車修理業等に中国人が進出し、マーシャル人と競合し始めている。しかし、中国人以上に数が多いのはフィリピン人である。フィリピン人は医者、看護婦、会計士、教師等の職に就く者が多く、さらに地方の建設業にとり不可欠な人材となっている(50)。

マーシャル諸島と中国人との関係で興味深いのは、同国のパスポートを中国人が購入していることであり、1996年において約千冊のマーシャル諸島のパスポートが販売されたが、その殆どは中国人が購入した(51)。96年、97年の2年間でパスポート販売により約千万ドルがマーシャル諸島政府の国庫に入り、政府職員の給与、エアー・マーシャル航空の運営費等に利用された(52)。労働市場、投資市場としてのマーシャル諸島に多くのアジア人が進出しているのである。

ミクロネシア連邦において陸揚げされた魚類の多くが日本に輸出されている。1994年における魚類の輸出額は78、172千ドルであり、その内、日本向けが56、824千ドルで最高額となっている(53)。

1997年におけるミクロネシア諸国の対日貿易品の構成比をみると、ミクロネシア連邦はマグロとカツオが67%、キリバスはマグロとカツオが92%、マーシャル諸島はマグロとカツオが98%、パラオはマグロとカツオが94%となっており(54)、日本とはマグロやカツオの輸出を通じて経済的に強く結ばれているといえる。

アジア企業のミクロネシア連邦への進出は漁業だけでなく衣料産業にもみられる。1992年には香港資本がヤップ島で縫製工場の経営を始めた。米国市場に対する輸出品の免税措置を利用しての投資であった。約400人の女性従業員は労賃が安く、勤勉な中国人であった(55)。アジア企業の衣料産業への投資は後で述べるように北マリアナ諸島、パラオにもみられ、それらは同じように衣料品に対し特恵措置が取られている米国市場を主な輸出先としている。

上の2国と同じように米国の信託統治領であった北マリアナ諸島は、1986年に米国との盟約に基づきコモンウェルスとなった。北マリアナ諸島において特徴的なのはアジア人が全人口の大部分を占めるようになるとともに、島の経済が急速に成長したことである。

1980年における人口は16、780人であったが、90年には43、345人となり、95年には58,846人に増大したが、80年から95年にかけての人口増は約3倍である。しかし、同期間中に地元民のチャロモ人は65.1%(年率3.4%)増えたのに対し、アジア人を中心とする地元民以外の人々は715.7%(年率15%)急増した(56)。95年における人口構成をみると、フィリピン人が19、462人、チャモロ人が13、844人、中国人(中国本土、香港、台湾)が6,762人等であり(57)、フィリピン人が地元のチャモロ人を上回るようになった。

また、1995年における労働人口のうちチャモロ人が5,716人であるのに対し、その他の民族は31,824人であった(58)。安い賃金や勤勉な労働等でアジアの労働者が北マリアナ諸島の経済で不可欠の存在となっているが、それと同時に地元の労働者が労働市場からプッシュ・アウトされているという問題が生じている。

多くのアジア人の来島にともない、経済活動が活発になった。ビジネスライセンスは1980年に598件、90年に3、550件、96年に5、057件発行された。86年と96年における北マリアナ諸島政府のビジネス収入税は、それぞれ19.3百万ドル、67.0百万ドルであり、約3倍増えた。北マリアナ諸島への訪問者も、80年に約11万7千人、90年に約41万7千人、96年に約72万2千人へと増大したが、96年における内訳をみると、日本からは43万8千人、韓国からは16万9千人であった(59)。観光関連施設においてもアジア企業の投資が顕著である。

北マリアナ諸島は観光業の他に衣料産業も盛んであり、1998年7月現在、縫製工場には約1万3千人が働いており、労働者の99%は中国人である(60)。北マリアナ諸島では、米国市場への無関税、数量無制限の輸出という特別措置が米国政府により認められており、同制度を利用するために多くの縫製工場が参入した。

民間投資が活発に行われ、税収が北マリアナ諸島政府の財政状態を改善した。財政収入は1991年においては約149.9百万ドルであったが、96年には約216.8百万ドルに増大した。その内、税収は約121.7百万ドルから186.4百万ドルに増えた(61)。北マリアナ諸島に多くのアジア人、アジア企業が参入したことで税収が増加しており、アジア経済圏の中に入ることで北マリアナ諸島の財政状態が好転するという良い結果が生じている。

