COCONUTS通信 No.16

笹川島嶼国基金―10周年
久しぶりにSPINFの仕事をお手伝いすることになった。
太平洋島嶼国基金を設立する話が持ち上がってからやがて10年を迎えようとしている。試行錯誤の繰り返しであったが、ガイドラインも定まり、このごろようやくSPINFの活動も理解されるようになった。振り返ればSPINFも随分認知度をあげたものだと感心してしまう。どこの島へいても、ジャーナリストで基金を知らない人はいない。当たり前のことだ。今や財団の目玉事業のひとつが、メディア招聘事業である。このプログラムで毎年7〜8人の島のジャーナリストが日本にやってきて、沖縄などの南西諸島を含め日本を見聞取材して帰る。広報活動の重要性を強調したいところだが、同時にこの10年間、南太平洋を巡る国際環境がめまぐるしく変化し、基金に対するneedsが飛躍的に高まったこともあるのだろう。
もともと南太平洋に対する西欧の関心はひとえに軍事的なものであり、ソ連の進出を阻止することであった。従って、ソ連邦の崩壊によって、宗主国として振る舞ってきたアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドは、島嶼国に対して今までと同じ影響力を維持しなければならない大義名分を失ってしまった。同時に関心も低下せざるを得ない。さらにやっかいなことに、先進国はいずれも世界的な構造不況に直面し、大幅財政削減が急務となった。その代表的ケースがニュージーランドによるクック共和国への国家一般財政支援の停止であった。1995年、クック共和国は実質上破産。同国は、この非常事態に直面し、まず二千人にあがる国家公務員を全員解雇した。その後で、全ポストの給与と定員数を半減、新たに再雇用に踏み切ったが、いったん崩れたシステムは、公務員のモラルを含め早急には復元不可能である。今までの資料や統計も既に散逸してしまった。そんな環境の中にあって、基金が訴える、人材育成、教育環境の改善を目的とした情報通信の利用促進は魅力に満ちている。基金が時代のニーズに応える時代が来たとも言える。基金設立当時のエピソードを思い出し、社会の変化が如何に早いか、また財団が常に社会のneedsを先取りしていかねばならないか、自戒を込めて振り返ってみることにした。
太平洋・アジアの時代をうたいあげたのは故大平首相である。それを普遍化し、APECをうたいあげたのはオーストラリアのホーク首相であった。その太平洋の時代を更に先取りし、ややもすれば、アメリカ大陸とアジアの中で埋没しがちな南太平洋に絞って独自の財団活動をしようとするSPINFの設立には、いろいろな議論が噴出した。当然、賛成意見ばかりではなかった。戦前の南洋庁や、大東亞共営圏と結びつける極端な意見さえでた。とりわけ、南太平洋の宗主国を持って任ずるオーストラリアやニュージーランドは胡散臭い目で基金の設立を眺めた。オーストラリアは「日本の野望、とうとうその本体を見せた」といっていっそう警戒を高めたりした。
そんなこともあり、基金はあくまで南太平洋の自立と若手指導者の育成を手伝う純粋な中立・ノン・アーティザンの組織であることを島嶼国の指導者に直接会って説明する必要に迫られたのであった。島嶼国といっても国によって背景、思惑は違う。国の間には競争意識もあれば、ライバル意識もある。
国土の広さや人口の違いが国力の差として地域政治の場でもハッキリ出てきている。三百万のパプア・ニュー・ギニアから六千人のツバル共和国まで様々である。
そんな状況だから、国の首脳に会うにも気配りが必要だ。島嶼国は、広い太平洋に散在しており、本来なら通信連絡体制さえままならないはずなのに、何故か一夜にして重要な情報は全地域に流れてしまう。
こうした条件をひとつひとつ加味しながら、島嶼国の理解を得る努力を始めたのだが、一番気を配ったのは島嶼国のうちでも最も影響力を持つパプア・ニュー・ギニア、トンガ、フィジーの3カ国であった。まずはこれらの国の首相、国王の理解を得ることがSPINFの今後の成功を保障する道でもあった。パシフィック・ウェーという独特な文化背景もあり、面談のアポを取ったからといって、必ずしも実際に会える訳ではない。結局、直接現地に飛んで、最悪の場合は首相官邸の前で24時間待機するのを覚悟し、とりあえず、パプア・ニュー・ギニアへ飛んだ。
