ミクロネシア講座

ミクロネシアン・セミナー

[第6回講義]ミクロネシアにおける教育の価値

- フランシス・X・ヘーゼル、S・J - The Price Of Education In Micronesia [1989]

太平洋島嶼国では、学校というのは、西欧社会との接触前には公的教育の必要性がなかったこの地域に植民地支配をしていた国が持ち込んだ外国人の施設として長い間蔑視されていました。これは、前世紀に4カ国の植民地支配を受けてきた歴史を持つ、赤道の北に位置する、多くの島々からなるミクロネシアについてもあてはまることです。この地域が、北マリアナ、ミクロネシア連邦、パラオ、マーシャル諸島という4つの独立した政府に分かれ、自治政府を持つようになったのは、たかだか10年ほど前のことです。これらすべての新国家では、植民地支配下時代から受け継いだ他の遺産と同様に、学校が地域の人々から完全に認められるようになり、次第に島の生活の中に組み込まれていきました。現在、ミクロネシアにおいて、学校は集会所や、議会、教会などと同じような施設となっています。

スペイン軍と宣教師が初めてマリアナに足を踏み入れてからわずか1年の間に、グアムに第一号の学校が設立されました。1669年に少年達を対象に開設された「コレギオ・デ・サン・ホアン・デ・レトランColegiodeSanJuandeLetran」と呼ばれるこの学校は、マリアナが太平洋島嶼国の中で最初に植民地化された地域であったことから、オセアニア地域の第一号の学校として注目を浴びました。学校を宣教活動の中心に位置付けていたイエズス会の宣教師達は、キャンディーやホーリーカード(訳者注:キリストやマリア像を描いたカード)をおとりに、幼い子供達を学校に引き寄せました。学校に通い出した子供達が学んだのは、お祈りと、カソリック教義の基礎でした:これは、2世紀後の20世紀はじめ、米国人宣教師がカロリン諸島とマーシャル諸島にキリスト教をもたらし、最初の学校を開設した際にプロテスタント系学校の生徒達がお祈りと教義を学んだのと同様のことでした)。後の公的教育制度の先駈けとなったこれらの教会運営による学校では、算数や英語の指導も少しは行いましたが、全体のカリキュラムは、'キリスト教義を浸透させる'というひとつの目的に向けられていました。

19世紀から20世紀へと世紀が変る頃、ドイツの支配が始まったことで、公的学校制度が小規模ながらも始まりました。ドイツ政府は、前支配国のスペイン同様、教育をほぼ宣教師の手に委ねることに満足していましたが、ミクロネシアのサイパンに初めての公立学校を設立したのに併せ、パラオでは、小規模学校と言える、地元警官を訓練するための公式プログラムも開始しました。ドイツ政府による初期の公的教育制度の開始ならびに、ミッションスクールへの助成の背景にある目的は、島民の生産性向上に必要となる姿勢を促進させることで、島民達の物質的な生活水準を向上させるということにありました。この目的について、ドイツ政府は年次報告書の中でも、「現地人の教育に関する我々の使命は明確である:島民達は仕事をするために訓練を受けなければならない;彼らにお金を稼ぎ節約することを奨励していかなければならない」と簡潔に記しています。

第一次世界大戦開戦時、日本がミクロネシアを支配下に置いてからほどなく、ドイツ政府が計画していた公的教育制度が現実のものとなりました。日本による植民支配中、24の学校が設立され、島に住む学齢期の子供のほぼ半数に対して3年間の義務教育(場合によっては、5年間)が実施されました。カリキュラムの中心となったのは日本語学習でしたが、その他にも様々な学術的ならびに実践的な科目が盛り込まれていました。日本人教育者は、日本語学習をコミュニケーションのツール以上のもの、つまり、'より優れた価値体制へと誘う手段となるもの'と考えていました。従って、日本語指導は、若者達の間に'大人になった時に、最先端の文明の恩恵を受けることができるようになる'という姿勢を生み出している実際面での必要性とは趣きを異にしたものでした。

