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第80号(2003.12.05発行)

第80号(2003.12.05 発行)

さかさ地図の発想と日本海学

富山県国際・日本海政策課日本海学班長◆橋本清信

発想の転換を視覚的に迫ってくる「逆さ地図」。これをヒントに発想された日本海学は訴える。「日本海を知ることは全海洋を知ることにつながる。という立場から、日本海を対象とした総合的な研究を行う意義がある」と。

1. さかさ地図の誕生

静かなブームを呼んでいる地図がある。富山県が国土地理院長の承認を得て1995年に製作した「環日本海諸国図」だ。日本海を軸にして上下を引っくり返したいわゆる逆転地図で、「逆さ地図」と呼ばれている。網野善彦氏が「日本とは何か(講談社)」で紹介されて以来、注目されることとなった。この中で、網野氏は「この地図を見ると...日本が海を国境として他の地域から隔てられた『孤立した島国』であるという...日本像がまったくの...虚像であることが、だれの目にもあきらかになる」と述べておられる。

それでは、この逆さ地図は、どのようにして生まれたのであろうか。実は、「芸術新潮」1986年1月号に、作家の五木寛之氏と京都府立大学教授(当時)門脇禎二氏の興味深い対談記事が載っている。ここで五木氏は、「前に『戒厳令の夜』という小説を書きましたときに、地図の写真をさかさまに焼いてみたんです。すると海と陸地とがひっくり返ってでてくる。それがとても面白かった。それで海を一つの文化圏として、日本海を中心にシベリア、沿海州、朝鮮半島というものをひっくるめての"北海共和国"というものを考えたんですね」、「結局、海を自分たちの圏内と考えると、ウラジオストックに行くのも上海に行くのも、釜山あたりに行くのも、自分たちの国内の往来の感覚」なのであるとしている。

この記事を読まれたか否かは詳らかにされていないが、中沖豊富山県知事と日本テレビの小林與三次社長(当時)が対談した際、「日本海沿岸は、かつて大陸からの文化が入ってくる表玄関だった。発想の転換が必要だ。地図をさかさまにしてみると富山が日本の中心だ」と意気投合して、これをきっかけに、国土地理院に「さかさ地図」の製作を相談したという。

■発想の転換を視覚的に迫ってくる「逆さ地図」

2. 日本海学の誕生

■日本沿岸の海流・概念図

網野氏は「ブローデルが『地中海』をみごとに描いたような仕事が、これらの内海についても推し進められなくてはならない」とも述べておられる。富山県ではこれに呼応する形で、「日本海学の新世紀」という本を角川書店から出版し、「日本海学」を提唱した。この中では「日本海学」を「環日本海地域全体を、日本海を共有する一つのまとまりのある圏域としてとらえ、日本海に視座をおいて、過去、現在、未来にわたる環日本海地域の人間と自然とのかかわり、地域間の人間と人間とのかかわりを、総合学として学際的に研究しようとするものである」と定義した。

日本海学では、「循環」、「共生」、「日本海」という3つの基本的な視点を掲げている。そして、具体的に次の四つの分野で構成している。

  1. 環日本海の自然環境...誕生から現在までの日本海および環日本海地域の自然環境変動の歴史をさまざまな手法を用いて解析し、変動の周期性から、近未来の変動予測を行う。
  2. 環日本海地域の交流...日本海を介した環日本海地域の交流を生み出した要因や交流の形態を、歴史を踏まえて地球的規模の観点から明らかにする。
  3. 環日本海の文化...環日本海地域の民族が環日本海の自然環境や交流の影響を受けながらつくりだし、受け継いできた生活文化の特色や日本海とのかかわりのなかで生まれた海の思想や信仰を明らかにする。
  4. 環日本海の危機と共生...閉鎖海域としての日本海環境保全のための方策や国際協力、未来の環日本海地域協力の可能性をさぐり、人間と自然との共生、環日本海地域の共生を提示する。

3. 日本海研究の意義

日本海学の研究対象のうち、今回は特に、環日本海の自然環境研究の重要性を述べてみたい。

世界の大洋はベルトコンベアに例えられる大きな循環流でつながっている。グリーンランド沖で沈み込んだ海水が、大西洋を南下し、再びインド洋や太平洋で浮かび上がるまでの時間は、炭素同位体C14による推測では約1,500年である。この循環は熱エネルギーの運搬に大きく関わっており、地球全体の気候を支配する重要な流れと位置づけられる。

日本海は全海洋のミニチュア版とみなされるように、大洋で起こる様々な現象が再現されている。例えば、先に述べたグローバルなベルトコンベアの代わりに、小規模で独自のベルトコンベアを100年程度のスケールで稼働させていることもその一つである。大洋で起きる現象を日本海でも見ることができるのであれば、日本海研究の成果を全海洋で起きる環境変動予測に活かすことも可能と言えよう。

日本海の海底地形は北緯40度付近を境に南北に区分できる。水深の浅い南側には大和堆、朝鮮海台、隠岐堆など凹凸の激しい地形がみられるのに対し、北側には水深3,600m前後の平坦な日本海盆が広がっている。水塊構造に目を転じると、表層には対馬暖流、リマン海流が流れ、下層には日本海固有水が満たされている。対馬暖流は、対馬海峡を通過した後、蛇行、分枝、さらに結合を繰り返しながら日本沿岸を北上する。この過程で水温は低下し、比重が大きくなるので、やがて沈み込み、日本海固有水の形成に関わる。一方リマン海流は、間宮海峡を経て日本海に流入し、日本海西端を通って南下する寒流で、南側まで進むと対馬暖流の下に沈み込むことが分かっている。

冬季、ウラジオストック近海で冷やされた海水は、さらに蒸発しながら、密度の高い海水となって沈み、やがて日本海固有水を形成する。この日本海固有水には、豊富な酸素が含まれているので、深層域における活発な有機物分解が可能となっている。しかし、ここ半世紀の間、日本海固有水の溶存酸素量が減少し続けており、この状態が続けば日本海深層の無酸素化することを危惧する声 ※ も少なくない。

海水大循環が世界の気象に影響を及ぼしているように、日本海のミニベルトコンベアも周辺地区の異常気象や気候変動、さらに旱魃、冷害または自然災害と無縁ではないだろう。また、日本海の海底堆積物にみられる明暗の縞模様には、海水準の変動をはじめとする気候変動の歴史が刻まれている。日本海研究の学術的体制はまだ整っていないが、将来を予測し、制御するための手がかりをつかむためにも、総合的に取り組む必要があると思う。(了)

※ 日本海の溶存酸素の減少については、「地球温暖化と日本海の循環」(尹 宗煥、本誌第5号、2000年10月20日発行)をご参照ください。

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