ミクロネシア講座

ミクロネシアン・セミナー

[第3回講義]開発のジレンマ近代化が島民生活の3つの側面に与える影響

- フランシス・X・ヘーゼル、S・J - The Dillemas of Development: The Effect of Modernization on Three Areas of Island Life [1987]
開発に関して

我々が開発という言葉を使う時、我々は前向き、上向き、あるいは何かが現在の状態より改善される方向に向かうプロセスや動きを指す。だがこれには様々な疑問がつきまとう。例えば、一日中漁をした村の男を例に取ってみよう。現在、太平洋に散らばる多くの島々では、自分の家族を養うための獲物を捕るのが漁師の責任だと考えられている。だが一昔前までは、漁師は自分の家族だけでなく、親戚一同や村民たちにも自分の獲物を分配するのが自分の責任だと考えていた。現在の基準なら、この漁師は自分の家族に低価格の蛋白源を提供する堅実な主人と見なされるだろうが、昔の基準では自分の責任範囲である親類や親戚一同に獲物を配ることのできないケチと思われるだろう。どちらの基準が正しいのだろうか?

他の可能性を考慮に入れるとこの問題はさらに複雑になる。もし、彼が自分が捕獲した獲物の近代化の影響による価値観や意識にもとづいて家族だけに配っているとしたらどうだろうか?また彼が同じ価値観や意識を持つからこそ、妻を殴るのを止め、娘を学校に行かせ、役人として彼の下で働いている義理の弟に好ましいマナーで接しているとしたらどうだろうか?彼が持つ価値観や意識や純粋に前進と言えるのだろうか、それとも後退だろうか?親族一堂に対する責任感をあまり重視しなくなるという考え方が同時に個人の自由を重視し、彼の人生で始めて村以外の世界を考えさせるきっかけとなったとしたらどうだろうか?価値観や意識の近代化関する結論は容易には出ない。

開発という難しいテーマを論じるに当たり、我々が留意すべき重要な前提が3つある。まず、開発とは一つの過程あるいは展開であることから、「我々はどこから来たのか?」「我々は今どこにいるのか?」「我々はどこに向かっているのか?」を自問自答することが必要となる。最初と最後の質問を無視すると、今自分たちがいる場所しか視野に入らないという危険性に陥る可能性がある。この3つの質問を考慮してはじめて、開発とは何かに関する適切な判断が下せると言えよう。

2つ目の留意点は、変化は単独で、あるいは他の要素から孤立して独自に発生することは非常にまれだ、ということである。近代化は、バラバラな意識や価値観が相互に連携しあったクラスターを多数巻き込むものではない。人々や国、政府などは、開発とか近代化と呼ばれるものを単独のアイテムとしてではなく、卸段階でまとまった量として買い込む。私は、開発途上にある国が、先進諸国のコピーになる運命にあると言っているのではない。発展途上にあるどの国していも選択肢はたくさんある。だが当初はそのように思えなくても、選択肢は最初の留意点と深いかかわりのある諸々の要素につながっていく。例えば、マネー経済を選ぶことは、バーターシステムに代わって交換媒体の存在を導入すること以上の展開をもたらすことは皆さんすでにご存じの通りである。これは銀行口座や冷蔵庫に関しても言える。銀行口座や冷蔵庫は、それまで入手すれば直ちに分配しなくてはならなかった資源を保管や保存する手段を提供してくれる。

これがあまりにも運命論的発言に聞こえるとすれば、3番目の留意点に注意を喚起したい。数年前、文化人類学者たちの間に、社会や文化を複雑な機械のようなもの、例えば、部品が全部連動して動くゼンマイ式の古い腕時計のようなものだと見ることがはやった時期がある。一つの部品が変わると、機械全体の機能に変化が出るし、むしろ機械全体の機能に悪影響が出ることが多い。その後、我々は社会とは人々から構成される有機体のようなものだと認識するようになった。人体と同じように、社会も環境が与えるストレスや変化に対応でき、場合によっては内部に悪影響を与えるウィルスやバクテリアにも対応する。つまり、社会には自己治癒力がある。しかも社会は個性を維持しながら内蔵する問題に対応できるのだ。

