新型コロナウイルス感染症COVID-19のパンデミックがもたらす新たな安全保障世界観

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秋元一峰,笹川平和財団海洋政策研究所特別研究員

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 およそ3300年前の『ギルガメシュ叙事詩』には、メソポタミアの古代都市ウルクの国王ギルガメシュが盟友エンキドゥと共に森の神フンババを殺してレバノン杉を手に入れたと記されている。レバノン杉は伐採され尽し森は砂漠化した。ギルガメシュにフンババ殺害を進言したエンキドゥは疫病神に取りつかれて命を落とす。その後、ギルガメシュは永遠の命を求め続ける。人類史上最初の物語は、利権を巡る紛争と環境破壊と疫病の連関、そして連綿と続く命を守ること、つまり人類の安全保障の重要性を啓示している。
本稿では新型コロナウイルスSARS-Cov-2による感染症COVID-19のパンデミックが、冷戦後の国際安全保障の舞台となってきたグローバリズムと、21世紀人類の大きな課題である地球温暖化対策への取組みに及ぼす影響について考察する。
 
1.グローバリゼーションとパンデミック
 グローバリゼーションと疫病の大流行には相互作用がある。14世紀のユーラシア大陸を襲った黒死病(ペスト)と1918年から1920年に掛けてほぼ全世界に広がったスペイン風邪を見てみよう。
 14世紀にパンデミックを引き起こした黒死病の発生源については、中国説が有力である。1334年に浙江流域で悪疫が流行り、500万人が死んだという中国の記録があるそうだ。黒死病がヨーロッパを中心に各地で流行し始めたのは1347年頃からである。
 当時のユーラシアは、モンゴル帝国が支配する“ユーラシアグローバリズム”の真っただ中にあった。パックス・モンゴリカの下で、マルコ・ポーロのような商人達がユーラシア大陸を行き交った。そのような商人が残した記録に、「1347年、パレスチナのガザ地区で疫病が蔓延している」との記述があるそうだ。黒死病は瞬く間にヨーロッパから北アフリカに掛けての全域に拡散し、およそ3分の1の人口が失われたとされる。黒死病は、新型コロナウイルス感染症COVID-19と同じように、地中海貿易で栄えたベネチアやフィレンツエにも大きな被害を与えた。ちなみに、隔離Quarantineはベネチアの方言由来だそうだ。
 新型コロナウイルス感染症COVID-19のパンデミックも、グローバル化と中国依存のサプライチェーンがもたらした産物であることは確かだ。グローバル化のもと、疫病は国境の壁を越えて拡散する。
 スペイン風邪は、1918年から1920年に掛けて世界各地に蔓延するパンデミックを引き起こした。スペイン風邪の流行は、第1次世界大戦の最中の1916年頃から始まっていた。1916年にはフランス、1917年にはアメリカの駐屯地で感染が広がっていたが、紛争当事国のドイツ、イギリス、フランス、アメリカなどでは情報統制が敷かれていたため、疫病流行の報道は規制された。そのために、もっぱら中立国のスペインでの流行が大きく報じられ、スペイン風邪と呼称されたものである。スペインが発祥ではない。世界中でおよそ5億人がスペイン風邪に感染したとされる。これは当時の世界人口の4分の1に当たる。1914年のサラエボ事件に端を発した第1次世界大戦は1918年まで続いた。この間、7千万人以上の軍人が世界に広がる戦地に動員された。つまり、スペイン風邪は戦争のグローバル化がもたらしたパンデミックであった。
 
2.パンデミックが及ぼした社会・国際構造のパラダイムシフト
 黒死病もスペイン風邪も、それまでの社会を律してきた理念と国際構造に大きな変化をもたらした。
 100年戦争の最中とは言え、黒死病は武力紛争に連動しなかったことから、ユーラシアの地政学的構造が動くことはなかったが、ヨーロッパにおける農業と文化に革命的な変化を与え、それが権力構造を一変させた。農奴に依存していた荘園制が消滅し、それによって封建制度が崩壊した。教会の権威が失墜して宗教改革が起こり、ルネサンスが一気に進展した。中世ヨーロッパの既存のレジームは大きく変化した。
 スペイン風邪パンデミックは、第1次世界大戦の終結後に始まった。そのため、スペイン風邪は終戦後の世界の再構築に大きな影響を与えた。主権国家の境界は強固なものとなり、政治における強いリーダーシップが希求された。ポピュリズム的な政党が支持を得て、ナチス主義を台頭させた。トーマス・W・ウイルソン米大統領の唱える国際連盟の理念をしり目に、世界は勢力ブロック化の道を進んだ。
 
