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オーシャンニューズレター

第142号(2006.07.05発行)

第142号(2006.07.05 発行)

出雲の鰻が大坂へ

(社)大阪市中央卸売市場 本場市場協会 資料室◆酒井亮介

江戸時代、生きたままの鰻を日本海側から大阪まで運ぶ、輸送ルートがあった。
出雲(島根県)の中海から、鰻を入れた竹籠を天秤棒で肩に担ぎ、
中国山地を越え岡山(岡山県)まで下り、そこから瀬戸内を舟で大坂まで運ぶ......。
現代人からみると気の遠くなるような鰻の道があったからこそ、大阪の鰻食文化は花開いた。

はじめに

16世紀後半に近世社会として成立して以来、当時の大坂には独特の食慣習があった。その一つに「蠣船(かきふね)」と「鰻屋(うなぎや)」がある。

もともと大坂では、大坂本願寺時代(1532~82年)から水産物では琵琶湖を発する淀川で漁獲する川魚類を主として食べていた。もちろん茅渟海(ちぬのうみ)と呼ばれる大坂湾で獲れる海魚類も漁獲対象であったが、16世紀当時の漁撈技術の水準はまだ低く、近世期の技術に発展する直前であった。

1583年に豊臣秀吉が大坂に築城を始めて以来、急激な人口増に対応して、川魚類の消費も増えてきた。こうした時代の動きの中で、淀川(大川)を本流とする堀川の開削が進み、大坂市中には東横堀川(1598年)、西横堀川(1600年)、道頓堀川(1615年)、長堀川(1622年)が開削された。また西横堀川から道頓堀川までの間に堀割が6本開削された。

蠣船(『摂津名所図会大成』巻十三下)

この大坂市中に通じた堀割には、橋の袂(たもと)に蠣船があり、街の料理屋として繁盛していた。蠣船の始まりは、延宝(えんぽう)年間(1673~80年)とされている。商内(あきない)の話を店先でできない時、問屋会所(事務所)で話しにくい時、またゆっくりと懇談したい時などに利用されたようだ。この懇談の場として蠣船が商都大坂では珍重がられたし、利用する商人(あきんど)も多かった。

『摂津名所図会大成』(暁鐘成著、1855年)によると、「芸州草津浦から20余艘、同仁保島から15艘が10月中旬に入津し、年来の馴染の浜に船をつなぎ、川岸に小屋をしつらえ、此所で蠣を割って商う」とある(図参照。「蠣船」は、現在1艘のみ保存されている)。この蠣船は秋口の10月から早春の2月までの冬季に蠣料理の営業をしていたが、生鰻(なまうなぎ)の供給がはじまると、鰻専門料理店が生まれ、「蠣船」と争うように、のちに町中に広がるようになった。

出雲~大坂、鰻道中

出雲(島根県)の中海(なかうみ)から、天秤棒で肩に担ぎ、中国山地を越え岡山(岡山県)まで下り、岡山から瀬戸内を舟で大坂まで運ぶという、現代人からみると気の遠くなるような鰻の輸送方法があった。

宝暦年間(1751~64年)、突如として中海に鰻が涌き、大漁になった。松江の商人佐右衛門は、安来(やすぎ)(島根県安来市)の湊で生魚商内(なまうおあきない)で元手を貯え、網元になっていた。佐右衛門はこの鰻の大漁に目をつけて、生きた鰻を大坂まで運び、生きがよければ値段もよいし、取引先も増やすことができるだろうと考えた。早速、松江藩の奉行所に届け出て証明書をもらい、安来の庄屋から認可証を得て、生鰻を携えて、四十曲(しじゅうまがり)峠(出雲と備中の国境(くにざかい))を越えて岡山から大坂へ上った。大坂に着いた佐右衛門は、鰻料理の専門店である佐野屋・備前屋・出雲屋などを次々と訪ね歩いた。そして生鰻の輸送方法を説明して、納入方を話して契約を取り付けた。

そのあと京に上がり、聖護院(しょうごいん)家に伺候して松江藩の証明書をみせ、道中安全の保証のため聖護院御用商人の保護証明を賜りたいと冥加銀を包んで要望した。聖護院側も承知して、「聖護院御用」と染め抜いた京番所通用の小旗と提灯を下付した。佐右衛門は喜び勇んで二品を大事にもって安来に戻る。以後、この小旗と提灯をもって通行すると、諸国のどこの番所、船場でも優先通行で危険にもさらされず、無事に通行できた。輸送方法には細心の注意を払った。竹籠(たけかご)に鰻を一貫目ずつ入れて、天秤棒で両側に籠を担ぎ、一里ごとに清流に浸して精気を与え、鰻が死ぬことはおろか、元気を失わないように気をつけながら山道を運んだ。

安来を出発すると、伯太川(はくたがわ)を母里(もり)まで行き、母里から法勝寺宿へ、それから山越えをして川筋をたどって根雨(ねう)に着く。根雨から出雲街道の板井原、四十曲峠を越えて新庄、美甘(みかも)、勝山に着く。これで四日間が経過。勝山からは川舟を使って落合(舟中泊)、福渡(ふくわたり)、岡山に出て京橋下で泊まり、三番湊からは、生間(生け簀のこと)のある「イケフネ」(長さ八尋(ひろ)=一尋は大人が両手を広げた長さ)で、瀬戸内から播磨灘を航行して三、四日目に大坂河口に着く。

大坂では安治川を遡上して、「江戸堀下の鼻川魚市場」や鰻専門店、蠣船に届けるまでが「鰻道中」である。

鰻を運んだ人たちの帰りは、山陽道を徒歩で、摂津、兵庫、播磨、姫路、津山、日野を通って安来に戻るという道筋をとった。往復約30日を要した。一行は棒頭(ぼうがしら・輸送隊長)以下約20~30人が1組で、全盛期には数組も編成されたようである。人夫は若い頑強な男たちで、賃金も相場の4倍くらいの高値であったという。

明治に入ると、天秤棒から大八車になり、時代が下ると勝山まで運び、棒頭だけが大坂まで行くようになった。後のものは安来に引き返した。その後、明治後期になると鉄道を利用するようになり、昭和初期には鉄道生簀車が導入され、昭和戦前期には大阪市中央卸売市場まで輸送されていた。現代の大阪の鰻流通は、ここ20~30年前から中国での鰻養殖の拡大で、鰻の蒲焼きに調理加工した物を冷凍にし、輸入され、大阪市中央卸売市場の卸売会社や、中央卸売市場外の専門商社を通じて、量販店から拡販されているものがほとんどである。

この流通実態の数値はつかめていないが、大坂人の鰻好きは「蠣船」「鰻屋」の時代から変わらないのであろう。大坂の鰻料理店に「いづもや」の老舗が著名なのも、その流通の歴史の一端かもしれない。(了)

●大阪市中央卸売市場本場市場協会 資料室 http://www.honjo-osaka.or.jp/books/shiryoshitsu.html

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