この点に留意しながら、私は島社会、少なくとも私が過去20年間にわたって働いてきた太平洋にあるミクロネシアの小島の社会の近代化という広範囲な変化のなかで3つの分野に絞って述べていきたい。私が語ることは全部とは言わなくても、パプアニューギニアの社会にも当てはまる部分もあろう。これから取り上げる3分野の変化とは、本シリーズの他の巻で取り上げたテーマにも関係する。まず、国家の要請と種族社会を比較する。それから、核家族と拡大家族の間の緊張を取り上げたのち、男女間の関係の変化に触れる。

種族社会を越えて

世界中の他の諸国同様、ミクロネシアでも家族が重視される。ミクロネシアの漁師や農民は、自分の一族への義務に縛られている。さらに男が妻の一族を支援するという義務を負う社会がほとんどである。自分の一族を養うのは大変だが、妻の家族を支援するのも同様に大きな負担となりうる。ミクロネシアにある諸島の一つ、トラック諸島では男は結婚すると、妻の家族も養い、食料を提供したり、技術を提供したりして妻の家族の仕事を手伝ったり、妻の家族がニーズを満たすのを支援するのを当然のこととして期待される。男は自分の一族への責任を果たしても、妻の兄弟や年上の人々からの要請に応えなくてはならない。

重い責任、しかも時には利害が相反するような責任を果たすために、男には非常なる緊張が強いられる。自分の一族や妻の家族への責任を全うできない場合には、離婚という事態に発展する場合が少なくない。さらに男には社会的立場に見合った責任を果たすことも求められる。たとえば族長などがいるところでは、族長に貢ぎ物を捧げることも求められよう。コミュニティの他のメンバーから受けた恩義を返すことも責任の一端に含まれる。トラック諸島にキリスト教が普及してからは、祝い事があったり工事が行われる時などに特に、自分が所属する協会に、時にはかなりの寄付をすることも義務づけられるようになった。

ミクロネシアの漁師や農民は昔から、自分の運が落ちている時や疲れている時には、周囲からの支援を要請して気楽に楽しくすごそうと考えるような人々ではなかった。男は複数のグループが同心円を描くように存在する社会の中心に位置し、必要な場合には周囲からの支援を受けることができた。比較的シンプルな社会でも、網の目のような人間関係に彩られた社会であり、プレッシャーや不安と無縁であるわけではなかった。

現在、ミクロネシアの漁師が医療補助を受けながら、自分の村や州都で政府関係の仕事に就いているとしよう。これまでのように漁に出て魚をとってきたり、ヤムイモを収穫するのではなく、2週間に一度給料をもらうようになっても、自分の一族や妻の家族への責任が軽減されるようになったわけではない。収入のかたちが変わっただけだ。親族一同は労働力や食料をもらうのではなく、他の形で彼に何かを提供するよう要求できるようになっただけだ。親族は個人的なニーズを満たしたり、一族として推進してきたプロジェクトをさらに進めるための資金を彼の給与から支払うよう要求できるようになった。義理の兄が妻の土地を耕すために手を貸してくれるよう要請するのではなく、自分の影響力を駆使して義理の兄や他の家族が医療保険機関で働けるよう頼むこともできる。医療保険機関のスタッフとして、病院で優遇措置を受けられるよう手配することを頼んだり、家族が時々必要とする医薬品を村のクリニックからこっそり持ち出すよう頼むこともできよう。

つまりミクロネシアの漁師は、自分の公務員としての身分を利用して昔ながらの義理を果たしているのだ。だがこのようにして昔ながらの緊張を解消したとしても、新しい緊張に直面する。上記のようなことをすれば、身びいきとか、自分の地位を利用して政府の資産を悪用したと非難される。このようなことが起こるのは、ミクロネシアの漁師たちが、昔家族のために捕獲していた魚やパンの木の実の代替として、自分の特権を利用して公務員になるという過ちを犯したことが理由である。彼が、公務員になったことで収入を何倍にも増やしただけでなく、彼の給料を当てにする人々の数も増やしたことに気づかないのは残念である。