3.新型コロナウイルス感染症COVID-19は社会秩序と国際構造にパラダイムシフトをもたらすか?
 新型コロナウイルス感染症COVID-19のパンデミックは、既存の社会秩序や国際構造にどのような影響を及ぼし、どのような世界を創りだすであろうか。それを仮定することは、今後の世界を取り巻く安全保障環境を予測する上において必須である。更に必要なことは、予測した安全保障環境に対して、世界はいかなる社会秩序や国際構造を構築して安定化を図るべきかを協議することであろう。
 新型コロナウイルス感染症COVID-19のパンデミックが終息した後の世界を主導する国はどこであろうか?
 今のアメリカは、“アメリカファースト”を掲げる大統領が政治主導する国である。アメリカに、衡平で普遍性ある世界秩序再構築のためのリーダーシップを発揮することを期待できるであろうか?
 中国は、世界的な台頭を目指す国である。アメリカが“アメリカファースト”を追求する中で、中国は“中華”概念を内的観念として国威を高め、世界的な影響力の発揮を図っていくだろう。
 そのアメリカと中国は、新型コロナウイルス感染症COVID-19のパンデミックの因果関係などを巡って対立をエスカレートさせている。ウイルス発生源について、アメリカでは一部メディアが中国科学院武漢ウイルス研究所からの流出の可能性を報道し、中国では外交部報道官がツイッターでアメリカ軍が持ち込んだと公然と述べている。在シカゴの中国総領事がウイスコンシン州議会上院議長に、中国の新型コロナウイルス感染症COVID-19への対応を称賛する議決案文を送るなど、中国の海外公館等による宣伝工作が露骨になる中、アメリカ国内では嫌中感情が高まっている。軍事面を見れば、空母セオドア・ルーズベルトでのウイルス感染などでアメリカ軍の行動が制約される中で、中国人民解放軍海軍の南シナ海や西太平洋での活動が活発になっており、アメリカ国防総省は神経を尖らせている。新型コロナウイルス感染症COVID-19のパンデミックがもたらしている両国の対立のしこりは、容易に解消するとは思えない。アメリカと中国の離反の動きは続くだろう。今後、アメリカと中国は国際社会全体を巻き込んで外交、経済、安全保障などあらゆる場面で対立を鮮明にしていくであろう。
 ヨーロッパ諸国はどうであろうか?新型コロナウイルスCOVID-19蔓延阻止のための都市封鎖によって、欧州連合加盟国の国境は閉ざされる事態となった。イギリスの欧州連合離脱に続く都市封鎖で、欧州連合の理念が失われるとの危惧が聞かれる。1648年のウエストファリア条約は、ヨーロッパにおける排他的国家権力と勢力均衡を新たに確認するものであった。現在の欧州連合は、このウエストファリア体制の歴史の上に構築されている。歴史が繰り返されることは往々にして有り得ることだ。欧州連合諸国における中国との関係は一枚岩ではない。「一帯一路構想」に加盟したイタリアは、中国から新型コロナウイルス感染症COVID-19対応において支援をうけている。イギリスやフランスでは中国の所謂「マスク外交」にむしろ警戒心を示している。今後、対中国外交を巡って欧州連合に亀裂が入ることも予期すべきであろう。
 確かなことは、新型コロナウイルス感染症COVID-19終息後の世界において経済活動を再活性化させたいのであれば、グローバル化を閉ざしてはならないことであろう。その中において必要なことは、グローバル化を編成し直す発想である。まずは、現下の中国に過度に依存するサプライチェーンは見直されるべきである。
 グローバル化する世界では、勢力均衡の概念は薄れ、国際的な影響力のバランスが強く意識される。グローバル化の行方を左右する影響力については、国際社会の中で巧く均衡を図る必要がある。重要なことは自由民主的な統治を広め、権威主義的な動きを封じ込めることである。
 他方、新型コロナウイルス感染症COVID-19の発生とパンデミックへの各国の対応を科学的に検証することが重要であろう。そこにおいて、フェイクニュースやいわゆる“戦狼外交官(強硬な主張をする中国の外交官を指す俗語)”がパンデミック対応に与えた影響の実態調査も必要である。
 グローバル化の再編成のためのバックボーンとして、自由民主主義に基づき国際法を遵守する法治国家が協調して、国際安全保障態勢を確立することの必要性を再確認しなければならない。笹川平和財団海洋政策研究所では、2019年度から3年計画として、地球海洋を間断なく周回する航路“Blue Infinity Loop”によってもたらされる世界をイメージし、ブルーエコノミーや安全保障などの在り方に関する研究に取り組んでいる。その目的は、まさに新たなグローバル化のためのガバナンスの創出を目指すものであり、研究成果が新型コロナウイルス感染症COVID-19終息後の新たなグローバル化世界の構築のための、時宜を得た資料となることを確信している。
 
4.パンデミックは安全保障上の脅威
 冒頭の『ギルガメシュ叙事詩』に戻りたい。この人類史上最初の物語は、開発によってもたらされる環境破壊が重大な安全保障上の問題を引き起こすことを教示している。今、世界では、人的起因の気候変動による地球温暖化に、安全保障の側面から「気候安全保障」(Climate Security)として取り組む動きが広まっている。これに、「パンデミック安全保障」(Pandemic  Security)を付け加えるべきである。地球温暖化とパンデミックには相互作用があるからだ。
 本年4月15日、アメリカ航空宇宙局が、アメリカ北東部の大気中の二酸化炭素量が約30%減少していると発表した。新型コロナウイルス感染症COVID-19の蔓延を封じ込めるための移動や企業活動の停止が要因と考えられている。世界の主要都市で同じ傾向が見られるようだ。地球温暖化に歯止めが掛かっているのだ。
 実は、14世紀の黒死病の蔓延から19世紀までの間、二酸化炭素量が減少し地球は寒冷化していたとの気候分析結果があるそうだ。「パンデミック安全保障」(Pandemic Security)と「気候安全保障」(Climate Security)は、いずれもグローバル化におけるアジェンダとして共通するものであることを示している。新型コロナウイルス感染症COVID-19のパンデミック終息後のグローバル化の再構築においては、この「パンデミック安全保障」(Pandemic  Security)と「気候安全保障」(Climate Security)を考慮に入れるべきであろう。「気候安全保障」、「パンデミック安全保障」と経済発展を両立させるための知恵が求められる。国際連合が採択した、「持続可能な開発目標」(Sustainable Development Goals:SDGs)を達成するためにも、その知恵が必要である。
 笹川平和財団海洋政策研究所では、「気候安全保障」(Climate Security)の研究にも取り組んでおり、2021年春には国際会議を計画している。その成果は、「パンデミック安全保障」(Pandemic Security)への提言ともなるだろう。

(了)