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オーシャンニューズレター

第328号(2014.04.05発行)

第328号(2014.04.05 発行)

開国への扉を外から叩いた男--幕末の漂流民、音吉

[KEYWORDS]幕末漂流民/開国への扉/国際人
音吉顕彰会会長、元美浜町長◆齋藤宏一

今から182年前、尾州小野浦を出港して以来、5年ぶりに帰国した漂流民、音吉達は上陸を拒否され海外で生きなければならなかった。中国を拠点として英国の商社に勤め、世界初の聖書和訳に協力し、米英の宣教師をはじめ多くの人脈により、開国への扉を外から叩いたのである。この事は日本史には記されないことであった。

小野浦を出港、嵐で遭難

■音吉航海図

1832(天保3)年、1500石船宝順丸が尾州小野浦(現、愛知県知多郡美浜町)から、米や塩、陶器を積んで江戸に向かって出港。乗組員14名の中に14歳の音吉も乗っていた。不運にも遠州灘で嵐にあい太平洋を漂流し、1年2カ月に渡る船上での苦闘の末、生き残った音吉、久吉、岩吉の3名は米国ワシントン州、ケープアラバへ漂着した。極寒の海であったが、漂着地は米国先住民マカー族の集落であり、早く発見、保護されたおかげで初めて米国の土を踏んだ日本人となった。この漂着を知った英国商社ハドソン湾会社の総責任者マクラフリン博士により、マカー族から引きとられ、砦の中の学校で先住民の子供たちと共に英語教育を受けたのである。
余談であるが、このことがチヌーク族の首長の娘と英国人との間に生まれたラナルド・マクドナルド(当時10歳)との縁となり、1848年、マクドナルド24才の時、北海道の利尻島へ密入国する因となるのである。マクドナルドは長崎で、アメリカへ送還されるまでの間、森山栄之助等に英語を教えた。その後に、森山はペリーの日米交渉に日本側の筆頭通訳を務め、一方でマクドナルドは日本で初の英語教師と呼ばれるのである。

長い帰国への航海で英語を覚える

小野浦を出港してより2年後の1834年11月25日、待ちに待った帰国に向けての航海となる。途上、ハドソン湾会社ハワイ支店で17日間滞在し、英国ロンドン湾へ着いたのは6カ月後である。ロンドンでは1日のみ上陸を許され市内を見学、日本人として初めてのことであった。再び英国から6カ月の航海にて、アフリカ、インドを回り、1835(天保6)年、中国マカオに到着。オランダ伝道教会の宣教師ギュツラフの元にあずけられる。マカオでの1年間は、ギュツラフに協力して聖書翻訳の日々であった。そしてシンガポールにて世界最初の和訳聖書『約翰(ヨハネ)福音之傳』上中下が印刷出版された。
1837(天保8)年7月米国オリファント商会のキング氏等の努力で、モリソン号で5年ぶりに帰国の日を迎えるのである。その船には九州の漂流民4名と米国宣教師、S.W.ウイリアムズも乗っていた。ウイリアムズは後にペリー来日の日米交渉における米国側の通訳を務め、日本側の通訳森山栄之助と日本史に残る日米和親条約(1854(嘉永7年)3月)の大事業を成したのである。奇しくも、この両人共が音吉の心情を知り尽くした人でもあった。

モリソン号事件

1837年7月30日、米国オリファント商会の船モリソン号で5年ぶりに日本の浦賀の港へ帰るも、幕府の無二念打払い令(異国船打払令)により、話し合いの余地も無く砲撃を受け退去せざるを得ず、九州鹿児島にて再度の上陸を試みるも再び砲撃を受けて、7名の漂流民は祖国を目前にしながら断腸の思いで日本を後にした。この事件を遠因として、渡辺崋山、高野長英が自刄となる蛮社の獄へと進むのである。
祖国より見捨てられた7名の漂流民は、外国で生きてゆくしかなく、それぞれの道を歩む事になるが、音吉は上海の英国デント商会へ就職(1843年)までの7年間に、アメリカ、ヨーロッパで多くの海外体験をすることとなった。

上海にて多くの漂流民の帰国を助ける

上海デント商会での音吉の活躍は目覚ましく、日本からの多くの漂流民の帰国を助け、培った英国との太い絆を生かし、摂津の栄力丸の漂流民※1の引渡しを要求するペリー提督と堂々と渡り合い、彼等を無事日本へ帰すのである。音吉が面倒を見て帰国させた数は6件以上あり、自分達が帰国できなかった苦しみを思い、帰国への援助を続けた音吉の行いは賞されるべき事であるが、何故か帰国漂流民よりの報告に残されていないことは不思議なことである。
日米和親条約締結の5カ月後、英国スターリング艦隊で来日した音吉は、英国の通訳として日英和親条約の締結(1854年(安政1)年)に尽くした。この頃の音吉は、漂流後の20数年の海外生活の中で培われた堂々たる国際人であった。1855年1月13日と4月28日号のイラストレイテッド・ロンドンニュースに、イギリス艦隊の日本到着の記事が載せられている。この記事には、音吉による日本船のスケッチとともに、日本の天皇制、国家のしくみや、神道・仏教・儒教が日本の3大宗教であり、その教えを守る国民であることが紹介されている。この長文にわたる内容を読むと、14歳から海外生活となった音吉の、日本での当時の教育レベルの高さに驚かされる。

シンガポールで遺欧使節団を迎える

1862年(文久2年)シンガポールに寄港した幕府遺欧使節団の宿舎を訪ねた音吉はまさに40代の働き盛り。日英和親条約の締結で来日して以来8年目のことである。使節団に自分の身の上と、中国と英国との戦い、中国内の太平天国の乱等、海外の実情を節々と語ったと伝わっている。その中の一員であった福沢諭吉は『西航記』中にその一部を記している。またその後訪れた森山栄之助、田中廉太郎等も音吉の邸宅まで案内されている。
晩年音吉はシンガポールを定住の地として、日本人として初の英国への帰化をし、親族で貿易会社を設立するも、残念ながら苦難の海外生活で健康を損ない1867年1月18日、49才の短い生涯を終えたのである。まさに彼の夢は、スエズ運河の開通(2年後)を見すえて日本に近く、アジア・ヨーロッパ・アメリカへの拠点としてのシンガポールの地の利を考えての定住であったように思えてならない。

おわりに

筆者は、音吉の顕彰事業※2を始めて26年が経過した。多くの人々の御協力により一歩一歩音吉の足跡が解明され、今日では幕末の日本、そして開国を動かした人々と音吉を取り巻く人脈が見えてきた。海外に生き、祖国日本が世界に開かれた平和な国となることを信じ、息子ジョン・W・オトソンに日本へ帰るようにと言い残した音吉の思いが浮かんでくるのである。(了)

■音吉顕彰会では音吉の足跡を訪ね、現地との草の根交流を行っている。バンクーバーにある石碑と彼が漂着したワシントン州ケープアラバの海岸。

※1 栄力丸漂流:1850(嘉永3)年10月紀州熊野浦沖にて漂流し、後年17名中11名が帰国
※2 音吉顕彰会HP http://www.otokichi-i.com/

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