北マリアナ諸島にアジア企業が投資をすることになった理由は、アジア諸国との近接性という地理的な特性の他に、各種の免税の実施(62)、特別な労働法や移民法の存在、米国市場への自由な輸出制度等という様々な優遇措置が存在していたことである。

労働力、観光客、外国資本をアジア諸国に依存し、島内で製造した衣料を米国本土に輸出するという経済構造をみると、北マリアナ諸島はアジア経済圏と米国経済圏の双方に依存して経済成長を実現することができたといえる。しかし、アジア経済の変動にも大きく左右されるようになった。1998年5月の同諸島への観光客は41、328人であり、前年同月比で33%減少した。98年5月現在、過去8ヶ月間において各企業の売上高は50%減少した(63)。

アジア経済の低迷の影響を受けて観光客が激減し、経済活動も停滞するとともに、米国大統領から同諸島内における労働者の人権問題が指摘され、同問題の改善が実施されなければ独自な労働法、移民法等は再検討されるであろうとする書簡が同諸島政府に送付される等、北マリアナ諸島が享受してきた優遇制度が揺らいでいる。アジア経済に深く取り込まれた北マリアナ諸島は、外部の経済変化の影響を大きく受けるようになり、アジア経済の好調と低迷をともに経験している。

北マリアナ諸島と同じ政治的地位を求めているのがグアムである。1989年に住民投票によりグアムコモンウェルス法案が採択され、連邦政府との間で政治的地位の変更に関する交渉を行っている。現在のグアムの政治的地位は自治的未編入地域である。1950年にグアム基本法が連邦政府により与えられ、住民は米国市民権を持つことができたが、連邦下院に派遣されているグアム代表には本会議における投票権がなく、住民は大統領を選出することができない等、米国憲法が完全にはグアムに適用されていない。

グアム全土の約3分の1が基地で占められているように、基地関連産業が島経済の中心的位置を占めていたが、1962年に外部からの渡航が自由化されたことと、日本との直行便が開設されたことで観光業が発展し始めた。観光客は1970年に73,723人、79年に272,681人、84年に368,665人、90年に780,404人のように急増した(64)。そして、97年には約137万にまで増えたが、そのうち、約111万人が日本からの観光客であった。観光関連施設への投資も日本を中心とするアジア企業が盛んに行っている。

しかし、観光客の市場を日本を初めとするアジア市場に過剰に依存していることにより、アジア経済の低迷の影響を大きく受けた。例えば、1998年9月の来島者数は95,790人であったが、それは昨年同月より15.9%の減であり、同年に入って減少傾向が続いている。観光客減少にともない観光関連企業の閉鎖や従業員の解雇が多くなっている。

失業問題を深刻にしているのは、アジア諸国からh−2労働者と呼ばれる低賃金の契約労働者が建築土木関連企業に雇われるとともに、地元労働者が解雇されていることである。また、冷戦の終了にともない連邦政府は国内の基地を整理縮小しているが、グアムにおいても1990年から始まった基地再編閉鎖委員会による基地縮小により、軍雇用員が解雇されている。このような基地閉鎖により2001年までに直接的、間接的に約6千人の職場が失われるであろうとされている。

グアムが観光客の来島、投資、労働者等によりアジア経済圏と結合されつつあるといえるが、島嶼経済の基盤が脆弱であるゆえにアジア経済不況の影響を大きく被る結果となった。グアム政府や商工会議所等はグアムの軍事戦略上の重要性を主張し、景気の変動には左右されにくい基地関連産業の育成するための税制優遇措置や、業界としての取り組みを活発に実施している。そのような動きもまたアジア経済と緊密に結びついた観光業の不安定性を示すものであるといえよう。

ミクロネシアにおいて最も遅く政治的地位が決定されたのはパラオである。米国と締結するコンパクトの内容に関して島内において対立が激しく、独立が1994年10月にずれ込んだ。ミクロネシア連邦、マーシャル諸島と米国との間のコンパクト期間が15年間であるのに対し、パラオの場合はそれが50年間となった。財政援助期間は15年と同じであるが、コンパクトの内容をみるとバベルダオブ島の一周道路建設や信託基金創設等、上の両国と異なる内容を有している。