現地に到着し、以前から連絡し合っていた秘書官に会うが、なかなか確固とした返事をくれない。会うたびに「今日の午後は大丈夫でしょう、ホテルに戻って待機してくれ」と言うばかりである。念のため、タクシーを終日ハイヤー、ホテルの前に待たせておく。4時近くまで我慢して待つが電話はかかってこない。しびれを切らして電話を入れると、不在、既に帰宅したという。
結局最後の手段としてPNG最初の首相で、外務大臣をつとめていたマイクル・ソマーレに直接コンタクトを取り、快く面会を承諾していただいた。ソマーレ外務大臣は故笹川良一会長の知悉していた人物で、彼の息子はリョーイチという名前をつけている。この時、延々とSPINFの設立趣旨を説明し、理解を得ることができたお陰で、ひいては、他の島嶼国にも彼の口を通じて伝えられることになった。こうして、彼とフィジーのマラ首相が基金設立のスポークスマン役をしてくれることになった。
日本がSPINFを設立するというニュースは南太平洋にとっては大きな事件であった。当然宗主国を長いこと任じてきたニュージーランド、オーストラリアとしても無関心ではいられない。早速、当基金の設立趣意書などの資料を収集し始めた。在日オーストラリア大使館は、SPINFの活動がオーストラリアの国益を損なわないかどうか、慎重にその動向をフォローし始めた。オーストラリア政府に席をおいたこともある身として、何度か、事情を説明する羽目になったが、担当の参事官はこちらの長々とした説明を聞いた後で、決まってこう反論してくるのであった。「趣旨はわかった。オーストラリアの南太平洋における権益や影響力に何等の被害も及ぼすつもりもないこともわかった。善意の意思表示であることも理解した。とすれば、財団の運営は公明正大にし、オーストラリア人も理事に加えたらどうか。またどうして笹川という名前をつけねばならないのか」
日本のマスコミが抱く、バイアスのかかった情報が大使館にも伝わっていることを伺わせるものでがっかりしたことを憶えている。結局、いくつかの点については未解決のままスタートしたが、10年という年月がこうしたブリミティブな問題を自然と解消させたようだ。
組織体としては一応無難なスタートを切ったものの、プログラムの助成という実質的活動を開始するや、島嶼国から再び不平や不満の声が耳元に届き始めた。思いだすままに列記すると下記のようなものであった。
・島嶼国が地域全体の連携とバランスある発展を遂げるために、いくつかの地域国際機関がつくられている。その機関との 十分な協議、調整なくしてSPINFが事業を実施するというのはどうか。
・島嶼国の間に存在する不文律がある。それは南太平洋大学の運営にも反映されているように、各国とも平等に利益を享受 する事である。従って、基金がある特定の国だけに助成金を出すのは認めがたい。
・島嶼国のためにというのなら、何故基金が日本に事務局をおき、日本人によって運営されねばならないのか。
そのほか、諸々の意見が噴出する騒ぎとなった。あわててフィジーにあるフォーラムのメンバー国全員が集まる機会に合わせ現地に赴き、基金の全貌を二日間かけて説明することとなった。何度詳しく説明してもきまって代表団から繰り返し要求が出されるのにはさすがに閉口させられた。いわく、我々のための基金なら、出資金の運用を何故まかさないのか、もしそれが嫌なら、このフォーム加盟国に均等に資金を分割、支払って欲しい。各国とも特別委員会をつくり、その国に最も適した助成を行う、というのである。二日間、何回となく説明したにもかかわらず、この点に関しては疑問が解消したとは言い切れない。援助疲れが先進国の言いぐさだが、逆に途上国の「援助漬け」精神も並々ならぬものがあると感心したのを憶えている。
この10年間、双方ともさぐり合いの中で事業を実施してきたが、ようやく本音で仕事が出来る素地が出来上がって来たように思われる。その要因は、SPINFが明確なガイドラインを提示できたこと、関係者との会話を積極的にする努力を続けたこと、広報活動を展開したことでSPINFの趣旨・活動の理解を促進したことが上げられる。さらに、太平洋と日本を取り巻く国際環境の激変がSPINFの役割と必要性を高めたとも言えよう。少なくともその変化はアジア太平洋地域のリーダーシップを日本が前向きに示していく機会であろう。財源ならびに人材において限りがある基金だが、心して、一層の努力をするとともに、関係者との連携を図りつつ協力体制を強化しながら活動を展開していきたい。