当時のミクロネシアの学校は、それが宗教的な教義であれ、近代的な教育制度であれ、あるいは'最先端文化の享受'であれ、ひとつの文化に抱合されるものとして、全く異なる価値システムの奥義を若者達に伝授することを目的としていました。ミクロネシアの若者達が受けた教育は、まぎれもなく、それが進歩に役立つものであれば、彼らの習俗を犠牲にしても、新しい方法を教え込むことを意図したものでした。第二次世界大戦後、米国が信託統治領としてミクロネシアを支配下に置くようになると、小学校教育は6学年まで延長され、入学者もすべての地域へと拡大しましたが、米国政府は、地域文化を尊重し、非介入の政策を公言しました。これは、初期の植民地支配国の教育方針からみると、驚くべき、また、おそらくは、新鮮な変化であったと思われますが、米国の教育制度は、各人に備わる基本的権利の存在、民主主義の価値、および個人の意見の表明、経済開発の重要性など数多くの、島の文化にとって異質の論拠に立っていました。植民地統治初期時代の米国人教育者は非介入主義を提唱していたものの、実際には当時のミクロネシアの教育システムは、それまでにはびこっていた根深い教育制度の理念に立脚していました。

ケネディー政権最後の年となる1963年、米国はこれらの地域の急速な発展を目指し、突然、従来の緩やかな変化と控え目な年間補助という政策を逆転させました。これにより、近代化のペースを地域の生産能力の成長に従って決定していくという方針は採用されなくなりました。経済成長のための必須条件として社会サービス、特に健康および教育への大幅投資を要請する新しい経済成長理論の影響を受け、米国政府はその年のミクロネシアへの年間予算を倍増させ、翌年からも予算を飛躍的に増加させました。1962年には600万ドルであった年間補助金が、1970年には約5,000万ドルと8倍にも増加し、その後10年間で再び倍増し約1億ドルに上昇しました(2,500万ドルの米国政府プログラム資金とは全く別個のもの)。1960年代の末、米国政府高官は、米国が遠隔地の信託統治に対する責任を遂行していないという、初期の頃に指摘されていた批判を払拭することができたばかりでなく、ミクロネシアの将来はほぼ確実に恒久的に米国につながることになるという、依存状態をも作り上げることに成功し、満足感を抱いたものと考えられます。

当然ながら、教育政策のこうした飛躍的変革の効果は非常に大きなものとなりました。米国政府が大規模な学校建設計画を採用したことで、1962年には予算の約10%であった年間教育予算が、60年代末には2倍の20%に跳ね上がりました。1970年には、信託統治領内の公立学校総数が1,3000校から2倍の約2,8000校に増加しました。ただし、この期間中に生じた変化のレベルをより如実に示したのは、生徒1人当たりの費用の増加でした(1962年にはわずか50ドルであったのが、8年後の1970年には240ドルにまで増加しました)。当初、新設された学校は米国人教師を雇用していましたが、1966年にこのプログラムがミクロネシアに拡大された後は、平和部隊のボランティアが後を引き継ぎました。1970年頃には、島嶼地域の教育現場はすっかり様変わりしました。小学校の学齢期に達したほぼすべての子供達が、ブロック造りのブリキ屋根の新設された学校の教室で、数名の米国人教師から英語の授業を受けるようになりました。1960年代中に生じた小学校教育の発達が、ほどなく中学校、高等学校教育にも同様に波及していきました。1953年には、カソリック系のミッション・スクールである「Xavier」および、政府運営によるPICSが最初の全日制高等学校として開設されていましたが、6地域すべてが各々、全日制高等学校を持つようになったのは10年後のことでした。1960年代初頭では、信託統治領全域の高等学校卒業者数は年間でわずか100名程度でしたが、1967年には卒業生数が500名に増え、さらに1971年になると約1000名に増加しました。1970年に、信託統治領教育局長(TrustTerritoryDirectorofEducation)は、米政府が、10年前に小学校教育に対して実施したのと同様に、中等教育の義務教育化を目指していることを発表しました。ただし、当時信託統治領が享受していた潤沢な資金を得てしても、これは不可能なゴールであることが証明されました。1970年代の後半を通じて、中等学校へ進学したのは小学校全卒業生の内約60%で、この数字は当時からほぼ固定しています。マリアナ連邦を含め、信託統治領全体の中等学校の入学者は男女合わせて年間約8,000人、卒業生数は約1,200人となっています。

