Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第467号(2020.01.20発行)

陸の考古学者は水中の文化遺産になにを求めるか

[KEYWORDS]考古学/海の遺跡/多彩な歴史像の構築
東京大学大学院総合文化研究科グローバル地域研究機構特任研究員◆杉山浩平

四方を海に囲まれている日本では、海を介したヒトの交流が先史以来多く行われてきたにもかかわらず、先史から古代の歴史像の大部分は、陸の遺跡の考古学的調査や古記録など、文献史学の研究成果に依存している。これまでの歴史研究においては、海の視点が失われている。
海岸・水中・島嶼に残る遺跡からの歴史研究を進めることで日本の歴史像はより豊かなものになっていくことが期待される。

水の中の遺跡

佐賀県の吉野ヶ里遺跡や青森県の三内丸山遺跡の名前は、たとえその地を訪れたことがなくても、ご存じの方は多いだろう。遺跡を通じて、日本列島にさまざまな歴史と文化が存在したことが、マスコミ報道により広く知れ渡っている。一方で、同じくマスコミ報道を通じて、しばしば私たちが接するものに、海のなかの遺跡がある。最も多いものは沈没船の発見の報道である。近年では、太平洋戦争時の艦船が発見され、話題を呼んでいる。ほかにも、テレビ番組で沈没船に眠る財宝の「発掘」(海外の事例ではときおり宝探しのような行為が発掘として紹介されることがあるので、あえて括弧付きで表記する)を扱う場面を見ることがあるだろう。
そのためか、水の中の遺跡・文化遺産=沈没船というイメージを持つ人が多い。実際に、筆者が教えている大学で「水中考古学といってイメージするものはなにか」とアンケートを採ってみても、その通りである。しかし、沈没船以外にも、水の中には遺跡が存在している。地盤の沈降や河川の流路の変更、そして海水面の上昇などで、地上にあった遺跡が、水面下になることがある。
四方を海に囲まれた日本では、ヒトの活動領域は陸地に限らず、海・河川や湖沼を含めた海上・水上域にも及ぶ。そして、その領域に、現在にまで残るヒトの痕跡としての遺跡がある。しかし、一般の人々も「遺跡」といったときに、水中に沈んでいる遺跡を知っているだろうか? 本文ではささやかながら、水中に沈む遺跡・文化遺産の研究へ期待を含めて記したい。沈没船だけでなく、私たちの近くの水辺にも、気づかれずに消滅の危機にある遺跡が存在しているのである。

陸(おか)の考古学が築いてきた歴史像

ヒトが作り出した物質資料(物資)と、それを取り巻く自然・文化環境から人類の歴史を研究するのが、考古学である。そして、考古学の最も基礎的な研究手法が、人類が活動した痕跡である「遺跡」と残したモノである「遺物」の発掘である。日本では1877年に東京都の大森貝塚の調査と研究から始まり、1960年代から80年代ではニュータウン開発や高速道路建設に伴う大規模な発掘が行われた。遺跡の破壊と引き替えに考古学は大きく市民権を得て、日本の歴史像の構築に寄与してきた。いま私たちが思いつく先史から古代の歴史像は、丘陵や低地などの「陸」の地域で発掘された資料をもとに描かれてきたのである。こうした資料に基づく考古学研究を仮に「陸(おか)の考古学」と呼び、その研究者を「陸の考古学者」と言っておこう。私も「陸の考古学者」の一人であり、現在日本国内で活躍する考古学者の9割以上は「陸」を対象に研究しているといっても過言ではない。
しかし、ヒトの活動領域は丘陵や低地の「陸」にとどまる訳ではない。「海辺・海洋・島嶼」でも当然ながら様々な生活がなされていた(図1)。しかし、これまでの歴史研究において、民族学の岡正雄や中世史研究の網野善彦は、海の重要性を指摘していたものの、考古学では、膨大な「陸の考古学」で出土した資料の研究に明け暮れ、海が振り向かれることはなかった。東アジアの世界において、海を介した交流は私たちが想っている以上に、先史・古代から行われていたにもかかわらず、である。

■図1 考古学が対象としてきた地理的範囲

水中の文化遺産になにを求めるか

■図2 三宅島の富賀浜遺跡(矢印先が割れた土器)

海を介したヒトの交流の実態は、どのように明らかになるのだろうか。ある土地で生み出された「物資」が、遠くの地で出土したとする。その両地域の間において、その「物資」の出土が確認できない場合、それはヒトにより運ばれたと考古学では考える。「物資」が土器や金属器などの物体である場合もあれば、稲作や墓制などの習俗・文化の場合もある。縄文時代の伊豆諸島産の黒曜石製石器、弥生時代の関東地方への水田稲作文化の伝播などは、ともに海を介したヒトの交流がもたらしたものである。
人々が海を渡るとき、海辺では航海の安全などを願った祭祀が行われた。その痕跡である遺跡が現在、海面水位の上昇などで壊滅の怖れがある。たとえば、伊豆諸島の三宅島の富賀浜(浜の裏には静岡の三島大社の総社で伊豆諸島の総鎮守と言われる富賀神社がある)では、古代の土器が地中に複数埋められ、祭祀活動が行われた遺跡がある。しかし、現在、波や海岸の礫に遺跡が洗われてしまい、埋設されている土器の約半分が消滅してしまっている(図2)。繰り返される三宅島の火山噴火を鎮める想い、そして黒潮を渡り、伊豆の島々に渡る船の安全を祈る想いの遺跡が消滅しかかっている。
現在の日本で考古学研究に携わる人の多くは、都道府県・市町村の教育委員会に所属している。日々、遺跡の調査と保護、そして活用に明け暮れているなか、「水中の文化遺産」までは、特殊な例を除いてなかなか手が回らないのが現状である。遺跡保護の基軸となる法整備も、検討課題が山積していることが、2019年7月に開催された日本海洋政策学会主催の公開シンポジウム「水中文化遺産へのアプローチ」でも取り上げられていた。
現在私たちが知る歴史の大部分は、「陸」の地域で明らかになった歴史である。しかし、日本の地理・地形の特徴を鑑みれば、水中の文化遺産の研究から明らかになってくる歴史を欠かすことはできない。それは、「陸の考古学」が主として形成してきた歴史像をより豊かなものに変えていくだろう。現在において、沿岸から海の研究は、ほぼ手つかずであり、この空間で、なにがおき、人々がなにをしようとしていたのか、私は知りたいと強く思う。水中の文化遺産の研究と遺跡の保護のより一層の進展を期待している。(了)

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