(島嶼国基金アドヴァイザー 堀 武昭)

島を語る会
11月に佐渡島で第8回目の「島を語る会」が開かれました。この通信でも語る会のことを何度かご紹介してきましたが、改めて「島を語る会」とはなんなのか、今回で一応の折り返し地点に到着し今後どうなっていくのか、まとめました。なお、同会は島嶼国基金事業として3年間続けてきたものです。
第1回島を語る会 94年 2月 奄美大島
第5回島を語る会 95年12月 佐渡島
第2回島を語る会 94年11月 東京離島センター
第3回島を語る会 95年 2月 奄美大島
第4回島を語る会 95年 7月 八丈島
第5回島を語る会 95年12月 佐渡島
第6回島を語る会 96年 2月 東京人形町
第7回島を語る会 96年 6月 佐渡島
第8回島を語る会 96年11月 佐渡島
笹川島嶼国基金の悩み
1989年に設立された島嶼国基金ですが、私が入社した91年は、まだ国内の関係機関ともそれほどネットワークが構築されておらず、会議等に出席しても島嶼国基金の実態はなかなか理解していただけない状態でした。島嶼国基金の現状はというと1〜2名のスタッフがいるだけでオフィスもそのスタッフの机と小さなキャビネがあるだけなのです。島の専門家を抱えているわけではなく、基金事務局の役割はいかに外部の有識者、活動家と連携協力し、よいプロジェクトを促進するか、にありました。
奄美大島との出会い
本業が多忙な島嶼関係の有識者の方たちに集まっていただくにはそれなりの工夫が必要、と思いついたのが国内の離島に集まっていただくことでした。第1回の「島を語る会」が奄美大島で開催されました。なぜ奄美かというとある航空会社のコマーシャルが目に止まり、休暇をとってダイビングに行ったとき、太平洋の島で感じる超自然(神々しさ)の力を奄美大島に感じたことが潜在的な理由でした。
ばしゃ山に集まった人達
初めての試みであったため、いったい何人来てくれるのか、会議はどのように進行するのか不安心配の連続でしたが、会場となったばしゃ山には14名が集まり、誰もエスケープせずに3日間真剣に語り合う結果となりました。海の隣に会場を移動し、潮風と海音に包まれながら語り合いは続きました。当初挨拶だけの予定だった地元のばしゃ山村奥社長らが熱く奄美の開発問題を語り、ココナッツ通信15号で訃報をお知らせしたトンガのタシさんが太平洋島嶼国民の悲しい現実を吐露し、参加者全員が何かに憑かれたような異様な雰囲気になったのを覚えています。
佐渡島とおけさ柿
第1回目の「語る会」が本音を語り、具体的に日本の離島と太平洋の島の交流という提案も出たため、引き続き語る会を開催することとなりました。その後再度奄美大島、八丈島、佐渡島へとつながっていったのです。佐渡島では事前調査の時に訪れた「はもちみらい塾」の葛西さんからおけさ柿を気持ちが悪くなるくらいご馳走になりながら、葛西さんの佐渡や羽茂町に対する思いを伺いました。その後、奄美、八丈の語る会に参加していただき太平洋の島の問題を語り合いました。八丈島の語る会でミクロネシア大使館のジョン・フリッツ氏や亜細亜大学に留学中のフィジーのルビーから「在日のアイランダーが日本での太平洋島嶼国理解を深める役割がある」という提案がありました。これを受け、佐渡島の葛西さん始めみらい塾のみなさんがその並外れた行動力で短期の間に20名近い在日留学生を2回も佐渡に招待し交流事業を実施することができました。
タシさんを偲んで
こういった会は語って終になることがままあると思いますが、佐渡島と太平洋アイランダーとの交流事業や国内関係機関ダイレクトリー作成という具体的な動きも同時進行してきました。これはタシさんとタシさんの奥さんでもある又平さんが島の問題を現実のこととしていつも辛口に私に訴え続け、実際に行動を共にしてくれたからだと思います。(かなり率直に言い合ったことは、今となっては懐かしい。)
これから
