Ocean Newsletter

オーシャンニュースレター

第458号(2019.09.05発行)

日本の海洋技術の発展とジョン万次郎

[KEYWORDS]ジョン万次郎/幕末の西洋船購入/日本の海洋技術の発展
高知工科大学名誉教授◆草柳俊二

日本の航海技術と造船技術は明治時代に入ると急速に向上し、日清、日露戦争時には世界レベルに達していた。
迅速な技術向上は基礎となる知識と技術を修得するしっかりした教育システムなくして達成できない。
ジョン万次郎の足跡を辿っていくと、日本の海洋技術の教育システムは彼によって構築されたことが明らかになってくる。

咸臨丸の太平洋横断

日本の近代における海洋の活動は1860 年1月の咸臨丸(かんりんまる)の太平洋横断によって始まった。この航海は、長い間、日本人のみで成し遂げた偉業とされてきた。しかし、100 年後の1960 年にアメリカ海軍のブルック大尉の航海日誌が公開され、真実が明らかになった。咸臨丸にはブルック大尉を含め、11 名のアメリカ海軍の船員が乗船していた。彼の日誌には、咸臨丸の航海が克明に記されていた。日本人船員達は冬の太平洋の荒波と嵐に対応する技術はなかった。通訳として乗船していた中浜万次郎がアメリカ人船員達と共に咸臨丸を操船したのである。
中浜万次郎、通称ジョン万次郎は土佐足摺の漁師の子であった。1841年2月、14歳の時、下働きとして乗った漁船が嵐で漂流し、4名の漁師と共に鳥島に漂着した。6カ月後、アメリカの捕鯨船に救助され、マサチューセッツ州で初等教育と航海士育成学校での教育を受けた。彼は、捕鯨船に乗り大西洋、太平洋、インド洋の3 大洋を航海し、10年後の1851年に日本に戻った。咸臨丸が航海した冬の太平洋は、彼にとって、これまで何度も経験した漁場であった。

咸臨丸(1/50 模型 筆者作成)

幕末の日本――西洋船舶の購入

■幕府と諸藩の西洋船舶のトン当たりの購入単価

ジョン万次郎が帰国した2年後の1853年に、ペリー提督の黒船艦隊が江戸湾に現れた。幕府は250年間も続けた大船建造の禁止令を廃止し、雄藩と共に西洋型船舶の建造に取り組み始めた。だが、その建造は遠い道のりであった。このため、幕府と諸藩は、並行策として西洋船の購入を進めた。幕府や各藩が購入した西洋帆船は160 隻船以上、その調達はアメリカの南北戦争が終結した後の1866年末から1870年末の4年間に集中している。南北戦争ではフランス、イギリス等、ヨーロッパ各国から多くの船が調達されていた。戦争の終結と共にこれらの中古船舶が市場に溢れていたのである。
(公財)日本海事センターの図書館蔵書データを見ると、土佐藩は合計13隻の西洋船舶を保有し、その購入総額は約800万米ドルとなる。1860年代後半、1両は1米ドルであったと推測され、購入総額は800万両相当となる。土佐藩は年間平均200万両相当を使って中古西洋船を買い入れたことになる。この時期の土佐藩の実質年間石高は、約50 万石であった。しかし、四公六民(年貢40%:生産者60%)という基本制度を基にすると藩の取り分は年間20万石となる。20万石は、当時の米価を用いて計算すると約50万両となる。この他にも副産物の収入があったはずだが、藩の石高年間総収入の4倍にも相当する船舶購入は、土佐藩の財政に大きな負担となったことは間違いない。こうした状況は他の藩も同様であった考えられる。
この表は、(公財)日本海事センター図書館のデータを基に算出した幕府と諸藩の西洋船舶のトン(Gross ton)当たりの購入単価を示したものである。幕府や諸藩が購入した中古船舶の平均船齢(進水後の経過年数)は約5年であった。
注視すべきは、土佐藩と薩摩藩の西洋船舶購入の単価が、幕府や他藩に比較するとかなり低いことである。土佐藩は軍艦ではなく商船を主体に購入していたが、幕府の一般船舶の平均単価より30%以上も安い。なぜ土佐藩は幕府や他藩に比較して低価格で船を購入できたのかを分析してみると、ジョン万次郎の姿が浮かび上がってくる。
土佐藩が初めて購入した「南海丸」は、横浜でジョン万次郎が購入交渉をおこなった。坂本龍馬が『船中八策』を起草した「夕顔」等も、彼が後藤象二郎と共に上海に行って購入したものである。薩摩藩も10隻の欧米から調達した船を保持していたが、これらの購入にも藩校の教授として招聘されていたジョン万次郎が尽力している。土佐藩と薩摩藩はジョン万次郎の英語力と船舶に関する知識を活用し、低価格で船を購入したことになる。これらの実績からみると、彼の船舶や航海技術の能力は、西洋列強国の専門家も認める高いレベルであったことが分かる。
注目すべき点は、土佐藩の購入した西洋船舶は軍艦ではなく、ほとんどが商業目的の船であったことである。これは捕鯨を中心とした漁業力と海運力を向上させ日本を発展させようと考えていたジョン万次郎の思想が組み込まれたものと思える。事実、「夕顔」等の土佐藩の主要船舶は明治新政府発足後、岩崎弥太郎の創設した海運会社に移籍され、日本の海運の発展に寄与している。

日本の海洋技術の発展に貢献したジョン万次郎

幕末に購入した船舶のほとんどが4、5年でその生命を終えている。原因は咸臨丸の太平洋横断時の日本船員がそうだったように、悪天候時の操船技術の未熟さであり、多くの船が座礁し、沈没している。しかし、明治時代に入ると日本の航海技術や造船技術は次第に向上し、日露戦争時には世界レベルに達することになる。なぜ、こうした迅速な技術向上が実現できたのか。それは、発展の基礎となる知識と技術を修得する教育システムを作り上げたからである。ジョン万次郎はそのシステム作りに大きく貢献した。彼はアメリカから持ち帰った『ボーディッチの航海術書』を翻訳し、航海士教育の教科書とした。これを使い、江川太郎左衛門の韮山塾や幕府の海軍訓練所で教授として講義を行った。さらに、伊豆の戸田(へだ)で建造された君沢型帆船を改造した捕鯨船や、オランダから購入した捕鯨船で、小笠原諸島海域に向かい捕鯨活動をおこなった。
ジョン万次郎の足跡を辿ると、勝海舟、榎本武揚を始めとして、後に日本の海軍、海運、水産の発展を担った多くの人物が、彼から実践的な海洋技術を学んでいることが分かる。明治政府はジョン万次郎の業績を表に出そうとはしなかった。彼の功績は、長い間、歴史の片隅に置かれていた。しかし、日本の海洋技術の発展を夢見たジョン万次郎の心は、われわれの中に現在も生き続けている。(了)

高知県土佐清水市の足摺港の近くに建つ「ジョン万次郎資料館」。筆者作成の16体の帆船模型が展示されている

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