公務員になること、そして現代社会に参加することは、自分を中心として広がる同心円を増やすことを意味する。ミクロネシアの漁師は、政府と雇用契約を結ぶことによって村全体のニーズを満たすこと、またある程度は全く新しい条件下で、州や国家ニーズを満たすことを期待される。彼は公務員として、従来の彼との親戚関係とは関係なく、彼の支援を求める人全てのニーズを満たす義務を負う。もちろん、彼は自分で稼ぐ給与を自分で好きなように使うことができる。だが彼の技能、就労時間、影響力、彼が仕事をするために使う機械設備などは、広い意味で言えば社会のものだ。長い間彼の負担となってきた一族やコミュニティへの義務を果たすために自分が持てる資産を自由に使えるわけではなくなった。以前はほとんど関係のなかった、顔を持たない多数の人々から要求されることがいくつか、いやたくさんあることを彼は学ばなくてはならない。一族同様、彼に多くを要求できる新しい、大きなグループがあることを受け入れなくてはならない。これまで生まれてからずっと社会への義務を果たすために使ってきた社会的地図を棚上げしなくてはならない。最後に、どのようなグループの人々にどのような義務を果たすためにどの資源を使えるのかを見極めることを学び始めなくてはならない。

漁師が公務員の生活を難しいと感じるのも当然ではないだろうか?もうそれほど若くはなく、実利的な経験を積んだ田舎の男が、政府の仕事のなかにまで一族が介入してくることに苦情を呈するのも当然ではないだろうか?近代化とは見る視点によってさまざまに異なる顔を見せる。だが全ての人にとって最も大きな変化は、昔の役割に代わって新しい役割が生まれたことだろう。近代化がもたらす問題の罠にはまった人々にとって、新しい役割とは利害の対立にほかならない。

利害の対立のなかで見失われがちなのが、公務員が果たすべき新しい役割だ。元漁師の医療従事者のなかには昔ながらの義務感が根付いている。昔ながらの役割を果たさなければすぐに、目立った反発が起こる。親族などに対する義務を果たさなければケチと批判され、親族のなかでの地位が落ちる。一方、自分の地位を悪用したからといって報復がすぐにくるとの確証はない。ミクロネシアの上司たちは、部下を解雇したり、給与を削減したりすれば、長期にわたって本人や家族からの報復が来るとしてそのような行動を採りたがらない。

これは問題である。解決策はないのだろうか?時が経ち、教育が普及すれば問題は全て解決すると片づける人もいる。十分な時が経過すれば、ミクロネシアの漁師も他の公務員も自分たちに課された新たな責任を自覚し、適切な対応をとれるようになるだろう。これには疑う余地はないが、果たしてそれだけで十分だろうか?漁師は広義のコミュニティが期待できる範囲と、自分が公務員として果たせる責任範囲を自覚するようにはなろうが、村民たちはそれでも医薬品をもらいに、時には街の病院への紹介状をもらいに来るだろう。漁師は公務員としての自分の新たな役割を学びつつ意識を変えるとしても、村民の健康やひいては生活までが彼の対応にかかるようになるかもしれない。だからこそ、漁師は速やかに新しい役割を認識し、新しい役割に徹することが非常に重要なのだ。だからといって公務員は従来の役割、そして従来の役割から発生する義務を無視してかまわないと言っているのではない。もちろん、新しい役割に徹すれば、一族から見て彼が昔からの役割と義務を放棄しているように見えるかもしれないが。私は、一族が公務員としての彼の立場を利用することを制限し、新しい役割と古い役割のバランスを図ることを学ぶべきだと言っているのだ。

公務員になった元漁師を例に挙げて、長々と説明したが、この漁師の従兄弟や兄弟、甥などで公務員になった者も広義のコミュニティに対する義務を負っていることを忘れてはならない。選挙が行われ、有権者は州政府や中央政府で自分たちの意見を代弁してくれる議員を選出している。国家の形成やその他の関連活動が進んでいる。20世紀に暮らす人々のニーズに対応できる経済の構築がスピーディに進んでいる。村や種族が暮らす地域に関する問題は個人の関心の及ばない分野だとする狭義な見方はもはや適切とは言えない。そのような狭義の見方は理解できるし、そのような狭義な見解を持っている人に同情することもできる。だが国家の重要な一部をなしている社会ではそのような見方に組みすることはできない。政府は金銭やサービスを提供する対価として、公務員になった漁師が負う新たな責任や役割に対する理解を求めているのだ。

