Ocean Newsletter

オーシャンニューズレター

第474号(2020.05.05発行)

海の視点からとらえ直す「波の伊八」の実像

[KEYWORDS]建築彫刻/房総半島/交易ルート
千葉県鴨川市郷土資料館館長◆石川丈夫

江戸時代の彫工「伊八」の作品は、千葉県を中心に多くの寺社に残されている。
優れた波の表現で知られる初代伊八の足跡をたどると、当時の海の交易ルートが透けて見えてきた。
現代ではサーファーが集まる外房・鴨川の地が生んだ名工を、海の視点からとらえ直したい。

波の表現に優れた彫工

江戸時代後半の、1770年代から1820年頃のおよそ50年間、江戸の町民文化が花開いた時代、現在の鴨川市に居住し、安房・上総・相模・江戸と広い範囲で神社仏閣の建築を飾る彫刻を制作し、数多くの傑作を残した彫工がいた。その名は「武志伊八郎信由(たけしいはちろうのぶよし)」、その後5代まで継承される伊八の名を最初に名乗った人物である。現代では、彼が50代で彫った波の表現が特に優れているとの評価から、「波の伊八」と呼ばれることも多い。彼の仕事の背景には、海との深いつながりが垣間見える。

海の視点からとらえる伊八の活動範囲

■図2 初代伊八の生誕地および作品が残っている場所

ここ10年程、「波の伊八」の名が徐々に千葉県内外に広まることによって、多くの新たな知見がもたらされるようになった。その中でも、2012年に、伊八40代前半頃の作品が神奈川県の湯河原町で新たに確認されたことは、彼の仕事の範囲についての再考を迫る発見であった。
従来は、横須賀市内の真福寺(しんぷくじ)所蔵の欄間が、彼の最も西に位置する作例であると考えられていた。それが相模の国の西端まで広がり、房総半島から浦賀水道でつながる三浦半島、さらに伊豆に連なる相模灘までの行動範囲を想定せざるを得なくなったのである。実は、この相模灘から房総半島へ連なる海路は、「石なし県」と呼ばれる千葉県に、良質な石材を供給するための交易ルートと重なる。中世の頃から伊豆石と呼ばれる安山岩系の石材が、湯河原や真鶴半島の港から積み出され、三浦半島を経て、内房の港に運ばれていた。当然、石材ばかりではなく、様々な物資や人々が往来していたであろう。
戦国時代のこの海域は、小田原城を拠点とする北条氏と、安房と上総を治めた里見氏が、その制海権を巡ってしのぎを削ったエリアとほぼ重なる。ここは同時に交易圏でもあり、一つの大きな文化圏でもあったはずである。初代伊八の名声と仕事は、この交易圏と文化圏の中に広がっている(図2)。
伊八の活動範囲の形成過程を概観すると、20代半ばで、相模から東京湾への交易ルートの一大拠点である木更津の寺院で仕事を受注した事実が大きな意味を持っていたことが分かる。房総半島の江戸からの玄関口に当たる木更津での仕事の実績は、他地域の施主にとって大きな信用につながったことは想像に難くない。彼の仕事への高い評判は、木更津を基点とする交易ルートの津々浦々に及んでいた可能性がある。しかし、何故、若い伊八が当時の内房最大の経済・文化都市である木更津での仕事を受注できたのであろうか。
近年の研究の結果、伊八が生まれ育った下打墨(しもうっつみ)村(鴨川市西条地区)には大工職が数多く居住していたことが判明している。その中の、大工棟梁・星野甚五右衛門という人物が、後見人のような立場で伊八を支えていたことも明らかになりつつある。この身近な大工職人らが形成する地域コミュニティの中で、伊八は職業的な成功を収めるための基礎やスキルを身につけたのだろう。そして、早くから伊八の才能を見抜いた棟梁が、その成長と成功を支えたと考えられる。木更津での仕事は、甚五右衛門らの人脈と後ろ盾によって得られた可能性が高く、交易ルートを介した情報発信やマーケティングを念頭に置いたうえでの戦略的な布石であったと解釈すべきであろう。この後、30代以降の伊八は、自らの技量を高めるとともに、経営者的な才覚を発揮することによって、彫工としての生業を成功へと導くのである。

グローバルな感覚を房総にもたらした海

■図3 「下り竜」文化年間(1805年)頃 クス 南房総市・石堂寺所蔵写真撮影 石川靖弘(山の上スタジオ)

伊八の作品に具わる17世紀ヨーロッパで流行した美術様式「バロック」を思わせるボリューム感と躍動感は如何に体得されたのか。その造形的な特質は、日本の枠内ではなく、大航海時代から続く西洋諸国の交易拡大に伴い、様々な文物や書物、美術品などが新大陸やアジア諸国にもたらされて生じた化学変化の一事例として、広い視野からとらえた方が理解し易いように思われる。
伊八が23歳の1774年、杉田玄白の『解体新書』が出版されている。また、日本の洋風表現の草分け的存在である司馬江漢は、伊八の5歳年上であり、ほぼ同時代を生きている。こうした時代背景を勘案すれば、伊八の作の中に、西洋的な表現が垣間見られることも不思議ではない。
例えば、南房総市の石堂寺(いしどうじ)の多宝塔を飾るために制作された「下り竜」(図3)の胴体を覆う鱗の表現に注目してもらいたい。複雑にくねる胴体の動きに合わせて、体表を覆う鱗の大きさ、幅、重なり方が、遠近法の法則に則って整然と配置されている様子が見て取れよう。その表現の結果として、竜の体は、実際の材料の厚みの数倍にも及ぶような奥行きを感じさせる効果を得ている。
この表現方法に感覚的にたどり着いたことも否定はできないものの、西洋的な遠近法の知識に何らかの形で触れる機会を得た伊八が、その知識を彼なりに十分に咀嚼したうえで、自らの表現として体得したと考えるのが妥当ではないだろうか。
伊八は1752(宝暦2)年に、現在の鴨川市で生まれている。その誕生のはるか前からの、世界各地の人々の絶えざる営為の積み重ねによって築きあげられた交易ルートによって、はるばる海をわたってもたらされていた情報やモノの記憶や残照が、房総半島南部を拠点とする伊八の仕事の中に昇華され、高い造形性を有する作品群に絶妙な形で結実していると考えられる。
その点を念頭に置けば、よりグローバルな視点を持たない限り、彼の全体像は把握できない。今からおよそ200年前に房総半島南部で活動した一人の彫工が成し遂げた業績を広い視点からとらえ直してみれば、現代の地域文化のあり様と創造力、そしてそれを支える経済状況などを考える際、様々な面で示唆に富む手がかりや有益なヒントが得られるはずである。(了)

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