Ocean Newsletter

オーシャンニュースレター

第414号(2017.11.05発行)

サンゴを原材料とする沖縄漆喰の盛衰 ― 沖縄・石垣島を中心に

[KEYWORDS]石垣島/沖縄漆喰/サンゴ
首都大学東京人文・社会系社会人類学分野准教授◆深山直子

沖縄では、サンゴ礁保全が喫緊の課題である一方で、サンゴの直接的利用の歴史は忘れ去られつつある。
しかしながら石垣島では、かつての伝統的左官が、採ってきたサンゴを加工して漆喰を製造し、瓦屋根をふいていたことを具体的に記憶している。

沖縄とサンゴ

沖縄では本土復帰を経て1970年代後半に入ってから、観光化が急速に進んだ。その過程で、亜熱帯地域独特の「青い海」と「白い砂浜」は観光資源として欠かせぬ存在になり、そのような景観を生み出すサンゴも広く認知されるようになった。なかでも石垣島では、1970年代末に新空港建設計画が明らかになり、それに対する反対運動が盛り上がる中で、建設予定地となった白保周辺海域に生息するサンゴ、とくにアオサンゴ大群落に注目が集まった。加えて観光化に従い、白保や川平の海域や西表島との間にある石西礁湖などにおいて、海中鑑賞を目的としたグラスボートの運航やマリン・スポーツが人気を博し、サンゴの豊かな島として全国に知られるようになった。しかしながら1980年代以降は、大量発生したオニヒトデによるサンゴの捕食や白化によるサンゴの死滅が深刻化している。その結果、サンゴ礁保全が喫緊の課題として論じられるなかで、サンゴは次第にひとが「愛(め)で守るべき生きもの」として位置付けられるようになっている。
ところが沖縄には、日常生活のなかでサンゴを身近な資源として多様なかたちで利用してきたという歴史がある。利用は、サンゴを建築のための資材・原材料とする直接的利用と、サンゴ礁という空間での活動を指す間接的利用に大別できる。間接的利用、具体的には浜に面したラグーン(礁湖)での魚・貝・海藻を対象とした自家消費目的の小規模な漁撈は、サンゴ礁保全と齟齬のないサスティナブルな活動として肯定的に捉えられる傾向にあり、今なお細々とはいえ継続している。対して直接的利用は現在では途絶えており、おそらくサンゴ礁保全とは相容れないようにみえることから、急速に忘れ去られつつあるように思われる。

沖縄漆喰の歴史

漆喰を作るためのサンゴ石の運搬風景
(1961(昭和36)年7月25日。八重山郵便局北付近)

しかしながら石垣島の集落内を歩くと現在でも、サンゴが利用されている古い住宅や聖地である御嶽(オン、沖縄本島などではウタキ)をあちらこちらで目にする。具体的には、住宅の柱の礎石、庭の敷石、御嶽を囲む塀、御嶽に置かれた香炉などである。その中でもひときわ加工度合が高いのが、石垣島ではムチゥ(沖縄本島などではムーチー)と呼ばれる沖縄漆喰だ。
漆喰は、古代より世界各地で利用されてきた粘着質の建築資材である。その原材料は、炭酸カルシウムを主成分とした「海の石」と呼ばれる貝やサンゴと、「山の石」と呼ばれる石灰岩に大別することができる。いずれの場合もまず熱を加えることによって、生石灰を生成する。次に生石灰に水を加え混ぜて消石灰を生成する。ちなみにこの段階では、化学反応として発熱が起きる。この消石灰の粉こそが漆喰の原材料だ。沖縄の場合には、消石灰に水のほか、刻んだ稲わらを加えて餅(ムチゥ/ムーチー)状になるよう混ぜ合わせ漆喰を作ることが一般的であった。墓の表面の加工や、古くは船板や骨壺の蓋の接着にも使われたが、主たる用途は何と言っても瓦屋根の目地を塗り込むことだった。
さて、漆喰にまつわる仕事としては、①漆喰製造、②左官仕事、③瓦製造、④瓦葺き、が挙げられる。琉球王府時代、建物の瓦葺きは町方(首里・那覇)の首里城、寺院、一部の士族、地方では役所たる番所にのみ許可されたという。すなわち先の①~④は、瓦奉行所の管轄下に置かれた都市特有の職業であったと考えられる。ところが1889年に民間の住宅にも瓦葺きが許可されたことによって、漆喰と瓦、そしてそれに関連する職業に対する需要は増加した。戦後になってもしばらくは沖縄各地で、窯焼きにより生石灰が生成されていたことや、漆喰が製造されていたことが指摘されている。ところがセメントをはじめとする新たな建築材や技術の流入によって、急速に下火になっていった。1972年の復帰の年に沖縄県漁業調整規則が制定され、「サンゴ漁業」はもとよりサンゴ起源の「土砂・岩石の採取」が禁じられたことで、ほぼ完全に終止符が打たれたと思われる。