高校卒業後、彼らはどうするのでしょうか?最近になり、米国の専門学校でさらに教育を受けるため島を離れる若者が増加してきています。1972年から、経済的に恵まれない米国人に対し大学教育費用を提供するための米政府援助プログラムへの参加資格がミクロネシアの若者にも認められるようになったため、多くの若者がこのプログラムに志願し、航空運賃を支払うのに十分な資金をかき集め、グアムや米国本土での大学教育を受けるため、島を離れるようになってきました。大学教育の資金を得るための手段としてはTT奨学金しかなかった1960年代では、1度でも大学に通うことができたミクロネシアの若者はわずか200~300人しかすぎませんでした。1970年代初期から、米政府の教育助成が利用できるようになったことで、大学教育はもはや非常に知的レベルの高い若者のみに許される特権的なものではなく、一般の人々の権利と見なされるようになりました。最近では、ミクロネシアの全高卒者のほぼ半数が大学に進学しており、現在約2000人~3000人が海外の大学で教育を受けていると推定されています。

10年ほど前までは、大学を卒業した幸運なミクロネシアの若者達は、島に戻れば仕事が待ち受けている状況でした。1975年に信託統治領の予算が上限に達し、政府職員数の増加がこれ以上は望めないと分かった後でさえも、その後3年間の米政府プログラムの急増が、大学新卒者に新しい雇用機会を提供していました。ところが、1979年になりプログラムの多くが中止され、資金提供が急速に下降に向い、深刻な就職難時代がやってきました。1970年代半ばに生じた第二次、第三次の米国大学への脱出組が島に戻るようになると、彼らの多くが、大学の卒業証書が期待に反し、政府職員のポストを約束するものではないということを知り絶望感を抱きました。島に戻ってきた卒業生の数があまりにも多いのに対し、雇用があまりにも少なかったのです。おそらく、大学卒業生以上にがっかりしたのは、古い島の伝統を守らなくなるかもしれないというリスクを犯してまでも、教育は仕事、給料を得るるとともに、家族にとっても物質的な繁栄をもたらす確実な手段であるとの考えのもと、子供達を送り出した両親であったと思われます。

教育は経済よりもはるかに早い速度で進んでいきます。事実、教育が経済と競いあったことは一度もありません。1960年代初期の大規模発展以降の期間に創出された新たな雇用は、政府雇用か、政府の給与を食い尽くすサービス部門の雇用のみでした。急速な教育拡大を正当化するために実施された「人への投資」という開発理論が、現在は破綻をきたしてしまったようです。潤沢な着手資金を得ることができ、知的で起業家精神に富む人々をこれらのプロジェクト着手に投入することさえできれば発展すると見られていた産業は、ついに日の目を見る事がありませんでした。若い大卒者達は、こうしたプロジェクトに携わるのではなく、政府の仕事を得ることが最良の方法であると考え、こうした仕事を求めていました。こうした仕事を見つけることができなくなると、彼らは村に戻り、状況が変り幸運が巡ってくるのを待っていました。ただし、島の経済が低迷していいる中で、ミクロネシアの若者達が大学卒業後、米国に永住するのではなく、島に戻りチャンスを得ようとしていることは、重要なことです。現時点まで、'頭脳流出'が生じていないということは、ソーシャル・プランナーの悲観的予測を覆すものとなっています。これには、ミクロネシア島民にとって米国移民法が不利に働いていることも一因となっていると思われますが、ミクロネシアの若者側の一種の帰巣本能も働いているものと考えられます。

悪意はないが知識に乏しい批評家の中には、学問一点張りの教育でなく、職業に重点を置いた訓練を行うことで、こうしたすべての状況を変えることができると指摘する者もいます。こうした批評家達は、多くの学校で行われている職業訓練は、その他の学術的カリキュラムの合間に行われており、技能を習得するための機会を与えるのではなく、技能をかじるだけのものにしかすぎないと主張しています。仮にそうでないとしても、職業訓練をミクロネシアの経済および教育の抱える問題を解決するための万能薬と考えることは浅薄な考えであると言えるでしょう。若い島民の中には、ホワイトカラー(頭脳労働者)への根強い偏向、つまり、政府役員の給与体系に対する偏向が残っており、政府高官の羨望に値するライフスタイルへの思い入れは強まる一方です。ただし、より重要な点は、訓練を受けた業種で仕事を得ることができたミクロネシア島民は、決まって、経済枠組みの中の生産的部門ではなく、サービス部門で働くようになるという点です。彼らは、結局は他人のために住宅を建設したり、他人の乗用車やトラックを修理したり、船のエンジンやエアコンの修理をするということになってしまいます。彼らが仕事として漁業や農業に従事するということはないのです。こうした状況が続く限りは、どんなに職業訓練に重点を置いたとしても、経済の低迷が続くことになるでしょう。