軍事的に米国はパラオに対して次のような特権を有している。米国は第三国軍のパラオ領域への接近や、その土地使用を禁止したり(上の両国では米軍に選択権のみがある)、他方で、米軍監視下での第三国軍による基地や施設の使用を許可する権限を有していた(上の両国に関しては事前協議や同意の取り付けが前提条件であるが、パラオに対してはこのような条件はない)。さらに、米軍の核艦船、核搭載航空機はパラオ領域での運行が可能であり、アイライ空港、マラカル港の独占的使用および共同使用、アンガウル空港、または、これに代わる空港の使用、マルキョク州内での訓練のための使用地を指定できる。その他に、米軍は必要に応じて基地を要求でき、パラオは指定された土地または代替地を60日以内に差し出さなければならない。

米国に対する軍事的な便宜を供与する代わりとして、パラオも他のミクロネシア諸国と同じように米国からコンパクト・マネーが与えられている。公的資金ではコンパクト・マネーに依存しているが、民間経済部門ではアジアから多くのヒト・モノ・カネがパラオに流入している。

北マリアナ諸島と同じく、パラオにおいても全人口の中でアジア人が大きな割合を占めている。1998年9月現在の外国人の数は6,358人であり、全人口約1万7千人の約3分の1に達していた。外国人の内、フィリピン人が4,120人、中国人が909人、バングラデッシュ人が423人、アメリカ人が279人、日本人が192人、台湾人が154人、韓国人が90人等となっている(65)。1999年から着工されるバベルダオブ島の53マイル道路建設の際にもアジア人が建設労働者として入国する予定である。建設期間の2年6ヶ月の間に道路建設の過程で3,174人の雇用が生まれ、その他に間接的に2,444人の雇用が生じるという推計がある(66)。サービス業、建築業においてアジア人労働者は不可欠の存在となっている。

ミクロネシア諸国から来島する人々のためにグアム政府が教育費、医療費、福祉費等多くの経費を負担しなければならないという「コンパクト・インパクト」問題を抱えているが、同様な問題を回避するためにパラオでは次のような措置がとられた。年収が1万ドル以下の外国人労働者がその家族をパラオに呼び寄せるのを禁止し、年収1万ドル以上の労働者が家族を呼び寄せる場合には雇用主の許可を得た上で、家族1人当たり500ドルを支払わなければならないとする法律を成立させた(67)。外国人労働者の家族に対する政府の負担を軽減させる措置ではある。しかし一方では、外国人家族の定着を阻むことで、その分、パラオ内における消費機会が失われ、送金という形で現金が国外に流れ、国内経済に現金が投入され循環することで経済が発展するという拡大再生産の道が閉ざされているという問題がある。

パラオにおける民間経済の成長部門として観光業が注目されている。1997年においてパラオへの訪問者は73,719人であったが、その内、台湾人は31,246人、日本人は20,507人であった(68)。観光業に投資する企業や同産業に従事する人々、そして観光施設を建設する労働者はアジア人が主流であった。

アジアからパラオへのヒト・モノ・カネの流入により観光業が発達した。しかし、急激に観光客数が増え、法律で定められた環境基準という規制の枠が外される形で大型ホテルが設置されることで、汚水の処分や水の供給などが需要をまかなえず、汚水が海中に流されたり、観光客が海の生態系を破壊する等の環境問題が発生している。このような環境問題は北マリアナ諸島、グアムにおいても飲料水の汚染、ゴミ処分場の不足、海水の汚染等のように深刻になっている。

おわりに

ミクロネシア連邦、マーシャル諸島、パラオ共和国、北マリアナ諸島、グアム等のミクロネシアは、自由連合、コモンウェルス、属領という政治的、軍事的関係そして援助を通して米国と強力に結ばれている。

1986年に米国とのコンパクトが発効したミクロネシア連邦とマーシャル諸島は2001年に援助金の提供が終了する予定であり、コンパクトの延長に関する交渉が行われている。また、北マリアナ諸島がコモンウェルスという政治的地位に付随して与えられている独自な労働法、移民法等を巡り連邦政府と対立しており、今後ともアジア人労働者による観光業、衣料産業を成長させることができるという保証はない。グアムも属領という自治性に制限のある政治的地位からの脱却を求めており、コモンウェルスになるために連邦政府と交渉している。