大家族制度の崩壊

家族という言葉には文化という言葉と同じくらい多数の定義がある。だが今日の近代化の波のなかで、世界中どこでも従来の大家族制度が崩壊し、標準的な家族が生まれている。標準的な家族とは、両親と子供、それに数人の親類が加わった核家族を指す。伝統的な大家族が完全に姿を消したわけではなく、太平洋地域のあちこちに依然として大家族制は生きているが、家族の機能という意味で大家族が減少し、核家族が増えている。その結果、さまざまな問題が発生しており、それについては本章の終わりで触れる。

伝統的な親族グループを一言で表現するのは不可能なので、礁に囲まれた人口約4万人の火山性諸島、トラック諸島の例を挙げたい。ここでは大家族制度の崩壊の様子、理由、そしてそれがもたらす問題が浮き彫りになっている。

トラック諸島では昔から一族を中心とする生活が営まれてきた。女系家族で、最も年長の女性を中心とする一族が、つまり女性とその子供(夫ではない)、その女性の姉妹とその子供、その女性の兄弟(妻や子供たちは含まれない)、姪、母方の叔父、母方の祖母がグループを構成している。こような家族は自分たちが所有する土地と家に住み、自分たちが所有する土地で作った食料を食べて暮らしていた。一族は3、4世帯から構成され、さらに1世帯は核家族と親戚数人から構成される。このような世帯のメンバー、特に若いメンバーは一族の長である年長の男に従わなくてはならない。一族の長が、一族の土地を管理し、責任分担をキメ、食料の分配を監督する権利を持つ。女性が結婚すると土地を持参し、その土地で食料を作って子供を育てる。彼女の夫はこうして妻の家族に対する義務を果たす。つまり一族は一つの組織として機能している。メンバーは一緒に食事をし、一緒に働き、子供を一緒に育てる。台所が一つしかないことは、一族が経済的、社会的に一つの組織として機能していることを物語っている。

だがトラック諸島でも時代は変わった。仕事や現金収入が得られるようになり、。男たちはこれまでのように、一族の共通の資産だったパンの木やタロイモ畑以外に生活の糧を稼げるようになった。給与所得があることで、一族の資源に依存する必要はなくなった。特に一族の長の分配を待たなくても、自分で賃金を稼げるようになったことが重要な意味を持つ。これが一族の独占経済に打ち込まれた最初の楔となった。そしてさらに他の要素が加わり、伝統的なシステムの崩壊が加速されるようになった。

時代の変化とともに、一族を構成する世帯の食糧確保に対する責任が次第に重くなった。家庭では小売店から購入してきた製品を日常的に、一族の他の家庭と分けることなく、消費するようになった。つまり核家族と数人の親類から構成される家庭が自分たちで食糧を確保するようになった。つまり台所が複数できた。かつては一族に一つしかなかった台所は、一家庭に一つとなった。そしてさらに地元の食資源の収集方法と調理方法に変化が見られるようになった。一族の長の権限は有名無実となり、特に資源に関する権力を次第に失っていった。一族の長が畑や海での責任分担を決める時代は終わった。今では家庭の長がいつでも欲しい時にパンの木の実を取っている。もちろん、他の家庭に食糧を分けることは日常的に行っているが。地元の資源、時には購入した製品の共有は今でも行われている。だが食糧を分ける役割は一族の長から世帯主へと移った。

一族の長は一族の経済に対する権力を失うと同時に、威厳も失った。子供たちは自分の両親の監督下に置かれるようになり、依然なら青年に達した後には一族の長の指示を仰いだものだが、青年に達した後にも親の意向を優先するようになった。昔は一族の長が若者の結婚相手を選んだが、今ではその役割も有名無実となってしまった。子供を遠い街に送り、高等教育を受けさせるかどうかは、一族の長ではなく父親が決めるようになった。一族の長は今でも一族の土地の売却には強い権限を持っているが、家庭が現金収入に依存するようになるに伴い、この点に関する一族の長の権限も抑制されてきている。トラック諸島のほとんどの地域では今や、一族の長が昔のように自分の兄弟姉妹の子供たちのしつけに口を出すことはない。

