1941年9月,英領インド当局はカザフ人に武器の放棄を条件に入国許可を与え,3,039人(1,000世帯)がインドに入国した。インド軍の命令に従ってカシミール州ラダックまで移動し,それからムザフェル・アーバードのキャンプに収容された。このキャンプでの生活は,劣悪で伝染病が蔓延し,死亡者が続出して2年間で約1250人に激減してしまった。
43年末,約450人は列車でボパールに向かい,同地のキャンプに収容された。市当局はキャンプ内に「カザフ・センター」というと産施設と学校を開設した。授産施設では革鞄や刺繍の製作が教えられた。家庭ではカルパク(革製の帽子)や手袋を作り,町で売り歩いて日銭を稼いだ。その後,市当局は町はずれにカザフ人を定住させた。この地区はカザフ・アーバード(カザフ人街)と呼ばれた。その他の約七百人は山岳地帯に移住した。彼らの生活も楽ではなく,ペシャワール,ラワルピンディなどの都市に行商に出かけ日銭を稼いでいた。カザフ人の生活はインド入国後もずっと貧しい状態が続いていた。
47年8月にインドが独立し,パキスタンもインドから分離独立した。インドではヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が表面化し,イスラム教徒は避難民としてインドからパキスタンへ移住を余儀なくされた。イスラム教徒であったボパール在住のカザフ人も同郷のカザフ人が定住していたパキスタンのペシャワールなど移住した。
パキスタンのカザフ人たちは無国籍のままであったので,パキスタン国籍取得のためパキスタン政府に申請した。しかしパキスタンは中国との外交関係を配慮したのか,この申請を却下した。カザフ人にとりパキスタンも安住の地にはならなかったのである。次なる安住の地として,トルコ系諸民族が生活している土地で唯一の独立国であるトルコ共和国への移住を考え始めた。彼らには,これを実現する具体的な糸口がなかなか見いだせなかった。50年2月14日ラホールでバトゥー・トルコ大使と会見する機会ができたので移住希望者リストを手渡した。かすかながらもこの糸口に希望をかけることとなった。
51年10月17日,ペシャワール在住のカザフ人たちは,「東トルキスタン・カザフ難民協会」を組織し,相互扶助やトルコへの移住実現に次のことを決めた。
トルコへの移住実現のため在パキスタン・トルコ大使館と連絡を密にすること。必要ならばトルコに代表を派遣してトルコ政府高官に直接請願すること。
パキスタン政府と良好な関係を維持し,パキスタン政府から移住問題で支援を取りつけること。
中華人民共和国によるいかなる企てにも一線を画すること。
東トルキスタン同胞が個人,家族を問わずパキスタンかインドに来た場合,必要な協力や支援をすること。
その一方で,在パキスタン中国大使館員がカザフ人への個別訪問や手紙により新疆への帰還を促した。この動きに対して,カザフ難民協会はカザフ人同胞に中国大使館の言動を信用しないよう注意を喚起し,大使館から送付された雑誌や手紙を回収し,これを大使館に返送した。しかし大使館の工作やパキスタンでの生活苦から,52年7月に海路11名,53年4月に陸路19名が新疆に帰還した。その後も中国大使館員はカザフ人にさまざまな接触を試みたが失敗している。これら30名を除いたカザフ人たちは,結束が堅く中国側の工作に乗らなかった。新疆で漢人による圧政を覚えているので,中国大使館からの新疆帰還の誘いを断固拒否したのであった。 カザフ人はトルコ政府に対して大使館経由やその他のルートでトルコ移住の請願をたびたび提出した。これに対してトルコ政府は52年3月13日付け閣議決定により,「東トルキスタンからインドに避難しているトルコ系350人,その他にパキスタン,サウジアラビアに亡命しているトルコ系1,500人の合計一850人を定住者としてトルコに受け入れる」が決定した。当時のトルコは東西冷戦の激化によりブルガリアなどからトルコ系避難民を大量に受け入れていて,そのような脈絡からカザフ人も受け入れられている。
53年8月31日,カザフ人を代表してハリーフェ・アルタイとハムザ・イナンがトルコ大使館を訪問してトルコへの渡航経路や手続きについて話し合われ,アルタイがカラチに残り出国続きをすることとなった。渡航費用は,トルコやパキスタン政府からの援助はなく自弁しなければならなかった。新疆からパキスタンまで流浪の旅を続け,貧しいカザフ人にとり渡航費用の捻出は容易ではなかったが,金銭を都合しあって乗船券をようやく購入することができた。アルタイは53年の4ヶ月間カラチに滞在し,ひとりでカザフ人全員の渡航手続きをした。彼はパキスタン出国からイスタンブル到着までの様子を次のように感慨深く語っている。 「カラチに4ヶ月間滞在したが,宿賃はすぐに底をついてしまい,2ヶ月間はモスクに宿泊し,残り2ヶ月間はバラック小屋を借りて夜露をしのいだ。渡航手続きもようやく完了し,最後のカザフ人グループに加わってカラチを出港した。乗船券はデッキ・クラスであったので,波しぶきのかかる甲板上でカザフ人は身を寄せ合って過ごした。カラチを出航して11日でバスラ港に入港し上陸した。バスラからバグダード経由の鉄道で憧れの国トルコに入国し,54年1月12日イスタンブルのハイダル・パシャ駅に到着した。我々の目にはイスタンブルが何と活気のある大都市に見え,とうとう到着したという感激と安堵感で一杯であった」
53年9月12日から12月26日までの4ヶ月間に合計1,379名(430世帯)がトルコへ移住した。カザフ人は,41年のインド入国以来,トルコ入国を果たすまで10年余,また新疆アルタイ地方を離れてから20年余りの歳月が流れていた。アルタイ地方を離れた時には,1万とも2万とも言われたカザフ人はいろいろな原因により減少し,最終的にトルコに入国できたのは1,400名弱に過ぎなかった。