以上のように、ミクロネシアと米国との特殊な関係は流動的であるが、他方でアジア諸国の経済成長にともないミクロネシアにアジアからヒト・モノ・カネが流入し、両地域の近接化が顕著になってきている。米国からの補助金やコンパクト・マネーに大きく依存する経済構造は不安定であるとともに、このような資金が永久的に存在するとはいえず、民間部門の成長を促して島嶼内部に経済発展の動因を形成するという意味でもアジア経済との関係強化は重要であると考える。

しかし、ミクロネシアのアジア経済圏への結合化により、ミクロネシアの幾つかの島々においては経済成長の現象が見られ、民間部門が形成されてきたが、次のような問題もまた同時に解決しなければならない課題として生じてきた。

(1)アジア経済の低迷により島嶼経済の基幹産業である観光業発展が衰退、または停滞し、それが他の産業にも影響を与え、企業の倒産、失業の発生という問題を発生させている。アジア経済との緊密化の程度が強いグアム、北マリアナ諸島において深刻な影響がもたらされている。
(2)アジア人労働者に大きく依存する島々では、経済成長の果実である収入部分が母国への送金に回され、島嶼内部の経済発展を可能にする生産の内部循環に注がれる現金が少なくなる。また、北マリアナ諸島やグアムで顕在化しているように、賃金の安いアジア人労働者が地元民を労働市場から押し出し、地元民の失業率を押し上げているという問題が指摘されている。
(3)急激な経済成長により島嶼の環境に大きな負荷が与えられており、ゴミ処分場の不足、汚水の海中垂れ流し、飲料水汚染、海水の汚染等の環境問題が深刻化しつつある。ミクロネシアがアジア経済圏の一部になり、島嶼という限られた地理的空間において経済活動がこれまでになく盛んに行われることにより、環境問題が生じ、島嶼の基幹産業である観光業における環境という売り物の喪失につながる恐れもある。

以上のようにミクロネシアは、アジアと経済的に結合される過程において様々な問題を抱えているが、観光市場の分散化、産業構造の多様化、地元民の民間部門への就労促進、環境と調和した開発等の開発行政を行い、問題の解決をはかる必要があろう。島嶼経済が直面している援助金による政府部門の肥大化、民間部門の脆弱化という課題を克服するためにも、アジア経済との結合化による民間部門の発展は重要であり、結合化にともなう諸問題を一つずつ解決してゆくことでミクロネシアとアジアとの経済的関係はさらに安定的なものになるであろう。

ミクロネシアとアジアとの強力な経済関係は戦前の委任統治領時代においてもみられ、日本本土から資本が投下され、移民が入植し、各種の特産物が生まれて経済発展がもたらされた。今後の両地域における経済関係の発展を考える際に、委任統治領時代における成功や失敗の諸例から多くを学ぶことができるだろう。例えば、戦前期に行われた製糖業、水産加工業、農業の育成等、産業構造の多様化は現在の島嶼経済の構造を強化するための方法として参考になるであろうし、移民が増えすぎたために発生した土地問題や、労働市場からの地元民の排除等の問題は今後のミクロネシアにおける開発過程でも課題となろう。

両地域は、経済関係とともに、政治的、軍事的にも緊密な関係にある。委任統治領時代では日本と政治的、軍事的な関係にあり、戦後の戦略的信託統治領時代においては、沖縄の米軍統治の過程と多くの類似性があった。さらに現在では、沖縄とグアムには戦略的に重要な軍事基地が設置されている。グアムだけでなく、米国はコンパクトによりミクロネシア諸国に安全保障上の特権を保持することで、アジアにおける軍事的な危機的状況に対応する態勢をとっている。

経済的、政治的、軍事的な諸側面でミクロネシアとアジアが強い関係を有していることがわかる。両地域における経済的関係には可能性とともに問題性があり、この課題に今後どのように取り組むかにより島嶼経済発展の方向性が決まるだろう。政治的、軍事的には、米国とアジアが直接的に接し合う地域としてミクロネシアは重要な位置にあり、その位置の有利性を積極的に活かすことでミクロネシア諸島の経済的発展も可能になると考える。