近代化とともに一族の長の権限が縮小するに反して、各家庭の両親の権限が大幅に拡大してきた。今や、子供たちが青春の荒波を乗り越えるのを支援するのは両親だけとなった。また幼児死亡率の低下にともない、子供の数が増えている。その結果、両親は少ない支援で多くの子供たちを長期間にわたって指導監督しなくてはならなくなった。

家族構造の大幅な変化はトラックの社会に深刻な影響を与えている。ヘゼルは最近の研究論文のなかで、過去15年間にトラック諸島の自殺率が非常な水準にまで高まったのは大家族制度の崩壊にともなう親子関係にみられる緊張の高まりが理由の一つと思われる、と述べている。また幼児虐待や子供の家出に関する研究から、最近の家庭に見られる緊張の高まりがやはりこのような現象となって現れていることが分かっている(1985年、マーカスとヘゼル;1986年、マーカスとドイル)。過去20、30年間にトラック諸島の家族は代理親などの支援なしに両親だけで難しい子育てを行うようになった。トラック諸島、また太平洋の他の地域の家庭でも同じだと思うが、家庭が全般的に昔と比較して脆弱になっている。

死亡や離婚によって片親となった家庭ではさらに深刻な状態に見舞われる。残された方が再婚しない場合には、一族からの支援もほとんどなく、一人で子育ての重責を負わなくてはならない。だが再婚すると事態はさらに悪化する場合が多く、特に再婚相手に連れ子がいる場合はこの傾向が顕著に見られる。例を挙げよう。離婚した女性が三人の子供と再婚した夫の家に移った。再婚した夫には前妻との間にできた二人の子供がいた。15才を頭に9才までの3人の子供たちは、継父が自分の子供の方ばかりをかわいがるために、新しい家庭になじめなかった。父親の子供は新しい洋服を買ってもらえたが、3人は買ってもらえなかった。食事をするのも最後で、他の家族がご馳走を食べていても、3人は食べさせてもらえなかった。また継父から頻繁に叱られた。数ヶ月後に上の二人が家出をし、一番下の子は継父の態度が変わるのを待つしかなかった。以前なら、子供たちは父親を死亡や離婚で失っても、もっと容易に新しい環境に馴染むことができた。大家族のなかで、母親が再婚しようがしまいが、親族との強い結束を感じることができた。一族が彼らと継父の間の緩衝体となるとともに、家族としてのアイデンティティとなった。

トラック諸島で見られる現象は他の太平洋諸島でも見られるものと思われる。現金経済の普及とそれがもたらした選択肢が主因となって起こった伝統的な大家族の崩壊は家族に自由をもたらした。だが自由は同時にまた人間関係の緊張とストレスももたらした。個人は新しいチャンスに恵まれると同時に、習慣の呪縛から逃れられるようになったが、それはまた、これまで社会的安全ネットとして機能した社会のネットワークを失うことも意味した。近代化の対価は高くついた。

このような変化を受け入れるか、それとも従来の大家族制度に戻るか、のような選択肢はトラック諸島では現実味を持たない。

家族制度の変化はもうすでにかなりの水準まで達してしまった。現代社会のなかで重要な役割を果たしている教会や政府、その他の機関は両親に子どもへの責任をより深く全うするよう繰り返し呼びかけてきた。このような組織や機関は改革を推進できないとしても、支援を提供することはできる。そこで私は、このような組織や機関には、欧米諸国の両親が果たしているような慣れないニーズにトラック諸島の親たちが対応できるようにするための支援を提供する責任があるのではないか、と考える。従来の大家族制のなかで育った今の親たちに、欧米式の親としての意識を教えることが必要だろう。例えば、「頭ごなしに叱るのではなく、効果的にしつけを行うにはどうすれば良いか」「子どもを受け入れ、子どもを支援することの重要性」「兄弟喧嘩の対処のしかた」などのテーマが考えられる。

