Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第501号(2021.06.20発行)

海洋とリンの枯渇問題

[KEYWORDS]リン循環/光合成生産/リン資源
(国研)産業技術総合研究所上級主任研究員◆鈴村 昌弘

沿岸海域に富栄養化現象を引き起こし水質汚濁の原因物質となるリン。
一方で海洋の光合成生産を支え豊かな水産資源と生物多様性をもたらす重要な栄養塩でもある。
海洋にとって、そして人類にとってのリンという元素の枯渇が、海洋生態系、産業技術の持続、さらに人類の生存に関わる深刻な問題となりつつある現状について論じる。

海洋生態系のリン枯渇

リンや窒素といった栄養塩は海洋生態系を支える「光合成」の反応に欠かせない元素であり、リンの循環が適切に保たれた沿岸域は、江戸前と呼ばれたかつての東京湾奥部のように多様な水産資源を提供する豊饒の海となる。しかし、ひとたび過剰量のリンが負荷されると(図1左)、赤潮の発生、有機汚濁、底層の貧酸素化などが進行し、リンの負の側面がクローズアップされる。一方、陸域から隔絶された広大な外洋域の表層水中ではリンは極めて希少である。窒素とリンを比較した時、海水中の存在比から窒素がより枯渇しやすいと従来は考えられてきた。しかし、大気や海水中に大量に存在する窒素分子を利用することができる窒素固定生物が海洋に広く分布し、特に外洋においては、窒素固定を駆動するためのリンが不足する現象が確認されている。

■図1 海洋のリン循環。(左)富栄養化の進行した沿岸海域、(右)リンの枯渇した外洋表層水。*は微生物のリン枯渇対策

広大な海洋において、リンの枯渇は安定した一次生産や生物多様性を脅かしかねない重大な問題である。近年、このようなリンの枯渇した環境に対して、外洋域の微生物は様々な生存戦略を講じていることが分かってきた。海水中には、無機リン酸塩(オルトリン酸)と有機態リン(DNAやリン脂質などの生体分子を構成するリン)が存在している。無機リン酸塩はいわば「白米の握り飯」のようなもので、微生物にとって極めて食べやすい(利用しやすい)物質である。一方、有機態リンは栄養に富んだ御馳走のようにも見えるが、例えるなら撃ち捕ったばかりの獲物(ジビエ)のようなものであり、微生物が直ちに利用できるものではない。従って「リン枯渇」とは無機リン酸塩の枯渇を表すものと考えて差し支えない。
海洋微生物のリン枯渇に対応するための代表的な機能と対策を紹介する(図1右)。①複数の輸送チャンネルによる極低濃度のリンの効率的な取り込み、②過剰に取り込んだリンの貯蔵、③海水中の有機態リンの利用である。③では、上述したように本来利用の難しい有機態リンを強引に細胞内に輸送する経路を構築する方法と、酵素を合成・放出して有機態リンを無機リン酸塩に転換(無機化)する仕組みが知られている。さらに究極の戦略として、④生物にとって根源的で、かつリンがその主要構造を担う器官(遺伝子や細胞膜)中のリン含量を極限まで低減する微生物も存在する。いずれの対策も生物にとって大きな負担を強いる仕組みである。貧栄養海域の微生物はリン節約の工夫を最大限凝らし、リン枯渇環境に適応したもののみが生存を許されているのである。
気候変動に伴う表層海水温の上昇は海洋の成層構造を安定させ、深層から表層(有光層)への栄養塩供給を抑制すると推測される。また海洋酸性化はpHに敏感な有機態リン分解酵素の活性に影響を及ぼすことが懸念される。海洋の微生物群集はこれまで培ってきた戦略が通用しない、より厳しい状況に追い込まれるかもしれない。リンの利用効率の変化は光合成生産に直結し、その影響は海洋の食物網全体に波及する。水産資源への依存度が世界的に高まっていく中で、海洋のリン枯渇は深刻な問題に発展してゆく可能性を内包している。

人類のリン枯渇問題

■図2 2018 年リン鉱石統計(億トン)

海洋の微生物は「爪に火を点すような思い」でリンを節約しているが、翻って人類はどうであろうか。個体レベルでは、体内のリンの約8割が骨(アパタイト:リン酸カルシウム)として使われている時点で比ぶべくもない。この元素が人間の尿を煮詰めた中から初めて発見されたという事実も興味深く、体内に過剰量のリンが溜まらないように調整されていることを示している。人類を含めた動物はリンに比較的恵まれた環境で進化してきたのであろう。一方で「肥料の三要素:窒素、リン酸、カリ」と呼ばれるように、陸上植物にとってリンは生産量を制限する重要な因子である。かつては堆肥などの有機質肥料がリンの不足を賄っていた。しかし20世紀以降の世界人口の急増を支えた膨大な食糧生産は化学肥料の利用に依るところが大きい。
地下資源(リン鉱石)から生産されるリン肥料と、大気から合成可能な窒素質肥料とは全く様態を異にする。リン鉱石資源の供給が滞れば、個体としてリン枯渇に適応できないわれわれ人類は直ちに生存を脅かされる。また食品、自動車、半導体などさまざまな産業においてリンは極めて重要かつ代替が困難な素材であることはあまり知られていない。次世代型リチウム電池などカーボンニュートラルの実現に不可欠な各種の革新的技術においてもリンは必須の元素である。
経済可採埋蔵量としてのリン鉱石資源は今後数十年で枯渇すると推定され、リン鉱石に含まれる高濃度の重金属や放射性元素を考慮すると、可採量の評価には環境影響に基づくより厳しい制限が求められる。さらにリン鉱石資源は偏在しており、2018年の統計によれば世界の経済可採埋蔵量と年間採掘量の80%が上位数か国に占められている(図2)。アメリカは資源枯渇を理由にリン資源の禁輸措置を講じ、EUでも重要原料資源のリストにリンを加えている。日本はリン鉱石の100%を輸入に頼っているが、既に容易に手に入る資源ではなくなっているのである。

リン資源の循環と海洋環境

EUでは下水処理場等からのリンのリサイクルに関する技術革新と法整備を進めている。ひとたび水環境中に放出されたリンを集めることは困難であり、下水汚泥などから回収することは資源循環の効率性の観点で適切である。一方でリンは海洋生態系の必須栄養塩であることも忘れてはならない。リン回収技術の顕著な技術革新が、海洋全体のリン循環や光合成生産を揺るがすことは考え難いが、沿岸海域では重大な影響が引き起こされる懸念がある。近年、下水処理場の順応的管理によって適切な栄養塩供給を行い水質の維持と豊かで実りある沿岸生態系の両立を図る試みが進められている。場合によっては相反するリン資源リサイクルと海洋のリン循環について、さらなる理解を進めると同時に分野横断的議論を速やかに開始することが求められている。(了)

第501号(2021.06.20発行)のその他の記事

ページトップ