経済的観点だけから見ると、20年前に生じたミクロネシアにおける教育の急激な増加は、島にとっては、まさに不運としか言いようのない出来事だと考えられます。まず米国政府が予算の多くをミクロネシアの教育に割当て、その後、法外とは言わないまでも、非常にコストのかさむ教育制度の維持をミクロネシアの自治にまかせた形となりました。さらに悪いことに、教育というのは、ほぼ必然的に生活様式に関する期待度を引き上げるという性質をもっているため、この教育制度から誕生した卒業生達が、政府に対し雇用ならびにさらなるサービスへの要求をこれまで以上につきつける結果となりました。これらすべての事柄は当然のことながら、現在ミクロネシア自体で支払える水準をはるかに上回っている政府費用をさらに引き上げることとなり、自力本願からは程遠いものとなっています。

ただし、現在も米国政府が財源を供給している統治領においては、経済的側面だけがすべてではありません。それでは、卒業生ならびに、彼らが生活するコミュニティーに及ぼす教育の効果とはどのようなものでしょうか。金銭的にみた教育コストならびに、制約された政治的選択肢の一部は、教育が及ぼす社会的恩典と相殺されているのでしょうか?

この問いは、島嶼国に対する'適切な'教育とは何かという議論が激しく戦わされる限りにおいては、回答が難しい問題です。太平洋島嶼国の人々にとって唯一の適切な教育とは、たとえそれが個人の興味や野心を実現させることにはならなくとも、地域社会のニーズに応えることを目指す教育であると主張する人々がいます。彼らの見解では、当該の地域社会が小さな農村であるとすれば、その社会にとって'好ましい'教育とは、できるだけ短期間に、村が日々の生活の中で利用できる技能を身につけて若者達が地域社会に戻ってくることができるように若者達のニーズを充たすことであるというものです。ただし、こうした意見とは異なり、教育の目的というのは常に自分自身、そして世界について理解を深め、その技能が今後、その個人の将来につながることになるか否かにかかわらず、個人の技能を高めることで、個人のもつ可能性を高めることになると主張する人々もいます。この考え方は、これまで'自由主義教育'と呼ばれてきた教育の理念的基礎となってきた考えです。昔から今日にいたるまで社会は、こうした教育を受けた人物は最終的には自らが習得した新しい技能や展望を通して、自らの社会を豊かにさせる何らかの方法を見出すことになるとの確信に基づき、構成員に対しこの種の教育を提供してきました。

この種の理論的な相違に決着を付けることのできる満足できる方法はおそらくは見つからないでしょう。私どもにできることと言えば、回答を見出すために、ミクロネシアの教育の具体的な現実に立ち戻るということだけです。ミクロネシアの島民が過去20年間にわたり従ってきた教育は、内容ならびにスタイル面で島の学校に合うように一部は修正されているものの、現在はほぼ、欧米諸国で共通となっている自由主義教育を模範にしています。教育を受けた島民は、御多分にもれず、'疎外される'ことになりますが、救いがないほどに疎外されているわけではありません。都会で政府の仕事に就く事ができなかった者は村に戻り、そこで、最近学校を卒業した者として目立つ存在となります。彼らの服装は普通の島民よりも派手で、村の生活様式について幾分蔑視したような話をしたり、村の生活のスピードの緩慢さに不平をこぼし、自分達と同じような海外経験をしてきた仲間を求め、彼らが言うところの小さな地域社会における生活面での権威主義的風潮に苛立ちを表すという暮らしをしています。それでいながら、彼らは相当に健全な精神状態を保っており、島と海外の生活との葛藤を経験してきた場合でさえ、自分が海外で学んできたものと、村の生活の要求とを統合させることに対し無力感を抱く'分裂病的なタイプ'の若者となることは決してありません。彼らは次第に村の生活のリズムに順応し、すぐに他の島民と同じようにブレッドフルーツを砕いて粉にしたり、魚獲りに精を出すようになるのです。ただし、これは、彼らが地域社会の輪の中で単にしぼんでいくということを意味しているのではありません。村での生活が数年経った後でも、彼らは穏やかな批判精神とも言うべき健全な懐疑的な物の見方を維持し、地域社会の生活にプラスに働く新しいアイディアに対し貪欲です。