また家族制度の変化の影響を緩和するための策として教会や他の組織ができる重要な教育活動がもう一つある。新構造を作り上げたり、旧構造を復活させて、現在の家族のニーズに対応することだ。例えば、家族間の自由な話し合いの推進があるが、これは昔なら年上の世代が子どもと親の間のコミュニケーションの中継ぎをやっていたことだ。家族と家族の境界が薄れ、個人と個人の間の緊張が高まる(避けられないこともある)にともない、家族一人一人に自分の問題や困難を表現する機会を与えることが重要になっている。トラック諸島の人々は以前なら一族の葬儀の場で自分たちの悩みを語り合った。ポリネシアの人々は定期的に一族が話し合う場を持った。このような昔からの習慣を利用して現在の家族が直面するニーズに対応しない、という理由はない。家族の祈りの場をこのような話し合いの場に変え、家族間の緊張の高まりを抑えるのはどうだろうか?このような対策を採るかいなかは個人次第だが家族制度の崩壊を嘆いてきた政府や教会などが先頭に立って人々が家族制度の崩壊のもたらす影響を乗り越えるのを支援すべきだろう。

男女間の争い

太平洋諸国で現在、男女間に摩擦が生まれている。戦争とまでは言えないにしても、近代化の始まった地域の男女はこの摩擦を一つの戦争ととらえている。ここでも私は太平洋諸国のなかで自分が良く知っているミクロネシアを例に、昔と現在との比較を行いたい。

昔のミクロネシアの社会では男女間の役割が明確に分かれていた。女性は織物や編み物を行い、子どもを育て、家事を担当した。男性は遠海及び沿岸漁業ををし、住宅やカヌーを作り、戦争に参加した。仕事は島によって異なっていたが、男女はそれぞれ補完しあう役割にあり、それぞれ明確に分担が決まっていた。男女の役割が明確に分かれているのが伝統的な社会の特徴だった。男女はそれぞれに自分たちの世界を持っていた。ミクロネシアの社会では、女性が土地を管理する権利を持ち、特に家族という枠組みに関係なく、土地の使用権の配分は女性の手に握られていた。一方、男は家族の代表、村の代表としての役割を果たした。肩書を持っていたり「長」になるのは男だった。私たちは、昔は男が支配して女が従った、という過った見方にとらわれがちだが、ミクロネシアではまったくそうではない。女性は舞台の中央に出て、大衆の前で話をすることは一般的に禁じられていたが、資源の分配や政治的動きを司るのは女性の役割だった。

伝統的な生活にはどこでも見られるように、ミクロネシアでも相互依存関係が見られる。女性は男性、特に親族の男性に従うことを期待されるのと同時に、男性は女性を敬うよう求められる。女性の前では男性が使ってはならないとされる言葉もある。特にこの傾向はビクトリア女王時代のヨーロッパで見られたものより強い。限られていたとは言え、女性の権利は確実に守られていた。だが当時の女性の権利は現在の水準には遠く及ばない。例えば、妻は夫に殴られることもあった。だが妻の家族はそれでも妻を近くで見守るしかなく、暴力が行き過ぎるように思える時にだけ介入できるようにした。従来のミクロネシアの社会では女性が男性と同じ権利を持っていたわけではないが、だからと言って自分を守る手段がなかったわけでも、社会のなかで女性としての権利がなかったわけでもない。

近代化はどのような変化をもたらしたのだろうか?まず、男性の従来の役割を変えた。小売り販売されている食品への依存度が高まるにつれて、これまでは漁業や農業にいそんしんだり、パンの木の実を穫っていた男たちが町でブラブラするようになった。唯一の競争相手は同じようなゴロツキであり、物を作るという役割は優れた技術を持つ大工や石工、職人に任されるようになった。だが彼らの妹たちは、これまで従事してきた家事をこれまでと同じようにやっている。若者の役割が奪われ、自由度が拡大するにともなって、痛みや不安が増してきた。以前のような役割を果たす必要がなくなった若者たちは、家族やコミュニティに貢献しているという満足はもはや味わえなくなった。このような孤立感が非効率、アルコール中毒、若者の逮捕率の上昇の理由の一つかもしれない。ミクロネシアでは精神病にかかる若い男性の率が女性の4倍に達するという事実は注目に値する(Hezel、1985年)。近代化は女性より男性の不安を増長させているとも言える。

