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オーシャンニュースレター

第305号(2013.04.20発行)

第305号(2013.04.20 発行)

出雲神話と海

[KEYWORDS]ヤマタノヲロチ/大国主神/海と農耕生活
花園大学特任教授◆丸山顕徳(あきのり)

『古事記』の出雲神話の主なもの「ヤマタノヲロチ神話」「稲羽の素兎神話」「根の堅洲国神話」「御諸山縁起」を海の観点からとらえ、海の神話が陸上の農耕生活と深く関わっていること、南太平洋から伝播した神話が出雲に伝わったこと、出雲の神話的宇宙観が海洋性を下地に成立していることを述べる。

出雲の風景

■平成の御遷宮の最中となる出雲大社。本殿は昨年まで大屋根修造のため巨大な素屋根に覆われていたが、5月にはすべての修造が整う。

古代の出雲大社は日本一の高層建築であり、本殿の客座には、『古事記』神話における開闢の別天神・五神が祭られている※。本殿は、海の彼方を見据える眺望の効く社殿である。出雲は、周りを山に囲まれた大和とは異なり、長い海岸線と肥沃な穀倉地帯が広がり、背後には鉱物を内包する中国山脈がある。この平野と山脈から産出される農産物と鉱物資源による経済力と軍事力により、国つ神の中心勢力となっていた。さらに、この古代出雲には、海洋性豊かな宗教文化、神話文化があり、それが『古事記』出雲神話の特色になっている。

ヤマタノヲロチ神話

出雲神話の最初に登場するのが、ヤマタノヲロチである。ヲロチの体には苔や檜や杉が生えており、長さは八つの谷、八つの峰を渡るほどであり、巨大な山脈の印象を受ける。もともと龍蛇神は空想上の動物であり、天空、山脈、河川、海底など様々なところに住んでいる。『古事記』の出雲神話では、ヲロチの故郷は高志(こし)である。『古事記』の出雲神話の高志とは、大国主神(ヤチホコ、オオアナムチ)が妻問いをした高志の沼河日売(ぬなかわひめ)の里、『延喜式』神名帳の越後国の頸城(くびき)郡の奴奈川(ぬなかわ)神社のあたりである。ここは海人の根拠地。つまり、ヤマタノヲロチは高志という海に面したところからくる龍蛇であった。しかもこの龍蛇は、穀物霊の女性であるクシイナダ姫を生贄にするという。これは世界拡布型神話「龍退治」の出雲的変容である。稲のシンボルである若き女性を食すのは、実質的には稲の女を娶るという神話である。日本の龍蛇が海洋的であるというのは、龍蛇の故郷が、龍の宮、龍宮であるということであり、龍宮は豊穣の源泉地であったという意味である。日本の古層文化を今に伝える沖縄では、竜宮(ニライカナイ)は穀物の種をもたらすところであり、龍宮への祭祀は穀物神への感謝祭を行う。ところが、日本本土のお伽話は、海の生活文化から離れており、龍宮には龍の存在もなければ、穀物の種をもたらす話もない。『古事記』の龍宮の神ヤマタノヲロチと、穀物霊の女神の婚姻は、あらたなる穀物の若宮の誕生を意味している。実際に『古事記』ではスサノヲが、ヤマタノヲロチの代わりを果たし、クシイナダ姫と結婚している。これが、日本化したヲロチ神話の深層文化である。海洋的なヤマタノヲロチの祭儀は、沖縄本島の津堅島で行われている(拙書『沖縄民間説話の研究』)。龍蛇の殺害は神の死と復活である。出雲の海の文化を象徴するヲロチは、穀倉地帯に出現する、穀物の神であった。