ここでお話した状況は、私どもの多くがミクロネシアにおける教育爆発が始まった時に抱いた懸念とは全く異なったものとなっています。私どもが想像していたのは、島に戻ったものの職を見つけることができず、近代的な設備も少なく、自らのアイデンティティーに対し極めて希薄感を感じ苛立つ若者達の姿でした。おそらく、私達は海外に出たミクロネシアの若者達の個人的資源と順応性について過小評価していたものと思われます。いずれにしても、教育を受けた若者が群れを作り他人に不満をぶちまけたり、現在の体制の転覆を企てたりするということはありません。また、日常的に見られる泥酔事件を除いては、彼らの多くが刑務所に収監されるということもありませんし、社会から取り残されたり、流浪の民になるということもありません。また、給与所得者になることができなかった者ですら、これらの島々で高まっている自殺者の志願者となることもありません。教育者に言わせると'認知的不協和'を経験してきているにもかかわらず、教育を受けたミクロネシアの若者達は、妥当なレベルで幸福感を精神的な安定感を示しています。

外国生まれのミクロネシアの教育制度は、1960年代初頭以来、幾度か修正が加えられ、独自の特色を持つようになってきています。島の学校は、1977年にミクロネシアの各州が自己統治となり、これらの教育機関に対して正式な行政責任を引受けるようになるかなり以前から、地域文化に順応してきていました。これらの修正の中で最も重要な部分は、大半の担当者がまず目を向けるものであるカリキュラムの内容に対する修正ではなく、全体的な教育のスタイルと、学校と地域社会の間の適合性に対する修正です。例えば、村に危機が発生した場合、ほぼ必ず、一定の期間学校が閉鎖されることになり、生徒と教師の欠席が増加するという状況が生じてきます。このような状況では、米国側監督者ならびに、教育コンサルタントが手に負えないような、規範の欠如や、学習全般に対する安易な態度がはびこる傾向にあります。いずれにしても、今日のミクロネシアの学校制度は、われわれの想像する以上に、地域の状況によって変化してきたと言う事ができるでしょう。こうした事実が、順応性ということであるのならば、島の学校を社会・文化的環境に順応させるという問題については、もはや頭を悩ます必要はありません。

もともと外国の産物であり、島民を支配し、彼らの生活様式を変え、'文明の恩恵'を受け入れさせようとの意図のもとに持ち込まれた教育が、現在では、ミクロネシアの人々の生活の重要な部分となってきています。その他の外国の施設と同様に、学校もミクロネシアの明確な特徴をもつべく進化のプロセスをたどっています。ただし、学校教育に対する監視がなされなければ教育を受けた若者や島がどうなるかということに関して西欧人が予測しているような悲惨な結末から島を救っているのは、学校が島の実状に適応しているとことによるのではなく、人々の柔軟な態度によるものなのです。結局のところ、社会というのは、社会を構成している人々の場合と同様に、有機的な組織であり、社会学者を当惑させ続けている順応性と柔軟性を備えているものなのです。そこで、ミクロネシアに対する差し迫った問いは、ミクロネシアの文化が西欧風の教育制度の影響下で生き延びることができるのか否かではなく、政治的自律を促進できるような経済的発展を達成させるために懸命に取り組んでいるこの時期に、果たしてこうした高額なぜいたくな制度を維持していく余裕があるのか否かということです。今日のミクロネシアの教育制度は、社会的にみてそれほど危ういとは思われませんが、政治的にみると、あまりにもコストがかさみすぎているようです。

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