8回の語る会である程度語り尽くされた、というのが私の印象です。これからは語ってきたことを少しづつ実行に移す時です。人が語り合い活動が始まれば多少の不協和音も発生します。そんなことも今後の課題として当初の目的のネットワーク作りとそれがうまく機動して活動につながるようなファシリテーター役をしばらく島嶼国基金事務局がする必要があるのかなと思っています。また「語る会」はそこに参加した特定の人のクローズな組織ではなく、あくまでもオープンな「太平洋の島」をテーマに語り合う「場」でしかありません。この通信やInternetもみなさんの発言の場として利用していただきたいと考えています。
(笹川島嶼国基金 事務局 早川)

本の紹介
太平洋島嶼国に関する和文書籍は少ない中で、子供用の本はもっと稀少でしょう。通信14号でご紹介したブンブンプロジェクトの主宰者でカメラマンでもある島田興生氏が下記の本を出されました。昨日手元に届いたのですが、子供だけでなく大人の方たちに読んで、見ていただきたい内容です。
水爆の島 マーシャルの子どもたち
島田興生 文・写真 津田櫓冬 絵
月刊 たくさんのふしぎ 1996年10月号(第139号)
発行所:福音館書店
本文から
「朝早く、とつぜん西の水平線に閃光が走り、太陽よりも明るく、はるかに大きな、ものすごい熱をはなつ物体がのぼった。上のほうから粒子がふき出した。このきみょうなものは、巨大な火の玉になり、西の空に上がっていった。大気は血の色にそまった。
まもなく、爆音とともに、たつまきのようなものすごい風が島をおそった。ヤシの木はゆれ、にわの木はたおれ、まどやドアはこなごなにこわれた。草ぶきのやねはふきとばされた。人びとは、強い熱い風の中をにげまどったが、やがて火のような大気の色はきえ、島はこい霧につつまれた。
午前10時すぎ、白い粉が島におちてきた。道の上に3センチもつもり、木々の葉にもついた。だれもそれが毒だと思わず、魚とりに行ったり、食事のしたくをしたり、子どもたちは学校に行ったり、いつもの生活にもどっていた。
日がしずむころ、村人たちはとつぜん、体のあちこちのはれやいたみ、かゆみでくるしみはじめた。子どもたちはなきさけび、体をひっかき、ころげまわった。しかし、なきさけぶ子どもを水の入ったおけに入れ、おとなは海に入って体をひやすほか何もできなかった」

Kamakura FM 82.8の紹介
SPINFのメディア招へい事業でお世話になっている鎌倉FMをご紹介します。昨年は約半日PINAのメンバーが同FM 局を取材で訪れましたが、今年の事業では4日間の鎌倉滞在をすべてアレンジしていただきました。また鎌倉FMの亀和田プロデューサーが8月にトンガを訪問、取材し、南太平洋特集のラジオ番組を2回放送しました。(KOTOプレステージ、1996/8/24と8/31)この11月30日には「フレンチポリネシアの文化」というタイトルでSPINFから堀と早川が出演させていただきました。
このコミュニティFM局は神戸の震災以降、地域に根差した情報ネットワークの重要性が指摘され、全国に次々と誕生しているようです。神奈川にはこの鎌倉FMを始め湘南FM, 葉山FM, 藤沢FMなどがあります。これらの局は小規模運営をしている為、太平洋島嶼国から来たメディア関係者にとって、特にその地域性を重視している点や、地元の主婦、学生、公務員、作家など多彩なボランティアスタッフで運営していることなど参考になることが多いようです。鎌倉駅から江の島電鉄に乗り換え、由比が浜駅で下車。海へ向かって20m位歩いたところに白と緑のペンキで塗ったかわいい一軒家がありますがここが鎌倉FMです。
鎌倉FMのパンフレットより------------------------------------------
<番組編成コンセプト> NOW & FUTURE / いま、そして、これから
鎌倉市は、<古都の風格と自然を生かした街> <快適で活力ある街> <ヒューマニティーに富む街>づくりを基本に置いています。この姿勢は、取りも直さず歴史に培われた風土と新しい時代の波を取り入れながら、21世紀に息づく鎌倉市づくりに他なりません。
かまくらFMでは、「NOW/いま」すなわち<現在の市民の動向>をいち早く伝達すること、「FUTURE/これから」すなわち<未来に向かって動き出した市民の動向>を放送局が一緒になって作り出していくこと、歴史を踏まえつつ、放送の視点を「現在から未来」に置いて生きた活力ある番組を放送していきます。
鎌倉エフエム放送株式会社
KAMAKURA FM BROADCASTING CO., LTD.