稲羽の素兎の神話

稲羽の素兎(しろうさぎ)の話の源流は、南太平洋である。インドネシア、ボルネオ、ニューギニアとその周辺諸島、さらにはインドの周辺にまで広く伝承されている(拙著『口承神話伝説の諸相』参照)。話の基本的な構成は、弱小な動物である兎、小鹿、猿、ジャッカルなどが、離島から海を渡って本土に来るために、ワニという強力な動物を騙して成功する形である。ようするに悪知恵を働かせた狡猾者譚であり、この話の面白さは、弱小動物が、知恵を働かせて、強力な動物を騙す点にある。ところが、この話が出雲神話に入ると内容が変化する。弱小動物は、騙したつもりが最後の段階で、うっかり本音を口走ったために、失敗し、兎は、ワニに食われて赤裸にさせられる。つまり自業自得という結末である。そこへ大国主神という誠実な神が現れて、兎を助ける。出雲の海では、騙されたワニも復讐し、騙した兎も大国主神に素敵な女神を嫁にできる予言をする。その結果、素兎は神社に神として祭られている。話はこのように、八方丸く収まっている。出雲人の伝えた話は実に真面目である。

根の堅洲国の神話

兎を助けた大国主神は、美しい八上比売(やかみひめ)を妻にした。それで兄弟神から嫉妬され、殺された。ところが、女性の神々の援助で復活し、根の堅洲国へ逃がされる。そこで美しいスセリビメに迎えられる。ところがスセリビメの父であるスサノヲに、結婚のための男の試練を課される。このスサノヲの国が根の堅洲国(かたすのくに)である。この国の具体像は不明であるが、『日本書紀』では根の国と称され、『延喜式』祝詞では根の国・底の国と記される。祝詞の根の国・底の国は、穢れを浄化させる海底である。根の意味が、根っこの意味であり、底とするなら、柳田國男が『海上の道』で唱えた沖縄の海のニライカナイという説も生きてくる。日本の古層文化を伝える沖縄の海の底には広々とした平原があった。海の底を突き抜けると天空に至るというからである。浦島太郎がいった海底の龍宮にはスバル星が子どもとなって遊んでいたのも、おかしな話だが、世界が円環的だと、これも納得ができる。石垣島の川平(かびら)では、天空から、あるいは水平線の彼方から、穀物の神がやってきて穀物の種をもたらす。この異界からやってくる神がマユンガナシである。だから天空に、また海底に大平原があってもなんら不思議はないことになる。七夕伝説の天人女房譚の天界には広大な畑がある。宮古島の民話「アタリパトルマとフムカジン」という若夫婦の離別と再会に至る苦難の話にも、馬に乗ってもなかなか行き着けないほどの広い異界がある。海洋生活者の海への幻想空間には、陸上生活の人間にはわからない広い平原がある。

大国主神とスクナビコナノ神(御諸山縁起)

さて、『古事記』出雲神話の最後に、三輪山の神のご鎮座神話が置かれている。この三輪山は、当時の首都大和の国の、国つ神の総帥である大物主神と、小人の神スクナビコナの神が主祭神として祭られた神社である。実は、この神社は大和における出雲の系の神社である。それは、この三輪の主神の大物主神と、出雲の大国主神とが一体であったからである。大国主神が出雲の美保の岬にいた時に、波の上をカガミの船に乗ってやってくる極小のスクナビコナの神がいた。この神と大国主神は国作りをした。ところが国作りの仕事半ばでスクナビコナは海の彼方の常世に去った。大国主神は困っていると、海の彼方から海上を照らしてやってくる神がいた。その神を三輪山に鎮めて祭り、やっと国作りが完成したという。古代の国作りには、大地を開拓する神と、そこに穀物の種をもたらす神とが必要であった。大地を作る神は大国主神、穀物の種をもたらす神は、海の彼方からやってくるスクナビコナである。類似の話は、やはり沖縄県の八重山地方の黒島に伝わっている。陸の神はオモト岳の神、海の小子神は、ニーウスビの神である(『口承神話伝説の諸相』)。
平野の農耕生活には、荒れ地を耕す陸の神と、海の竜宮から種をもたらす小人の神が必要であった。山と平野と海の相互協力がなければ、農耕文化が成り立たないと古の人々は考えていたのである。(了)

※ 匝瑤葵「宇宙を構成する古事記の別天神-出雲大社の天空神-」(『アジア遊学』121「特集 天空の神話学」勉誠出版、2009年4月)

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