[注]
  • (1)Francis X.Hezel(1995)Strangers in Their Own Land-A century of Colonial Rule in the Caroline and Marshall Island,University of Hawaii,pp.80-81.
  • (2)Ibid.,p.123.
  • (3)矢内原忠雄(1963)『南洋群島の研究』岩波書店、48ページ。
  • (4)Hezel(1995),op.cit.,pp.155-157.
  • (5)Mark Peattie(1988)Nan'yo-The Rise and Fall of the Japanese in Micronesia,1885-1945, University of Hawaii Press,p.55.
  • (6)Ibid.,pp.60-61.
  • (7)Hezel(1995)op.cit.,pp.155-157.
  • (8)武村次郎(1986)「太平洋のリン鉱の島々」(『太平洋学会誌 1月号』)、103-110ページ。
  • (9)Peattie(1988)op.cit.,p.71.
  • (10)Ibid.,p.95.
  • (11)Hezel(1995)op.cit.,pp.191-195.
  • (12)矢内原(1963)前掲書、62-63ページ。
  • (13)今泉裕美子(1994)「国際連盟での審査にみる南洋群島現地住民政策」(『歴史学研究 第665号』、38_39ぺページ。
  • (14)Schwalbenberg M. and Hatcher T.(1994)"Micronesian Trade and Foreign Assistance:Contrasting the Japanese and American Colonial Periods"in The Journal of Pacific History,29(1),pp.101-102.
  • (15)Peattie(1988)op.cit.,pp.126-127.
  • (16)Ibid.,pp.156-158.
  • (17)Hezel(1995)op.cit.,pp.186-188.
  • (18)武村次郎(1983)「戦前の南洋群島における日本企業の興亡」(『太平洋学会 誌 10月号』)、87_105ページ。
  • (19)Hezel(1995)op.cit.,pp.198-199.
  • (20)Peattie(1988)op.cit.,pp.101-102.
  • (21)宮里政玄(1986)『アメリカの沖縄政策』ニライ社、43-48ペ_ジ。
  • (22)河野康子(1994)『沖縄返還をめぐる政治と外交ー日米関係史の文脈ー』東京大学出版会、30ページ。
  • (23)同上書、69ページ。
  • (24)同上書、76ページ。
  • (25)新崎盛暉(1996)『沖縄現代史』岩波書店、9-12ページ。
  • (26)河野(1994)前掲書、64-65ペ_ジ。
  • (27)同上書、165_166ペ_ジ。
  • (28)外務省管理局総務課(1950)『沖縄諸島日本復帰運動概要』外務省管理局総務課、20ページ。
  • (29)琉球銀行調査部(1984)『戦後沖縄経済史』琉球銀行、543ペ_ジ。
  • (30)入江啓四郎(1957)「琉球高等弁務官制の意義」(『沖縄と小笠原 第三号』)、 17ページ。
  • (31)Ballendorf D.A.(1991)"Micronesia to the Year 2000:Conditions and Issues of Development and Dependency." in Islands' Culture and Development,UNESCO,pp. 84_85.
  • (32)ソロモン A(1994)「ソロモンレポートー太平洋諸島信託統治領への合衆国政府調査報告ー」(小林泉『アメリカ極秘文書と信託統治の終焉ーソロモン報告・ミクロネシアの独立ー』東信堂、32_35ページ。
  • (33)同上報告書、36ページ。
  • (34)琉球銀行調査部(1984)前掲書、1212-1213ページ。
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  • (41)Hezel(1995),op.cit.,p.269.
  • (42)Ibid.,p.270.
  • (43)Ibid.,pp.300-303.
  • (44)Ibid.,p.320.
  • (45)Ibid.,p.359.
  • (46)小林(1994)前掲書、172ページ。
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  • (66)Department of the Army U.S.Army Engineer District(1997),Environmental Impact Statement for Construction of the Palau Compact Road Babeldaob Island,Republic of Palau,Vol._of_, Department of the Army U.S.Army Engineer District,p.E-2.
  • (67)Pacific Daily News,1997/10/27.
  • (68)Office of Planning and Statistics(1998)Statistical yearbook 1998,p.61.
[特別講座] 松島泰勝講師の特別講座(2001年9月)
  • 国際政治講座
  • 情報通信講座
  • 島嶼経済講座
  • ゼミ

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