石垣島の左官たち

漆喰製造用の窯(1965(昭和40)年1月1日。字登野城)
(写真(2点とも):石垣市教育委員会市史編集課所蔵・提供)

沖縄本島から遠く離れた石垣島では、1897年代までは首里・那覇の左官が一時的に滞在しながら仕事を引き受けていたという。しかしながら需要の増加を背景に、1907年頃には定住する左官が登場した。戦後も本島に比べると、伝統的な赤土の瓦から漆喰を必要としないセメント瓦への切り替えは、遅々としていたとみえて、1950年代から60年代にかけてはなおも①~④が盛んだった。しかし大型台風災害が続いたことによってコンクリート建築が増加していくなかで、1967年には最後の瓦製造工場が閉鎖した。そしてそれまでのような伝統的な左官の仕事も衰退していったと考えられる。
私が2009年から数年にわたって断続的に実施した石垣島での現地調査の際には、少なからぬ高齢者がサンゴを焼くドーム状の窯が島内各地にあったことを記憶していた。さらに、少なくとも①と②を行っていた元左官のT氏(1928年生)とM氏(1933年生)、そして既に亡くなったA氏(1911年生)の妻が健在であった。かれらに左官になるまでの経緯を聞いたところ、A氏とM氏は他の職業を経た後に自身で始めたのに対して、T氏は先祖が代々首里で左官だったが祖父・父の代で石垣島に移住しそれを継承したとのことであった。各々、自ら建てた窯を持ってその中でおよそ「二晩三日」かけてサンゴを焼き、生石灰を作っていたという。原材料となるサンゴは、A氏は妻と共に、「バッタンジ(浅瀬)渡ってピー(礁縁)のはしっこに行き、ティンガラ(金棒)でペーヤギイシ(サンゴ)を折る」と述べたように、自ら採取したのに対して、T氏は漁民である宮古から移住した住民が海から採取したサンゴを買い取ることが多かったという。一方、M氏はやはり漁民である糸満から移住した住民から買い取ることもあったが、自ら浜に上がったサンゴを採取することもあったと語った。A氏は1970年辺りで廃業し、T氏は1960年辺りで漆喰の製造をやめて沖縄本島から購入することにし、M氏は1970年代に入りしばらくして購入に切り替えたという。
3人の語りからは、サンゴを資源として捉える視点に基づいた、サンゴの生態、採取方法、加工方法などに関する具体的で詳細な知識が明らかになった。石垣島の住民にとって、かつてサンゴは「愛(め)で守るべき生きもの」である以前に、「採り使うべきもの」であった。だからこそ、今以上にサンゴは身近な存在だったとも言えよう。地域社会を主体にひととサンゴの共生の方策を講じる際に、このような歴史を看過してはならない。(了)

第414号(2017.11.05発行)のその他の記事

ページトップ