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第141号(2006.06.20 発行)
第141号(2006.06.20 発行)

知床世界自然遺産海域における生態系の保全と持続的漁業の共存

北海道大学大学院水産科学研究院教授、知床世界自然遺産科学委員会海域WG座長◆桜井泰憲

知床世界自然遺産地域における海域の管理は、
地球規模での気候変化と漁業などの人間活動によって変化する陸域・海洋生態系の変遷、
それを構成する多様な生物の変動様式を科学的に調べ、
ランドスケールレベルの生態系の保全と、同時に地域経済の安定・活性化を目指す必要がある。

知床世界自然遺産登録の背景と課題

■図1 羅臼沿岸水深330mの海底で春を待つホッケの大群(水中ロボットカメラによる撮影、2004年3月22日、筆者)

平成17年(2005)年7月14日に開催されたUNESCO世界遺産会議(南アフリカ)において、知床半島およびその周辺海域(距岸3kmまで)が世界自然遺産地域に登録された。日本の世界自然遺産登録は、白神山地、屋久島についで3番目であるが、漁業が営まれる海域を初めて網羅している。その推薦理由には、知床は北半球では流氷に覆われる南限であり、海洋生態系と陸上生態系の相互作用が顕著であること、両生態系の絶滅危惧種を含む生物多様性の豊かさがあげられている。知床周辺海域の表層は季節的に暖流と寒流が交互に覆い、冬から春は流氷が接岸する。一方、急峻な沿岸-陸棚斜面に沿った中層以深は、安定した低水温水が深海域まで及んでいる。特に、羅臼側の根室海峡は、半島先端から海峡内に向けて急激に浅くなって地形も狭まっており、まさに自然が生み出した"天然の定置網(さかなどまり)"となっている(図1)。このような海洋環境を背景に、国内でも有数の好漁場として、知床半島周辺では多様な沿岸・沖合漁業(定置網、刺し網、延縄漁など)が行われ、2002年の斜里と羅臼の年間漁獲金額は約168億円にものぼっている。しかし、漁獲が安定しているサケ、ホッケ、コンブがある一方で、1990年代以降は羅臼のスケトウダラの激減と不安定なスルメイカの漁獲変動などが生じている。

海洋生態系のすべての生物は、地球規模での気候変化と人間活動(主に漁業)の影響を受けている。自然の摂理のもとでの水産資源の変化を理解し、知床周辺の豊かな海の環境と生態系を維持しながら資源を持続的に利用する漁業の在り方が、今まさに問われている。国際自然保護連合(IUCN)からは、この遺産地域の海洋生態系の保全と持続的漁業の共存に向けた海域管理計画の提出(2008年末まで)という宿題が課せられている。

日本が発信する自主管理型漁業

近年、世界的な水産資源の利用をめぐる激しい論争が起きている。例えば、乱獲によるマグロ類やタラ類などの大型魚類の減少が海洋生態系を変化させていること、非選択的なトロール漁業などが海洋生態系の多様性を脅かしているなどの報告がある。しかし一方では、地球温暖化に伴う海洋生態系の変化、例えば大西洋マダラでは海水温上昇に伴う低緯度海域の産卵場の崩壊などが指摘されている。欧米型漁業の多くは自由競争による企業型漁業であり、国主導の厳しい資源・漁業管理がなされているが、対象資源が激減して、一部では全面禁漁の海洋保護区(MPA)の措置が図られている。

一方、現在の日本沿岸の漁業管理は、科学的資源評価に基づくTAC(許容漁獲量)管理と、沿岸の漁業協同組合などによる自主管理型漁業が主流である。沿岸域での非選択的なトロール漁業は制限され、多様な選択的漁業(刺し網、延縄、定置網、かご網など)が中心である。また、漁区、漁期や漁法などは、漁業法・水産資源保護法による漁業規制・調整、加えて漁業団体相互の漁業に関する自主管理協定が諮られている。さらに国内では、枯渇した資源の回復や海洋生態系の保全を目的として「欧米型海洋保護区」に相当する秋田のハタハタ禁漁、京都でのズワイガニ資源回復など優れた事例が存在する。海洋保護区の定義には、「自主的管理に基づく海洋生態系の保全と持続的漁業の共存」が含まれており、知床周辺の漁業者は、すでにサケ類やスケトウダラ漁業に対する漁期、漁区、漁法の自主的管理を行っている。

(独)水産総合研究センター・中央水産研究所の牧野光琢博士は、「日本型漁業管理の制度的長所として、分権的・自治的管理が可能であること、様々な地理的スケールに対応した管理機構が存在すること、科学的知見と共に地元の経験的知識が活用されていること、日々の操業を通じた柔軟で順応的な漁業管理が可能である」ことなど、日本の漁業の海域生態系管理への潜在的可能性を指摘している。知床世界自然遺産における海域管理計画の策定に向けて、知床の漁業者が既に実施している漁獲規制などの自主管理の実情と有効性を科学的に解明し、国際的な認知を得ることが重要である。

知床世界自然遺産地域の海域管理計画の策定に向けて

知床世界自然遺産エリアを含む陸域-海域生態系は時空間スケールからみてランドスケープ(景観スケール)レベルの生態系と位置づけられる。そのような小規模な生態系でも、地球規模での気候変化に伴う海洋環境と生態系の構造と機能の変化が起きる。例えば、1990年代以降はオホーツク海の流氷域の減少と中層の中冷水と呼ばれる水塊の温度上昇が生じている。この現象一つをとっても、それが海洋生態系に与える影響を予測できていない。将来予測が必ずしも当たるとは限らない不確実性があることを認識し、常に環境と生物の状態をモニターし、その変化に柔軟に対応する順応的管理をベースとした持続可能な資源保全管理が重要である(図2)。知床は、漁業の存続を願う漁業者や地域住民の意識が高く、生態系ベースによる順応的管理と持続的水産資源管理技術の確立を目指すことの意義は著しく大きい。そのためには、必要とする多種多様なモニタリングを行って、その結果を順応的資源管理に常にフィードバックさせながら、その説明責任を地域住民との合意形成の中で確立していく必要がある。

知床世界自然遺産では、国内でも初めて陸域・海域生態系の専門家を網羅する科学委員会がアドバイス機関として機能している。IUCNが求める海域管理計画策定にも、この科学委員会の果たす役割は極めて大きく、長期間にわたる遺産地域の自然保護、地域経済・産業との共存の道を探る体制が整っている。地球規模での気候変化と漁業などの人間活動によって変化する陸域・海洋生態系の変遷、それを構成する多様な生物の変動様式を科学的に調べ、ランドスケールレベルの生態系の保全と、同時に地域経済の安定・活性化を目指す必要がある。これが、知床を世界自然遺産として自慢できる道ではないだろうか。(了)

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