だからと言って、現代社会のなかに男性の新しい役割がないわけではない。金銭的収入や影響力をもたらすサラリーマンとしての仕事も新しい政治的仕事もある。ボランティア組織、教会、スポーツ団体などに参加して新しい社会でステータスを得ることもできる。男性が近代社会の到来にともなって失った伝統的な役割に代わる魅力的な選択肢がこれだ。だが問題もある。女性がかつては男性の領域だったこのような地位を占めるようになり、男性の権利を侵しはじめた。女性が政府機関で働き、車を運転し、バスケットやバレーボールをし、選挙にも立候補する。女性はこのようにして従来の男女間の文化的差違を積極的に壊していくように見え、男性から見ると、女性はパートナーというよりライバルになった。男女の役割に関する古い定義が消滅するに伴って、女性は男性を補完するというより、男性に対して敵意を持つ存在として見られるようになった。

社会の近代化が進む中で女性も苦しんでいることは間違いない。トラック諸島では、男性が昔女性に対して持っていた敬意は消滅してしまったが、女性から男性への敬意は今でも残っていることは興味深い。だがトラック諸島の若い男性は女性への敬意の念があったことなど気づかず、ましてそれを実行する人は少ない。トラック諸島で専門家が昔のしきたりなどに関するワークショップを行うと、参加している若者は、昔は一族のなかの特定の女性の前では男性は頭を深く垂れてお辞儀をし、時には這うようなことまでしたと聞いて驚く。特に親族の女性の前で使われていた丁寧な言葉も最近では失われてしまった。また従来、女性が持っていた権利も男性に無視されるようになった。現在、多くの家庭では男性が、昔から女性が行っていた土地の分配を担当している。また時代の変遷とともに妻を殴る夫が増えているが、妻の家族は夫の暴力を見ても介入するのを控えるようになっている。かつては存在した互恵関係のルールに社会が制裁を加えているようだ。男性も女性も現代社会のなかで自らの立場を確立するために戦わなくてはならなくなった。

戦争直後にミクロネシアを研究した文化人類学者たちは、女性より男性の間に不安が強く感じられると記している(GladwinとSarason、1953年)。これはミクロネシア諸島全体で男性の間に女性より精神病が多いことから裏付けられる。近代化による役割の大幅変更や孤立感によって男性の不安はさらに増した。女性が従来の男性の役割を果たすようになり、ある意味では現代社会で男性の代替として活動するまでになり、男性は揺らぎはじめた自分の地位を守るために女性を攻撃するようになった。人間は自分自身と自分の社会的地位に自信を持っている時にはおだやかに話しをする。だが追いつめられるとむやみと自己主張をするようになる。また女性にとっても、女性の権利と尊厳を守っていた古いしきたりも自然と崩壊しはじめた。

今日の問題は、男女間の戦争とも言えるような状態にいかにして平和をもたらすか、にある。太平洋諸国に住む高等教育を受けた女性は、最近まで男性が占有していた役割を現代社会のなかで果たそうとしてもそのチャンスを否定されることが多いという事実に苦しんでいる。だがもっと基本的で深刻な問題は、女性が昔から持っていた伝統的な権利が次第に消滅していくことだ。男女間の互恵関係が急速に失われつつある。

基本的問題は次のようなことだ。女性は男性の役割を奪うライバルと見なされるのだろうか、それとも補完的役割を果たすパートナーと見なされるのだろうか?太平洋諸島の社会ではかつて男女間の役割には明確な相違があった。そのしてこの明確な役割分担が男女間の摩擦を最小限に抑えてきた。このような状態は今後も続くのだろうか?

女性が高等教育を受け、能力を持つようになるにともない、女性が今後も雇用のチャンスを与えられないままでいるような状態は想像つかない。太平洋諸島の社会は人々に現代社会としてふさわしいサービスを提供するという難しい課題に直面しており、女性からの貴重な貢献を必要としている。ミクロネシアの社会は公的・私的部門の双方で、男女の雇用を確保していかなくてはならないだろう。だが太平洋諸島の社会では今でも男女の役割分担に関する偏見が根強く残っており、職種が男女間で明確に分かれるとしても特に驚くには値しない。

