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オーシャンニュースレター

第235号(2010.05.20発行)

第235号(2010.05.20 発行)

捕鯨を取り巻く環境について

[KEYWORDS] 太地町/商業捕鯨/持続的利用
和歌山県太地町教育委員会教育長◆北 洋司

私の住む和歌山県太地町は長年にわたって、反捕鯨国や環境団体から、いわれなき迫害や誹謗中傷および人権差別ともとれる攻撃を受け続けている。
日本の鯨食文化は千年以上も前から受け継がれてきたものである。世界のどの国にも多様な食文化があり、それを認め合い譲り合うことが重要である。自分たちの価値観の一方的な押しつけや、人権侵害にあたるような恣意的な悪意を感じるプロパガンダ活動は誰であっても許されるものではない。

日本の捕鯨発祥地の歴史と文化

わが国のクジラとの関わりは縄文時代からだと言われている。遙か昔の人は、海岸に乗り上げたり、体調悪く海岸近くへきた鯨(寄り鯨)を貴重な食料として捕獲し利用してきた。組織をつくり能動的に捕獲作業を始めたのが太地町の先人達である。
創始者である太地の豪族「和田忠兵衛頼元」は、海をよく知る知多半島師崎(もろざき)村出身の漁師伝次と泉州堺の海運知識豊かな伊右衛門と鯨を捕る策を練り、慶長11年(1606年)村の漁師をまとめ「鯨刺手組」を5組編成し、本格的に鯨を捕獲する「捕鯨」を始めた。「勇魚」とも呼ぶ大鯨を大海原で原始的な方法で捕獲するのは難しかった。延宝3年(1675年)に頼元の孫頼治は、網を利用して捕獲する「網掛け突き取り法」を考案し捕獲効率が改善され、村の繁栄に大きく寄与することとなった。その功績に対して領主は頼治に「太地姓」を名のることを認めたと伝えられている。捕鯨された鯨肉などは海路を使って京都・大坂や江戸に運ばれ「鯨食文化」が広がった。江戸時代の捕鯨は命を懸けた事業であり多くの犠牲者を伴った。そのため遺族補償や大けがをして重労働に対応できない者などに対する弱者救済制度など社会福祉制度を江戸時代に確立させていたことに敬服する。村民の命に対して責任を持つという「運命共同体」的な思想が広がり、後の地方自治に対しても相互秩序の精神を伝統として受け継がれてきたことは、市町村合併が国是のように進められてきた現在も、太地町を単独自治として成立させている要因ではないかと思う。

日本の食文化と捕鯨問題

日本の食文化は世界に類を見ないほど多様多彩である。環境保護団体や反捕鯨国の人たちは「日本の鯨食文化は戦後形成されたもので、千年以上前から受け継がれてきた食文化ではない。」と主張するが、事実ではない。それを承知の上で主張しているとしたら大変悪質であると言わざるを得ない。
戦後の食糧難を乗り切るために、GHQが昭和21年(1946年)に南極海での捕鯨活動を許可したのも、日本人には鯨食文化があることを認識していたからだ。地方によっては現在も特別な日に鯨を使った伝統的料理が受け継がれている。その多くが戦後考案されたものではないことも事実である。戦後復興期から捕鯨全盛期には、国民がこぞって成果を期待して南極海捕鯨船団を見送り、4月には敬意をもって出迎えたものである。


■太地町立くじらの博物館

わが国の復興が想像を超えるスピードで進み、経済活動も国際的に期待され、食糧事情も好転し、豊かな食生活を手に入れるにつれて、食材に対する認識と理解が低下し、どの食材にも命を感じることがなくなってきた。特に牛・豚肉などの普及により「魚食文化」から欧米なみの「肉食文化」が進行し、健康問題にまでなりつつある。野生であれ畜産であれ、人間が生きるために尊い命を犠牲にしていることに変わりはない。野生の命だからだめで、家畜の命だから良いという理屈は偽善者的理屈であると言わざるを得ない。野生を食材として利用することは恥ずべきことではない。どの国でも身近な動物や魚を利用している。しかし、考えなければならないのは命の区別ではなく、経済の論理だけで乱獲することは恥ずべき行為であるということを自覚することである。
食文化にグローバルスタンダードはない。故長崎福三博士の著書『肉食文化と魚食文化』(1994年)で、捕鯨賛成国と反対国の食文化の特徴が記されている。反捕鯨国は肉食文化国が多く、捕鯨賛成国には魚食文化国が多い。世界のどの国にも多様な食文化があり、それを認め合い譲り合うことが重要で、価値観の一方的な押しつけや、人権侵害にあたるような恣意的な悪意を感じるプロパガンダ活動は、誰であっても許されるものではない。許されるものがあるとすれば、科学による客観的評価によるものであるべきだ。

捕鯨問題と小さな町の闘い

太地町は1982年にIWC総会において「商業捕鯨の一時中止」(モラトリアム)が決議された翌年からこの決議に反対し、科学的根拠を無視した決議の撤回を求めて活動を始めた。この決議には付帯決議があり、1990年までに科学的調査により見直すこととなっていた。わが国の科学的調査の科学委員会では高く評価されてきた。しかしその評価は総会ではほとんど無視され、付帯決議に取り組むポーズだけで決議を見直す意思はみられない。
IWCはもはや機能不全に陥り国際機関としては評価できない状態になっている。最近議長提案として、「日本の沿岸商業捕鯨は認めるが、南極海の商業捕鯨は認めない」とするものが提示されたようだが、この提案をわが国政府はどのように判断するのか、食料安全保障の観点に間違いのない判断を求めたい。
以前京都市で行われたIWC総会(1993年)の前に欧米の反捕鯨国の駐日大使館職員が事前調査として多数太地町へ訪れた。その中で強く印象に残っていることがある。反捕鯨の中心国である英国漁業担当書記官の一言で「英国は石炭産業を廃止し石油に転換した。日本も捕鯨を止めウォッチングを中心に観光産業に鯨を利用すべきだ」というものだ。私は「わが国の捕鯨は、貴国の捕鯨のように油の需要を賄うためではなく、食料を得ることが主目的である。エネルギー革命により石炭産業を廃止することと同列でわが国の捕鯨を論ずるべきではない。何故なら、人間はいかなる人も生きるためには他の生き物の命を犠牲にしなければならないのであって、地下資源を食べて生きている人はいない」と反論した。
太地町は長年にわたって、反捕鯨国や環境団体から、いわれなき迫害や誹謗中傷および人権差別ともとれる攻撃を受け続けている。最近では、『ザ・コーヴ』というドキュメンタリー映画と称するものがアカデミー賞を受賞したことでさらなる攻撃にさらされている。われわれはこの映画をドキュメンタリーとは思っていない。恣意的悪意を持った反捕鯨のプロパガンダ映画であると考えている。表現されているすべてが太地町で撮影されたものではなく、他地方であったり、撮影場所が不明であったり、また登場している人物からは「こんなつもりではなかった」との言葉を報道で聞いた。数年前に撮影された映像をあたかも現在の姿であるかのような誤解を与え、実情を知らない人たちに、見た目に優しく、耳に優しい感情的、情緒的な反捕鯨をアピールしている。
太地町の漁師は、海洋生物の持続的利用の理念に基づく国および県の許可により漁業を営んでいるもので、違法行為をしているものではない。反捕鯨活動をする人にとっては、日本に捕鯨を止めさせるためには、捕鯨の歴史文化の長い太地町をギブアップさせることが先決であるとでも考えているのではないかとしか思えない。(了)

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