〒248鎌倉市由比ケ浜3丁目6番地21号
?(0467)25-7000 ?(0467)25-7010

Web Page情報
1990年から1992年の3年間、SPINFで助成させていただいた福岡のアジア太平洋こども会議から
ホームページ開設のお知らせが届きました。
■こども会議のホームページができました!!
アクセスのためのURL・・・http://www.shukosha.com/apcc/
世界に向けてこども会議事業について情報発信し、またこども会議に対する意見や新しいアイデアを寄せてもらったりする”双方向コミュニケーション”のツールとして、インターネット上にホームページを開設しました。
これまで、福岡市のホームページの一部にこども会議を紹介するページはありましたが、独自にホームページを開設することで、よりきめ細かい情報発信ができ、また事業支援を呼びかけたりもできるようになります。
将来的には、海外の窓口との連絡や情報交換のネットワークを確立し、また過去のこども大使やホストファミリー、ボランティアなどの継続的な交流を促すためにも活用していきたいと考えています。また、全世界につながっているインターネットのメリットをフルに活用し、いろいろな国(特にアジア太平洋地域)からその地の生きた生活情報、文化情報を集め、データベースとして蓄積していくことも計画しています。
ぜひ一度ご覧いただき、ホームページに関するご意見ご感想はもちろん、こども会議の取り組みについて、ご意見をお寄せいただければ幸いです。
住所:福岡市早良区西新3-1-1 福岡市西新庁舎2F
アジア太平洋こども会議・イン福岡 実行委員会事務局
TEL: 092-831-8001 FAX:092-831-8007 email: apcc@gol.com

SPINF通信
◇<佐渡島での島を語る会い参加して>
財団に入団以来2年半ぐらいになりますが、私にとって今回が初めての出張でした。4月に財団内の仕事での移動で島のアシスタントを始めてから早8カ月が経過していましたが、まだまだ島について勉強をしている状態の私に研究員の早川さんから「今度の島を語る会、仕事だけれども勉強だと思って一緒に行こう。」と声をかけられた時、正直言って、「いつも早川さんから話しを聞いている方々に実際にお会いできるチャンスだな。」という嬉しい気持ちの反面「でも、あまり島の事をまだ詳しく知らないので皆様とうまく交流ができるだろうか。」という不安もあり、複雑な気持ちでした。「島を語る会に出席しよう」と決断してからも出発当日まではいろいろと不安を抱いていた私ですが、出張から戻った時には、そんな気持ちは一転し、「佐渡島へ行って良かった。」という気持ちでいっぱいでした。私にとって今回の出張での一番の宝物は「皆様との出会い」でした。本当に、出会った一人一人の方が新前の私に対して親切に詳しい説明をして下さるという配慮、接し方など、、その姿から”心の暖かさ”を痛感致しました。この思いはこれからの私の励みになるよう大切にし、また出会った皆様とは今回をきっかけにこれからも交流を続けて行けるよう私自身精一杯頑張りたいと思っています。
今後共皆様の御指導、何卒宜しくお願い致します。
(プログラムアシスタント光永 展子)
◇この地域を仕事としている人の共通の悩みだと思うのですが、いくら説明しても現地でつらいめに会っていても「フィジー? フィジーに仕事ですか?」という疑いと羨望の声が返ってきます。私もいつの間にか島へ行くときは密かに旅立ち密かに帰って余計なことは言わない習慣になってしまいました。今回寄稿いただいた堀アドヴァイザーから叩かれてもどんどん書かなければだめよ諭され、今まで自分で書くのをサボっていましたがこれからは少しでも現地の事情をお伝えしていくつもりです。(早川)
[笹川島嶼国基金の設立経緯
]
[ガイドライン]
[事務局の役割・組織]
[事業一覧('90〜'98)]
['97年度の事業報告]
['98年度の事業内容]
[COCONUTS通信]
[やしの実大学]
[HP]
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