だがより進歩的な考え方をする女性はこれでは中途半端だとして不満を感じるだろう。今、女性は世界中で男性とまったく平等の扱いを求めている。女性のためにあらかじめ用意された仕事をする権利に加え、他の職業でも適切な才能を持ち、必要な教育を受けている場合にはその職業に就く権利を求めている。男性と同じ土俵で同じチャンスを選ぶ権利を求めている。つまり、太平洋諸国の社会の基盤となってきた明確な男女の役割分担に終止符を打つことを求めている。これは我々が現在直面しているジレンマだ。平等を基本的な尺度にして現代社会における女性の権利を決めるべきだろうか?それとも個人の自由を制限して、従来の明確な役割分担の範囲内で女性の権利を判断すべきだろうか?この質問に対する答えはいくつかあろう。私は個人的に、少なくとも近代化の過程で女性が失ってしまった権利と保護をある程度取り戻すまでは、昔ながらの男女間の役割分担を全部破棄しない方が女性にとって得策だと考えている。

結論

我々は当然ながら時には過去を振り返って懐かしみたくなる。昔ながらの社会にはそれなりの問題はあったが、全てがきちんと決まっていて、落ち着いていた。だが今日の社会にとってこのような状態はもはや選択肢には入っていない。近代化の波はもはや押しやることはできない。また太平洋地域全体で始まった近代かのプロセスが明日突然に止まることも期待できない。私はここで、太平洋地域の社会の近代化がもたらした3つの大きな変化について述べた。細かい要因や条件は地位によって異なろうが、近代化がもたらす広義の課題そのものはどこでも同じだろう。近代化がもたらす変化と課題は、村の生活の中心をなす人間関係を根底から左右するものであり、人生にとってこれ以上重要なものはないだろう。このような変化は、伝統的な社会の結束を乱し、以前のようなまとまりをなくし、簡単には乗り越えられない不調和と、容易な解決策のない緊張を生じさせる。今日の社会は中途半端で、現代的なパターンによってまとまっているわけでも、伝統によって結びついているわけでもない。我々が論じてきたのは、過去と未来の間で生じる緊張がもたらすジレンマである。

ミクロネシアの人々が毎日の生活のなかでこのようなジレンマを解決しようと試みても、明日の社会を作り上げていくしかない。ミクロネシアの人々にとっての未来の社会とは欧州で確立している社会をモデルとするものではなく、島民の一人一人がそれぞれの選択を通して昔ながらの要素と新しい要素を融合させていくしかない。その結果、太平洋諸島ならではの社会が生まれることは間違いない。

参考文献

Goldwin, Thomas, Sarason, Saymour(1953年)著
「Truk: man in paradise(トラック諸島:楽園の人々)」
New York、Wenner-Gren Foundation発行

Goodenough, Ward(1961年)著
「Property, kin and community on Truk(トラック諸島の富、血族、コミュニティ)」
New Haven、エール大学出版発行

Hezel, Francis X.(1985年)著
「In search of the social roots of mental pathology in Micronesia(ミクロネシアの精神病の社会的原因の探求)」
1985年8月、ホノルルで行われた太平洋諸島精神病研究会議で発表された論文。未発行。

Hezel, Francis X(印刷中)著
「Truk suicide epidemic and social change(トラック諸島の自殺増と社会的変化)」
Human Organization発行。

Marcus, Mariano, Doyle, Martin(1986年)著
「Truk state runaway study(トラック諸島の家出に関する調査)」
ポナペで行われたミクロネシアに関するセミナーで配布された未発行論文。

Marcus, Mariano, Hezel, Francis X(1985年)著
「Child abuse and neglect in Truk(トラック諸島の幼児虐待)」
ポナペで行われたミクロネシアに関するセミナーで配布された未発行論文。

Susan Stratigos, Philip Hughes(1987年)著
「The Ethics of Development: The Pacific in the 21st Century(開発の倫理:21世紀の太平洋)」からの抜粋。60ページから74ページ。
「The dilemmas of development: The effects of modernization on three areas of island life(開発のジレンマ:近代化が島の生活の3つの分野に与えた影響)」
(Port Moresby、UPNG出版社発行)

ミクロネシアン・セミナー
  • しまじま講座
  • ミクロネシアン・セミナー
  • ゼミ

このページのトップへ